7.人間じゃないんだよ


 涼也は、家に居るのが嫌になっていた。学校から帰って玄関を開けるとき、奈々が居るかどうかを真っ先に確認してしまう。奈々は涼也と喋ろうとしなかったが、母の前ではいつも通りでいた。元々涼也が住んでいた家なのに、二人が喋っているときは涼也自身が違う家の人間に思えていた。
 あの日から数日が経った平日、涼也はいつものように奈々の存在を気に留めながら帰宅した。玄関に靴はある。居るのかと気を落としたが、奥の居間に気配を感じられなかった。確認したところ、奈々はそこに居ない。
 服を着替えながら、家の中の気配を探ったが、物音一つしない。トイレかと思いそちらの方に気を配り、着替えた後はベッドに腰掛け数十分様子を窺ったが、動きを感じられなかった。
 涼也自身、今の状況が嫌だった。少しは会話を交わしておいたほうが楽な気がした。相手はサディスティックな元AV女優。その異端さは腫れ物のように思えたが、勇気を振り絞って、自分も早く用を足したいという名目でトイレの前に立った。
「ねえ、居るの?」
 中の音に意識を向けるも、何も聞こえない。戸をノックしてみたが、返答は無かった。思いきって開けてしまおうとしたが、止めた。風呂場を確認してからにしようと思い立った。
 脱衣所に移動して、
「くんな!」
 風呂場で声が響いた。
「風呂に入ってるの?」
「そうだよ」奈々は威圧的な口調だった。
 なぜか、脱衣場に衣服は脱がれていない。
「ここに服が脱がれてないんだけど。着替えもないよ? 出てきたら全裸で居間に移動する気だったの?」
 返答を待ったが、何も返してはこない。
「まあ元AVやってたヒトだからそんなこともできるか」
 なぜそんなことを言ってしまったのか。きっと、根に持っていた憎しみを吐きたかったからだろう。
 物凄い反論と罵倒が飛んでくるか身構えていたが、何も言ってはこなかった。だから、もっと攻撃してやろうと、涼也は口を開いた。
「自分でAVやってたクセしてムチャクチャだよね、僕の首絞めて髪掴んでさあ。アンタは昔からそうだったよな。気に入らないからって五、六歳の子供を平気で蹴り飛ばしたり殴ったりするし。同じ人間じゃないって思ってたけど、ビデオであんな汚い醜態晒せるなんて、本当に人間じゃなかったんだな」
「うるせぇ!」
 浴室に強く声が響いた。奈々の逆鱗に触れることができた。それが恐ろしくもあり、同時に手ごたえのようなものを感じられた。
 今日はとことん戦ってやろう。僕も男だ。僕が受けた痛みを、ここで全て晴らしてやる──
 中で、動く音が聞こえた。風呂場の戸がスライドし、裸体で出てくるのかと想像したが、ちゃんと服を着ていた。
 右手には、カッターナイフ。
 そこに疑問を感じた瞬間、涼也は胸倉を掴まれて刃を目に向けられた。
「もっぺん言ってみろ!」
 気丈な言葉とは相反して、奈々の表情は歪んでいた。頬に雫が伝っている。涼也は一瞬、顔を洗ったのかと勘違いした。そうではなく、彼女は洟をすすり、目を潤ませていた。
「ごめん……泣いてると思わなかった」
 カッターに怯えながらも罪悪感が襲ってきた。ふと奈々の腕が視界に入り、異変に気づく。
「血が出てる!」
 左の袖がまくれ上がっていて、手首から血が滴っていた。腕に無数の古傷もみえる。
「ああ、血が出てるよ? 自分で切ったんだからなあ。ちゃんと人間の赤い血が流れてるだろ? テメェも流してやろうかあ!」
 そう言って更に涼也の顔の間近に刃を近づけられる。
「落ち着いてよ、おかしなこと言ってごめん」
 胸倉を掴む手とカッターが震えていた。手元が狂えば涼也の目に刺さりそうだった。
 と、急に力が抜けた。早河奈々は涼也を離し、うなだれた。
「リョウの言うとおり……あたしは人間じゃないんだよ」
 彼女は涼也に目を合わせた。もう睨んでいない。悲しげな瞳だ。目線が逸れると、カッターを床に落として、涼也とすれ違って風呂場を出ていった。
 ……アレを認めてはいけない。そう思う反面、流れていた血や涙が人間らしく見えた。どうして血を流す? どうして、涙を流す?
 奈々がソファーに座る音が聞こえた。涼也は動き出して、居間へ移動する。奈々は仰向けになって右腕をおでこに当てていた。左腕の血がソファーに付着しそうだ。涼也はティッシュ箱を取り、差し出す。奈々は涼也に目を合わせ、少し間を置いて一枚、二枚とティッシュを取った。
「痛くないの?」
「痛くない」
 痛そうに見えるけれど。
 涼也がじっと見ていると、奈々もティッシュで腕を押さえながらじっと涼也を見つめ返した。……こんなとき、どうしたらいいのかがわからない。放っておいたほうがいいのかな。
「ねえ、アンタもあたしとヤりたいって思うの?」
 いきなりの問いかけに驚いた。相手が早河奈々なので、そこまで考えたことはなかった。でも、そう言われると涼也の本能は反応して、ムラムラとした欲情が生まれてしまう。例え、相手が憎い女でも。
「相手があんただし、今まで考えたことなかった」
 無難にそう言っておいた。早河奈々は微かに笑う。
「アンタにとったらあたしは最低の女だもんね。抱くのもキモイか。……でも、どうしてかな。あたしはそんなアンタの気持ちが嬉しくも感じるよ」
「なんで?」
 早河奈々は視線を俯かせた。
「あたしを性的な対象でみないから」
「ビデオでは……しようとしたよ」
 あはは、と彼女は笑う。「映像でヌけても実物じゃアレも起たないでしょ」
 涼也は口を噤んだ。
「確かに人間じゃないよ。お金で誰とでもセックスするんだもん。醜態もたくさん晒した。あたしは淫乱な性欲処理機です、って。そうなると、もう誰もあたしの心を見てくれない。ヤれる女にしか見られないんだよ」
 自虐的な奈々に対して、涼也は何か言葉を発したいと思ったけれど、何も言えない。
「今日ね、街に行ったらね、愛川なるみだーって、男があたしを指差したの。逃げようと思ったけどすぐに追ってきて、AV女優、って指差した男が一緒に居た二人に言ってさあ。囲まれて、AVの話されて、一発ヤらせてくれって……しつこく言われてさあ」
 ……非道い話だ。本当にそんな人が居るんだな。
「道端なのに気安く身体に触ってきて、それであたしはキレたの。うるせえ、もうAV女優じゃない、どっかいけって。そしたらさあ、ひどいことたくさん言われた。カメラの前で股を開いてたのに、って。汚いクソじじいとも喜んでハメてたクセにって言われた」
 本人を目の前に平気でそんなこと言えるんだな……。
「悔しかった。家に着いたらすぐに涙が流れた。でもちょっとしか流れなかったから、血を流した」
 それがよくわからない。
「人間だと思いたかったから?」
「そうだよ」
 ……この人を、認めてはいけないはずだった。でも、こんなふうに胸を痛めていることが不気味で、それでいて妙に人間らしく見えてしまう。ただ、そうなると一つ疑問に思う。
「だったらどうしてAV女優なんてやったの?」
 奈々は鼻で笑った。
「訊きたい?」
「言ってくれるなら……」
「そっか。じゃあ、話してあげるよ」
 ちゃんとした姿勢で聞いたほうがいい気がして、涼也は床の座布団に腰を下ろした。
 彼女は語りだす。



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