3.男の楽しみ


「いいじゃねえかよ、女と暮らせるなんて」
 涼也を目覚めさせた男、同級生の伊知朗(いちろう)に昨日のことを打ち明けると、露骨に羨ましがった。
「よくないって」
「わくわくするなあ、二十五歳だろ? そんで東京に住んでたんだろ?」伊知郎は目線を上に向けて何らかの妄想をしながら、怪しく指を動かす。「きっと、色んな男を弄んできたんだろうなあ」
「伊知朗はすぐそっちの想像するなぁ」
 パッと目線と涼也に向ける。「女と一緒に暮らすっつったら、そっちの想像しかしねえだろ」
 それは伊知郎みたいなやつだけだ、と涼也は思う。
「そんな相手じゃないって」
「きっと、夜になるとリョウの部屋に入ってきてさ、『アソコが疼いて眠れないの、なんとかしてよお、もう我慢できない……』とか言ってくるぞぉ〜」
 そう言って伊知郎は、ふへへへと奇妙に笑う。教室に居るにも拘わらず、伊知郎は平気でこういうことを口にする。
「AVの観すぎだよ」
 伊知郎は急に頭を掻き、「あぁ〜、クソッ!」と声をあげた。
「その人が来たら、リョウの家に遊びに行くな? なっ?」
「何もできないって、アイツはSキャラだから」
「Sか! 虐められてぇ〜」
 涼也は呆れるように笑った。こんな変態に付き合っていられない。
「いいなあ、親戚のお姉さんと同じ屋根の下、あんなことやこんなこと……」
 伊知郎はまた目線を上に向けて、怪しく指を動かしだした。
「その手つきやめろよ」
 伊知郎はピタっと手を止めて、涼也を見る。「なんかあったら報告しろよ?」
「何もないって」
「わからんぞぉ、エロイことたくさん起こるかも」
「ホントそればっかだな」
「男の楽しみって言ったらそればっかだろ」
 ──それは伊知朗みたいな奴だけだよ。
 涼也はそう思っても、口にはしなかった。

 実は男として、涼也も伊知郎のような感情を抱いていた。もちろん伊知郎ほどではない。涼也のような年齢で女性と一緒に暮らすというのは、やはり誰であれそういった想像はしてしまうものだろう。だが涼也は、その人物のことを思うとすぐにその想像を打ち消した。そういう対象ではない。
 アパートの前に着くと、トラックが止まっていた。引越し屋だった。業者の人たちは荷物を一階の一〇二号室へと持ち込んで行く。そこは、涼也の家。
 急ぎ足で家の中へ入った。業者の人たちは母の部屋に入らず、荷物を奥の居間に置いている。中央には、女の後姿。
「……一週間後じゃなかったの?」
 涼也が気分悪げにそう言ってみせると、女は振り返った。最後に会ったのは涼也が六歳の頃。小学一年の時。古い記憶だが、憎い顔としてしっかり記憶していたのだが、そこに居た女の顔は全く違う人物に見えていた。
「久しぶり、泣き虫のリョウくん」
 別人かと思ったが、やはり早河奈々のようだ。昔とは随分顔が変わってみえる。メイクの力でより違う人間にみえた。きつい目立ちだったのに目が大きくなっているし、金髪を盛ったギャルっぽい出で立ちだから、余計に早河奈々らしい特徴を捉えられずにいた。だが、面影はある。どこにあるかと訊かれても指摘はできないが、涼也の身体が覚えていた。血管が収縮し、顔面が冷えている。
 相手はじっと見つめ、涼也は軽く睨んでいた。早河奈々は笑んでいるが、それは絶対に作り笑いだと思った。
「そんなにビビるなって。今日から一緒に暮らすんだから、一日でも早くあたしに慣れてよ」
 自分主体で物事を進めるのが奈々だ。涼也の懐かしい嫌な記憶が、彼女と少し接するだけでじわじわと滲み出てくる。まるで自身が幼子に戻されていくようだった。
「一週間後じゃなかったの」と、涼也は再び訊ねた。
「そう言ってたけど、予定が変わった」
「……荷物がどうして居間に運ばれてるの?」
「ここがあたしの部屋になるから」
「はっ? 母さんの部屋使うんじゃないの?」
「おばさんの部屋にお邪魔になるのは悪いでしょ。あ、別にあたしのことは気にせずここ使えばいいから」奈々は床を指す。「ここがあたしの部屋であって、この家の居間なわけ。そういうこと」
「勝手に決めないでよ」
「勝手じゃねえよ、勝手に決め付けんな」
 口の悪い言い方に涼也の心拍数が上昇した。しかし動揺を表情には出さない。
「ちゃんとおばさんから許可はもらってるよ、子供じゃあるまい。あたしは大人なの。この家の主の筋通してるよ」
 何も言い返せない。涼也が言葉を失ったのを知ると、早河奈々は含み笑いをした。
「まあ、とにかくよろしく」
 そう言って右手を差し出してくる。涼也は、握手をしない。背を向けて自分の部屋へ向かった。
「クソガキ」
 背中に飛んできた言葉にピクリと苛立ったのだが、反応を見せず部屋へ入った。
 ──最悪だ。テレビは居間にしかない。ゆっくりとゲームができない。自由にAVも観られない。いや、テレビを買えば……でも、アイツが居る間は堂々と自分の部屋で“そういうこと”もできない。……癒しの時間がなくなる。

 母の前で早河奈々は普通の女を演じていた。涼也に対して一切口の悪い言い方をしなかった。言っていた通り家事を手伝おうとしたが、母は「色々片付けなきゃいけないものがあるんだから、今日は何もしなくていいよ」と言った。
 食事はやはり喉を通りにくかった。苦手な人間が傍にいるのだから、息も詰まる。
「あ、おいしい。誰かの手料理なんて久しぶり。おばさん、料理上手ですね」
「ありがと。それで、できたらおばさんはやめてね。一緒に住むんだからケイコさんとでも呼んで」
「はい」と、愛想よく早河奈々は笑う。
「やっぱり食事は大勢の方が気分良いわ。ねぇ、涼也」
 涼也は無言で食事を続けた。
「今日はヤケに喋らないんだねえ」
「いつも全然喋らないじゃん」と涼也は低い声で返す。
「あ、喋った」
 早河奈々が涼也と母のやりとりをくすっと笑う。涼也はまた押し黙った。
 それからずっと二人が喋り続け、涼也は一言も口を開かなかった。



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