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 隣の部屋から、お母さんの喘ぎ声。俺はぷよに没頭している。
「は?」
 コントローラーを放り、周囲を確かめた。
 ……団地の部屋じゃん。
「うそだ、うそだうそだうそだ!」
 信じられなくて、俺はボロのふすまの前に立ち、勢いよく開けた。
 タケシとお母さんがセックスしている。
「うおおおおおおやったああああああ!」
 悲鳴をあげるお母さん。戸惑うタケシ。
「ママのいやらしい姿が見れてそんなに嬉しいのか」
 腰を振るタケシ。お母さんのおっぱいを両手で握りしめる。
「ちょっと、いや、有飛が見てるのに――」
 俺は背を向け、テーブルにあるお母さんの携帯を手にした。
 警察に電話をかける。
「お母さんと恋人の男がボクの目の前でセックスしてます。しかも男はボクを殴ったり蹴ったりしてきます。助けてください」
「ちょ、てめえ、どこ電話してんだ!」
 タケシは怒りながらも、お母さんから性器を抜かなかった。
「警察だけど?」
「お前なにしてんだ!」ようやく抜いた。
「助けて、また殴られるよぉ!」
 タケシに携帯を取り上げられ、殴られた。

 すぐにパトカーがやってきて、タケシとお母さんは連れていかれた。
 夜にはお母さんが戻ってきた。まるで仕事から帰ってきたみたいに「ただいまー」と言って、あとはなにも言わなかった。
 寝るときに、俺は隣の布団にいるお母さんに聞いた。
「タケシ、どうなるの」
「うーん、たぶん逮捕されちゃうんじゃない?」
「お母さん、俺を怒らないの?」
「悪いのは、お母さんたち。警察にさんざん叱られちゃった。……今回のことでね、目が覚めたの。タケシと付き合ってたら、アルくんの頭おかしくなっちゃう。あいつすっごくかっこいいから、もったいないけど、お別れするね」
「……ありがとう」
 無言のお母さん。
「ねえ、本当に怒ってない?」
「怒ってないってばー!」
「じゃあさ、お母さんの布団に行っていい?」
「いいけど?」
 俺はお母さんの布団に潜りこんで、抱きついた。
「どうしたのよぉ」
 頭を撫でてくれる。
 こみあげてきた。ボロボロと。涙が布団を濡らす。
「そっか。さみしかったんだね。ごめんね、アルくん」
 俺は首を振った。「お母さん、いてくれてありがとう」
 お母さんはふふっと笑った。「こちらこそ。あ、タケシがすぐ戻ってくるかもだから、報復されないよう、近いうちに引っ越そ」
「それなら俺、良い場所知ってる。遠くに海が見える団地。お母さん、絶対に気に入るよ」
「へー、楽しみだなぁ」
「お金が貯まったら、そこで家を買おうよ」
「家かぁ。買えたらいいなぁ。お母さん、がんばってお金持ちのオヤジつかまえちゃおうかな」
「お金は大丈夫。パソコンを買って、ネットができる環境を整えてほしい。あとお母さんの金、俺に預けて」
「どういうこと?」
「信じられないかもだけど、俺、これからどういう企業が成長するかわかるんだ。そこに投資すれば、あっという間に大金持ちだよ」
「うっそぉ、すごぉい!」
 お母さんはぎゅっと俺を抱きしめる。
「アルくん、頭いいんだぁ。天才だ。お母さんうれしい。お金、全部預けるから、いっぱいいっぱい増やして」
「うん、任せて」
 ……こんなんでよく詐欺に遭わなかったな。

「おじいちゃん、おばあちゃん、行ってくるね!」
 万実が出てきた。万実のおじいちゃんとおばあちゃんは、ニコニコして手を振っている。俺は頭を下げた。
「おはよう、万実」
 万実がこちらを向く。顔を見ると、強い想いがこみあげて、自然と微笑んだ。万実はそんな俺を見て、硬直した。
「なに? なんか変ないたずらでもする気?」
「さあ、どうだろう」万実のランドセルを持つ。
「いつもランドセル持ってくれてありがと」
「俺がここに住んでる間は、毎日持つから」
「どういうこと……?」
 歩きながら、事情を話した。万実は思いつめた顔をして、ごめんと謝った。
「どうしてお前が謝るんだよ」
「隣に住んでるくせに、あたし、なにもできなかった……」
 こういう優しさが、好きになっていた理由の一つなのだろう。
「万実がいてくれただけで、支えになってたよ」
 驚いた顔で、ぴたりと立ち止まる万実。俺も足を止めた。
「あのさ、明後日の七夕祭り、一緒に行ってくれるか?」
 万実はさらに目を見開く。
「有飛から誘われるなんて、びっくり」
「毎年、誘ってくれてたもんな。でも一度しか行かなかった。今年も俺を誘うつもりだったろ?」
 万実はうなずく。
「じゃあ一緒に行こう」
「……有飛、なんだか変わった。急に大人っぽくなった」
「いやお前、全然変わってないって言ってたじゃん」
「え、なんの話?」
「いや、こっちの話。まだ身長はお前の方が高いな」
「男の子は中学生で一気に背が高くなるって、漫画に描いてあった。有飛、きっとすごく大きくなっちゃうよ」
「実際にお前よりうんとでかくなるぞ」
 ふふと笑う万実。「なぁにその言い方」
 俺は笑みを返して、歩きだした。

 校門前にリムジン。純が降りた。いってらっしゃい、と車の中の男の声。いってきます、と純。リムジンが離れると、俺は歩度を上げて近づいた。
「おはよう、純」
「おはよう。えっと、永井有飛くんだ」
「ああ。こっちの名前も、覚えてるんだろ?」万実を指す。「純は同学年の生徒全員の名前を記憶してる」
「え……うん。人の名前をちゃんと覚えるのは大切だって、パパが言うから」
「そうか。純はすごいな」
 にこっと笑う純。俺の持つ赤いランドセルを見て、万実を見た。
「宮部さん、いいね。彼氏にランドセル持ってもらって」
「違うわよ!」
「でもいずれそういう関係になるな」
「はい?」
 ワァオ、とでも言うような口の動きをする純。
「有飛、純くんをからかわないで。毎朝なぜかあたしのランドセル持とうとするのよ。断ってもトレーニングを邪魔するなとかなんとかわけのわかんないこと言うの」
「毎朝?」純はいたずらっぽく笑った。「毎朝一緒に登校するんだ。絶対に特別な関係でしょ」
「ああ。熟年夫婦みたいなもんだな」
「ちょっと有飛!」
 万実はかわいらしく顔を紅潮させ、早口で同じ団地に住んでいると説明した。
「なんだかうらやましいな」ぽつり、と純が言った。「二人は、自由で、特別な世界に住んでる感じがする」
「いやいや純くんの方が、特別な世界にいる男の子よ?」
 純は意味ありげに笑む。
「あ、そうだ、明後日俺たちと七夕祭りに行かないか?」
「悪いけど、パパが許さないから無理だよ」
「お前を会社の後継者にするために、厳しいこと言うんだろ?」
 純は目を丸くした。「永井くんは、心を見透かすのが得意だね」
「まあな。一応、聞いてみてよ。純は絶対、祭りを気に入るから。そんで将来、七夕祭りのスポンサーになるんだ」
「面白いこと言うね。……わかったよ。パパを説得する」
 純は心を決めたように、真顔になった。
「永井くんとは初めて話したのに、前から知ってたみたいに感じる」
 純がスッと手を出す。俺は微笑み、純と握手を交わした。

 神社へと続く道が煌びやかに輝いている。出店がずらりと並んでいて、いろんな声が飛び交っていた。
 万実は楽しそうに店を回った。俺は万実を見守るように、傍にいた。
「それにしても、お前、そんな浴衣持ってたっけ」
「持ってたわよ……」金魚すくいに集中する万実。「去年も、一昨年も、祭りで着てたんだから」
「ふーん。似合ってて可愛いよ」
 ざばっ、とポイを水に突っ込んで、紙が破れた。振り返って俺を睨む万実。顔が真っ赤だ。
「もう、ほんと、なんなのよ、最近あたしをからかいすぎ」
 俺はくっくと笑った。
「永井くん、宮部さん」
 声に反応して振り向く。純だった。浴衣を着た綺麗な女の人と手を繋いでいる。
「おぉ、純。お前これないって言ったじゃないか」
「うん。でもパパを説得した。そしたらパパも来てくれたんだ」
 純の後ろには、リンゴアメを食べている四十代くらいの男。
「そちらの方がお父さん?」
 俺の声に、リンゴアメの男はにこやかに笑って、「こんばんは」と言った。
「パパ、お仕事休んでまで来てくれたんだよ」
 純は嬉しそうだった。
「よかったな。綺麗な姉さんと一緒でうらやましい」
「姉さんじゃないよ、ボクのママ」
 俺と万実は同時に「え」と声をあげた。女の人はにこにこ笑う。
「姉さんだなんて、嬉しい。いつも純と仲良くしてくれてありがとう」
「し、失礼ですが、おいくつですか?」
 こら、と万実が俺を叱る。
「いくつにみえるかなぁ?」
「セーラー服を着てたら女子高生にみえます」
 キャ、と言って顔を覆う女性。指の隙間から俺を見る。
「こう見えて、もうすぐ三十二歳よ」
 ……全然見えない。
「ねえあなた、この子たちになにか買ってあげましょう」
「好きにしてくれ。オレはあっちでたませんを買ってくる」
 純のパパは去っていった。
 俺たちは、純のママにかき氷を買ってもらえた。ベンチで食べていると純のパパがやってきて、大声で純を呼んだ。
「あっちに射的があった! はやくこい、やるぞ!」
 純はくすくすと笑う。「パパ、なんだかんだでお祭りを楽しんでる」
「あの人、子供っぽいところあるから」微笑む純のママ。
「じゃあボクら、行くよ」
「ああ。かき氷、ありがとう」
 俺は純にそう言ってから、純のママに頭を下げた。ママは笑顔で頭を下げ返してくれた。
「じゃあね、永井くん、宮部さん。お幸せに」
「えっ、えぇ! 純くんまであたしをからかわないで」
「結婚式は呼ぶから絶対来てくれよ」
「なに言ってんのよぉ!」
 俺を叩く万実。かなり強めだった。
「宮部さん、顔が真っ赤だ」
 楽しそうに笑う純は、もう一度手を振って、去っていった。
 万実は自分の顔をずっと手であおいでいる。
「あぁ、もうあっつい……」
「もっと暑くなること言ってやろうか」
「これ以上からかわれるとあたし溶けて消えちゃうよ」
「俺、万実を一度もからかったつもりない」
「え……」
「俺と結婚してくれ」
「え、ええええええ、あんたなに無茶苦茶言ってるの――」
 万実の両肩を、ぐっと掴んだ。
「純じゃなくて、俺を選んでくれるか?」
「ど、どうして、純くん?」
「いや、ほら、あいつ金持ちだし、いいやつだし、かっこいいじゃん。もしも純がお前に告白したとしても、俺を選んでくれるか、って」
「わけわかんない……」
「俺のこと、好きだろ?」
 万実の目が泳ぐ。
「俺も万実が好きなんだ」
 万実の瞳が、俺の目にぴたりと重なった。
「だから、万実と結婚したいんだよ」
 万実の顔がくしゃくしゃになっていく。
「有飛、本気なんだ……」
 俺はうなずいた。万実は、嗚咽した。
 俺にひっついて、しばらく泣いていた。

 打ち上がる花火を眺めながら、神社への長い階段を上る。
 境内に並ぶ竹には、無数の短冊が飾られている。七夕祭りでここに願い事を飾ると叶うことで有名だった。まあ、これだけ短冊があれば、誰かは叶うだろう。
 そんな野暮なことを思いつつも、俺たちは短冊をもらい、それぞれ願いを書いた。
『幸せのまま、人生の幕が閉じますように』
「なんて書いたの?」
「教えない。万実が教えてくえたら見せるけど」
「あ、あたしは、恥ずかしいから無理」
「じゃあお互い見せないでおこう」
 ぷくっとふくれっ面になる万実。
 結局見せ合わず、それぞれ別の場所に短冊を飾った。

 神社を出ると、万実が言った。
「実はね、あたし、七夕祭りに飾るお願い、毎年同じなの」
「へー。そりゃ叶うといいな」
 ふふふ、と万実が笑う。
「なんで笑った?」
「内緒」
 万実は俺の手をぎゅっと掴んだ。
 万実の手を握り返す。
「なあ万実、どっかひと気のないところでファーストキスしよう」
「は、はあ? 急すぎる、なんでもっとムードを考えられないの?」
 その言い方は、キスをしても大丈夫ってこと。
 万実を引っ張って身体を寄せ、唇を重ねた。

 俺と万実は十八歳で結婚して、すぐ子宝に恵まれた。
 経済的余裕は充分あった。俺は世界的にも有名な投資会社の社長だったから。
 有り余る金を色んな分野にばらまいた。世界中に莫大な寄付もしていた。慈善家として名を知られると、小銭はいくらでも入ってきた。永井グループが展開するあらゆる事業は信用されて、誰もがウチの顧客になりたがった。純の会社も、永井グループの傘下に入ってくれた。
 万実はたくさんの子どもがほしいと言った。最終的には七人産んだ。子どもたちはやがて成長し、俺の仕事を手伝ってくれる。万実の育て方が上手だったから、みんな父親想いのいい子だった。
 六十歳を迎えると、俺は会社を引退した。
 それからはプライベートジェットで万実と世界中を旅した。特に万実の望みで、貧困の国に建てた学校を回った。俺たちがやってくると、みんな手厚く歓迎してくれた。
 八十四歳。くも膜下出血により、万実が突然亡くなった。
 いつか死ぬことは受け入れていたつもりだが、まだもう少し、二人で仲良くいられると信じていた。大きな病気もなかったのに。
 万実の死は、耐えがたい苦痛だった。
 前回の人生で、母が死んだときを思いだした。今回の人生で母が死んでも、俺には最愛の万実がいたし、二度目だったので、深い悲しみにとらわれることはなかった。
 俺は前回母が亡くなったときのように、ショックでベッドから起き上がれなくなった。子供たちはそんな俺を優しく介抱してくれた。
 三年経って、ようやく万実の死を受け入れられた。子供たちが傍にいてくれたおかげだった。孫も、俺を励ましてくれた。
 だが三年ですっかり俺の身体は弱り、大きな病を患った。九十歳まで生きられないだろうと医者は言っていた。
 じゃあ九十歳までは絶対に生きてやる、と俺は日々、病魔と闘った。
 九十歳の誕生日。家族一同、誰一人欠けることなく、俺を祝ってくれた。
 俺はベッドにいて、ほとんど喋れなかったけれど、幸せだった。
 このまま、死ねると思った。
 みんなが帰ると、張りつめていた神経が緩み、命が失われていくのがわかった。
 ……ああ、これで終わりか。
 瞼が重くなる。
 人生が思い返される。
 果てしなく長かった。
「神様、ありがとう」
 最高の人生を生きるチャンスを与えられた。
 俺は、それをものにした。
 永井グループの繁栄を思う。
 子孫の幸せを願う。
 先の未来を見られなくて、残念だ。
 意識が、薄れる――
 ――……。
 …………



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colorless Catトップ


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