彼女が僕の中にいる

第五話.僕は弥城と遊ぶ(avant)



 彼は、目と鼻の先の僕と唇の感触を思い知ってから、ようやく、雪とキスをしている、と認識した。その反応で僕は以前と同じ真白雪の姿なのだと理解した。
 ──来た。堤防のときと同じ痛みが発生した。彼の肉欲が止めどなくこちら側に流れ、僕の身体が焼かれるようだった。思考のリンクを遮断しようとしても、彼の興奮が隙間を拡張して僕に侵入するみたいに押し寄せる。激しい苦痛に襲われた。どうやら、彼の性的な欲望は、僕にとって凶暴な毒になるらしい。僕は後ろに飛んで彼と距離を置いた。鈍痛が顔中に残っている。雪兎は瞳孔を開かせて僕を凝視していた。
 一歩、彼が僕に向かって足を踏みだす。僕は一歩後ろに下がった。
「待てよ雪兎、もう一度僕にキスしようとしただろ」
「雪が僕にしてくれたんじゃないか──」
「だからってまたさせることにはならないだろ、西村さんと友達になったから、僕は約束を守ったんだ。これは義務だよ」
 雪兎は、両肩を落として消沈した。それから唇をすぼませて舌で拭い、口を開く。
「外に出る方法がわかったんだね」
 僕は頷く。DIDの人格交代と同じことができれば、出られる予感がしていた。図書館ですぐ試してもよかったが、僕なりのサプライズというか、できれば雪兎に最高のファーストキスをプレゼントしたかったんだ。外に出られなければそれまでだったけれど。「店長の怒号に耐えられなくて引っ込んだ」「主人格を強いショックなどから護るために存在している」これらがヒントだった。先ほど彼が傷心していて、僕は慰めたくなった。すると雪兎の心の隙間を通れる感覚を掴んだ。それが外に飛び出せる条件。そう彼に説明した。
 彼の中に入る方法はおそらくこの逆に近い。雪兎が僕を守りたいという意志を持ち、僕は意識レベルを低下させれば入れる気がする。これを試すことにした。
 雪兎の左腕を掴むと、強制的に思考が僕に流れ込む。抱きしめ、衣服に手を入れ、胸の質感を確かめたい、などと色欲が主で、痛みを伴った。……彼の中にいるときはなんともないのに。堤防では、この苦痛で僕は危うい状態になり、それで彼の中に入れたんだろう。同じことはしたくない。でもどうやって意識レベルの低下を再現すればいいのか。
「気が散るから僕に欲情するのはやめて」
 露骨な言葉で口にしてやった。でも痛みのことは伝えない。彼は反省して、庇護欲を増してくれた。僕は自分の顔≠見ていられず、彼の首元に視線をやる。……うまく意識を変えられない。彼はなかなか頑張って純粋な心を向けてくれているのに。やはり堤防のときのように彼に僕を抱きしめさせ、男性的な欲望を抱かせ、痛みを喰らい、意志薄弱な状態にしてもらわないとダメなのか。
 顔を上げてみる。と、瞳が重なり、彼は動揺する。どきっ、というありがちな擬音が聞こえたようだった。たじろぐほどに僕は可愛いんだ。彼は夢を見ているような気分になっていた。案外、我慢すれば不気味さが薄れるもので、一切視線を外さず黒目を覗きあう。ふっと僕は笑った。すると彼も笑った。
「なにこの状況」
「知らないよ。入れないの?」
「うん……でも何か掴めそう。もうちょっと見つめてて」
 太陽が雲間に隠れたり、また出たり。雪兎の顔が明滅していた。
 またキスをしたい、と彼が思考する。愛慕が向けられる。大好きだと叫んでいる。そんな彼の想いに、微かに恋情が反応してしまった。強い愛を浴びせられることに心地好さを覚えてしまった。相手は鏡の中の自分≠ネのに。
 ──突如、あの感覚が来た。身体の何もかもが溶けて液状化し、そして彼に向かって蒸発していくようだった。視界がなくなったかと思うと、次の瞬間また目が見えるようになっていた。これは彼の視点だ。
「雪、いるの?」
『いるよ。君への入り方を理解した』
「ほんと? どういうふうに入ったの?」
『雪兎と目を合わせて、入りたいって強く念じるの』
 僕は嘘をついた。……本当の引き金はいえるはずもない。



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