彼女が僕の中にいる

第六話.僕は僕に襲われる(page.B)



 左から二列目、前から四番目が一条の席だった。そこに守丘や他の友人が二名いる。雪兎は、彼らから少し距離を置いて止まった。
「なに?」
 一条が顔を歪ませる。「気持ちわりぃんだよ」
「僕が友達と一緒にいることがってこと?」
「お前みたいなのが女と一緒にいることが、だよ」
「目障りだぞ、周りにもそう思われてるって」守丘はチラッと西村さんの方を見て、こちらを向く。「止めた方がいいぞ」
 雪兎は、言葉を詰まらせた。それは怖くて何もいえないというわけではない。自分が女友達との付き合いを始めただけで不快感を示す幼い思考の彼らを、憐れに感じたからだった。僕が、適切な言葉を考えて発する。雪兎は復唱していく。
「僕と友達になってくれた西村さんに感謝してるんだ。孤立したまま高校生活を送るのはもう嫌だったから。元には戻れない。逆にこれから学生生活の終わりまでたった独りで過ごせといわれて、できるの?」
 この場の空気が一瞬、張りつめたように見受けられた。
「意味わからん、なんでオレらがそんなふうになる必要があるんだよ」一条はどこか戸惑いをみせる。
「真白君みたいなつまらんやつに友達は必要ないし」などという守丘。
 二人の動揺が僕には見てとれた。なんだかんだで、ちょっとは情を持つ人間なんだ。
「お前らさ、ほんとは付き合ってんだろ?」
 笑んでそう口にしたのはA君だった。彼は優しそうな兄さん系の顔立ちで、思考は大人っぽいので、からかう具合にいったのだろう。
「本当に友達だよ。何度もいってるけど、親同士が知り合いだったって最近知ったんだから。それをきっかけに仲良くなったんだよ」
 ふーん、と一条はつまらなさそうにいう。「で、狙ってんのアレ」
 顎を西村さんの方に動かすので、僕らは苛立った。
「そんなに深く考えてないよ。もう行っていい?」
「ああいうネガティブそうな女がタイプなん?」
 彼は立ち去りたい思いでいっぱいになった。一条は左手でOKのサインを作り、右手の人差し指と中指を、丸の中で出し入れする。
「お前さあ、西村さんで卒業したいんだろ」一応、一条は聞こえないよう声のトーンを落とした。それから守丘を向く。「優平も童貞だよな、先を越されちゃうなあ」
「竜也もだろ」
 A君がふっと笑う、「竜也は女いるって」
 えッ、と守丘が大声をあげた。僕も盛大に驚いた。彼は我慢していた。
「四組の清野ってやつと付き合ってんだよ」
「そこまでいうんじゃねえよ。まあ隠してるわけでもねえけど」
「ちなみに俺も付き合ってるやついるからな。この学校のやつじゃないけど」
 守丘はまた驚いていたが、僕はすんなり受け入れられた。A君の人柄なら自然なことだ。しかし一条のような粗暴者に彼女がいるのは信じられない。僕が仮に女で、金を積まれても絶対に付き合えない。……そういや僕は女か。いや中身は完全完璧に男だけど。
「亮太はどうなんかな」一条は腕を組む。
「木場は彼女いないんじゃね?」A君は笑む。「でも経験はありそうだよな」
 一条が守丘に視線を注ぐ。小ばかにするような笑みを浮かべていた。
「やめろ、おれをそんな目で見るな」
「こいつの女、寝取ったれって」一条が雪兎を指した。
 頭に血が上る。これ以上ここにいたくない。もう立ち去ろう、と僕は促した。雪兎は思いきって踵を翻し、離れる。おい、と一条が呼んだ。足を止め、顔だけ向ける。すると一条は、雪兎をビビらせるかのように足踏みをして殴りかかるふりをした。でも距離があるし、そういう挙動にはもはや慣れていたので、微動だにしない。何もいわず離れた。舌打ちが聞こえた。
 席に戻ると、西村さんが陰鬱な顔をしていた。……聞こえてしまっていただろうか。僕も雪兎も言葉を紡ぎだせなくて、ずっと無言で過ごした。

 窓の外に向かって嘆息する。苛立つように、デッキブラシを上下してタイルを叩いた。
「なんで僕はあいつらに目をつけられなきゃいけないんだよ」
 男子トイレに声が響く。
『その答えは土曜日に知っただろ?』
 見下せる相手に安心感を覚えたいから。独りで過ごす雪兎がそのターゲットにされているだけ。それなのに、雪兎がスクールカーストの階段を上ってこようとするから、不安を感じているんだ。同じく橋本君も時折いじられているが、雪兎よりはまだマシだった。
『いっそ、スクールカーストのトップに登り詰めたら?』
 僕は軽い気持ちで発したのだが、雪兎は真面目に意識した。だがうまく想像できない。そりゃそうだ、彼は真白雪兎なんだから。一条やA君のような存在感を更に超える必要がある。自信のない、脆弱な精神の真白雪兎に、そのようなことは不可能なんだ。仮にだけど、僕ならあのクラスで一目置かれる存在になれるだろう。自信がある。圧倒的な容姿の魅力を兼ね備えているんだから。
 と、いうようなことを僕はいってやった。彼は少しだけしょげた。
『まあさ、女友達と過ごすようになったっていうのはポイント高いよ。一条がそこに苛立つくらいだし。クラス全体の君への注目度は高まったはず。良い方向に進んでるよ』
 ウチの学校は奥手な人が多い。二組で女子生徒とよく一緒にいるのは松本君しかいないんだ。風の噂によると、野球部で活躍しているらしいし、クラス中が彼の交際を受け入れている。教室でイチャついていても誰も目障りだなんていわない。
「ねえ、僕と松本君の違いはなんだろう」
『真面目に部活やってることと、醸し出す雰囲気の違いでしょ。松本君って昭和時代の不良みたいな顔と髪型してるし』
 眉毛が薄く、鋭い一重。パンチパーマみたいな天然パーマ。怖面(こわもて)だが、性格は温厚だ。怒りっぽいところもあるけれど。性格の温厚さは雪兎の方が遥かに優っているが、雪兎にはギャップがない。見た目通りの温厚さだから大して魅力もない。
 ふいに、微かな物音がした。彼は振り返る。
 目が合った。先ほど想像した人物と。……松本君が男子トイレの出入り口で突っ立っている。雪兎は「あ」と口を開けた。松本君もマネするように口を開く。お互い、徐々に口を拡げていく。大口になり、ノってきた雪兎は白目をむいた。舌をだらしなく垂らし、顎が外れるんじゃないかというほど口を縦に伸ばした。松本君はひぃひぃと笑っている。
「ウサギ君の顔面崩壊しすぎぃ」
 松本君は僕をウサギ君と呼んでいた。下駄に履き替えてこちらに来る。
「お前さあ、そういう面白いこと教室でやれよ」
「恥ずかしいから無理」
「ダメだよなあ良いキャラしてんのに」
 松本君の性格の良さとトイレという二人きりの空間のお蔭か、僕は彼の前だとふざけることができた。松本君が心から笑って楽しんでくれるから、それが嬉しかった。
「久しぶりだね、掃除場所に来るなんてどういう風の吹き回し?」
「なんとなく来ただけだよ。俺がいないときに数学のハゲ来てないよな?」
 先日、先生が見に来たのだが、そのときはうまくいって松本君の不在を納得してもらったことを伝えた。
「おー、ナイス」軽く肩を叩いてくる。「てかさっき窓に向かってポエム口ずさんでただろ」
 あ、と彼は思う。聞かれていた。
「ねえ、ボクと松本君の違いはなんだろうって。切実すぎるわ」肩でぶつかってくる。「てかまさかウサギ君が女作るとはなあ、びっくりするわあ」
「だから彼女じゃないよ。この台詞何度いってるかわかんないよもう」
「周りからすりゃ付き合ってるようにしか見えねえって、この高校ガキばっかだからな。一条たちになんかいわれてただろ。気にすんなよ、ああいうのは適当にやり過ごしゃいいんだ」
 うん、と雪兎は小さくいう。あいつだけは好きになれないだよなあ、と彼はぼやいて掃除用具入れを開け、デッキブラシを取り出す。
「掃除するの?」
「そりゃ今はそーいう時間だから」
 いつも来ないくせに、とは思ってもいわない。水を撒いていなかったので、松本君がタイルに放水していった。
 数分後、監視の先生が来た。松本君が来た今日に限って先生も来るなんて妙にタイミングが良い。彼が来てくれたのは、雪兎を慰めるためなのではと感動していたのだが、先生が見に来ることを事前に知っていたからなのかもしれない。あるいは両方か。

 終礼後、西村さんと言葉を交わさず、一瞬目を合わせただけで別れてしまった。
 今日は一人で帰りたい気分だ、と彼は思う。だが三組の駐輪場に、周りの生徒より一回りデカイ、屈強な男が、スタンドを立てた自転車に跨ってペダルをくるくると回していた。雪兎は向かいの二組の駐輪場に入っていく。
「お、やっと来た」弥城はペダルを更に回す。「早く帰ろうぜ」
 一人でさっさと帰ればいいのに、とは思っても彼はいわなかった。
「ユキさん、あれからその足で帰ったのか?」
 道すがら、弥城はハンドグリッパーを握りながら、僕のことを訊ねてきた。うん、と雪兎はいう。てか、さん付けするなってあれほどいったのに。
「真白、ちゃんと送ってったよな?」
 雪兎は質問の意図がわからず、なんとなくで首を横に振ろうとしたが、肯定しろ、と僕はいった。雪兎は頷く。
「家まで送っていったか?」
 雪兎は理解した。「自転車で家の方まで送ってったよ」
 弥城はほっと息をつく。「そうだよな、時間も遅くて暗かったしな」
「うん」
「あんな清らかで美しい心を持つ女性に何かあってはいけない」弥城はポケットからハンドグリッパーを取り出す。「真白、鍛えろ。もしユキさんが暴漢にでも襲われたら、お前が盾になる必要があるんだ。三回でいいからやってくれ。今日はそれで満足するから」
「雪ならそんなことにはならないから大丈夫だよ」
「大丈夫なわけあるか、何かあってからじゃ遅いんだぞ、備えあれば憂いなしだ」
 無理やりやらせて勝手に後悔したのに、と雪兎は思う。でも、次回やるかどうかは置いといて三回なら、と受け取った。前回のものと同じだ。握りしめるがやはり固すぎる。
「ユキさんはどれくらいの頻度でランニングするんだ? 考えてみれば、あの橋に来るまでは一人なんだよな? 真白は最近、稀にしか走ってないし……」
「雪なら本当に大丈夫だって、ひと気のないところを走る子じゃないし」
「いや、できれば一緒に走れ。あんなに魅力が迸る美女があんなにも薄い服でランニングなんて……夏だから服装はどうしようもない。だから傍で走る人間がいたほうが良いはずなんだ」
 もしかすると弥城、僕のことを好きになってしまったのではなかろうか。
(雪が調子にのって接したから、弥城は君への恋慕スイッチが入っちゃったんじゃない)
 僕は自分が真白雪兎のつもりで接してただけだし。まあ過激なことしたのは認めるけど。
『ねえ、雪が好きなのかって訊いてみてよ』
 そんなこと訊ねたくない、と彼は思う。だろうね。
「真白、お前は、ユキさんに……その、特別な想いはないのか?」
 逆に訊ねられたもんだから、僕は笑った。
「……良い、とは思うけど」雪兎は恥ずかしさのせいで言葉を濁した。
「なんだ、まさかユキさんにはすでに交際してる相手がいるとか」
「いや、いないよ」
「だよな、いたらそいつが一緒にランニングしてるはずだ。じゃなかったら人間性を疑うレベルだぞ」
 女が苦手な弥城だが、女性の身を案ずる気持ちは繊細なようだ。そんな弥城を、僕は心から肯定したい。
『雪は、弥城って温かい心の持ち主で頼り甲斐があって素敵だっていってたよ、とか伝えてよ』
 それは言いたくない、と頑なに雪兎は思う。いわないと表に出るぞと脅すと、彼は若干のショックを受けつつ口にした。すると弥城は明らかな動揺をみせる。
「を、ふぉをを、をれのっと、ソン、うれし……」
 などと意味不明なことをいい、弥城は高速でハンドグリッパーを動かすのであった。雪兎は不快な気分に陥っている。
『そんなふうに思うなら、腹を割っていったら? 僕は雪が好き、弥城はどうなの、って。弥城とは、それくらいいえる仲だろ』
 なぜまるで火に油を注ぐようなことをいわなければいけないのか、僕たちの友人関係を壊したいのか、と彼は怒る。
『んなわけないだろ。そんなことで弥城との友情が壊れるとも思えないね。ほら、言いなよ。帰ったらキスしてやるから』
 彼の心臓と下半身が露骨に反応した。容易く、いおうと決めてしまう。相変わらず真白雪兎はちょろいぜ。
「弥城、僕は……雪が好きなんだ」
 弥城がこちらを注目する。「お……おう。良いとは思う、という返答はつまりそういうことだよな、わかってるぞ」
「うん。それで弥城はどうなの?」
 お、と口にしてから声が途切れた。弥城は視線を宙にさまよわせ、再び雪兎を見ると、「おお」と拳を握りしめていう。
「あれは、めちゃくちゃ良い人だ。俺にはわかる。一度しか会ってないし、少ししか声を交わしてないが、外見も性格の良さも宇宙一の女性だと、俺は心から思うぞ」弥城は前を向く。大きく深呼吸をした。「わざと俺とユキさんを会わせたんだろ」
「へ?」
「わかってる、真白はそういうやつだからな。俺のためにわざと引き合わせたんだ。俺は涙腺が崩壊しかけたんだぞ……ユキさんも協力してくれて──あんな、一万年に一人現れるかどうかの美しい人が俺なんかの傍に来て一生懸命、女の苦手意識を克服させようとしてくれた。俺はそんな人に、容易く好意を寄せることなど、できない」
 弥城が両肩をがっくりと落とし、手放しになる。洟を啜りながら車体をふらつかせた。
「弥城、危ないって、ハンドル握って」
 倒れそうになる前に左手でハンドルを掴んだ。
「ああ、そうだ。たった一日で俺は、ユキさんに惚れた。でも、彼女が俺に接近してくれたのは好意からじゃないことくらいわかる。ユキさんは精一杯俺と向き合おうとしてくれただけなんだ。そうだろ?」
 雪兎は反応に困る。「わからないけど……」
「俺を傷つけまいとしてごまかす必要はない。そんな柔な鍛え方はしてないぞ」自分の強さを見せつけるようにハンドグリッパーを力強く動かす。「俺は真白を応援したい。本気だ。真白とユキさんなら、似合う感じがするからな。顔立ちも似てたし。それに、もしかしたら、ユキという漢字は、降る雪なんじゃないのか?」
 雪兎は頷く。
「やっぱりそうか。ますます二人は似合ってるぞ。真白は控えめな性格だからなあ……グイグイ攻めたほうがいい。じゃないと、あっという間に他の男にとられるぞ。あんな、何もかもが透き通った女性を男が放っておくわけないからな。俺は真白とユキさんにぜひ交際してほしいと願ってる。それで、また一緒に走ろう。うん、それがいい」
 弥城は一人で納得し、まるで未来に思いを馳せるように、鈍色の曇天を見据えながら微笑んでいた。が、弥城は突如その顔を歪ませる。ゆっくりこちらを向いた。
「ユキさんと交際を始めたとして、俺を見捨てたりしないよな? 一緒に遊ぶよな?」
 真白雪兎は、恋人ができたら二人きりだけで慎ましやかに愛を育みたいと考えていた。たとえ仲の良い友人でもその世界に入ってきてほしくはなかった。今もそう思っている。でも弥城は、人の輪に交ざりたいという気持ちが強くて、それを押しつけようとする面がしばし見受けられた。そうして、友達に「鬱陶しい」とはっきりいわれてしまったことがあった。それから弥城は人との距離の測り方を不器用に探るようになった。
『肯定してあげたら? 僕は構わない』
(それって、つまり、僕と付き合ってくれるってこと?)
『あ、いや……そういう関係は止めよう』
 雪兎はショックを受けた。意味が分からない、と思う。
(じゃあどうして僕にキスするとかいうんだ)
 なんていえばいいのか。『そんなふうに限定した関係になりたくないんだよ。僕はあくまで君と対等でいたい』
 僕の一連の言動を思い返す雪兎。どこが対等だったんだ、と思う。……またこれをいうしかない。
『雪兎は鏡を見て、その自分と真剣にカップルになりたいって思う?』
 僕の言葉は雪兎の胸に突き刺さった。痛みのほどを僕も知ってしまう。
『傷つきすぎだよ。家に帰ったらキスはしてあげるから、立ち直ってくれ』
 真白、と弥城の声。「はっきりいってくれよ……迷惑ならそれでいいんだ。二人の邪魔だけはしたくない」
『早く肯定しなよ、弥城がどんどん落ち込んじゃうよ』
 弥城は背中を丸めていた。ハンドグリッパーをまともに握れていない。雪兎は、「もちろん一緒に走ったり遊んだりしよう」と答えた。すると弥城は瞳を輝かせ、「いいのかい?」と訊く。雪兎は頷く。弥城は満足げに何度も頷いた。
「よし、二人が素敵な関係になれるよう、俺は祈りの筋トレをする。ハンドグリッパーをくれ」
 弥城が手を伸ばすので渡した。それから、弥城は両手放しで猛烈にハンドグリッパーを握りまくっていた。

 堤防の道が終わるころ、雨が降りだした。家に着く頃にはびしょ濡れだ。弥城に雨具を貸そうとしたが、気合で突破するといいノンストップで突っ走っていった。
 一人になると、彼は途端に蟠りを思い出し、僕とのことで落ち込みだした。……仕方のない奴め。
 玄関を抜けると、僕は彼の中から飛び出した。うぉ、と彼が驚く。僕は掌を向けた。
「廊下が濡れるからそこで止まって。タオル持ってくる」
 浴室に入り、大きめのタオルを取る。ついでに鏡を見た。学ランを着た超絶美形の女がそこにいる。未だに自分の姿には慣れず、戸惑った。服の中に入った髪を全部出し、胸がきついのでボタンを開けてから、雪兎の元へ向かう。
 彼は学生服を脱いで待機している。こちらに手を伸ばし、ありがとう、と低い声でいった。タオルを髪に押しつけてやる。うわぁ、と雪兎は嫌がるように動く。
「宇宙一の美少女が拭いてやるから、じっとしてて」
 彼はおとなしくなった。髪や顔の水分を丁寧に拭き取ってやる。シャツのボタンを外してあげて、濡れている身体を優しく拭いた。
 玄関は薄暗いのだが、雪兎自身ずっと暗い顔をしていた。雪は恋人になってくれない、という事実を突きつけられて死んだ魚のような目をしていた。
「その暗い目、止めろよ。僕はいつも君の傍にいるんだからいいじゃん」
 そうじゃなく、彼はそれ以上の深い絆を求めていることを僕はわかっていた。それを叶える気は毛頭ない。いじけたような態度を取られても何も変わらないんだよ、雪兎。
「あとは自分でやりなよ」
 タオルを押しつけた。自分≠フしみったれた姿は気分のいいものではない。ブサイクで気持ち悪く見えてくるし。元々良い顔でもないんだけど。
 僕は階段に向かう。ふいに、前方に両腕が飛び出した。音がたつほどの勢いでその腕が僕に巻きつき、何かに背中を打ち付けられた。
「キスしてよ、約束でしょ」
 雪兎が抱きしめてきた。興奮した息遣いが耳元で聞こえる。髪に、顔が擦りつけられた。彼の欲情が僕に流れ込み、痛みを伴う。それでも彼は抱擁の力を強めた。
「キスしてくれたら離れるから……」
 うまく力がこもらず、抜け出せない。従うしかなかった。約束はしたんだし、と、僕は無理やり、顔を横に向ける。その隙を狙うように雪兎が僕の唇を塞いできた。その一瞬で止めるつもりだったのに、雪兎が唇を貪ってくる。舌が、侵入してきた。
 その瞬間、激しい痛みが口腔を襲った。
 まるで劇物が口の内部を溶かすようだった。喉の奥には無数の針が刺さったみたいに感じて、奴の舌を噛み切る想像を過ぎらせたがそんなことできない。吐き気に見舞われ、鼻がもげて、目玉がボロりと落ちそうな感覚があった。とっさに右肘を雪兎の腹に突き刺した。オグッ、と彼が呻く。力が緩んだ隙に逃げ出したが、足がもつれ、床に倒れた。死の恐怖に突き動かされ、四つん這いでとにかく進んだ。僕は口に指を突っ込む。溶けてなんかいない、口の形を保っている。針もない。だが口腔の感覚がまるでなかった。
「僕は……」
 雪兎が何かを言いかけて止まった。足の感覚が戻ってきて、階段の細い柱に縋りながらゆっくり立ち上がる。玄関を上がったところで雪兎がうらめしそうに睨んでいた。雨音と、微かな息遣いが聞こえる。
「僕は、雪が好きなんだ!」
「だからなんだってんだよ!」
 うまく呂律が回っていない声だったが、迫力は出せたようで、雪兎はびくついていた。
「お前が僕に惚れてることなんか、嫌というほどわかってる。こっちは全部わかってるんだよ。でもお前はどうだ、僕の苦しみを理解できてない。僕に起こる苦痛に、大して現実感が湧いてない。舌を入れられたときどれだけ痛かったか、全く想像もできてなかっただろ。針千本、口に突っ込んで飲ませてやろうか。僕が味わったものを少しは体験できる」
「そんなこといわれても」雪兎は拳を握り、震えた。「僕だってひどく胸が苦しいんだ。切ないんだよ。君への想いが何も届かない」
 自分の胸を押さえつけて呻吟した顔になる彼。その仕草が気色悪かった。
「だから時々はサービスしてるだろ。それで我慢できないなら、もう僕は君に何もしない。二度とキスもしない、自慰行為を手伝ったりもしない」
 雪兎は鋭く息を吸い込み、目を見開いた。泣きだしそうに顔を歪める。だが、パッと表情が変わった。憤りを滲ませ、無言で一歩、こちらに踏みだしてきやがる。
「おいバカ、そんな顔して近づいてきて何するつもりだ」
 目が据わっている。僕はいったいどうするべきなのか。一瞬の内に思考を巡らせた。真白雪兎が本気で人を傷つける行為をするわけがない。最後にはそう信じることができた。
「この家には僕と雪しかいないね」
 ドスの利いた衝撃的な声が耳に入った。雪兎は遠慮のない動作でこちらに来る。階段を上るか廊下を進むかの二択が唐突に浮かんだ。二階に行けば逃げ道がなくなる、という答えが瞬時に出て、廊下を進んだ。雪兎の足音が速くなる。僕は台所に飛び込んだ。
 涙が溢れるような感覚があった。自分に裏切られた。僕は信じたのに。絶対にそんなことしない、優しい男だって、信頼していたのに。
 勝手口まで突き進み、ノブを回す。鍵が掛かっていた。サムターンを回して開錠し、ノブをぐるりと回す。ドアを開き──腕が僕の身体に絡みついてきた。抱き寄せられ、ノブから手が離れた。雪兎の手が僕の肉体を這う。
「雪、大好きだよ、愛してるんだ! お願いだから雪も僕を愛してよ!」
 僕は激しい苦痛を訴えかけるため、とにかく叫んだ。でも雪兎はペッティングを止めてくれない。もう僕の痛みのことなど微塵も考慮していなかった。ただ自分の欲望を僕の中にぶちまけたがっていた。
 僕は、ここで死ぬんだ。そうしてこのクソ野郎は、白い糊みたいな液を数ミリリットル排泄した後で必ず後悔する。自己を満足させるために一時の欲情を突き通したことを、惨めに悔いるんだ。罪悪感を抱え、泣いて、何もかもやる気が失せ、せっかく良くなってきたのにまた元々の真白雪兎の姿になっていくんだ……。
 ──お前を、そんな状態にさせてたまるか!
 全身全霊をこめて、右肘を突き上げた。さきほどと同じ攻撃は見事に彼の腹部をとらえるが、浅い入り方だった。一撃では止めない。なけなしの力をこめて繰り返しエルボーを決める。奴の力が緩くなった。途切れそうな意識をなんとか保ち、僕は抜け出すのではなく、身体の向きを彼の方にやり、
「目ェ覚ましやがれェこのクソ雪兎!」
 腹に、右拳を突き刺した。人の声とは思えない音が奴の口から発せられる。身体をくの字に曲げ、ゆっくりと後退していく。僕は右手をほぐすように振ってから、顔面に向かって拳を繰りだす。固い衝撃。加減はしたつもりだったが、それでも雪兎の身体は横に傾き、ダイニングテーブルにぶつかって倒れた。拳の痛みを我慢して、雪兎の胸倉を掴んで上半身を起き上がらせる。彼は息を震わせ、チワワみたいな目つきで怯えていた。



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colorless Catトップ

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