彼女が僕の中にいる

第五話.僕は弥城と遊ぶ(page.A)



 僕らは様々な検証をした。
 ポテトチップスを咀嚼すると普通に味を感じられて、唾液も出た。それを飲みこみ、飴を口に含む。その状態で雪兎の中へ入る。と、食べたものは全て僕が立っていた場所の真下に落ちた。飴に触れると、それは袋から出したばかりのように唾液がついておらず、胃に入れたポテトチップスも湿り気のないサラサラな細かい破片になっていた。もしやと思い唾を吐くと、口から何も出ない。外に出ると僕は雪兎と同じ服になるわけだが、それは脱ぐと消える。唾も同じように消えているんだ。
 だがそれは服と唾に限ったことではなかった。ハサミで髪を切ると、消えた。つまり僕の部位は、僕から離れると消滅する。
 彼に衣類を重ね着させ、手袋をつけさせ、洗濯ばさみをつけたりセロテープをつけたりした状態で僕は外に出た。すると、衣類として着用しているもの以外はコピーされなかった。中途半端に穿いたジーンズもない。着用しているという定義から外れるものは、僕の服として顕現されないらしい。定義の元は雪兎の意識なのだろう。このとき髪を切った所を確認すると、切っていない元の状態に戻っていた。
 終いに体重を量ると、大きな事実がわかった。
 お互い同じ服装で、僕が量ると50.4kg、彼が量ると51.4kgだったが、嫌がる雪兎を全裸にさせて量らせると、僕と同じ50.4kgになった。脱衣室から彼を出して僕が全裸で量る。ディスプレイに数字が表示されると、僕は驚いたが、得心が行った。バスタオルを持つと0.3kg変動した。身体にそれを巻き、脱衣室の引き戸を開ける。雪兎は僕の姿を見るや、目線を乱した。
「全裸で量っても50.4キロだった」
「えっ!」声が隣の浴室に響いた。雪兎の視線が、僕の胸に釘付けになる。「おかしいよ、服の重みはどこにいったの──」
「その服は消滅してるけどね。つまりさ」雪兎を指した。「単純な話、僕は見た目と意識以外、雪兎と全く同じ存在なんだよ。結局この結論に行きつくわけ。全裸の雪兎は50.4キロ、だから僕はコピーの服を身に着けていようと50.4キロだ。実在するバスタオルを持ったら0.3キロ増えたけどね」
 彼は真面目な顔で鷹揚に頷いた。が、僕をまともに視界に入れると欲情が面に滲んだ。
「君は気が気じゃないようだから、君の中に入るよ」
「入って出てくるよね? そりゃそんな格好されてたら僕は落ち着かなくなるけどさ、服を着てればまだ大丈夫だから」
「しばらくは中にいるよ。気が向いたら出る」彼に近づいて、腕を掴む。
 と、強い痛みが身体に流れ込んだ。思わず手を離して、イタっ、と声を出してしまった。
「え、なに、どうしたの、大丈夫?」
 大丈夫、と落ち着いた声を出してみせる。欲情の痛み≠フことは隠し通したい。でも、彼が深刻そうな表情をしていた。たったそれだけで勘付かれたことを覚った。
「雪さ、僕に触れるとき、なんか苦痛を感じてるよね。それってもしかして、僕の性的な気持ちに関係あるんじゃないの」
「そうだよ」
 あっさり白状してやった。仮に隠しても、雪兎はこの先もネチネチとこのことを勘ぐるから。
 唐突に、彼の瞳が潤んだ。雪兎はそれを覚られまいとして顔を背けた。どうして、と彼は何か言いかけて途切れる。僕は察した。
「君の中にいるときは大丈夫だし、雪兎の女性に対する健全な興奮を否定したくもなかったし」
 そこまでいうと、泣いているような声と鼻水をすする音が聞こえた。
「僕が気づかなかったら、僕が不純な気持ちで接触するたび、君は独りで痛みに耐えて隠し通すつもりだったんだ」
「まあ、そうだけど。てか泣くなよ」
「泣くよ、君にとってはそれらって当然の配慮なんだろうけど、そんな優しさを向けられた方は……なんていったらいいかわからない。君みたいな美人を極めた人からそこまでされたら、泣くことしかできないよ」
 僕と彼の立場は珍妙だ。僕がほんの少し犠牲になったり心に寄り添ったりするだけで、彼の孤独はあっという間に救済される。僕自身は真白雪兎≠ネのに。
 せっかくの機会だから、もう少し優しくしてあげようと思った。バスタオルが外れぬよう押さえたまま、雪兎の正面に回って涙を手で拭い、頭を撫でた。するとまた更に彼は顔をくしゃくしゃにして、その胸中を僕への純粋な好意で溢れさせていた。そんな自分≠ェどこか愛おしい。サービスでキスしてあげてもいいかな、と過ぎったが──雪兎の目を見つめていたら、いつのまにか彼の中に入っていた。

 落ち着いたころ、西村さんと連絡を取りたいと僕は切り出した。彼は、真白雪の家には電話がなくて過保護だから携帯も使わせてもらえない、といったことを思考した。
『なんでそんなこといったんだよ』
「雪が言えっていったんだろ──」彼は軽く笑った。
『まあいい、出られるようになったんだからいつでも機会はある』それに、彼女との第一声は肉声で交わすほうが良い気もした。『あ、今から西村さんの家に突撃しよう。俺の子供を妊娠してくれ! って』
「行かないよ。迷惑だろ」
 冗談はさておき、今からアポ無しで行くことが迷惑だと彼は本気で思い込んでいた。西村さんの心が全く見えていない。こういうことはきちんと教えてあげなければ。
『もし、僕らが彼女の家に押しかけても、西村さんは受け入れてくれるよ。泊めてくれるとも思うね。君は自分が男だっていう認識と強い劣等感のせいで否定的になっちゃってるだけだから。僕は客観的な思考に優れてるし、間違いないよ』
「僕が人のことを何もわかってないとでも?」
『いやいや、そこまでいってないだろ。でも西村さんのことは僕の方がわかってるね』
 彼は苛立つ。「絶対迷惑に決まってるよ、雪のいうこと、ちょっと信じられない」
 内心はちょっとどころではなく全く信じられない、と思ってやがる。
『逆に聞くけど、西村さんが今、家に来たら? 勢い余って遊びに来たちゃった、とか。雪兎はそれを受け入れないの?』
 彼は想定した。すると、戸惑いを感じつつも喜んで受け入れる自身の姿まで想像が至った。が、男女の違いを考えだす。
「僕は男だよ、西村さんは女。こんな時間に男子がいきなり同じクラスの女子生徒の家を訪ねるとか、絶対頭おかしいから」
『僕の外見は女なんだけど』
「君ならまだいいかもね。僕が行けばドン引きしちゃうって」
『西村さんってすごく純粋な人だから、仮に君が一人で行っても、少しは抵抗を示すかもしれないけど受け入れてくれるって。ほら、彼女の部屋はガレージの二階だし、男の子とお泊りするのは夢だった、とまでいうんだよ? 僕の信じる西村さんは、君が一人で押しかけても、もてなしてくれるから』
 雪兎は頑なに僕の意見を否定している。
『この分からず屋め』
「君は容姿が良くなったせいで自分勝手に考えすぎなんだよ、僕に対してもそうだ」
『はあ? 僕はいつも誰のために頭使ってると思ってるんだ。君を良くするためにあれこれ考えて、時にはあえて口にしなかったりもして──それを自分勝手だなんてよくそんなこといえるな。僕は雪兎の認識を正しいものにしたいから発言してるんだぞ、そっちこそ自分勝手だよ!』
 余計なお節介だ、と彼は思う。そんなことは望んでいない、と。
『……僕のお蔭で西村さんと友達になれたことを否定したいのか』
 それは僕が尽力したからそうなったんだ、と雪兎は思い上がる。
『お前さ、それ本気で思ってるな。僕がいなかったら君は西村さんと話すことなんかできなかったはずなんだよ』
 雪がいなくても何かチャンスがあって、知り合いになれた可能性は充分にある。雪兎はそう思考した。心奥には微かに、雪がいなかったら知り合えなかっただろう、とは抱いているが。露骨に表現しないから、あくまで僕は上辺の思考を読み取っているだけの態で接してやる。
『失望したよ。やっぱり君は真白雪兎なんだね。思考がねじ曲がってる。高校で友達作れないのも女にモテないのも納得です。こんなのにキスなんかしなきゃよかった──』
 出ようとした。が、できない。雑然とする雪兎の意識に阻まれているようだった。そもそも、僕もうまく雪兎を護りたいという意識を発揮できないから、人格交代ならぬ人格顕現≠起こせないようだった。
『はあ。君が不憫だよ、僕がいても救いようがないなんて。もう僕、黙ってるね。あとはご自由にどうぞ。どうか真白雪兎としての人生を心おきなく歩んで』
 彼が反省の色を見せるまで、本当に何も喋らないでおこう、と決めた。
 そうしてこの日、僕らが会話を交わすことはなかった。

  *

 今日は最高三十三度まで上がる真夏日になるそうで、爽快な晴れ間が広がっている。朝食を摂っていると、今日は夜まで帰らないから、と母が夕食代を渡してきた。友達と出かけるというのだが、以前からなんとなく男の影がちらついている気がするのでどうだか。交友は母の自由なのでいいんだけど。
 そんなことより雪兎だ。起床してすぐ昨日のことを思い返し、ようやく少しは反省の色を見せはじめた。というか僕と会話したいからそのための反省だった。結局のところ考えを改めていない。もし昨日雪兎が西村さんの家にアポ無しで行ったら絶対迷惑でドン引きするということ、チャンスがあれば一人でも西村さんと友達になれたに違いないと思い込んでいること。その考えを曲げない。
 よくある恋愛妄想だ。ある日いきなり自分を好きになった女性が現れる。自動的にドラマチックな関係が始まると信じている。それは出合い頭の交通事故に期待しているようなものだ。相手に迷惑をかけると思って動けないから、そんなことに望みを抱いてしまう。僕は、そういう妄信から雪兎を解き放ちたかった。……だったら僕はなんなんだって話になるわけだが。
 母が出ていき、雪兎は窓とドアを全開にして、テレビをつけたままベッドに横たわっていた。西村さんのことを思考している。電話して雪と一緒に行こうか、と。
「ねえ雪、なにかいってよ」
 僕は何もいわない。彼は、いなくなったのではと不安を抱く。
「もしかして、消えちゃった……」
 ガバっと音がたつくらいの勢いで起き上がり、鏡を手に取った。思考で、何を始めるかはわかった。雪兎は顔面を崩壊させる。僕を笑わせて声を聞く作戦だが、彼の中にいる以上そんなことでは笑えなかった。ふひ、ふひふび、ぶひぃ、などとキモい声まで出して必死になっている。……やべっ、ちょっと笑いそうになった。
 彼は変顔を止め、昨日のことを反省する。形だけだが。
「西村さんに訊いてみたいよ、昨日の夕方にアポ無しで僕が押しかけてたら、それを受け入れてくれたかどうかって」
 そう口にしたあと内心で、西村さんなら本当に受け入れてくれるかも、と、ようやく思ってくれた。はあ、と僕はいってあげる。ハッ、と彼は声を出して僕の意識を探った。
「今、雪が僕のなかで声を発現したんだよね? お願い、何かいって」
『なにか』
 僕が声を発した瞬間の彼の喜びようは凄まじいものだった。強烈な好意と感謝を僕に寄せる。
『君がちょっとは意識を変化させたから、僕は声を出したんだ。西村さんに訊いてみたら? 絶対に受け入れてくれるから』
 そんな僕の強い意思に引っ張られてか、彼も考えをほぼ僕寄りに傾けた。
「そうかもしれないね。今日遊びに行く? 僕、君と西村さんを会わせたいんだ。もちろん事前に電話するんだけど、そのほうがいいだろ?」
『そりゃそうだよ、いきなり行くよりは電話して行ったほうが迷惑にならない』
「いやいや、昨日の発言はなんだったんだよ」
『昨日のは仮に、だろ。まあ今日訊いてみよう』
 彼は微笑む。「君はすでにここに来てるってことにして、電話で少し話す?」
 いや、西村さんと交わす第一声は肉声にしたい。そう彼に伝えた。雪兎は鏡を片づける。と、携帯が鳴った。メール着信だ。ベッドに座ってから、メッセージを開く。相手は弥城だった。
〈謹啓。暑さ日増しに厳しく、風が夏の香りを運んでくるのを感じる季節となりました。真白様におかれましては、お変わりなくお過ごしのことと、心よりお慶び申し上げます。ところで、今日はお暇でしょうか。もしよろしければ、真白様のお家へ遊びに行ってもよろしいでしょうか。お返事お待ちしております。謹言。山口弥城より〉
 ……なんだこの丁寧な文章。
「どうしよう、雪」
『僕に振られても困るんだけど。西村さんの家に行く予定を立てただろ』
 じゃあ断るしかないか、と雪兎は返信をする。そして西村さんに電話を掛けようとすると弥城から返信がきた。早っ、と僕はつっこむ。
〈金曜のこと怒ってるんだろ〉
 あぁ、なるほど。『弥城、金曜のやりとりを気にしてるんだよ』
 雪兎が握力の筋トレを断り、微妙な空気になって弥城と別れていた。雪兎はもはやそんなこと気に留めてもいなかったわけだが。
 全然気にしてないという気持ちを文にこめて返信。やはり即返事が来た。
〈真白は本当に寛大なやつだ。俺は嫌われてたらどうしようとひやひやしてたんだ。じゃあ昼頃に行くからな!〉
「いや待って、こいつ勝手に行くことにしちゃってるよ」
 僕は笑った。『これくらいの強引さが君にもあればいいのに。まあ西村さんの家に行っても、明日は学校だし、泊まることはできないから、弥城と遊んだらいいんじゃない』
 彼は迷うが、やがて弥城と遊ぶ方に意識が傾いた。数少ない友人を大事にしようとする雪兎らしい思考だった。

 十三時過ぎに弥城が来た。外は炎天下なので汗だくだ。涼しい一階の居間に通した。八畳の部屋で、大窓がある。男には気が利く彼は客用のコップにスポーツドリンクをなみなみ注いで勧めた。
「真白……クソッ──」ごくごくと音をたてて飲み干し、コップをテーブルに置く。「お前は最高の友だ」
「金曜のことだったら何も気にしてないから。僕からしたら、弥城のほうが怒ってるんじゃないかって思ったし」
「なぜお前はそんなにも寛大になれるんだ……」なぜか泣きそうな具合に顔を歪ませる。「俺は反省したんだぞ、トレーニングを押しつけたことを。筋トレをやる気になってくれて、調子にのったんだ」弥城がこちらをなめまわすように見つめ、ベタベタと身体に触ってくる。「お前の肉体を俺が改造してやれるのかと思うと、血湧き肉躍るようだった。でもそれは俺だけのエゴでしかない。自分勝手で浅はかだった。見ろよ真白」弥城はジャージズボンをまくった。足首に、なにやら巻きついている。「罰として、片足四キロのアンクルウェイトを着けて来たぞ」
 意味がわからん。ていうか弥城が筋トレしたくてつけてるだけじゃないのか。それ以前にこれが筋力アップに繋がるのか疑問だが。
「すごいね。まさか走って来たわけじゃないよね?」
「ああ、さすがにそれは無理だった」
 だよね、と彼。弥城の家は真白家から二キロほど離れている。重りをつけてその距離を走るなんて……しかもこの暑さだ。一歩間違えればぶっ倒れる。
「無理だが、お前と一緒なら頑張れるぞ、走ろう!」
「え?」
「久しぶりに真白とランニングがしたい。それに独りでウェイトつけて走ったら虚しいだろ」
 こんなクソ暑い日に何いってんだこいつ。と、僕は呆れているのに、雪兎は最近自主的な運動が不足していることを考慮して、付き合っても良いと思っていた。
「いいけど、走るなら夕方ね。太陽が照りつける今はやめといたほうがいいよ」
 弥城は満面の笑みを浮かべた。「じゃあ時間までゲームしような」
 彼は了承し、ゲーム機を取りに自分の部屋へ向かった。
『なんかさ、弥城ってかわいいよね』
 えっ、と彼は耳を疑い、もしや弥城を好きになったのではなどと危惧する。
『短絡的に恋愛に結びつけるなよ。弥城に対する考え方は、君と同じ。親しい友達だよ。でも、なんていうかさ……うまく表現できない』
 彼は内心、良いふうには思っておらず、嫉妬している。こんなこといわなきゃよかったと僕は少し後悔した。
『雪兎は弥城のことを恋愛対象としてみれるの?』
 ぶるぶると首を振る。「そんな趣味はないよ、変なこというの止めてくれ」
『僕も同じように思ってるんだよ。だけど、違った見方もできるっていうか、かわいい性格だなあ、っていうふうにとらえることもできるっていうか』
 雪兎は、自身の親愛な気持ちと照らし合わせて、僕の言葉をなんとなく理解した。
 居間のテレビにゲーム機を接続して、二人は遊び始める。弥城は雪兎以上にゲーム好きだが、下手なので一度も勝てない。それでも弥城は愉しそうに「もう一勝負」という。ハンデをつけようと提案しても、真剣な闘いで妥協されたくない、といって拒否される。雪兎は容赦なくコンボ入力を決め、二十度目の勝利を収めた。
『ねえそろそろ僕に代わってぇ』
(そんなさも当たり前のようにいわれても困るよ、君はやれないでしょ)
『僕が表に出ればいい』
(それは、止めよう。付き合いの深い友達に君のこと知られると面倒だし、そもそも弥城は女の人ってダメなんだから……)
 イメージ通りというか、弥城は硬派過ぎて、真白雪兎以上に女性に対してはコミュ障だった。女と面と向かうと極度のあがり症になってしまう。身体の震え、呼吸困難、めまいなどが起きる。学校のような場で、大勢がいる中ならまだマシなのだが。
『僕なら大丈夫かも』
(いや絶対無理だから。君なんか視界に入れた瞬間、ひっくり返って泡吹いちゃうよ)
 それがあり得そうに思えてしまうのであった。ただ、僕ならそんな弥城のあがり症を軽くしてあげられる気もしている。そういっても、雪兎は頑なに拒否した。その心奥には、雪を他の男の前にさらしたくない、などという彼氏気取りの思考もあった。
 三時間、同じ格闘ゲームを続けた。止めよう、と切り出すと駄々をこねる弥城を説得し、「御伽双六(おとぎすごろく)」というゲームに変えた。これなら運が絡むので弥城が勝つこともある。極めて稀だが。
 プレイ人数を選択する画面で、僕もまざる方法があることに気づき、雪兎に伝えた。
「弥城、僕は二キャラ分操作したい」
「どういうことだ?」
「そういう器用なことがしたいんだよ。そうだ、弥城がその二キャラに勝ってトップになったら、これから一年間文句をいわずに弥城のトレーニングに付き合うよ」
 弥城はカッと目を見開く。「マ、マジか……」と唇を震わせた。彼は頷く。
『そんなこといっていいの? 負けたら面倒だよ』
(僕らを差し置いて弥城がトップなんて無理だって。雪が手を抜いたら話は別だけど。そんなことはしないでしょ?)
 わざと負けて、雪兎の肉体改造をしてもらうのも良いと考えているのだが。さてどうしたものか。

 結果。弥城、あまりにも弱すぎて勝手に惨敗。優勝したのは僕だった。
「クソッ、器用に二キャラも扱う真白にすら勝てないのか俺は……」
「クソッ、僕も勝てなかった!」
「……お前はいったい何と戦ってたんだ」
 自分自身と戦ってたんだよ、と雪兎はいう。弥城は息を呑み、「俺が雑魚だから真白は自身で敵を作ったんだな」と零す。
「違うよ、うまくいえないけどさ。とにかく付き合ってくれてありがとう」
「お、おう。まあ、なんだ。まるで三人でゲームしてるみたいで面白かったぞ」
 ……少しでも僕の存在を感じてくれていたんだ。
 外はちょうど頃合いの良い夕暮れになっていた。水分補給をしてから出ていく。弥城はあくまで重りを着けたままランニングするようだった。
「足首壊しても知らないよ」
 ふっと弥城は笑う。「我を見くびるなよ。真白と共に走るのは久方ぶりだなぁ。我の見違えた成長に驚くぞ。もうあの頃とは違う。貴様の持久力についていくことなど、アンクルウェイトを装備してても造作もないことよ」
 何を意識した台詞なのかよくわからないけれど、堤防まで一緒に歩いていき、そこから津島方面に向けて走りだす。
 いつも、最初だけは威勢の良い弥城。雪兎の前を悠々と走っていたのだが、五分が過ぎるとゆるゆる下がってきて、更に五分が過ぎると、ゼェハァと苦しそうにしながらだいぶ後方を走っていた。
「弥城凄いね。計八キロの重りつけてるのに、僕のペースについて来られるなんて」
「クソッ、真白はどうしてそんな涼しい顔でずっと走っていられるんだ……」
「いやいや、僕がそんな重装備だったらこんな楽々走り続けられないっての」
「いや、お前はやっぱり、持久力が相当あるんだぞ。自覚しろ、お前は才能を秘めた戦士だ。そんな小さくて細い身体に、なぜそこまでの膨大なエネルギーを溜め込めておけるんだ……お前の素敵な肉体がうらやましい!」
「ずっと前に弥城がいってたでしょ、自分の筋肉は短距離型の速筋で、僕は長距離型の遅筋なんだって。短距離走だったら弥城に勝てないよ。もう引き返す? それともいつも通り折り返し地点まで走りきる?」
 ここから更に七分ほど走ると鉄道橋に行き当たる。僕はその場所が好きで、自主的に走るときは必ずそこまで行っていた。弥城は負けず嫌いだから、一緒に走るときはいつもそこまで来てくれていた。
 弥城は鉄道橋まで行くと言い張った。だろうと思ったよ。
 堤防の道を延々と走り続ける。一回も曲がる必要がなく、ただひたすら進めばいい。風の流れや様々なにおいを感じ、人の流れや過ぎゆく家々を視界に入れる。何も考える必要はない。どん詰まりまで足を動かすだけ。そうして、どんどん弥城が置いてけぼりになっていく。
 やがて、名鉄津島線の鉄道橋が見えた。堤防の先の、橋に繋がる道路を横切り、「この先行止まり」の看板が立てられた砂利の堤防に入る。ここから車で鉄道橋を越えるのは無理だが、鉄道橋と堤防の間は首の高さほどの隙間があるため、徒歩なら向こう側に抜けることは可能だ。だがそれ以上は行かないことにしていた。
 走行音が聞こえる。真っ赤な電車が橋に入っていった。名古屋方面に向けて、日光川を渡っていく。百メーターほど先の対岸には大型スーパーやホームセンターがあった。住宅の数はこちらの比ではない。ここから名古屋までは、まだ電車で二十分以上かかるのだが、それでも少しそちらの方面に近づくだけで、マンション、アパートの数が一気に増えた。彼は逆方面を向く。遠景の中にピンのオブジェを見つける。もっと名古屋寄りにトヨナガボールが建てられていたら、廃墟にはなっていなかったのではないだろうか。
 ランニング後だからか、彼は僕を意識していなかった。息が整ってきたころ、ようやく弥城の姿が見える。僕らはぼんやりその姿を見つめた。
「この調子だと家に着く頃にはどっぷり陽が暮れてるだろうね」
 僕は雪兎の背後でそう口にした。「暮れてるだろう」の部分でやっと気づいた彼は、音がたつくらいの勢いで振り返った。
「──なッ? 雪、どうして外に出てるんだよ!」
 なぜか出れそうだったんだ。だから試してみた。



NEXT »
colorless Catトップ

inserted by FC2 system