彼女が僕の中にいる

第一話.君が僕の中にいる(page.A)



 頭が意識を始める。
 雑音が鼓膜に届く。風の音、葉が擦れる音、虫の鳴き声。カチカチカチカチ――。なにかが遠ざかっていった。
 目が機能して、黒色の布地が見える。後ろの景色は、上下が逆だと思った。立ち上がろうとしたが、変だ。肢体が引っ張られている感覚があり、地面をとらえることができない。
 いや待て、これって――
「うおァ!」
 顔の向きを変えて気づいた。僕は宙に浮いている。
 ミシミシという音が傍で聞こえて、僕の身体が下がった。ようやく気づくことができた。宙に浮いてるんじゃなくて……。
「樹に引っかかってる――」
 バキッと枝が折れ、急激に重力に引っ張られた。細い枝を圧し折っていき、鬱蒼とした草むらへ飛び込んだ。地に激突した瞬間に意識が途切れるかと予想していたが、強い衝撃と痛みが走り、呻吟するだけに留まった。
 落ちる最中には、僕がなにをしたのかを(さと)った。なんてバカなことをしたんだ、本当に飛び降り自殺するなんて――死ななかったから良かったものの、樹に引っかかってなかったら僕は絶命していた。
 肢体に動けと命令をする。全身が痛むが、なんとか動作した。骨は折れてないだろうか。救急車を呼ぶべきか。……恥ずかしすぎる。でもきちんと診てもらうほうがいい。
 後悔の念が波のように押し寄せた。数分前に戻れるなら常軌を逸した行為をなかったことにしたい。
「とにかく、動こう……」
 両手で雑草を地に押さえ込みながら力をこめ、上体を持ち上げた。足を立てて踏ん張る。立ち上がるとよろけた。落ち着いて呼吸をする。胸の辺りが強く痛んだ。
「えっ?」
 肋骨の辺りを見ようとしたとき、異常な状態に気づいた。上半身がものすごく腫れている。触ると、ぐにゃぐにゃになっていた。痛みのほどはよくわからないが、死が過ぎって蒼ざめた。
「自覚症状がないだけで、かなり危険な状態――」
 そこまで口にして、声が掠れていることに気づいた。喉もやられている。歩くことはできた。草を掻き分けて進み、アスファルトの道に出る。地下駐車場に下りて、自転車を置いた場所へ。
「あれ……」
 自転車が、ない。
 盗まれたのか? 歩きで廃墟観光に来たやつが「いい自転車あるじゃん、貰ってこ」と鍵を破壊して悠々と乗っていったとか。ふざけんなクソッ! やはり救急車を呼ぶか……母さんにこんなことバレたくないけど、とにかくどうにかしたい。
 考え込むように顔を両手で覆った。手を離すと、血液は付着していない。五体も満足だし、よほど幸運に恵まれた飛び降りをしたようだ。携帯は壊れていないだろうか。上着のポケットに入れていたが。
「……ない」
 どのポケットを探ってもなかった。建物の周囲や、草むらを捜す。屋上から飛び降りたあと元気に携帯を捜し回る自分が滑稽だった。妙に背中がぞわぞわとすることに気づいた。身体を叩きつけられておかしくなっているんだ。
 携帯は見つからなくて僕は泣きそうだった。飛び降りた自分をひたすら呪った。
 ……一旦帰ろう。足腰はしっかりしているんだ、時間をかければ家にたどり着ける。
 県道へ出ると、奇妙な感覚がした。景色に呑まれているようで、家の方角がわからない。誰かに尋ねるべきか……そういうことはしたくないのだが。
 ブレザーを着た高校生らしき集団が自転車でやってきた。同年代には余計声をかけづらい。すれ違い際、彼らはじっと僕を見てきた。通り過ぎていく。唐突に一人がブレーキをかけ、振り返った。つられて他の人たちも止まった。
「君、なんか困ってるの?」
 僕は思わず首を振る。それなのに男は引き返してきた。なぜか僕の顔を覗き込んでくる。男は整った顔立ちで、僕があまりにも醜い顔だから珍しいのだろうか。失礼に思いつつも、なにもいえず、動揺した。男は仲間たちの方を向く。
「ほら、やっぱ女じゃん」
 ……へっ?
「なんで学ラン着てるの? そういう学校?」
「制服は朝日西高のものじゃね? あそこって女子は紺色のセーラー服だよ」
「ねえ、朝西の生徒なの?」
 なんでこんなにも僕に迫って会話を展開しているんだ。誰もがちらちらと僕の上半身に目を向けてくるし。もしや、腫れのせいでとんでもない思い違いをされているのか。
「そうですけど、僕はどう見ても男ですよ。これは怪我をしたんです、だから腫れてる」
 ぐにゃぐにゃに膨らんだ部位を指で押さえる。三人の男がなぜか一斉に笑った。最初に僕に話しかけてきた男だけは目の色が変わった。
「声、すごく綺麗だね。顔も可愛い。それで男のふりしたって意味ないよ、君のキュートさを全然隠せてない。それでももし君の言葉が本当なら、大きな胸に触れてみてもいい?」
 それが僕に向けられたものだという自覚を持てなかった。少し遅れて「はっ?」と威圧的に返した。
「国崎、ナンパとセクハラ同時にすんなよ」隣の奴が軽く男を叩く。
 僕が、ナンパされてセクハラもされたのか? あっ、こいつもしかしてホモで、僕を女性側に見ようとしている、とか。気持ち悪すぎるだろ。
 これ以上会話を続けたくなくて歩きだした。待って、と呼び止められる。国崎と呼ばれた男は自転車を降りている。
「連絡先を教えてほしい」
 本気で僕を狙ってるのか? 同性愛者だとしても、イケメンのくせに僕に興味示すとかどういう神経してんだ。
「携帯は失くした」
「うわぁ、もぉ、ほんと声が可愛い。あ、いまね、透視して見つけたよ。学ランの裏ポケットに入ってる。触ってみてよ、それか俺が触って確認してもいい?」
 ぞっと身震いが起きた。なんだ、いまの寒気。
「失くしたっていってるだろ、なんなら制服貸すから勝手に調べろよ!」
 学生服のボタンを外していく。膨張した上半身のせいで、外すたび、パツ、と音がたった。そのたびに男たちが、驚嘆をまじえた歓声をあげた。僕はバッと制服を開く。
「えっ、なにこれ……」
 身体の異変に気づいた。夏服の白シャツがはち切れそうなほど、胸部が膨らんでいる。乳頭がはっきりと浮いていた。
「君さ、下着つけてないよね」
 ナンパ男の国崎が動揺していった。全員が胸元に注目している。僕は、指で自分の胸の感触を確かめた。男たちの言動を思い返す。
 冷水に顔をぶち込まれたようだった。頭が真っ白になりかけて、足元がふらついた。ぶんぶんと首を振り、視線を彼らに向けた。
「僕は、女にみえるのか」
 一同は訝しみながらも頷いた。ナンパ男が近づいてくる。興奮するように、息遣いを荒くしていた。
「どうみても、めちゃくちゃ可愛い女性だよ」
 その言葉が、僕の呼吸を止めた。
「一切お世辞はいってないから。そんなふうにしてるってことはさ、胸、触ってみていいんだよね?」
 遠慮のない動きだった。国崎の手がサッと伸びてきて、僕の胸部を鷲掴みにした。ざわっと鳥肌が立ち、
「ひゃあ!」
 甲高い声をあげてしまった。驚いた国崎は手を放し、僕は腕を振っていた。平手が国崎の左頬を、パン、と強く打った。生まれて初めて、人にビンタをしてしまった。
 国崎は横に向いた顔を戻し、
「その反応、君は立派な女性だよ。自信を持ってくれ」
 そういって頬を押さえつつぎこちなく笑った。
 なにもかもおぞましくなり、僕は駆け出した。膨らんだ胸部が重く、揺れて痛む。追ってくる気配はなかったが、それでも恐怖心から男たちを撒くように入り組んだ道を進み続けた。カーブミラーを見つけて、足が止まる。息を整えつつ、おそるおそる近づき、鏡を覗く。
 そこに、見知らぬ女の姿が映った。
「君は、誰?」
 問いかけると、鏡の女も、同じ口の動きをしていた。つまり、信じられないし信じたくないけれど――
「僕なの?」
 女も「僕なの」という口の動きをした。よく見れば、僕に似ている。目立ちや口元は特に。鼻は、鏡の女の方が少し小さいか。あとは眉毛と顔の輪郭、目の位置が違う。それらが女性だと思わせるふうに変化し、綺麗に整っていた。首を動かすたび、ぞわぞわとする感覚があったのだが、鏡をよく見て気づいた。髪が服の中に入っている。全て引き出して前に持ってきた。異様に長くなっている。僕の髪質じゃない。さらっとしていて、癖のない艶のあるストレートの黒髪だ。
 漫画みたいに頬をつねると、痛かった。僕は恐怖から逃れるようにまた走りだした。帰りたい一心でさまよい続けた。見覚えのある場所に来て、日暮れの前に家に着いた。ガレージに車はない。……中にいていいだろうか。母が帰ってきたら通報されるかもしれない。なにをいっても、身元不明者として警察に保護され、施設で暮らすことになってしまう予感がした。
 門を抜け、
「あれ……」
 勝手口の前の軒下に、僕の自転車があった。朝日西高校のステッカーと、フレームに「真白雪兎」という名前もある。
 早歩きで玄関へ移動した。足元の壁に細工された引き出しから鍵を取り、扉を開ける。家の中に入り、
「ヒッ――」
 玄関を見て息を飲んだ。自分の目を疑った。
 僕の黒いスニーカーがある。
 自分の足を見た。いま、全く同じ黒いスニーカーを履いている。
 肌が粟立っていた。この現実がひたすら不気味で、手足が震えていた。心臓がバクバク音をたてている。
 疑念を振り払うように靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がった。自分の部屋の前に立つ。ノブを掴み、回して、開く。
 僕の姿が部屋の中に映った。
 巨大な鏡がそこにあるように感じたが、僅かな挙動を見せたので、僕の身は竦んだ。
 鏡ではない。

 目の前には、僕自身が突っ立って存在していた。

「誰ですか、あなた」
 その僕≠ェ口を開いた。不気味で、嘔気がこみあげた。
「お前こそ、誰だ!」
「いやいや、人の家に勝手にあがりこんで面白いこといいますね」
「違う、ここは僕の家だ!」
 奴は笑う。「僕の家ですよ」
「違う、お前は偽物だ、いったいなんなんだ!」
 あー、と奴がいう。「えっと、落ち着いてください。まず、僕の名前は真白雪兎といいます。あなたの名前はなんですか?」
「真白雪兎は僕だよ! どうやってこんな、わけのわからない状況にしたんだ」テーブルに置かれた携帯が視界に入った。「僕の携帯をどうやって持ち去った!」
「あー……十六年も生きてるとすごいことに出くわすんだな。落ち着いて思い出してほしいんだけど、君は病院に入院してたんじゃないかな。きっとこういうケースの病って探せばあると思うんだ」
 こいつ、僕を精神病患者に仕立て上げる気なのか?
 奴に立ち向かい、胸倉を掴んだ。「勝手に僕の服を着て、僕と同じ靴を履いて、僕にすり替わる気か! なにが目的だ、ふざけやがって――」
 勢いをつけて殴り飛ばした。奴は座卓にぶつかったあと床に倒れた。すかさず馬乗りになる。無我夢中で奴の顔を掴んだ。仮面を剥がそうと試みるが、できない。奴は抵抗し、その手が、僕の胸に触れ――
 その瞬間、身が焼かれるような激痛に襲われ、僕は悲鳴をあげてのけぞった。後ろへ跳躍するようにして離れた。
「いま、僕になにをした!」
「なにかしたのは君のほうじゃないか」奴がゆっくりと起き上がる。「警察を呼んでもいいですか? 君はきっと保護されるべき人だから。家に侵入したことは不問に……」
 奴は言葉を止め、手で口を塞ぐ。
「どうやって入ってきたんですか。鍵を掛けたはずなのに」
 ……僕には、鍵を掛ける癖があった。
「壁から鍵を出したんだよ」小さな声でいった。
 すると奴は目を見開いて、僕の姿をじろじろ見ると、震えだした。
「まさか……ちょっと、確かめたいんですけど」
 奴は質問を始めた。僕の誕生日。一月二十八日。両親と兄の名前。母は桃花(ももか)、旧姓は鈴木。父は(いつき)。兄は純征(すみゆき)。昨日書いた日記の内容、初恋の相手の名前。回答すると、奴は満足したようだった。
 本当は僕も薄々、思っていた。僕からも質問する。父が亡くなった日。死因。兄はどこにいて、なんの大学に通っているのか。エロ本の隠し場所。返ってきた答えは、僕の考えと完全に一致していった。そこまで耳にして、僕はずっと否定したかった可能性を、ついに認め始めていた。
 奴は手で顔を覆う。思考を巡らせるときの僕の癖≠セ。こんなキモいポーズだったのか……。
「じゃあ、君はいま、学生服を着てるけど、中の夏服の白いシャツ……その背中には、なにが書かれてる?」
 守丘に書かれた「しね」という言葉。僕は眩暈を感じながら、制服のボタンを外していった。奴が動揺をみせる。肩からズリ下げて背中を見せた。
「しねって書いてあるか、見て」
 奴は真顔になって僕に近づく。「すごい、書いてあるよ」
 そういったあと、奴自身が脱いだシャツを僕に見せた。薄っすら「しね」という字が書かれている。
『僕と同じ服装』
『もう一人の自分のような人』
『女性になった真白雪兎』
 ……どう考えても、まさしく、いまの僕がそれだ。



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