魔法シンドローム

第五話.渋谷(page.B)



「ほらみろ。冷奈は物分かりがいい」
 冷奈の視線が、ぼくの後方に向く。一回頷いた。信じられなくて、ぼくはむちゃくちゃに首を振りまくった。
「そんなこと、絶対にやっちゃダメだ! あいつらにどんなことをされるのかわかってるでしょ?」
 冷奈が笑みを浮かべた。「私なら平気だよ。信じて」
「そうだぞ、まこと。お前は俺みたいに苦労してきたわけじゃないから心が脆いんだよ。だから肝心なところで人を信じられない。弱いんだよ」
 いや、ぼくは陽よりも断然強い。その言葉が喉を通過しかけた。飲み込んで、別の言葉を吐きだす。
「冷奈が良いって言うから、ぼくらは彼女が最低なことをされるのを受け入れろって? お前、いつからそんな糞クズ野郎に成り下がったんだよ!」
 氷牙の奴らが嘲笑う。エグイ会話してるなあ。シムズってやつは面白い。なんでもいいからとっとと女を寄こせ。少女から大人の女に変えてやる。声が耳に入るたび、越えてはならない線を一気に飛び越してしまいそうだった。
 それなのに、ぼくの目の前に冷奈は出ていく。
「この子のことはいいから、はやく私を連れてって。愉しませてくれるんでしょ?」
 マジかよ。鼻ピアスがそう言い、また舌なめずりをする。こちら来るので、ぼくは力を使おうと身構えた。それを予測していたのか、冷奈が顔を振り向ける。ぼくを、睨んだ。
「もし今、力を使ったら、もうまこととは絶交だから。永久に私の敵だから」
 彼女の宣告が、ぼくの全身を巡って、一気に力が抜け落ちた。足元が崩れていく。膝をついた。
「嘘だ……」涙がこみ上げてくる。「やめてよ、そんなの」
 陽が、ぼくの肩を叩く。睨みつけようとしたのだが、前に出ていった。
「こっちは破格の人質を差しだすんだ。これで文句ないだろ」
 冷奈が、自ら鼻ピアスの腕に抱きつく。
「おい、誘ってんのかよ……」鼻ピアスの息遣いが荒く、気色悪い。「女一人汚れものにしちゃうけど、いいよな?」
 ああ、と赤ターバンが無表情で言う。「そんな少女相手にできるなら好きにしろ」
 鼻ピアスは露骨に喜び、冷奈を引っ張っていってしまう。他の奴らもついていく。なんだよお前らは来るな。おい一人だけで愉しもうなんてずるいだろ。いや一人じゃない、このお嬢ちゃんも一緒に気持ちよくなりたがってるだろ──
 呆然とその姿を追っていた。声が、遠のいていく。冷奈は嬉しそうにはしゃいでいた。路地の向こうに、消えていく。残った赤ターバンは携帯で喋っている。
「うわああああああ!」
 ぼくは叫び声をあげ、陽の後頭部目がけて拳を振った。だが止められてしまい、ふいに身体がもちあがる。世界が反転したかと思うと、背に衝撃を受けた。胸が詰まったようになり、息ができない。身体の痺れを感じた。それはほんの一瞬で、すぐに軽い呼吸ができるようになる。それから、投げられたんだと知った。
「話はつけてくれた?」一切ぼくを気に留めずに陽は言う。
「ああ。藍さんは是非お前たちに会いたいと言っている」
 よっしゃあー。馬鹿がさも嬉しそうに言う。陽との付き合いは、五年になる。こんな非道で最低な一面があったなんて全く知らなかった。
 古びたビルの間に、狭い空が仰げる。分厚くて陰の多い、暗い雲が横切っていた。

 赤ターバンが案内する方向は、冷奈が連れて行かれた方とは違った。一縷の望みがその時点で打ち砕かれた。これが組織の仕事なのか。こんな最低なことも、冷奈や陽のように涼しい顔で受け入れなければいけないのか。……いや、これが紅輝さんの言うヤバイ事態なんじゃないのか。
 建物の地下へと続く階段の前に着いた。二人は下っていくのだが、ぼくはポケットで携帯を握りしめ、陽を重点的に見下す。ぼくが来ないことに気づいたのか、奴は振り向いた。
「何やってんだよ、来いよ」
 ぼくは首を振った。赤ターバンが視界から消える。
「先に行って。ぼくは後で行くから」
「そういうの、やめとけよ。いいから来ればいいんだって」
 紅輝さんに連絡を入れたかった。それと冷奈にも電話する。逡巡せず、もっと早くこの二人から離れてこっそり連絡を取ればよかったんだ。
「何グズグズしてるんだ」
 離れようと思ったのに、赤ターバンの声が聞こえた。こっちに戻ってきて姿を見せた。
「そうだぞまこと。グズグズしてると藍さんが会ってくれなくなる。冷奈なら、絶対平気だから、余計な心配するな」
 身体が、震えだす。泣かないよう我慢していたのに、涙が滲んできた。こんなの耐えられない。今、何をされているのか想像するだけで、頭が狂いそうになる。
「相当強いのか、さっきの冷奈っていう子は」
 赤ターバンがふいに言った。一瞬、何を言っているのか意味をつかめずにいた。
「あれ、ばれてた?」
「ばれてるも何も、普通に考えりゃわかるだろ。あいつらはCIMSの知識に乏しい。相手がまだ組織にも入ってない子供のシムズならいくらでも玩具にできる、なんて頭の悪いことをいつも言ってる」
 陽がくすっと笑った。ぼくは目元を拭う。
「そういうの、傍で聞いてて胸糞悪かったよ。オレたちを馬鹿にする健常者の言葉は、聞いているだけで力を暴発させそうになる」
 ああ、やっぱりあんたもなんだ。なんだ気づいてたのか。なんとなくそんな気がしてた、雰囲気でね。会話が繰り広げられていき、ぼくは置いてきぼりになってしまう。
「……どういうこと」
 涙声になった。陽に笑われる。赤ターバンも笑うのだが、それはどこか優しげな表情だった。
「お前はまだ状況がつかめてないんだな。自己紹介しよう、オレの名前は星野セキヤ。赤に『なり』で赤也だ。お前たちと同じ、シムズだよ」
 そうだったんだ……。
 赤也は、元々はギャングやチーマーではなく、半年ほど前に藍と出会って氷牙のメンバーになったのだと言った。
「ところでさあ、冷奈があんたらの仲間を痛めつけたら、やっぱ藍さんに会わせてもらえなくなるの?」
 いいや、と笑みを浮かべつつ言う。「藍さんは同じシムズとして、お前らと会いたいって言ったんだ。全くもって関係ない」
「でも、藍さんってすっげぇ仲間想いなんでしょ? 大丈夫なの?」
「仲間想いの前に常識はあるよ。あの冷奈という子がシムズである以上、あいつらを死に至らしめることはまずないはずだし、問題はないだろう」
「あー、よかった」陽はこちらを向く。「やったな、まこと」
 ぼくは洟を何度もすすっていた。やっと全部を把握できた。冷奈は女性でもシムズ。しかもFA型。ただの健常者にやられるわけなかったんだ。
「ただ、最後に一つだけ確認しておくことがある」赤也は右腕を前に出す。「お前ら、本当に、組織に内通してないだろうな」
 ぼくらを威嚇するように、掌から横方向に炎を迸らせた。
「してるわけねえじゃん。なに、KG氷牙って組織から狙われてるの?」
 赤也が拳を握り、火を消す。「狙われてるのは、藍さんだ」
 そう言い、赤也は前を向いて歩きだす。ぼくらは後を追いかけた。階段の先は短い通路で、突き当たりには映画館にあるようなクッション付きの大きなドアがある。赤也がそこを押し開けた。
「KG氷牙のアジトへようこそ」
 中は薄暗かった。窓が見当たらず、室内の照明も弱い。カウンターテーブルが正面にあり、部屋は右側に広がっている。そちらへ行くと、いくつもテーブルが置かれていた。テレビでしか見たことがないのだが、バーの雰囲気にそっくりだ。各テーブルにはソファーが置かれており、そこにはたくさんの人が座っている。ざっと見積もっても二十人はいた。全員の視線が、一斉にこちらを向く。奥だ、と赤也の声。ぼくらは進んだ。
 突き当たりのテーブルに、背を向けて座る人と、向かい側には白っぽいタートルネックを着た眼鏡の女性がいて、その女性だけ立ち上がった。薄闇でも、まず真っ先にくっきりとした輪郭の胸に目がいってしまう。それだけ大きかった。その人はぼくらとの間を詰め、はっきりと笑い、勢いよく手を差し伸べてくる。
「こんにちは。まこと君と、アキラ君ね」
 ぼくらも素直に挨拶を返して、握手を交わした。
「もう一人いるんじゃなかったの? レイナって女の子」
 陽が後ろを振り向くので、ぼくも同じ動作をする。赤也はこちらには来ていなかった。陽は顔を戻す。
「あんたらのゲスな仲間が、オモチャにするからって言って、冷奈を連れてったんだけど」
「あら、それはお気の毒。ああ、これは連れていった人たちに言ったのよ? こんなところまで平気で来る子たちなんだから、それなりに力もあるんでしょ?」
 ぼくらは頷く。そしてぼくが口を開く。
「けど、その冷奈って子のことがすごく心配なんです。できれば仲間の人に連絡を取ってもらえないですか? 止めるように言ってほしいんですけど……」
 女の人がなぜかにやにやと笑う。ふいに傍に寄ってきて、だしぬけに両頬を摘ままれた。
「君、なんか可愛い、よしよしよし」
 よしと言うたび、頬をこねるように引っ張られた。いったいぼくはどうしたらいいのかわからなくなり、女の人のわき腹あたりに視線をさまよわせる。手が離れると、女の人はぼくらの傍を抜け、カウンターの方へ行った。
「あの女もシムズだろうな」
 陽がぼそりと言った。言動がそれっぽかったので、合っているだろう。
「ちなみに俺もそうだよ」
 その声は、さきほどの女の人がいたソファーの向かいに座る人だった。背を向けたまま手を挙げて振っている。それから手招きをした。こいつが藍だろうか。
 向かいに座れと指示するので、ぼくらは先ほどお姉さんが座っていた場所に腰掛ける。男は、胸から煙草ケースを取りだし、一本銜えた。じっと、ぼくらに視線が注がれる。薄暗いので姿は判然としないものの、シムズとしては歳がいっているように見えた。
「ボケっとしてんなよ。どっちか火をつけろ」
 え、と声を漏らした。「能力で火をつけろって意味ですか?」
「当たり前だろ。人が煙草銜えたらさっと動いて火を点ける。社交性を重んじる俺らシムズの常識でもあるんだぞ」
 へー、と陽が雑に返事。「ただ、俺らどっちも火を扱うことができないもんで」
 んだよ、と文句を言いつつ、男は人差し指の先端を点火する。顔がはっきりと見えた。やはり成人年齢に達しているように見受けられる。煙草に火がつくと、男は天井を仰ぎ、煙を吹く。
 あの、と陽が口を開く。「藍さんはどこにいるんですか?」
「俺がその藍さんだ」
 陽は首を振る。「それは違う。藍さんは冷気に偏るドロフォノスって聞いてるから、煙草に火をつけることはできない。それと年齢はもっと若いんでしょ?」
 男はハッと笑った。「寿命間近だが、俺だって健常者の基準に当てはめればまだ若い」
 いくつなのかとぼくが問うと、二十三歳だと教えてくれた。
「オマエら、どうしてここに来た」
 またそれか、とぼくは思った。「藍さんがどんな人か一目会いたくて」
「藍さんに会いたい、か」
「俺ら、来年で組織入りなんですけど、ちょっと悩んでたんですよ。いや、シムズは組織入りするのが義務なんだけど……そんなふうに流されて、働いて、人生を終える。それってなんか、つまんない生き方だなあって真剣に考えちゃって」
 陽はこういう嘘をつくのがうまい。男は同感するように何度も頷いていた。
「頭の良いやつだなあ。そういう疑問を持つやつが俺は好きだ。健常者に比べて、俺らの生は花火みたいに一瞬で終わっちまう。そんな俺らを見て、健常者たちは自分らの人生の長さに優越を覚えたり、感謝したりするんだ。たいして珍しくもないシムズのサーカスや劇を観て、もっと一生懸命生きようだとか思うんだとさ。ふざけた話だろ」
 いや、全くそうは思わない。それってむしろ誇らしいことなんじゃないだろうか。
「こんな歳になってよ、なんか残りの人生を組織の人間として過ごすのが嫌になって、俺は抜けたんだ。そうしたところで後はどんな余生を送ればいいんだろうって、結局は悩むんだけどな。そんなとき、藍と出逢ったんだよ」
 と、男は饒舌に語りだした。男の名前は、水嶋龍司。水、という字が冷気系を示唆しており、また「龍」は火の意味として使うことができるのだが、龍司はどれか一つの能力に偏っているわけではないらしい。血液型はOCAで、すべての力がバランスよく特出するうらやましい天才タイプだった。
 龍司が藍と知り合ったのはまだ最近のことで、組織を抜けると龍司は、手先の器用さを生かしてストリートパフォーマーとして日銭を稼いでいた。とはいっても、貯えはあったので余生を過ごすだけなら働かずとも充分事足りていた。目的を探すためによく池袋へ行き、ついでにパフォーマンスを披露していたそうだ。とはいうものの、あまり人気はなかった。でもそれを熱心に見に来る男がいた。それが、藍。会話をすると、龍司は彼に惹かれるものを感じた。仲間になってほしいと誘われ、KG氷牙の一員になったのだという。
「結局はまた組織みてえなところに属することになったんだけど、でもここは特に決まった活動をするようなとこじゃないからな。居場所がないやつのための場でもあるし、藍の人柄に惹かれたやつとか、傘下に入ったチーマーやギャングとか、自分に自信がなくて悩んでたやつとか、病んで人生に行き詰まったやつとか、多種多様な人間がKG氷牙のメンバーになってる」
 純粋な不良しか集まっていないと想像していたが、人間性の規模は更に大きいようだ。
 視界に、先ほどのお姉さんが見えた。龍司の語りを無視しつつ動向を見ていると、こちらまでやってくる。
「冷奈ちゃん、大丈夫みたいよ。むしろ問題があるのはこっち側」
 お姉さんは携帯を持っており、スピーカーホンに切り替えた。
「頼む、誰か、お願いだ、助けにきてくれ! 俺たち全員殺される! 寒い、凍えそうだ……」
「あはははは、もう音をあげるの? 面白くない。これでも随分と手を抜いてあげてるんだけど。私が本気を出したら、一瞬であなたたちの内臓を氷漬けにできるのに!」
「やめてくれよ、俺たちが悪かった、足が、凍傷になっちまう……うわああああああ!」
「ふふふふ、はははははっ!」
 ……そういえばかなり昔だけど、怒った冷奈が高笑いしながら教室中の物を凍らせていったことがあったのを思いだした。彼女が襲われる、というのは本当に杞憂だったようだ。
「あいつら、最近横暴がすぎるからなあ。いたいけな少女相手にめちゃくちゃにされれば、良い薬になるだろ」
「仲間なのに助けにいかなくていいの?」陽が笑う。「どっか壊死しても知らないよ」
「赤也君を向かわせたわ。ついでにレイナちゃんをここまで連れてくるように言っておいたから」
 こんなことになるなら最初から赤也って人が止めてくれたらよかったのに。
 姉ちゃん、と陽が馴れ馴れしく言う。「もしかしてあんたが藍さんだったりする?」
 目を見開き、ぷっと笑った。「藍くんは男よ」
「まあ女みてぇに細やかで気遣いのあるやつだけどなあ」
 雑誌に載っていた藍は能面で顔を隠していて、身体つきは細かった。でもぼくは男だろうと思っていた。妙に勘繰るのは陽の特徴だ。
「ちなみに、あたしの名前はサイオンジミカゼ」
 音の響きがかっこよくて、更に風、というワードにぼくは反応した。どういう字を書くのか訊ねると、携帯で表示してくれる。「西園寺実風」と映しだされた。
「ぼく、風無命って言います。実風さんと同じで、名前に風が入ってます」
 実風さんは目を見開き、満面の笑みを浮かべてくれた。また、両頬を軽く摘ままれる。
「もう、いちいち君はかわいいなあ」
 なんか嬉しくて、勝手に笑みが零れていった。
「おい坊主、女口説くのはいいが、実風は藍の女だからな」
 口説くつもりで言葉を発したわけではないんだけど。
 ねえ、と陽が声をあげる。「結局その藍さんは、どこにいるの?」
 龍司と実風さんは顔を合わせ、どうするかと話し合いを始めた。まだぼくらは信用されていないらしい。まあ間違ってないのだけど。
 話し合いの結果、念のために冷奈の到着を待つと言われた。いったい何が「念のため」なのか。
「そういやあオマエら、もしかしてドロフォノスか」
 嘘をつこうかと一瞬過ぎったが、その前に陽がぼくだけ、SS型のドロフォノスだと言った。ぼくはこの話題を盛り上げてしまおうと、実風さんに同じ質問をする。
「私は違うわ。血液型はACだから、最も地味なタイプね。冷気や火気はほんの少ししか扱えない」
 冷奈を待つ間、実風さんのことについて教えてもらった。
 実風さんの両親は、二人とも健常者だった。それだけでぼくはなんとなく察してしまったのだが、でも母親は決してシムズと交わってはいないのだという。両親は共働きしており、母は組織に関わりのある職場に勤めていた。そのこともあり、父は裏切られたのだと確信していた。……健常者同士からはシムズが生まれることはまずない。だが、本当に極々稀の確率で、健常者同士の子供がCIMSを発症すると言われていた。それは立証されている事実ではなくて、まだ研究されている段階だった。その稀で実風さんは誕生したのだとしても、疑心暗鬼に陥った父の心は次第に荒んでいった。これを埋めるように、もう一人子をもうけた。息子は健常者だった。実風さんが物心つくころには、どこか家庭がぎくしゃくとしており、父は明らかに実風さんだけを自分の子供として認識していなかった。母は、釈明する気も失せていた。そうして常々、実風さんに対し、組織入りしたら家を出て元気にやっていくのよ、と言っていた。自分だけは家族から除け者にされる。家庭での疎外感の連続により、実風さんの心は壊れかけていた。
 小学校を卒業し、家を出て組織入りするのだが、まともに働けなかった。何度も休養を言い渡され、ほとんど給料は貰えない。組織の社宅に入ったため住処だけはなんとか確保できていたが、生死をさまようギリギリの生活だった。そうして、実風さんは人を渡り歩いていくことを覚えた。「いろんな男の人に助けてもらった」と、遠まわしに打ち明けられた。そこにはどういうことがあったのか、ぼくは気づきかけて、考えてはいけない、と思考をかき消した。
 次々と人を渡っていくことにも限界はあった。何もできない鬱状態が日増しに濃くなっていき、やがて外にも出られなくなる。唯一外部との繋がりは、テレビやネットしかなくなった。
 そんなおり、KG氷牙の藍という人物を知った。同じシムズである彼の武勇伝を知っていくと、鬱屈していた心情が嘘のように散った。強烈な原動力が生まれ、いてもたってもいられなくなり、どうしても一目会おうと、単独でKG氷牙のアジトに乗り込んできたのだという。
 憧れを抱いてやってきたのだが、実際に会うと惚れてしまった。もうこの人しかいないと思い、熱烈に好意を伝えた。なんだかぼくのお母さんみたいで、余計に実風さんに対して親近感が湧いた。
 アジトに、人が入ってきた。出入り口を見ると、冷奈と赤也の姿があった。ぼくは立ち上がり、駆け足で彼女の元に行く。
「冷奈、大丈夫だった? 怪我はない? なんにも変なことされてない?」
 心配で言ったのだが、凍りつきそうな冷たい視線を向けられた。何も言ってくれず、奥に進む。健常者の奴らは無事か、と陽が問う。殺してないよ、みんな病院送りだけど。明るい顔で陽と喋った。この待遇の違いはなんなのか──いや、理由はわかってる。
「ごめんなさい」
 冷奈がこっちを振り向く。「まことくん、私のこと全然信じてなかったんだね。すっごいショック。陽くんのほうがわかってくれてる。陽くんに謝った? 吹き飛ばしてたでしょ」
 そういえば何も言ってない。それなのに陽は、まるで根に持ってないかのように接してくれていた。だから気づかなかった。
 喉まで、反省の声が出かかる。でも冷奈が、陽の頭に手を伸ばして撫でた。その姿を見ていると、ごめんという一言すら飲み込んだ。
「俺は気にしてないよ。だから冷奈も、まことも、もう気にするな。それにここでケンカしてる場合じゃないだろ」
 そうだ。本来の目的を忘れていた。
「シムズっつっても、やっぱりオマエらはまだ子供だな」
「もう藍さんには会わせたのか?」赤也は突き当りまで進む。
「女の子の到着を待ってたのよ。今から会わせるわ」
 ようやく、会える。やっと目的を果たせる。そいつが藍だと確認できたら、あとは隙をみて紅輝さんに電話を掛けるだけだ。
「藍さんはこの奥にいる」
 赤也が壁を指している。暗くてわからないのだが、そこにドアがあるらしかった。
「お前たちは、ただ純粋に藍さんに会ってみたいだけなんだよな」
 確認するように言われた。口を開こうとしたが、実風さんが赤也を呼ぶ。
「疑うのはその辺にしたら。あたしだって同じような気持ちで一年前、ここに来たんだから。この子たちの想い、痛いほどわかる」
 実風さんの素直な心が、ぼくの胸に痛みを生じさせた。赤也は息をつき、ドアを開く。先は廊下になっていた。暖色のライトで照らされており、ドアが三つある。右側に男、左側に女と分けられた、おそらくトイレと、突き当りにはスタッフルームというプレートが見える。実風さんが奥へ進み、それについていく。ぼくらの背後には赤也がいて、龍司は来なかった。実風さんがスタッフルームのドアをノックする。
「藍くん、子供たちを入れるよ」
 向こう側から肯定の声が聞こえた。実風さんがドアを開く。すると、唐突に泣き声が聞こえた。まるで赤ん坊のような。
 いや、まるで、ではない。ドアの向こうは生活感のある空間だった。奥に大きなデスクがあるけれど。フローリングの左隅に敷かれたカーペットの上には能面を被った人がいて、そいつが本当に赤ん坊を抱いていた。



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