「……はっ?」
 突然のことに思考が大渋滞に陥った。周囲をきょろきょろと見回す。人々が僕の横を通過していく。新幹線の改札口がすぐそこにあり、振り返ると、チェスのポーンのような形の銀時計があった。
 思わず頭を抱えた。病院で処方される薬が増えたせいで記憶が錯乱しているんだ。そうだ、僕はさっき太閤通り口から名古屋駅に入ったんだ。
 歩き出して、真っ直ぐ桜通り口へ向かう。手を繋ぐカップル、しゃがみこんで駄々をこねる子供、柱の広告の前にもたれて携帯をいじる女性、ギターケースを背負う男、キャリーバッグを引くサラリーマン、飲食店に入っていく客たち。足音で溢れ返っている。無数の人とすれ違っていく。他人同士が声を交しあうことなど決してない。そんなことをする人はいないんだ。
 桜通り口前のエスカレーターが見えた。両サイドにはジェイアール名古屋タカシマヤ。この広い空間のシンボルのように立つ金時計のモニュメントの前で、様々な人が待ち合わせをしている。ここで待ち合わせをするほとんどは地元民らしい。観光に来たのか、周囲を撮影するおばさんがいた。名古屋に住む僕は何も珍しくないので、こんなところを撮る価値はあるのかと違和感を覚えてしまう。金時計の横を通り過ぎた――
 風景が、変わった。
「……へっ?」
 新幹線の改札口が見える。とっさに後ろを向くと、そこにはチェスのポーンのような銀時計のモニュメント。
 全身の肌が、粟立った。記憶の錯乱などではない。やはりそうだったんだ、さっきも同じことが起きていたんだ。中央コンコースから東側に位置する金時計の横を通り過ぎて、西の銀時計の前に立っているという、ありえないことが起きていた。
 叫び出しそうになり、社会性を守ろうとする仕組みがそれをやめさせた。もう一度確かめようと、およそ二百メートルのコンコースを走った。人々を縫うようにしていき、金時計の横を抜ける。
 と、風景が切り替わり、僕は銀時計の前にいた。
「うわああああああ!」
 もう叫ばずにはいられなかった。周囲の人が好奇の目で僕を見て通り過ぎていく。僕は目的を忘れてもう家に帰ろうと、銀時計の向こうの大閣通り口へ走りだした。
 次の瞬間だった。
 目の前がだだっ広い空間になっている。視線をきょろきょろとさせると、タカシマヤがあって、待ち合わせなのか突っ立っている人がたくさんいて、カメラを掲げて僕の後ろを撮影するおばさんがいる。おそるおそる、振り返った。
 そこには金時計のモニュメントがある。
 僕は絶叫して走りだした。タカシマヤのガラス窓にもたれる男が僕に携帯のカメラを向けている。とにかく、近鉄、名鉄方面へと繋がっている広小路口へと向かった。
 と、目の前には、カメラを掲げて僕の後ろを撮影するおばさんがいた。心臓が冷水に沈められたみたいだった。振り返ると、金時計がある。
 僕は頭を抱えて悲鳴を絞り出し、闇雲に走った。この状況がひたすらに恐ろしくて、何度も金時計と銀時計の横を通り過ぎた。駅の改札にも突っ込んだ。そうすると、銀か金、どちらかの時計の前に僕は出た。発狂し、道行く人に掴みかかったり殴りかかったりもした。駅員に取り押さえられて連れ出されたが、中央コンコースから外れる通路に入ろうとすると、時計の前に出た。すると騒ぎを起こしていたはずなのに、誰も僕を気にしない状態に変わっていた。時計を見て気づいたのだが、時間が全く経過していない。金時計の前に出たとき、毎回、おばさんが時計を撮影していた。つまり時計の前に出ると、同じ状況に戻ってしまっているんだ。
 パニックに陥ってからこのリセット現象≠数百回は繰り返したかもしれない。すると、さすがに僕は慣れてきてしまった。落ち着いて、まず金時計の横を抜けて銀時計の前に出る。針は四時四十四分を指していた。次に銀時計の横を抜けて金時計の前に出て、針を確認する。同じく四時四十四分だった。おばさんがそれを撮影している。
 僕はおばさんに声を掛けた。名古屋に越した友達がいて、遊びに来たのだという。ここで待ち合わせしているそうだ。僕はリセットを起こして再び金時計の前に出た。
「お友達は何区にお住まいですか?」
 そうおばさんに問いかけた。するとおばさんは訝しんで首を傾げた。
「どちら様ですか」
「さっき喋ったじゃないですか」
 人違いですよ、とおばさんは言って首を振り、気味が悪そうに去っていった。
 ……とにかく冷静にこの信じられない状況を理解しよう。僕はこの空間に閉じ込められたんだ。他の人は普通に時計の横を通り過ぎている。僕はそうすると、反対側の時計の前に出てしまう。……ここから脱するにはどうしたらいいのだろう。
 一つ、簡単に考えられる方法がある。それは自殺だ。自殺未遂は過去に数度やったことがあるが、まさか必要に迫られるとは。でも手段がない。刃物も縄もない。エスカレーターを上って飛び降りることもできない。電車に飛び込むこともできない。頭を壁に打ち付ければ、死ねるだろうか。
 僕はためらわなかった。中央コンコースの柱の前に立って頭部を何度も繰り返しぶつけた。周りの人がそんな僕を止めようとするも、抵抗して自殺を図った。
 ふと気づくと、金時計の前に立っていた。
 ……なんだ、何が起こった。僕は死ねたのか? いや、気を失って運ばれたのかもしれない。
「あっ……」
 気づいてしまった。仮に自殺しても遺体として外に運び出される。きっとそのとき、また時計の前に戻されるんだ。
 僕は奇声をあげた。髪の毛を掴んで引き抜いた。その激痛はもはやどうだってよかった。僕に近寄ってくる人を蹴り飛ばす。キレた相手も僕を殴った。僕は言った。殺してくれ、僕をこの場で荼毘に付して灰を金時計の下の花壇に撒いてくれ、と。いやそんなことをしてもいつか花を植え替えたり土を触ったりしたとき灰がこの空間から出てまた元に戻されるかもしれない。そんなようなことを言いながら僕は通行人に暴力をふるった。そして名古屋駅交番の警官が駆けつけて、僕は連れていかれて、時計の前に戻った。
 僕はあらゆる奇行を繰り返した。裸体になったり、人の荷物を奪ってそれを店のガラスに投げつけたり、カフェに突っ込んでいったり。店に入ろうとすると時計の前に戻されるので入れなかったが。
 助けを求めて事情を説明しても誰も信じてくれない。いっそずっと居座ってやろうとその場に居続けると、深夜に警官が無理矢理僕を連れ出して、また四時四十四分の時計の前に戻った。
 そうして、ついに僕は何もできなくなった。
 銀時計の前に座り込んで、「おゎらしてくれぇ」と呂律の回らない声を時おり出して、そのうち駅員が僕を連れ出して、またどちらかの時計の前に戻された。
 それを延々と繰り返しつづけた。

「世界はどうなってしまったんだ。神はこれでいいと思っとんのか。僕が時間を止めてることになっとるんだぞ。ダメだろそんなの、なあ君、可愛いよね、この時間のなかで四番目に素敵だよ。おい、そこのじいさん止まれって、僕をなんとかしんと時間が進まんぞ、お墓に入れんぞ」
 駅員がやってきて、どうしたのかと僕に訊く。どうしちゃったんですかねこの状況。時間が動かないんだ。いや、時間は動いてるけど。僕がここから出られなくて時間が戻っちゃうんですよぉ。そう呟いているとお巡りさんも来て、僕を連れ出して元の銀時計の場所に戻った。
 ふと僕は思った。僕は無宗教者だが、でもキリスト教の教えには、自殺は絶対にやっちゃいけない、やると地獄に墜ちるっていうのがあるらしい。
「僕が自殺未遂を何回もやったから、今、地獄にいるってことですか、ねえ……ねえ誰かあ!」僕は立った。「このなかにキリスト教の神父様はいませんか! お願いします僕は今すぐ懺悔したいんです! 僕は自殺未遂を何度もしたことがあるんです、罪を犯しました、だから今地獄にいる、お願い、僕、クリスチャンじゃないけどいませんか! ひゃああああああ!」
 金切り声をあげていると、お決まりのパターンが始まる。駅員がやってきて腕を掴まれた。
「ちょっと、その人を放してあげてクダサイ」
 背の高い黒人が傍にいた。
「ボクは、神父です。その人を解放してあげてクダサイ」
 するとその黒人の言うことを聞いて駅員が僕を放してくれた。
「神父様!」彼に縋りついた。「僕、自殺未遂を何度もやったことがあって、今、服罪してるみたいで、この空間から脱出できないんだ。だから懺悔したい。罪を赦してもらいたい」
 そう告白すると、黒人の神父は僕の背中を撫でてくれて、なぜ自殺未遂をしたのかと優しい声音で聞いてくれた。
 僕は音楽の夢を追っていたけど失敗して、三十過ぎて働かなきゃいけなくなったけど、僕は社会不適合者で仕事に就くとすぐに鬱がひどくなって、そのうち働けなくなるんだ。両親には失望されて、頑張って病院にも通ったけれど、一向に僕は変わらない。現実から逃れたくて、いっそ死ねたらいいなと溜めた薬を三百錠くらい飲み下したけど、一週間意識不明になっただけだった。それからはリストカットしたり、首つりしたり、電車に飛び込もうとしたり。運が悪くて全部失敗しちゃったんだ。とにかく僕は神が与えてくださった命を勝手に投げようとした。今はめちゃくちゃ後悔してます、赦してくださいお願いしますなんでもしますから。
 黒人の神父は、僕の苦しみを全部受け止めて、神はお赦しになると言ってくれた。僕は泣いて礼を述べた。もう大丈夫だと言った。最後に神父と濃厚なハグを交わした。そうして彼に手を振り――もっとおおげさに手を振って、名古屋駅にお別れをした。
 銀時計の横を、通り抜ける。
 と、次の瞬間には金時計の前に出た。
「だよね」
 正直ね、たぶん無理だろうなあって、懺悔してる最中とか彼にハグしてる最中には冷静にそう思ってたし。
「ねえおばさん、僕はどーしたらいいの。ここで永遠の時を過ごすしかないんかなあ」
 カメラを掲げるおばさんは首を傾げ、離れていった。
「ねえみんな、お願いがあるんだ、僕の友達になってよ。僕はここで永遠の時を過ごさなきゃいけないんだって。ねえ、なんでみんなそんなに冷たいの。人類みな兄弟じゃん。そこの兄ちゃん、僕はホモじゃないけど君には惹かれるものを感じるよ、イケメンだよね。でも今から三時間後に現れる人はもっとイケメンなんだけど、話しかけても無視されちゃった。でも君は、僕がどんなふうに喋りかけても愛想良かったから、君の方が総合的に勝っとるよ」
 イケメンは困ったような顔で、しかしどこか照れくさそうに会釈をして去っていった。他のみんなは不審者を見る眼差しをこちらに向け、時には苦笑する。誰もまともに僕と関わろうとはしてこない。でも僕は、もうみんなよく知っている顔だから、気兼ねなく声を発し続けた。
「おいみんな、僕とお喋りしようよ! そんなに生き急いでどうすんだ、どうせ時間は戻るんだぞ! 僕がいる限りな! すごいだろ! くっそぉ……」
 ギターケースを持つ青年が視界に入った。名鉄セブンのナナちゃん人形の辺りはストリートライブの聖地で、そこで演奏するっぽいやつらが音楽機材を持ってここを通っていた。
 僕は青年に声をかけて仲良くなった。一度友達になっているので要領はわかってたんだ。それでギターを貸してもらった。こんなところで弾いたら迷惑だよ、と諭されるが、アホかと僕は返した。音楽に制限なんかないんだよ、どこで歌を口ずさもうが僕の勝手だ。生きることや死ぬことを誰かの指図で止められないことと同じ。たとえ迷惑だ、って止められても僕は音楽を止めないね。そう言ったあと、覚束ない手つきで弾き語りを始めた。きっと誰もが知っている、ミスチルが『金のしゃちほこ』と仮題を付けた曲だ。名古屋のホテルで考えて、題名をつけるときに名古屋城のしゃちほこが見えたから、そう名付けたらしい。僕はこの曲が大好きだった。
 駅員がやってきて僕を止めようとするが、その場から逃げた。ほらみんなも歌おうぜ、歌詞はわかるだろ! そう声を張り上げて人懐っこそうなやつの前で弾き語り、リズムに乗せようとするも無視された。そのうち青年にギターを取られ、僕は断念してまた同じことをやり直した。青年に話しかけてギターを借りて歌って一人ずつ根気よくリズムに乗せる努力を始めたんだ。
 何度もこの状況を繰り返して、次第に、道行く人を歌わせることができていった。覚束なかったギターも上達してきた。何千回、何万回と繰り返すうち、僕がギターを弾いてすぐ青年が「すごく上手いね!」と褒めてくれるようになった。僕は、みんなの心の動かし方を模索していった。

 いつの間にか、僕の周りには人だかりができていた。ベーシストやキーボーディスト、他のギタリストまで傍にいて、僕らは色んな曲を、その場のみんなと一緒に歌った。もはや公式のライブなのかと誰もが勘違いしてくれていた。みんな愛してる、名駅最高、とかなんとか適当なことをちょろっと呟くだけで異様に盛り上がった。すでに警官さえ止めることができない規模になっていた。地元テレビ局のクルーが撮影していた。僕のオリジナル曲を聴きたいとみんなが言ってくれたので、自慢の曲に即興でアレンジを加えて披露するとめちゃくちゃウケた。曲の合間にレコード会社の人が名刺をくれた。
 やっぱり、僕には音楽の道しかないんだ。
 音楽で人の心を繋げられる。バラードを歌えばだいたいの人が泣いてくれた。喉が枯れてしまっても「がんばって!」「もっと聴かせてくれよおおおおおお!」という叫び声があちこちで飛び交った。最終的に声が全く出なくなって、僕はむせび泣いた。謝った。すでに夜は更け渡っており、僕はガラガラな声音でライブ終了を宣言した。みんな狂乱した。悲鳴があがった。またここでライブをやってくれという声で溢れ返っていた。
「安心してくれ、僕は永久に名駅にいるから。またすぐにライブをする。みんなは僕のことを忘れてしまうけど、でもまた同じ感動を味わわせるから。みんな大好きだ、本当に愛してる。そして音楽を愛してくれてありがとう!」
 ギターと手を全力で振った。ギターを青年に返す。彼は顔をくしゃくしゃにしていた。ありがとう、と僕は言って彼とハグをした。その流れで、演奏をしてくれていた人たち全員と熱い抱擁を交わした。ハグをしてくれた君は僕の親友だと口走ると、その場にいたほぼ全員が僕とのハグを求めてくれた。おじいちゃんもおばあちゃんもおっさんもおばさんも兄ちゃんも姉ちゃんも男児も幼女も――いや子供はほとんど僕とはハグしてくれなかったけどね。
 それが終わって、僕はようやく桜通り口へ向かった。みんなが拍手して見送ってくれる。まるで拍手の音が僕に降り注いでいるようだった。ガラス戸を抜けて外に出る。空には満月が見えた。最高の気分だった。
「……はっ?」
 待て、僕は普通に外に出てるぞ。
 振り返って、金の時計広場を見遣ると、まだみんなが拍手を続けていた。
「なんだよ、いきなり終わりかよ」
 僕は力なく笑った。警官に肩を掴まれても笑い続けた。
「ゲリラライブの首謀者だな。調書を取るから来なさい」
 僕は名古屋駅前の交番に連れていかれた。そこでまた人だかりができて、僕は次々にサインを求められた。交番がサイン会場に成り果てて、長らく、そこから出られなくなった。



colorless Catトップ


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