この世界の住人は、みんな眠っている。 本当に、眠っているのだ。 現実の世界で。 「トワ、こんにちは。どこ行くの?」 散歩よ、と私は答えた。 「迷子にならないよう気をつけてね」 そう言ってやさしげに微笑む 歩いていると、ほとんどのNPCがやさしそうな顔で私に挨拶する。NPCの一人が、スーパーの特売情報を教えてくれた。私がよく食べるネギトロが安いらしい。毎朝玄関の棚の上に出現する五百円だけで生活しているので、ありがたい。……食べずとも問題ないのだけど。でも、夕飯だけは食べる習慣が身についているので、今さら変える気はなかった。 スーパーに立ち寄り、目的のネギトロ、お茶のペットボトル、安いお菓子をカゴに入れた。 清算して外へ出る。やあ、と男のNPCが声をかけてくる。 「重そうな荷物だね。持とうか?」 私は荷物を渡した。男のNPCは家の前までついてきて、私が荷物を受け取ると、「じゃあね」と言って去っていく。 「ありがとう」 お礼を言うと、男は振り返り、やさしく微笑んだ。 そういうシステムだから、笑った。 晩御飯の時間までベッドに横たわる。昔はいろいろしていたけれど、今はすべてに飽きていた。 午後6時を過ぎると、台所へ移動。レンジで白米を温め、器に移して、ネギトロをのせる。ネギをたくさん盛って、しょう油とわさびを混ぜたものをかける。椅子に座り、両手を合わせる。 「いただきます」 食べようと――お腹が減っていないことに気づいた。 メニューを呼びだす。身体の状態変化を選択。空腹ボタンを押す。お腹が空いた。 ネギトロをかき込む。いつも通り味が薄い。 食後、すぐベッドに横たわる。なにもしない。なにもしないほうが、時間はすぐに過ぎていく。 0時を回った。メニューを呼びだす。身体の状態変化を選択。『眠る』のボタンの前で指を止めた。一番下の『死』が視界に入った。 私は『死』を押す。 ――死にますか? イエスとノーの選択肢。イエスに触れた。 ――これより24時間以内に『死』がキャンセルされない場合、『死』が実行されます。なお『死』の状態でいる場合、時間経過と共に所持金が減少します。 24時間のカウントダウンが始まる。私は『眠る』のボタンを押した。 きっかり8時間後に目覚める。 死のカウントダウンを確認。残り約16時間。 私はベッドに横たわりつづけた。 気づくと、残りは11時間だった。 私は外へ出た。 「トワ、こんにちは。どこ行くの?」 NPCを無視して歩きだす。 そこら中にいるNPCがやさしく話しかけてくる。 「トワ、散歩? あたしも一緒についてっていい?」 私が気に入っていたNPCの女性が声をかけてきた。 「死ね」 と私は言った。女性は眉を上げて少し驚く仕草をすると、くすりと笑った。 「機嫌が悪いの? なにか嫌なことあった?」 「うわああああああ! シネシネシネシネシネシネシネええええええ!」 NPCの注目を一斉に浴びる。 一人ずつ、私に言葉をかけてくる。 やさしい言葉を。 私はおばあさんのNPCを殴り飛ばした。アスファルトに転がるおばあさん。でも、なんともなかったかのように立ち上がる。 「トワは元気がいいね。ほら、もっと打ち込んできなさい」 おばあさんは格闘家のように構えた。 私は攻撃を繰り返す。おばあさんは巧みに受け止めてくる。 「筋がいいねぇ。本格的に格闘技の練習をしたいなら、いいところを紹介しようか?」 私は攻撃をやめた。背を向けて、歩きだす。 少し歩いて、立ち止まり、振り返る。 「ありがとう」 私がお礼を言うと、みんな、やさしく微笑んだ。 そういうシステムだから、笑った。 私はNPCの多い都会エリアへ移動した。 渋谷のスクランブル交差点に似ている場所で、大勢が行き交う。でもみんな、規則正しく動いていた。 メニューを呼びだす。PCの濃度変更を選択。現在0パーセント。 息が荒立つ。深呼吸をする。 数値を上げていく。1パーセントずつ。人の流れを観察。10パーセントまで上げると、目が合った。五十代くらいの男性。 その人が私に会釈した。 恐ろしくなり、すぐに数値を0にした。男性が消えた。 私は都会エリアから逃げた。 歩いている途中、PC濃度を1パーセントにした。この広い世界、1パーセントなら、まず出会わないから。 だったら0にすればいいと思うのだが、0だと妙な不安が胸を引っかく。 海沿いの景色を楽しめる江の島エリアに来た。ここは落ち着く。いつ来ても、いい場所だと思えた。 ここにもたくさんのNPCがいる。都会エリアと比べれば、数は少ないけれど。 私の足がピタッと止まった。海を望む歩道に、おかしな人がいる。 その人は、頭を茶色の紙袋で覆っていた。 ――絶対PCだ。システム通り動くNPCはあんなことをしない。 PC濃度変更の画面を出す。1パーセントであることを確認した。 紙袋は海を眺めている。0パーセントに変えた。紙袋が消える。私は歩きだして、紙袋がいた地点を少し過ぎる。濃度を1パーセントに上げた。 紙袋、出現。変わらず海を眺めていた。 「あの」 声をかけてしまった。紙袋は肩をすくめ、振り向く。目の部分に穴が開いている。 次の言葉が、出てこない。口を開いたことを後悔していた。私は逃げてしまおうと、メニューを呼びだす。 「え、PCですか?」 紙袋の下から男性の声。冷えた手で心臓をつかまれたみたいだった。逃げようとする足を踏ん張り、はい、と声を絞りだす。すると、小さな笑い声がした。 「初めてです、濃度1パーセントでPCと出会うの」 私は驚嘆した。「わ、私も今、1パーセントです」 ワオ、などとわざとらしく言って、拍手をする紙袋男。「奇跡のような偶然ですね」 「私、実は、PCと話をするのも、初めてなんです」だから恐れを抱いていることをわかってもらいたかった。「声をかけるの、怖かったんですけど、どうしても気になってしまって」 紙袋男はまた小さく笑った。「素顔を見られるのが怖くて、PC濃度を上げているときは、常にこれを被ってるんです」 なるほど。そういうやり方もあるのか。 「あなたは、この世界でPCと会話をしたことがあるんですか?」 紙袋男はうなずく。「でも素顔を出したことは一度もないです。……僕は、醜形恐怖症なんですよ」 紙袋男が語りはじめる。 紙袋男は少年時代、たくさんの友達がいた。いつも明るくて人を笑わせるのが好きだったから、自然とみんなが彼を気に入った。その中の一番仲の良い友達と、好きなユーチューバーの話をしているとき、紙袋男は「僕もデビューしてみようかな」と言った。できる自信が彼にあった。ところが、友達は「絶対やめたほうがいい」と言った。「顔がブサイクだからさらし者になってたたかれる」と言われた。それから醜形恐怖症がはじまった。 紙袋男は寡黙になっていって、友達は彼から離れていった。一番仲の良かった友達だけが、紙袋男と仲良くしようとつきまとった。紙袋男は暗くてきつい態度を取りつづけた。友達はそんな紙袋男に嫌気がさし、怒った。 「お前の性格ってゆがんでる。顔と一緒だ。だからひとりぼっちになるんだぞ」 以来、紙袋男は学校へ行かなくなった。毎日延々と、病的に、鏡の自分を確認していた。それだけにすべてをささげる人生になった。 37歳までの約23年、自分の部屋で引きこもった。毎日ご飯を用意してくれていた母が、ある日部屋をたずねてこなくなった。おそるおそる出て、母を探した。母は浴槽で溺死していた。母しか家族がいなかった紙袋男は、本当の意味でひとりぼっちになった。 日ごとに母は臭うようになっていった。耐えきれなくなった紙袋男は、家の中で縄を見つけ、柱にくくりつけて首つりを図った。でも縄が古くて切れてしまった。 悩んだ末、紙袋男は安楽死協会にメッセージを送った。そうして、仮想世界『ユートピア』にやってきたのだった。 人の暗い過去を打ち明けてもらったのは、はじめてだった。私も自分のことをすべて話したくなった。 私は高齢者デイサービスで、正社員として働いていた。要領が悪く、同僚によく思われていなかったけれど、それでも、幼少から祖父母に愛されていた私は、一生懸命働くことができた。 しかしデイサービスは経営難に陥り、閉鎖した。 社員は皆、同じ医療法人が経営する特別養護老人ホームで働くことになった。仕事場が遠くなったことで通勤の負担が生じ、さらに慣れない夜勤で身体を壊した。夜勤をやめたいと上司に相談すると、上司を含む高圧的な役職者に囲まれ、いろんなことを言われて、最終的には退職勧奨を受けた。 私はうつ病になった。家から一歩も出られなかった。父に言われて精神科に行ったけれど、先生の態度が怖くて、一度しか行かなかった。 当時交際していた彼氏は、理解を示してくれた。でも、いつまで経っても私が変わらないから、だんだん彼の態度がきつくなっていった。そうして彼は、新しい彼女を作った。 私は浮気を知ったとき、ほっとしていた。笑顔で彼と別れられた。 その日のうちに、電車に飛び込むつもりで駅へ行った。しかし逡巡したため、不審に思った駅員に止められた。駅員は事務的に、安楽死協会へ連絡した。そうして私は、安楽死する前に『ユートピア』へやってきた。 「私、もうかれこれ24年、ここにいます」 紙袋男は大仰に驚いた。「でもPCと話したのは僕がはじめて……すごいですね。なんだか光栄です」 私は自嘲した。「あなたは、どれくらいここで生活してますか?」 「僕はまだ2年目です。……そっか」 そっかそっか、と紙袋男は言ってうなずく。なるほどなるほど、とも言う。 「どうしたんですか?」 「あ、気づいたんです。僕は、現実世界で23年も引きこもっていました。だから、ユートピアに来てからは心機一転、積極的になろうとがんばっていました。あなたは、現実世界で引きこもる前にユートピアへやってきた。……とてもうらやましいです、この世界で引きこもれるなんて」 よく意味がわからず、小首をかしげる。紙袋男はさらに説明する。 ユートピアの一年は、現実の一日。 紙袋男は現実世界で本物の23年間を引きこもりに費やした。でも引きこもったことで、今の前向きな気持ちがあるのだと考えていた。 で、私は長期間引きこもった経験がなかった。それでユートピアへ来て、24年引きこもった。しかし現実時間では24日しか経過していない。たった24日で24年分引きこもれたことがうらやましい、と。 そんなことを言われても……私は引きこもり期間を経て、前向きになれたわけではない。 「23年も失ったことを意識すると、たまにゾッとします。引きこもっていた時間は必要だったけれど、もっと早くやめられていたら、母は死なずに済んだ……激しい後悔に苦しむこともあります」 たしかに、長期間引きこもるならユートピアで引きこもるほうがマシだ。でも決して得ではない。長い間ユートピアに居つづけるのは、命に関わるリスクがある。私は生きつづける気がなかったので、どうでもよかったけれど。 ふと私は、彼にまったく恐怖心を抱いていないことに気づいた。顔が見えないからかもしれない。それでも長時間対面することに疲れていた。もう行きます、と私は言った。わかりました、と紙袋男。私は去っていく。 「僕に声をかけてくれてありがとう!」 私は立ち止まった。振り返って――NPCたちがみんなそうしてくれるように――微笑んだ。 紙袋男と別れてから、私はずっと歩いていた。PC濃度を上げた状態で。 徐々に上げていって、26パーセントまで上げることができた。数人のPCとすれ違った。会話はせず、会釈だけした。 ベッドに入って、『眠る』のボタンを押そうとメニューを開く。死のカウントダウンが残り2分を切っていた。……すっかり忘れていた。忘れたまま、死んでもよかった。 『死』をキャンセル。 何度目のキャンセルだろう。 |
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