魔法シンドローム第六話.紅と藍(page.A) |
紅輝さんは元々の鋭い目を更に細くする。「俺が誰か、言ってみろ」 「紅輝さ──」 ぼくが口を開きかけると、ふいに陽が肩を掴んできた。 「誰って、藍さんじゃないんですか? 俺たち、本当に、同じシムズとして藍さんのこと尊敬してるんです。それでここまで会いに来たんですけど」 陽が喋っている間、紅輝さんはずっと首を振っていた。ぼくはこの状況が全くわからなくて、陽と紅輝さんの顔を、何度も交互に見遣っていた。 「もういいよ、君たちの正体は判明した」先ほどとは打って変わって語気が落ち着いた。「紅輝のやつ、今度はこんな子供たちを送り込むなんて……」 「そんな……」実風さんが涙声で言う。「君たちのこと信じてたのに」 「あーあ、やっぱりそうだったのかよ」呆れたように赤也が言う。 ぼくは陽に、どういうことなのかと訊いた。 「あの人の髪とか雰囲気とか、よく見ろよ。どう見ても紅輝さんじゃない。ネクタイもしてねえし」 男の姿を再確認する。たしかに、あの人は薄っすら青みがかった髪色だった。整髪もしていない。雰囲気も紅輝さんとは違って、うんと落ち着いているように思えた。 遠くの方で、騒がしい音が聞こえた。悲鳴と、轟音。 「どうやら紅輝が強行突破してきたようだね」 騒ぎを起こしている人は紅輝さんなのか。それで、目の前にいるこの男は、KG氷牙の藍ってこと? 「実風、裏から逃げて。紅輝は真面目に正面からやってくるみたいだから」 「藍くんは?」 「僕はこの子たちに用がある」 「そんな子たちに構ってたら藍くんが逃げられなくなる」 「大丈夫。ドラゴンが向こうにいるんだから、しばらくは足止めしてくれるはず」 ドラゴン、というのは龍司のあだ名なのだろう。 実風さんが動きだす。同時に、藍と呼ばれる男がぼくらに手を向けた。反射的に身構える。だが何も力を放出してこない。子供を抱いた実風さんが奥の方へと消えていった。すると、男は手を下ろした。 「どうやら他に指示はもらってないんだね」 ぼくはやはりよくわからなくて、二人もそうなのかと陽と冷奈の顔を覗いた。全く困惑が見受けられない。これはどういうことかと、二人に問う。陽に小さく笑われた。 「簡単な話じゃん。覚えてないのか? 紅輝さんは藍の正体に見当がついてて、その名前を教えてもらっただろ」 「 藍が微かに笑い、懐かしい名前だ、と呟いた。 「この人は、紛れもなく青輝さんなんだよ。それで顔が紅輝さんと瓜二つ。だったら、まず双子とみて間違いないだろ」 ああ、なるほど! 思わずぼくは手を叩いた。 「その通りだよ。君たちは紅輝から名前しか教えてもらってなかったんだね。まあ僕の居場所がわかれば突入するだけだから、今回は余計なことを喋らなかったのかな」 そういえば、なぜこんな抜群のタイミングで紅輝さんは来たんだろう。 「どっちか紅輝さんに電話を掛けた?」 冷奈と陽が同時に返事をして、同じように携帯を出す。器用にポケットの中で操作したようだ。ぼくだけ仲間外れというか、出来損ないというか。劣等感を覚えた。 携帯を取り上げておくべきだった、と赤也が呟く。 「アジトにこの子たちを入れてしまった時点で場所は割れてるんだし、どの道こうなったよ」 赤也はぼくらを連れてきたことを謝った。 「別にセキやんは何も悪くない。僕は、たとえこの子たちが組織の命令によって来た子でも、大歓迎するつもりだったから」 藍がこちらに歩み寄る。ぼくらは再び身構えた。だが、彼はひどく優しそうな笑みを浮かべ、そっとぼくに手を差しだしてくる。 「改めて自己紹介をしよう。僕の名前は、加賀藍だ。青輝という名はもう捨てたからね。よかったら君の名前を教えてほしい」 ぼくらは丁寧に挨拶されることに弱い。手を握り、名乗った。藍はいっそう柔らかな眼差しでこちらを見つめたあと、隣の陽の方へ行く。ぼくに本名を名乗ったのに、また改めて名を告げ、陽にも自己紹介を求めた。冷奈にも同じようにする。彼にとって緊迫状態にあるはずなのに、まるで気にかけていない様子だった。 「あまり余裕がないから、君たちときちんと向き合えないことが残念で仕方ないよ。三人は、紅輝から僕のことをどういうふうに聞かされてるのか、ざっと教えてくれないか?」 「人を殺したシムズだと聞いています」 冷奈が口火を切っていた。 「そう。間違いないよ。それについて言い訳もしない」 「藍さんは、仲間を傷つけられたことに憤ってヤクザの事務所に殴りこんだんだよ」 セキやん、と藍が声をあげた。「変な言い訳はしたくないんだ。何も言わないでほしい」 舌打ちが聞こえた。赤也は渋々、了承した。 「その話は聞いています。でも、私たちは絶対に人を死に至らしめてはいけない。そこにどんな理由があっても。私だって、さっきあなたの仲間に最低なことをされそうになったけど、それでもちゃんと手加減して致命傷を負わせなかった」 「それに関しては何も言えない。彼ら、昔は一般の人にもそんなふうに危害を加えていたんだ。今はもうそんなことしなくなったけど、それを我慢する代わりにシムズが相手なら、って考え──」 違う、と冷奈が遮る。「私が言いたいのはそんなことじゃないの。何をされても、私たちシムズは殺人を犯してはいけない。それなのにあなたは、感情に任せて殺した。どうして健常者の法に任せなかったの? 裁くのは私たちじゃない」 藍は目を伏せる。口元が動くのだが、声は出なかった。代わりに、溜め息を吐く。拳を震わせる。 「なんでこんなことになったんだ……僕は、どうして……」 「おい冷奈、ちょっと責めすぎだろ」 「だって……。この人が死んだら、子供はどうするの。父親がいなくなるんだよ。奥さんも一人で生きていかなきゃいけなくなる。陽くんも親がいない辛さはわかるでしょ?」 藍は泣いているのか、洟をすする音が聞こえた。何回も溜め息を吐いている。 「奥さんって言ってもこんな身だから結婚もしてないよ」目元を拭った。「僕は意志が弱かった。耐えられなかったんだ。KG氷牙のメンバーはさ、みんな、こんな僕のことを慕って祭り上げてくれる。僕は別に大したことしてないし、ギャングのヘッドっていう柄じゃないのに、誰も僕から離れず、いつも集まってくれる。頼めばなんでも力になってくれる。そういうのがすごく嬉しかったんだ。僕、小学生時代って友達を作れなかったんだよ。反対に紅輝は要領がよくてさ、いつも健常者の友達に囲まれてたんだけどね」 ぼくも、もし冷奈や陽がいなかったら、教室では独りぼっちのシムズだった気がした。二人がいるからぼくの存在も認めてもらえて、友達もちゃんといる。 藍が顔をあげると、目が赤くなっていた。 「人を殺してしまったそのときは、自分の運命を受け入れてたんだ。僕も、冷奈ちゃんが抱くような信念がなかったわけではないからね。でも、そのあとなんだよ……実風の妊娠が発覚したのは。それでようやく、激しい後悔を感じた。同時に、死ねないって強く思ったんだ」 後方からなぜか洟をすする音が聞こえる。振り向いて見ると、赤也が泣いていた。 「死にたくないって、みんなに頼んだ。そしたらKG氷牙のみんなは、僕の言葉を喜んでくれた。一丸となって、ずっと庇ってくれた」 いくつもアジトを用意し、KG氷牙を表立って名乗るのを止め、藍を匿い続けた。頭を生涯守りきる、と誰もが口にしたらしい。 「当初は組織の人間が僕を探し回っていたんだけど、みんなの努力もあって長いこと逃れ続けた」急に、藍は楽しそうに笑う。「でも紅輝だけは諦めてくれないんだよ。どうしても僕を葬りたいらしい」 おいお前ら──大声が、この部屋まで届いた。 「アオはそこにいるのか!」 ぼくらは顔を見合わせた。正直、ぼくは知らせることをためらった。けれど正義感の強い冷奈は、ドアの方を向いて大きく息を吸う。やめろ、と赤也が叫んだ。冷奈は身をすくませた。 「頼む」赤也は涙を拭い、声を震わせる。「せめて、今は黙っていてくれ」 冷奈は口を閉ざし、顔を逸らした。 「今から、君たちにある提案をする。この言葉だけ聞いてくれたら、あとは好きにしていい」 なに、とぼくは柔らかい声音で聞く。藍も同じように微笑みを浮かべてくれた。 「君たち三人、KG氷牙のメンバーになってほしい」 えっ、とぼくらは声をあげた。藍は言葉を続ける。 「シムズに対する国や組織のあり方は、間違っていると思わないか。いくら僕らが健常者より強いといっても、だからって法で守らないのはおかしい。そのクセ、ひとたびこちらが誰かを殺めてしまえば、絶対的に死刑。冷奈ちゃん、もし君の家に凶器を持った強盗犯が侵入したとしてきたとして、寝ている間に家族が惨殺されたら? 騒がしい音に気づいて起きた君は、その現場と犯人の姿をとらえると、力を発現するだろう。それで、本当に最後まで自分を抑えられるという自信は、あるのか?」 冷奈は少し迷う素振りをみせるが、「ある」と答えた。それに対して藍は小さく笑む。 「よっぽど君は意志が強いんだね。二人はどうかな」 その状況になってみなければ、わかりっこない。冷奈もそんな場面に出くわしたら、どうなるかなんてわからない。 「俺は殺しちゃうよ」陽が、静かな声で答えた。「俺、施設育ちだし、そこまで強い感情を抱くような家族とかいないけどさ。すっげぇむかついて、それが限界超えたら、まず抑えるのは無理だろうね。でも冷奈がそういうことになっても、発現するのは冷気だし、ドロフォノスでもないから、相手を殺すのに時間がかかる。その間に自制心を取り戻せるだろうな」 「聡明な意見を聞かせてくれてありがとう。僕の罪を肯定するみたいになるけれど、実際に理不尽なシムズの処刑はよくあることなんだ。電車で痴漢を目撃したシムズの少女が、声をあげられなくて犯人の腕に火をつけ、それが周りの人の衣服に燃え移って何人も死者が出た事件があった。この少女はシムズの殺人犯として処刑された。ひと気のない路上で背後から未成年の集団に襲われたシムズの夫婦がいた。両名とも気絶し、妻は連れ去られて凄惨な暴行を加えられた。妻は子を宿していたが内臓に重症を負わされ、その激しい痛みの中で意識を取り戻し、恐怖と怒りで少年たちを数名殺した。皆殺しにしなかったのは、彼女が一応でも自制してみせた証拠なんだろうね。けれど一人でも殺してしまえば、シムズの殺人者として死刑だ。ちなみに生き残った少年たちはなんの罪にも問われない。後に、夫が彼らを見つけだして殺し、自身も処刑されている」 今まで聞いたことのない、残酷な話がぼくの耳を劈く。藍はまだ話を続ける。冷奈も耐えられないのか、もうやめて、と声をあげた。 「そんな事件が世の中に腐るほどあるんだ。凶悪な健常者の殺人犯は法律により それは、と冷奈が遮る具合に口を開く。「私たちには、生まれつき力があるから、仕方がないの。どんな理由があろうと、やっぱり一人の殺人を赦してしまったら、私たちの殺傷能力を赦すことになる。シムズと健常者が共存していくには、仕方のない処刑だと思います」 藍は何度も頷いた。「君の意見は間違ってない。そういう立派な精神をきちんと胸に抱くのは素晴らしいことだと思うよ。でもね、このシムズに対する扱いは、ただ僕らを納得させるだけの、表面上の理由にすぎないんだ」 意味がわからなくて、ぼくらは首をかしげる。 「とにかく、僕は、今の組織に取って代わるような、新しい組織を創りたい。不当な死刑を受けず、本当の意味で健常者と共存できるような、そんな組織を──」 「藍、逃げろ、組織の奴がそっちに行く!」 龍司の叫び声だった。ぼくらは一斉にドアの方を向く。赤也がその傍で身構えた。 「やっぱり紅輝は強いね。ドラゴンはドロフォノスじゃないけど、シムズの中でもかなり強い。なのに突破してくるんだ」 紅輝さんが咆哮をあげていた。声が、迫ってくる。ドアの隙間から火が吹いた。それから、何度もドアを叩かれる。バリバリと音とたてて破れて、開いた。紅輝さんの顔が見えた瞬間、赤也が炎を放つ。瞬く間に天井まで火の手が上がった。熱風がこちらに飛んでくる。熱くて、ぼくは風で防いだ。赤也と紅輝さんがお互いの炎で押し合いをしている。その勝敗は容易に想像できた。ぼくらが力を貸さずとも、直に室内へと炎が吹き込み、赤也を包んだ。ふいに炎が途切れる。火中にいた赤也はなんとか風で自分を保護していたようで、無事だった。だが、すでに紅輝さんが傍まで迫っていて、勢いよく拳を振っていた。赤也の顔面を完璧にとらえる。殴り飛ばされ、床に倒れた。 紅輝さんは熱がりながら、背広を扇ぐ。サングラスをしておらず、ジャケットはどこかで脱ぎ捨てたようだ。 「久しぶりだな、赤也」 唐突に明るい笑顔で、伏せている赤也に挨拶した。お久しぶりです、と赤也も丁寧な挨拶を返す。 「紅輝さん、その人と知り合いなの?」 陽の問いに、紅輝さんは変わらぬ笑顔で肯定の返事をした。 「オマエらの前に、こいつを藍のところへ送り込んだんだよ」赤也を軽く蹴る。「だけど懐柔されて組織に戻ってこなくなっちまった」 なるほど。さっきのぼくらみたいにKG氷牙のメンバーになってほしいと誘われて、赤也はそのまま加入したってことなんだ。 「つーかてめえらさあ、いるならさっき返事しろよ。ちょっとだけ心配しちゃっただろ」 紅輝さんがこちらにやってきて、ぼくらの前に立つ。静かに、藍を見据えた。こうしてみると二人の顔は瓜二つで、まるで鏡に映しているようだった。 「よお愚弟。やっとお前の顔を拝めて嬉しいよ。赤也よりもお前のほうが本当に久しぶりだな」 「うん。何年ぶりだろうね」 「お前が組織抜けてからずっと会ってないんだから、まあ四年ぶりだろ」 てことは、何歳だろ。これは簡単な足し算だ。さすがに頭のなかでもやれる。まず、ぼくらは十二歳で組織入り、これに四年を足すだけ。……待て、そもそもこの二人は双子だ。 「紅輝、お母さんの墓参りにも来ないよね。実家にもずっと帰ってなかったでしょ。父さんが倒れて、今も入院してることは知ってる?」 「話だけは聞いてるよ。別にクソ親父のことはどうでもいいだろ。俺は仕事で忙しいんだ」 「……すっかり組織の人って感じだね」 「おぉ。だから、お前を捕らえに来た。余計な手間はかけたくない。おとなしく処刑されてくれねえか?」 「今まで逃げてきたのにそんな易々と身を捧げるわけないじゃん」 紅輝さんは溜め息をつき、髪のセットを気遣いながら後頭部を掻く。いきなり片腕を持ち上げ、何もためらうことなく炎を発現した。一瞬にして藍の姿が見えなくなる。 「お前ら、後ろの馬鹿を食い止めてろ!」 ぼくら三人、赤也の方に身体を向ける。ちょうどこちらに向けて炎を発現してきた。瞬時に ひゅん、と、紅輝さんの傍を何かが通過した。赤い液体が飛散する。飛んできたものは、壁に激突して砕けた。 何が起こったのか。紅輝さんが叫んだ。炎を止め、痛みを訴え、首元を押さえている。流血しているのがわかった。ナイフでも投げられたのか──しかし、藍の手には、逆さ向きで握られたお茶のペットボトルがあるだけ。 ぼくはさっと赤也の方を向き、一気に風圧を加えてみせた。赤也がよろけて、壁にぶつかる。力が一瞬途切れ、あとは冷奈と陽が冷気で一気に押さえ込んでしまう。二人に任せて、ぼくは紅輝さんに駆け寄った。 ──ふいに、冷気の風がぼくを襲う。風圧も強く、瞬時に対応できなくてもろに食らった。ほんの一瞬浴びただけで顔面と呼吸器が凍りついてしまいそうだった。 「首を深く切られた。あいつ、器用なことしやがる。ボトルの茶を氷柱にして投げてきやがった」 しかもそれを、紅輝さんの火炎を防ぎながらやってのけたんだ。それと、この強力な冷風。ぼくでさえ気圧されてしまう。これがFS型のレベルかと思うと、強い風しか起こせない自分が情けなくなった。 ふっと、目の前が霞む。力が抜けた。藍の冷風が一気に進行してくる。ぼくは踏みとどまり、力を振り絞って食い止めた。もう、限界が来てる。ほんの数秒でいいから休みたい。だが一秒でも力を抜いてしまえば、猛烈な冷気がぼくらを襲う。一瞬で氷づけになってしまう。 くそっ、と紅輝さんの声。腕を持ち上げていた。 「やめて、力を傷口に集中させないと、血が止まらないよ。回復に専念して」 「どのみちこのままだとてめぇが死ぬだろ」 それは、そうだけど……。なんで藍は全く疲労しないんだ。ずっと強い力を発現させているのに、途切れることがない。もはや呑まれてしまう。 SS型のドロフォノスとしてのプライドというものが、ぼくにはあった。藍が殺人者だからやっつけたい、とかじゃなくて、純粋に風で負けたくない。だが思いの強さと残りのパワーは反比例していく。もう絶対に防ぎきれないと悟った。 急に、冷風の進行がとどまった。 紅輝さんが風を発現してしまったのか──そうではなく、陽と冷奈が背後にいた。その向こうで赤也が倒れている。殺してしまったのかと不安になった。いいや、そんなことを二人がするはずないので、赤也が力を使い果たして気絶したのだろう。 二人が加勢してくれているので、気を失わぬよう力を抑えた。 「ありがとう、陽」 「ああ。まこと、器用なことができるんだな」 うん、と頷いてから自分の足で立つ。 「ねえ、階段が凍ってるよ」 上の窓から薄明かりが射しており、階段は異様に輝いていた。踊り場の隅に二リットルサイズのペットボトルが二つあり、一つは倒れている。察するに、ここにいくつかボトルを用意していたのだろう。藍にとって水が武器になるから。 慎重に階段を上った。水がまともにかかっていない場所を選んでいけば、どうということはない。上った先に、底が破れた空のボトルが転がっていた。急いでいたので深く気に留められなかったが、ボトルの底はいびつに溶けたふうになっていた。 扉の前に着き、ノブを掴む。手にまとわりつくような冷感があった。まずいと思い一気に手を引っ込めると、小さな痛みが走った。 「ドアノブ、すっごい冷たいよ」 陽が、ぼくに身体を押し付けながら前に出る。通路が狭いので壁際にひっついた。陽は、平然とノブを握る。動かそうとするのだが、回らなかった。 「あー、こりゃ向こうから凍らされてるな。階段みたいに水かけて能力使ったんだろ」 だとすると熱で溶かすしかないのだが、ぼくらのなかで火気を扱えるのは冷奈だけ。やってみるけど難しいかも、と前置きをして、冷奈がぼくらの前に出る。ノブを掴み、力を発現。そうしながら回そうとするが、やはり駄目。時間がかかりそうだった。 もう藍を捕まえることは無理だろう。逃げおおせているだろうし。そもそもあの人が悪いことをやった、というふうにはどうしても解釈できない。赦されるべき不慮の殺人が正当に受け入れられる社会に変えたい、という思想を藍は抱いているわけなのだが、ぼくもそれに大賛成できる。きっと赤也も同じ気持ちだったのだろう。冷奈の意見だって正論だとは思うけれど、それでも、藍の正論の方が人情もあるし、もっと優位に扱われるべきた。 「もういい、時間がかかるから俺──」 陽が口にしたが、下の方から足音が聞こえて声を止めた。紅輝さんの姿がぼくらの視界に入る。 「お前らそこで何やってんだよ!」 「紅輝さん階段危ない」と、注意したのだが、杞憂だった。水が蒸発する音が聞こえる。紅輝さんは足元を確認した。 「なんだ、凍ってたのか」 気づいていなかったらしい。感情が昂ぶっているからか、微弱な力が肢体から漏出しているようだ。紅輝さんは首にたくさんの紙を押し付けている。察するにトイレットペーパーだ。 「そこで立ち往生してるってことは、ドアも凍りついてんだろ」 ぼくらは頷き、紅輝さんに道を譲るようにしてドアから離れた。傷は大丈夫かと冷奈が訊く。紅輝さんは強張った表情を、無理やり笑顔に変えた。冷奈が身を引く。 「念のため押さえてるだけだ」 そう口にしてから、紅輝さんはドアに向けて炎を発現する。鉄製のドアが、まるで炎上しているようだった。反射した熱がこちらに伝わってくる。数秒で止めると、冷奈に開けるよう指示した。彼女がノブを冷ましつつ、回す。ノブが動いた。ドアが、開く。 その先は、階段側より更に暗く、埃っぽかった。やたらダンボールが積み重ねられている。どうやら倉庫らしい。冷奈と紅輝さんが火を灯して進む。ミネラルウォーターの箱を見つけた。一本が二リットル。それが合計十二本入っていたようだが、四本なくなっている。 もしかしたら物陰に藍が隠れているかも、と警戒していたのだが、出入り口のドアに立つまで奇襲はなかった。そこはまた鉄製のドアなのだが、紅輝さんがノブを回すと、すんなり開いた。一応、ぼくは背後に注意を向ける。みんなが外に出ていった。続いてぼくも出る。陽射しが網膜を刺した。痛みを感じ、目をしばたたかせる。眩しい、と冷奈が呟いた。細目を辺りに向け、狭い路地にいることを知った。人の通り道なのか、雪面にはたくさんの足跡がある。右側の向こうに車が行き交う道路が見えた。その手前に、ボトルが一本転がっている。反対側の路地を見渡すと、そちらにも二本のボトルが転がっており、足止めのために凍らされているのは想像がついた。しかし、なぜか雪の所々が黒くなっている。 「もう藍さんはこの辺にいないだろうな」陽も周囲を見渡す。「さすがに逃げてるよ」 いいや、と紅輝さんは否定する。「お前ら、帰りたかったらもういいぞ。疲れたろ? 報酬は後日だ」 紅輝さんは道路側とは逆の路地を進む。ぼくらはそれについていく。陽が、探すのを手伝おうかと言った。近くにいる、と紅輝さんは答える。なぜそんなにも確証を持てるのか疑問だった。しかしそれは、紅輝さんの後をついていけばわかった。 路地の開けた場所に、スーツを着た組織の人が一人。藍が対峙している。紅輝さんが応援を呼んだのだろう。 「三人呼んだはずなのに、なんで一人しか……」 紅輝さんが呟く。近くにいるのかと、ぼくは物陰に目をやる。緑色の大きなダストボックスの陰に下半身が見えた。紅輝、と叫ぶ声。戦っている人がこちらに気づいた。ぼくは、倒れている人の方へ駆け寄る。その姿をまともにとらえると、息を呑んだ。 頭部が、原型を留めていない。真っ黒な塊がそこにあった。 |
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