「おじいちゃん、俺とチェスしてよ」 久しぶりにやってきた孫が、見たこともない道具を出した。 「ち、ちゃいす?」 「違うよ。チェ、ス」 「そんなもんわしは知らん。それより将棋やるぞ、いま盤を持ってくる」 わしが立つと、「俺はおじいちゃんとチェスがしたいんだ」と孫がいい、縁側に8×8のボードを置いた。小さな人形を並べはじめる。仕方なく座布団に腰を下ろした。 「親父から聞いたよ。じいちゃん、この間倒れちゃって、ボケてきてるらしいじゃん。将棋なんて指して勝っちゃったらさ、俺、悲しくなる」 「アホぬかせ、わしが将棋でお前に負けるわけないだろ、待っとれ、いま将棋盤を――」 「いや、だからいいって。チェスをしよう。俺が絶対に勝てるし。将棋だったら、一度もじいちゃんに勝ったことはなかったけどさ。はい、並べ終えたよ」 「わしがこんなもんできるわけないだろ! どこにも字がないし盤は狭いし、誰だこんなつまらんゲームを考えたやつは」 孫がふふと笑いよる。「チェスはね、将棋の兄弟なんだよ」 「バカいうな、こんな人形遊びが将棋の兄弟なわけあるか!」 「おじいちゃん、話を最後まで聞いて。チェスの発祥は――」 孫がチェスと将棋の歴史を語る。将棋の起源が古代インドの盤上ゲームというのは、なんとなく知っておった。それが西洋に伝わったものが、今日孫が持ってきたものらしい。なるほど、つまりは西洋の将棋というわけだ。 それにしても外人の考えるゲームはくだらない。いかに昔の日本人が優れておったか。こんなままごとのようなものを、わしが楽しめるわけない……。 まあ、孫が一緒にやろうというんだし、一回くらいお人形遊びに付き合ってやるか―― 「単純な死活を間違えたのお。潔く飛車――じゃなくて わしは 「……じいちゃんさ、なにこの強さ。おかしいでしょ、まだ三局目だよ? 飲みこみ早すぎない?」 「なにをいっとる、ちょりっす――じゃなくてチェスは将棋の兄弟じゃろ。駒の動かし方さえわかればこっちのもんじゃ。いやあそれにしても楽しいなあ、盤上が狭いし持ち駒がないから展開が早いし、すーぐ決着がつく。老い先短いわしにはぴったりのゲームじゃ」 「じいちゃんがくたばるの、当分先だと思うよ」 「その上こんな奥の深いゲームだとは思わなんだ。あんぱんまんさん? きゃすちんぐ? 将棋にはない不思議なルールも、よく考えられとるわ。いやあ、このゲームを考案した西洋人は天才じゃな。ほれ、まだまだやるぞ」 わしは年甲斐もなく胸を躍らせ、駒を並べていった。 対局の数を重ねると、もう孫では相手にならなかった。孫はいつも読みの深さが甘い。アマの将棋大会で優勝したことがあるらしいが、やはりまだまだ筋は若いのだ。 「シルバーチェス大会?」 一週間ぶりにきた孫がチラシをわしに見せた。 「意外にチェスやってる年寄りって都内にいるみたいだよ。ほら、将棋の名人も趣味でチェスやってるでしょ? その影響で始めた人たちもいるんだと思う。じいちゃんさ、大会に出てみなよ」 二日後にあるらしく、わしは対戦相手がほしかったので、お遊びのつもりで出場することにした。 会場は、一般的な将棋の大会に比べたら、ちんけなもんだった。年寄りといっても六〇代の若造ばかり。自分が場違いに思え、煙草でも吸おうと喫煙所に向かった。 ドン! 喫煙所の前で人間にぶつかった。すまん、とわしはいった。ぶつかったのは、わしと同い年くらいに見える年寄りだった。 「どこに目ぇつけてるんだか。お前さん、ボケがきてるんじゃないか? もしかして将棋大会と間違えとりゃせんか?」 「な、なんじゃと! こっちは謝ったのにその態度――」 「あんまり血圧高くせんほうがええぞボケ老人。ぽっくり逝かれたら大会が台無しになる」 やつは喫煙所を去っていった。わしの拳が震えていた。煙草で、激昂を落ち着かせた。 組み合わせ表を見て知ったが、さきほどの男は 何年もやっとる大会だから、 わしはあっというまに決勝まできた。 相手は、あの性根の腐った金蔵じゃった。 どうせこいつも大したことないだろう――そう思ったのだが、三手目にして、わしの勘が「違う」といった。筋は定跡なのだが、熟練の指し手がみせる威圧感が滲んでいた。 第一局目。黒番後攻のわしは、 「お前さん、単純な死活を間違えたなあ」 金蔵が憎らしい笑みを浮かべていった。 金蔵はいやらしく チェスは白盤先攻が有利になる。わしはその利点を活かし、必ず勝たなければならない。この一局は引き分けでも、もう負けになってしまう。 ほぼ死にかけの脳みそをフル回転させた。八十二歳……いつお迎えがきてもおかしくはないわしの脳は、それでも、わしの魂に応えてくれた。 先ほどとは打って変わって、勝ち筋が鮮明に見える。そんなわしに圧倒されたのか、 「時間が惜しい。次のゲームを始めよう」 そういって 三局目、金蔵の白番先攻。引き分けにできなければ、わしの負け。これで勝てば、わしの優勝。勝てないにしても、なんとか引き分けにしなければならない。 いや―― 弱気な思考を払拭するように頭を振った。引き分けでいいなどという甘い考えが、すでに負け戦じゃった。いかに不利な黒番後攻でも勝ちを狙う。一見不正解のようなリスクのある手でも、積極的に検討するんじゃ。老い先も短いくせに、いまさら盤上で危険を冒すなぞ、怖くもないわ。 ギャラリーが、静かにわしらを見守っていた。 わしの残り時間が五十秒を切っておった。長考しすぎた。が、その局面で、「終局までの完璧な答えを見つけ出せる」と、わしの勘がいっていた。大きなリスクを払う一手だが、賭ける価値があるように思えた。だから時間を費やして石橋を叩いたのだが―― 手筋が、見えん。 わしは震える拳を、左手でぐっと抑えた。 「お前さん、チェスをはじめてどれくらいだ?」 金蔵が静かにいった。 「一ヶ月じゃ」 金蔵は鼻で笑った。 「……たった一ヶ月で、オレとここまで渡り合うか」 馬鹿にしたのかと思ったが、そうではないらしい。 「お前さんの名前はなんといったかな」 こやつ試合中に話しかけよって……。わしの時間を食いつぶす気か。 ふっと、わしの脳裏に、光が走った。 わしは、息を呑んだ。 ついに筋を見つけた。 本来なら、まだ少し先を読み切らなければならなかっただろう。だがそんなことをしなくても良いという確信が持てた。その手筋が、わしのイメージの世界で、強く光り輝いておった。 残り、二十秒。 「金蔵さん。あんたがあの世にいっても、わしの名が忘れられんくしてやるわ」 わしは 「わしの名は、 金蔵は、うんと唸った。 さすがの金蔵は わしは電光石火の如く駒を動かして対局時計を止めた。チェックメイトまで二十秒は、いまのわしにはあまりにも長すぎた。 駒を容赦なく 「ふ……ははは……はっはっはっ!」 笑いよった。 「銀三よ、お前さんは生まれる国を間違えたな。アメリカにでも生まれておれば、チェスの世界でグランドマスターになっておったわ」 そういったあと、金蔵は 金蔵とわしは、固い握手を交わした。ギャラリーがわしらを称えるように、いつまでも拍手をしていた。 |
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