彼女が僕の中にいる

第四話.僕が僕に口づけをする(avant)



 堤防で弥城と合流して雑談をするのだが、髪のことに触れてこない。案外ニオイは届かないのだろうか。弥城はベリーショートで、髪は細く、癖がない。毛先がトゲトゲとして綺麗に浮いていた。整髪料でセットしているのかと訊くと、何もしていないという。自然にそうなるらしい。
 会話が途切れると、弥城はさりげなくスピードを上げ、右ポケットの位置を雪兎の左手の傍につけてきた。ハンドグリッパーを軋ませ続ける様を見せつけてくる。
「明日休みなんだから存分にトレーニングしておかないとな。昨日やってないから余裕だろ? ほら真白、俺のポケットに手を突っ込んで出せ」
 やりたくないと彼は思うが、ほらほらぁ早くぅ、と弥城が待ち遠しそうにいうので、渋々手を入れて取り出した。それは前と同じものではなく、グリップが水色のプラスチックで、その外側が透明の樹脂で覆われていた。
「別のものなんだね」
「ああ。元々かなり弱い安物をポケットに入れてたんだが、お前のためにもっと上のウェイトのものを持ってきたんだぞ」
 そりゃどうも、といって握る。「めっちゃ固っ!」
「ちゃんと握れてるじゃないか。トレーニングの成果だな」
「かなり限界の力で握ったんだけど。一回ならまだなんとかできたけど、やり続けるのは無理だよ」
 弥城は首を振る。「トレーニングはな、ほぼ限界の負荷をかけて継続するのが最も効果的なんだ。それの負荷は四十キロだが、俺の見立て通り真白は握ってみせた。連続で握るのはもちろんきついだろう。休憩しながら学校に着くまで繰り返し、握りしめるんだ」
 目を輝かせながら弥城はいうものの、三回目にして全く手が動かなくなっていた。
「無理だよ、これはできない。この前のないの?」
「置いてきた」
 彼はため息まじりにグリップを握ろうとするが、ほとんど動かない。少し休憩しては握ってみるものの、最後まで握りしめることもできなかった。
「僕には無理だよ」グリップを差し出す。
「無理じゃない、握りしめてただろ」
「ほんの少しなら動かせるよ、でももう手が痛い。前のだって充分きつかったんだし、これは僕の限界をゆうに超えてる」
 弥城のポケットにハンドグリッパーを突っ込んだ。持ってやっているふりでもしてればいいのにと思うが、彼はトレーニングを押しつけられること自体にうんざりしていた。弥城の手は止まり、哀しみを帯びた表情で露骨に落胆を見せてくる。
「そういう態度止めろよ、こっちは無理なトレーニング押しつけられて迷惑してるんだ」
 苛立ちから、彼はそう発した。弥城は何もいわなかった。
 それから学校に着くまで、弥城もハンドグリッパーを握るのを止め、時折当てつけみたいに嘆息していた。
「真白の握力はレベル3にダウンした」
 失望をこめたような低い声でそう宣告したあと、自転車の速度を上げて去っていった。



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