紙袋男はいつも同じ場所で海を眺めていた。 私は紙袋男と毎日会った。初めて会ってから、四日後に、名前を聞いた。日向健一。私も名乗った。光崎永遠。すごくかっこいい名前だ、と彼は言った。 「差し支えなければ、永遠さんとお呼びしてもいいですか?」 たわいもないおしゃべりを一通りやり終えると、私たちはPC濃度を100パーセントにした状態で散歩することが日課になった。 ユートピアには、いろんな人間がいた。自殺未遂者が大半を占めているが、社会不適合者であったり、病名はないけれど生きづらさを抱えた人であったり、重度のアルコール依存症や重度の薬物依存症もいた。 たくさんの人と会い、たくさんの人と話をした。 被り物をしている人もよくいた。健一さんが流行らせたらしい。 親しくなったこともあって、顔を見たいと言ったことがある。頑なに断られた。絶対におかしな反応をしないからと念を押して、何回かお願いした。何度目か……七度目だったか。健一さんは怒って、 「次に僕の顔を見たいと言ったら、僕は永遠さんの前から そう言った。言い方に、健一さんのやさしさを感じた。 健一さんと知り合って一年が経った。 たくさんのPCと話をするようになってからは、時間が濃密なものに感じられた。PC濃度0で過ごす一年は、一瞬だった。ユートピアに来た25年前が、ほんの数年前のように感じる。 『僕らが奇跡的に出会って一年目を記念し、パーティをしましょう』 10時過ぎに布団を出てから、メッセージをチェックすると、健一さんからのそんなメッセージを見つけた。 海の見える歩道で待ち合わせ。彼は先に来ていた。なぜか正装している。 「なんでタキシード――」私は笑った。 「パーティをするって言ったじゃないか」 本当にパーティをするため、会場まで予約したらしい。 ホテルの会場へ移動すると、貴族の社交界のような舞台が設定されていた。なのに、『光崎永遠と日向健一が奇跡的に出会って一年目のパーティ』という場違いな幕が掲げられている。 私はドレスに着替え――着替えの最中なんだかおかしくて笑っていたけれど――会場に戻ると、NPCたちが私に「おめでとう」と言って拍手した。 「おおげさすぎる」 「でも面白いでしょ」と健一さん。 大勢いるけれど、私たち以外のPCはいないので、気兼ねなく貴族の気分を味わえた。NPCの進行で、社交ダンスがはじまった。 「踊りましょう」 健一さんが私の手を取る。私たちはワルツに合わせ、踊った。踊り方は知らないので、適当だったけれど。 時々、健一さんは他のNPCとぶつかった。紙袋を被っているので仕方ないけれど、何度もぶつかるので、せっかくの雰囲気を台無しにしているように思えた。 「ねえ、一年目の記念に、紙袋を取っちゃおうよ」 健一さんは急に足を止めた。会場の隅へ行ってしまう。私は後を追った。 「外したくないのはわかるけど……健一さんの顔を見たいよ。私、絶対に健一さんの素顔を受け入れるから。ね? それに健一さんは、積極的に社会復帰を目指してるんでしょ? なおさら、外したほうがいい。どこかで決断しないと――」 健一さんがメニューを呼びだす。PC濃度変更を選ぶ。 「言ったよね。次に僕の顔を見たいと言ったら、永遠さんの前から 「うん。わかってて、言った」 私たちは、じっと見合った。 「……永遠さんを、信じていいんですね」 私はうなずいた。 すると健一さんは紙袋に触れた。 ついに外す――外さず、手が離れた。 「永遠さん、僕と結婚してください」 ……えっ。 「ええええええええええええ!」 「永遠さんが、好きです」 健一さんの好意は伝わっていたけれど――。 「飛び越えすぎてる、いきなり結婚なんて」 健一さんはメニューを操作した。『ログアウト』のボタンが、中央に、大きく表示される。ログアウトの下に、「ユートピアを終了します」とあった。 「僕と一緒にログアウトしてほしい」 「ちょ、ちょちょちょっと、もう、健一さん、いきなり突っ走りすぎてる!」 健一さんは首を振った。「今、決断しないと、僕はまたずるずるここで過ごしてしまう。ユートピアは居心地がよすぎる。それに永遠さんは、もう25年も過ごしてる……ユートピアに長く心を接続した人の事故をご存じのはず」 なぜ健一さんが急にこんなことを言いだしたのか、理解した。 私のためだ。 「永遠さんを失いたくない。たとえ僕の顔を見て、幻滅しても、構わないから、一緒にログアウトしてほしい」 「幻滅なんて、絶対しないよ……正直に言えば健一さんの顔を好きになれるか自信ないけどさ。でも、あなたの心はとても好き」 私は少し黙考して、ついに決断の時がきたのだと、受け入れた。メニューを出し、『ログアウト』を表示した。 「好みの顔じゃなかったとしても、一緒に過ごせば、きっと受け入れられる」 健一さんが私をじっと見ている。優雅な音楽とNPCの会話がよく聞こえた。 「ありがとう。永遠さんの正直なところ、好きです。現実世界に戻ったら、僕の顔を見てください。それで、もしよかったら……お付き合いしてほしい。無理なら、せめて、友達でいてください」 私はうなずいた。ログアウトの表示を見つめる。「……戻るの、緊張する。25年ぶりだから。向こうの時間では25日ぶりだけど」 「ユートピアは本当にすごい世界だった。ユートピアに救われた人の話をよく聞いたけど、想像以上だった」 ええ、と同意した。言葉がなくなる。お互い顔を合わせ、見つめ合う。 「いっせーのーで、で押そう」 健一さんが提案。私はうなずく。 健一さんが深呼吸した。私も、同じように深呼吸。息を吐き終えると、心の奥底に、ログアウトを押したくない自分がいることに気づいた。 いくよ、と健一さん。 ――いっせーのーで。 私はログアウトを押した。 …………。 ……なにも変わっていない。 「健一さん?」 健一さんは『ログアウト』を指している。 ふと、NPCの声がないことに気づいた。音楽も消えている。 周囲を見渡す――すべてのNPCが動きを止めていた。 「みんな! ……誰か!」 誰も反応しない。 健一さんに目をやる。健一さんは『ログアウト』に指をさしている。 健一さんのそばにいき、腕に触れた――彼の腕をすりぬけた。つかめない。 身体がガタガタと震えだす。 長くユートピアに居すぎると、ログアウトの際に事故が起こる場合がある。そう聞いていた。でも、絶対に起こるわけではなく、多くの人は、ちゃんとログアウトできる。私よりも長くユートピアにいた人だっている。 開きっぱなしのメニューの前に戻り、ログアウトに触れた。何度も触れた。 なにも変わらなかった。 時間が経つと、少し落ち着いてきた。 冷静に、健一さんの顔をのぞいたけれど、紙袋がぴったりついていて、よく見えなかった。 25年前に受けた説明を思い出す。 ログアウトで事故が起こると、植物状態になる。この事故で助かった人間はいない。一応処置を施すそうだが、回復の見込みなしと判断されれば、安楽死。 こんなに思考ができるのに、現実の私は眠っている。 突然、健一さんの姿が消えた。NPCの形が不気味なものに変貌し、小刻みに動きだした。 じっと待っていると、またすべてがフリーズした。 建物をすり抜けることができて、壁から外に出た。景色が欠落していて、その向こうは真っ暗になっていた。 私は歩きだした。壊れていくユートピアを見ていこうと思った。 私があまり足を運ばなかった場所は、まったく原型を留めていなかった。でもよく行ったスーパーや、私の家は、まだ形を保っていた。それも時間が経てば、崩壊していった。 やがて、世界は真っ暗になった。なにもない空間に私は立っていて、でも歩きつづけることができた。どこまで歩いても、終わりはなかった。 ずっと歩いた。歩くことしかできないから。 チカッと、彼方に光が見えた。 何度か光っている。向かっていくも、全然近づけない。だから全力で走った。 永遠さん――。 微かに声が聞こえた。幻聴かもしれないけれど、ずっと全力疾走した。 少しずつ景色が戻ってくる。 気づくと私は海上にいた。水の映像の上を走っているみたいだった。 ――永遠さん、僕はここだ! あぁ……幻聴じゃない。 声のするほうへ、とにかく向かった。 やがて、江の島の歩道が見えた。柵をすり抜けられるかと思ったら、ぶつかった。実体があった。海から柵をまたいで、歩道に立った。 「永遠さん、僕はここにいる!」 はっきりとした声。 「僕の姿を意識して」 言われた通り、健一さんの姿を意識する。わかりやすい紙袋の頭のことを考えると、急に紙袋が目の前に現れた。 「びっくりした……紙袋だけ宙に浮いて見えてる。これはどういうこと?」 「君はもう、ユートピアとは接続されていない。今は、僕の意識とリンクしているんだ」 健一さんと私の意識が、この世界を作り上げているのだという。 「永遠さん、目を覚まして」 「どうやって?」 「うーん……起きようと強く念じる、とか」 やってみる。私、起きろ。起きろよおおおおおお! 変化なし。目を限界まで見開く。健一さんが笑っただけだった。 「無理よ。起きられない」 「諦めないでほしい……僕の素顔が見たいんでしょ? 目を覚ませばいくらでも見られる」 「そんなこと言われても、どうしようもないの。……私のことは忘れて」 沈黙する紙袋。 「ごめんね、健一さん。でも、私、やっぱり現実世界に戻りたくない。怖いよ。どうして、辛い思いをしながら生きなきゃいけないの? それがわからない……私にはあの現実が、生きづらすぎた。このまま安楽死できるなら、そのほうがいい」 健一さんは黙りつづけていた。なにも言えないところに、彼のやさしさを感じた。 「僕は、イヤ――」 突然彼の姿が消えた。次の瞬間、景色も消失して、また真っ暗な世界になった。健一さんとの接続が切れたんだ。 いくら待っても、また景色が現れることはなかった。 私は真っ暗闇に横たわって、じっと、終わりを望んだ。 しかし意識は有りつづけた。痛みもないし、苦しみもない。全然途切れてくれない。途切れてくれないけれど、いつのまにか手足が動かなくなっていた。そうして、自分の身体というものがわからなくなった。でも意識だけはある。もしかして、私はもう死んでいるのだろうか。死後の世界なんて誰も知らないのだから。これがそうなのかも。 同じ状態がいつまでもつづいた。死は永遠にこうなのだろうか。次はないのだろうか。記憶はまだちゃんとある。光崎永遠として生きた記憶が。いきなりこの記憶が消失して、別の生き物に生まれ変わるのだろうか。 そのうち私は考えるのをやめた。 「――ですねえ」 「全然そんなことないですよ。では今日はこれで。また明日来ます」 突如、声が聞こえた。 「この患者さん、ウチの病院に来て何年目でしたっけ?」 「五年は経ってるわね。……絶対に目覚めることはないって、先生は仰ってるのに。絶対安楽死させないって、入院費と治療費を負担しつづけて……」 「日向さん、すごいですね。仕事終わりに毎日お見舞いに――」 私は目を開いた。二人の看護師が視界に入る。一人と目が合った。私は声を出そうとした。うまく出なかった。 「あ、あ、あ……」看護師が声を震わせる。「主任、光崎さんの目が!」 もう一人の看護師が私を見ると、手に持つファイルを落とした。 「大変だわ、先生を呼ばなきゃ――あなたは日向さんを呼んできて」 弾かれたように看護師は病室を飛びだした。 ずっと停止していた思考が、やっと回りはじめる。 死んでいないことの悔しさに襲われた。 ドタドタと走る音が近づいてくる。背広を着た男性が、病室に入ってきた。私と目が合って、その人は息切れをしながら、近づいてきた。 男性は私のそばに立つと、顔をくしゃくしゃにして、涙を流した。 と、男性は気づいたように、ポケットから紙のようなものを出した。それを広げ――紙袋を被った。 そんなことしなくても、あなたが誰か、わかってる。それとも、私の前では顔を隠していたいの? 声が出せない。たくさん言いたいことがあるのに、かすれた音を一文字出すのが精一杯だった。特に、彼の顔について、一番言いたいことがあるのに。 「かぁ……がぁ……」 ダメだ。うまく声を出せない。 諦めよう。長い言葉は言えない。 「お……」 お、をはっきり言えた。「お?」と彼は確かめる。 「は……」 は? と彼は言う。 「よ……」 よ、と彼。 「う……」 う、と彼は言ってから、小さな笑い声が聞こえた。でもその笑い声はすぐに、泣き声に変わった。 彼は、泣きじゃくった。紙袋をぬらしていった。 そんな彼に、私は精一杯、やさしく、微笑みつづけた。 |
(了) |