3 隣の部屋から、お母さんの喘ぎ声。 ぼくはぷよに没頭。 「……あ」 コントローラーを放り、周囲を確かめた。団地の部屋だ。 見慣れたボロのふすま。その向こうで、お母さんが喘いでいる。 急いで台所へ向かい、包丁を握って、戻る。 ふすまを開けた。 「きゃあ!」 タケシがぼくを振り返る。 「なんだ? アル坊もまざりにきたか?」 腰を振りつづけるタケシ。 「ちょっと、いや、有飛が見てるのに――」 ぼくは包丁を構えた。 「え、ちょちょちょちょ待てお前!」 勢いよくタケシの背中に突き刺した。 「アァァァァ!」 反撃の隙を与えぬよう、何度も包丁を突き刺した。絶叫するタケシ。噴き出る血。悲鳴をあげるお母さん。タケシが動かなくなるまで、メッタ刺しにした。そのうちタケシはお母さんにぐったりと覆いかぶさった。 「有飛、やめて、もうやめてええええええ!」 お母さんは血を浴びて、真っ赤になっている。 「どうして、こんなこと、したの……」 ぼくはタケシを全力で引っ張り、お母さんから離す。 血まみれのお母さんに覆いかぶさった。胸の血を拭って、乳房にかぶりつく。ぎゅっとしがみついて、赤ちゃんみたいにおっぱいを吸った。 お母さんは、泣きながら、ぼくを抱きしめた。 ぼくの髪を、くしゃくしゃに触ってくれた。 「アルくん、さみしかったんだよね……ごめんね」 怒られることを覚悟していたのに。お母さんの言葉で、ぼくの涙も溢れた。おっぱいを吸いながら、たくさん泣いた。 ぼくは児童自立支援施設に入った。住んでいたところからだいぶ離れていたので、万実が面会にくることはなかった。お母さんはたまに会いにきてくれた。 ときどき行われる精神科医との面談で、先生が「お母さんの交際相手を殺したことについて、なにか思うことはある?」と聞く。あんなやつ死んで当然だし、殺さなかったらぼくが殺される。実際に殺されたんだ。 嘘偽りなく、ぼくの辿った時間の流れや殺された経緯を説明しても、先生はわかってくれなかった。ひどく精神を病んでいる、と判断された。 一年経って、ぼくは先生にとって辻褄が合う言い方を心掛けるようになった。先生は「だいぶ落ち着いてきたようだね」と言ってくれた。 さらに一年経って、ようやく施設を出られた。 お母さんは引っ越していた。ぼくが人殺しをしたので、さすがにいられなかったのだろう。 偶然にもお母さんは、豪邸の場所から近い団地に移り住んでいた。 仕事を見つけ、ついでに男も見つけて、交際していた。相手を家に連れてくることはなかった。たぶん、ぼくに合わせるつもりはない。 ぼくは中学を卒業すると、高校に進学せず、倉庫の仕事に就いた。 それからは、毎日同じ日々。 やがてお母さんは結婚したけれど、ぼくは相手の顔を見なかった。母の結婚が決まったと同時に、家を出て一人暮らしをはじめたから。 ときどき、無性に孤独を感じて、辛くなった。 仕事を一生懸命やって、孤独を紛らわせた。 飲み会にも積極的に参加した。 でも、誰かと仲良くなることはないし、恋人ができることもなかった。 二十歳になっても、相変わらずなにもない日々を過ごしていた。 変わったことと言えば、自分のことを「ぼく」と言うのが恥ずかしくなったことと、フォークリフトの免許を取ったくらい。 七夕の日、どうしようもなく、仕事に行きたくなかった。なぜかはわからないが、突然嫌になった。でも毎日真面目に通っていたし、上司や社長からもずっと褒められていた手前、休んではいけないと思った。 なのに、俺は電車に乗って、職場とは正反対へ向かっていた。 たどり着いた場所は、俺が住んでた団地。 老朽化が進んでいた。車や自転車がまばらだった。殺人事件があったことも手伝って、人が入らなくなっていったのかもしれない。 団地の掲示板に、七夕祭りのポスターがあった。真新しい。 昔、万実に誘われて、行かなかったことを思いだした。 「万実、元気かな」 さすがにもう住んでいないだろう。 「あの……」 呼び声。顔を向けると、女性がいた。大きなお腹だった。太っているわけではない。 「もしかして、有飛?」 なぜ俺の名前を……。 いや、こんな場所で俺の名を呼べる女性なんて、一人しかいないじゃないか。 「万実なの?」 万実は両手で口を押さえた。「信じられない、本当に有飛なんだ」 「万実、まだここに住んでるの?」 「ううん。ほら、今日七夕祭りでしょ。旦那の会社、祭りのスポンサーで、私もいろいろ手伝うの。毎年ね」 わかっていたことだけど、強烈なショックだった。万実には愛する人がいて、その子供を身に宿している。 『あたし、有飛が好き』 小学生の頃の想いなんて、とっくの昔に朽ちていただろう。 話を聞くと、驚くべきことに、万実の結婚相手は純だった。 純は小学校卒業後、私立の中学へ行った。高校一年になって、七夕祭りで二人は再会し、仲良くなって、付き合いはじめたのだという。 俺たちは、住んでいた部屋の前の階段で話し合った。昔のこと、それからのこと、いまのこと。 「有飛、全然変わってない。背はすごく高くなったけど。中身は小学生の頃のまんま」 「お前だって大して変わってないよ。まあ女らしい顔になったけどな」 「ほんと? 美人になった?」 「うーん、中の中くらい」 万実が俺の背中を叩く。「女の子が喜ぶ言い回ししなさいよ。まったく、ほんと変わってないんだから」 俺は小さく笑んだ。万実に叩かれるのが、懐かしかった。 「そういえば万実、俺のこと好きだったろ」 「え……気づいてたの?」 「毎日一緒にいたんだ、気づかないわけないだろ。熱烈な想いを向けられて、困ってたくらいだし」 「えー、そんなひどいこと言わないでよ」 「ああ。俺はひどいやつなんだ。金持ちで優しい純とくっついてよかったよ」 万実はハッとした。それから、微かに笑みを浮かべた。 「仕事サボって来たかいあった。懐かしい顔を見れたから」 「私も、懐かしくなって来てみてよかったよ」 「うん。じゃあ、俺行くよ」 「あ、連絡先、教えて」 一瞬迷った。もう万実と会いたくなかったから。 俺は、万実が好きだったんだ。今日会って、改めて、それに気づいた。 「元気な赤ん坊が生まれたら、画像送ってくれよ」 万実がパッと明るい表情をみせる。 「うん!」 その顔が可愛くて、辛かった。 一か月もしないうちに、万実は女の子を出産した。 純と一緒に赤ん坊を抱いていて、幸せそうだった。 働いて、働いて、働いて。 金が貯まる。 使い道がわからなくて、パチンコ、スロット、競馬などに使ってみたものの、面白みを感じられず、損だけして飽きた。 風俗にもつぎ込んだ。いろんな店を回るうちに、性病をもらったのでやめた。 万実の子どもが、小学生になって、中学生になって、高校生になって。 俺はずっと独りだった。 ある日、突然お母さんの結婚相手から電話がきた。 「お母さん、亡くなったよ」 ほとんど会っていなかったのに、ものすごい喪失感に襲われた。葬式が終わると、それ以来働けなくなった。メンタルクリニックでうつ病だと診断された。 毎日、ベッドでぼうっとすごした。 数日ごとに鏡を見て、そのたびに痩せこけていった。おじいさんみたいだった。 誰がこんなのを好きになるのだろう。誰が一緒にいたいと思ってくれるだろう。 そろそろ自殺しようか、と思った矢先、会社の人がきた。 人手が足りないから、戻ってきてほしい、と。 カレンダーを確認すると、母さんが死んでから半年経っていた。もっと経っていると思った。 俺は仕事に戻った。 その日のうちに倒れた。 医者が難しい病名を俺に説明していたけれど、頭が回らないせいか、よく理解できなかった。 はっきりわかったことは、もう長くないってこと。 嬉しかった。 やっと終わる。 寝て、覚めて、寝て、覚めて。 真っ暗なときに少し意識を取り戻して、ふっと気づいた。 次はない。これで最後。 「ありがとう」 感謝していた。なにに感謝したのかはわからなかった。 俺は、目を閉じた。 |
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