彼女が僕の中にいる

第一話.君が僕の中にいる(プロローグ)



 僕は本来、産まれてくるはずのない人間だったんだ。
 母曰く、僕は何度も流産しかけたようで、薬物の投与によって予定日まで僕の生を繋ぎ止め、一月の、大雪の降る夜に誕生した。これが名前の由来にもなっている。雪の日に誕生が叶ったので「雪叶(ゆきと)」と名づけようとした。でも亡くなった父が叶という字に不満を持ち、最終的に「兎」になった。理由は瞳が兎のように愛くるしかったからだという。そんな話を聞かされても、僕は自分の生に一欠片も感謝はできない。
 帰路から逸れて無心で自転車を漕いでいた。遠景にボーリングのピンのオブジェと、建物の左上に『トヨナガボール』という大きな横文字が見える。十年前に閉店した巨大ボーリング施設。レーン数は二四〇。中二階、中三階を含む三階建てで、高さはマンションでいうと七階相当。七年前、あそこで飛び降り自殺があった。以来、心霊スポットとして有名になり、メディアに取り上げられ、いまでは廃墟マニアの観光地と成り果てている。
 自転車を止め、ガラスの割れたドアを抜けてエントランスに足を踏み入れた。
「ねえ雪兎、屋上へ行く前にまた寄り道しよ?」
君≠ェ僕を誘う。その声を振り切るように速足で上を目指す。
 階段室から屋上に出た。景色に吸い込まれるようにして歩いていく。腰の高さほどのパラペットをゆっくりと上り、下を覗く。地上が見えると下半身はヒュッとする感覚に襲われ、思わずしゃがみこんだ。
「……こんなところから飛び降りれるわけない」
 自殺なんて最初から無理だとわかっていた。僕はこの世とさよならできるほど過酷な状況にいないんだ。もっと絶望の淵に追い詰められなければ死ねない。僕は虐められてるというより「いじられてる」だし。
「今日されたことは立派な虐めだよ!」君≠ェ言った。「教科書を貸さないだけで木場(きば)は思いっきり背中殴るし、守丘(もりおか)にはカッターシャツに『しね』って書かれるし、一条は『もう学校に来るな、その気持ち悪い顔を二度とみたくない』なんていうし、あいつら最低!」
 僕にはどうにもできないことが多すぎる。自分の弱さに嫌悪するばかりだ。早く卒業したい。でもまだ六月の第一月曜。三年生になるのも遥か先のことのようだった。虐めが原因で自殺した中学生のニュースで、「一年間なんてあっという間なのに。もったいない」なんてコメンテーターがいっていたけれど、拷問のような繰り返しの学校生活は、永遠に続く錯覚さえ引き起こす。大人たちは、そんな状況から僕らを決して逃がさず、耐えることを強制する。発狂しないほうがどうかしてるよ。
 あー、と鬱憤を吐きだすように声を出す。大きく息を吸い込んで、叫んだ。周囲の木々にいた鳥たちが一斉に飛び去る。声が途切れると、俯いて瞼を閉じた。
 真っ暗な世界に、女性の姿が登場する。雪兎はひとりじゃないよ、といって君≠ヘ僕を抱きしめてくれる。
 という、妄想だ。
 それは僕が小学生の頃に作った、もう一人の自分――性別が女の、もう一人の自分のような人という、気持ちの悪い妄想だった。
「ハハッ!」
 わざとらしく自嘲して瞼を開けた。僕は死にたくなるような寂しさを無性に感じてしまったとき、その女性を瞼の裏側に登場させて自分を癒していた。小学生のときから彼女の容姿はほとんど変わっていない。僕と同じ服装を着せるけれど。不安定な産まれ方をした結果か、僕は女と男が混じったような不気味な顔だった。そこから変化して「完璧な女性になった雪兎」という分身。だから、彼女は僕のことを一〇〇パーセントわかってくれる。
「気色悪っ……死んだほうがマシだな」
 高校生になってまで君≠フ妄想をするなんて、自己嫌悪で余計に辛くなってくる。でも現実から一時でも離れないとまともに日々を過ごせない。
 おぞましいことに名前も決めていた。僕は真白(ましろ)雪兎(ゆきと)だから、君≠フ名前は真白(ましろ)(ゆき)
「そんな人がいたら毎日が楽しくなるんだろうな。いいなあ……クソッ、こんな妄想してる自分が気持ち悪い!」
 つくづく情けなくなってくる。
 妄想はさておき――いや、これも妄想なのだが、僕と同じような淋しさを抱えてこの場に女性が来てくれたらな、と思う。そうして深い仲になれたら、君≠熄チえてくれるだろう。まあそんな人が来るわけないことはわかってるけれど。
 ふっと西村さんのことを思い浮かべた。僕の隣の席で、いつも顔を伏せている人。好意があるというわけではないが、僕と同じような状態にいるんだし、気になっていた。一緒に過ごせるようになれれば素敵だ。顔はばっちり好みというわけではないが、嫌いでもないし。などと、僕がそんなことをいえる容貌じゃないんだけど。だいたい、声をかけられるかといえば絶対に無理。ただでさえ僕はいじられているのだから。
「こらっ、浮気はダメ。雪兎には他の女性なんていらないでしょ?」
 嫉妬して顔を膨らます君≠ェ見える。
「ごめん、ユキ」
 そう呟く僕はアホだ。君≠フ姿を消し去るように頭を振った。
「帰ろう……」
 辛い日常に戻り、孤独を精一杯、生き抜こう。いつかは終わるんだし。
 去る前に風景をよく目に焼きつけておきたい。……教室でもユキとここで景色を眺める妄想ができるから。
 ゆっくり腰を上げた。足が竦む。地上の果てに視線を向けた。こちらを見ている人がいたら、僕は自殺するようにみえるだろうな。
 ――ひゅっと、背を押すように風が吹いた。
 でも微風で、バランスは崩れなかった。
「あっ」
 また風が吹いた。今度はゴォっと唸るような、力強い突風。だがビルの端ということもあり細心の注意を払っていたので、余裕で踏ん張れた。
 けれど、どうしてだろう。急速的な葛藤が巡った。
 もうこのまま落ちて楽になろう。
 どうしてそんなバカなことをしなきゃいけないの。
 いまなら飛び降りられる、この勢いに任せて全部を終わらせてしまいたい。
 絶対にやめて、いっそ誰かに打ち明けてからでも遅くないから――
 そんな矛盾した思考が僕を裂くようだった。そのなか、混濁を吹き飛ばすようにして、はっきり頭に浮かんだものがある。
 それは、僕を癒すような微笑を浮かべた君≠フ姿だった。
 まるで君≠ェ僕を死の世界に優しく誘っていて、飛び降りてしまえば、そこで会えるような気さえした。



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