彼女が僕の中にいる

第七話.僕が僕を看病する(page.A)



 僕の腕は彼の首から引きはがされ、その状態から顔面を殴ってやろうとするが届かない。雪兎が膝蹴りを放った。思考を読めていたので股間を蹴られる寸前で避けた。僕とこいつは力が同等のはず。その上で僕は密着時、雪兎の思考を読める。喧嘩して負けることはない──
 だが単純に押し飛ばされた。体勢が悪かったため、耐えきれず僕は横に転がる。食器棚にぶつかり、破損する甲高い音が鳴った。グラスが倒れて割れたようだ。ガラス戸のお蔭で破片が飛び出すことはなかった。逃げ出そうとしたが、雪兎が馬乗りしてくる。腕を掴み合った。
「本当にヤっていいんだよなあ、雪」
「その代わり僕はお前を()るけどなあ」
 お互いが爪を立てて皮膚にめりこませていく。握力をこめ、雪兎の手を離すまいとした。
「どうした雪兎、こんなんじゃあ僕の胸を揉むことすらできないぞ」
 雪兎の鼻息が荒くなる。涎を垂らしながら股間を僕に擦り付けるように動いていた。すげえ醜い姿だ。
 欲情が僕の内部に侵入し、ダメージを受ける。なんだ、考えてみれば僕と雪兎はお互い、うまい具合に不利と有利を持っているじゃないか。
 自分を保とうとするが、次第に意識が遠のいてきた。やがて雪兎は僕の左手を振りほどき、腕を掴まれた。床に抑えつけられる。僕にキスをしようと顔を近づけてくるが、それを避けるのは容易だ。僕は雪兎の右手を離し、側頭部を殴りつけた。奴は鋭い声をあげ、憎しみのこもった眼差しになる。愛する僕の顔面に向かって平気で殴りかかってきた。右手で受け止めたが、奴はすぐ二撃目に移る。完全に血が上っていた。何度も僕をぶん殴ろうとするが、その全てを防いでみせた。やがてその攻撃が無駄だとわかると、急激に欲情を膨らませ、こちらに流し込んできた。死が過ぎるような激しい痛みに襲われ、僕は絶叫した。視界が白黒とする。次の瞬間、ドン、と顔を何かが打ち付け、僕の頭が右方向に飛んだ。頬骨が痛む。殴られたんだと知った。微かに見える視界。雪兎が、再び拳を振り翳している。それが僕の顔にぶち当たる寸前、
 僕は、満面の笑みを浮かべてやった。すると雪兎はぴたりと止まった。
「女をぶん殴るなんてすげえ初体験だなあ雪兎、しかも僕みたいなとびきりの美少女だ、お前みたいな超キモイ糞ブサイクには一生、絶対にあり得なかったことだろうよ」
 ボグッ、と音がたち頭が揺れた。殴打の衝撃で意識が飛びかけた。雪兎は両手で、シャツの上から僕の胸を鷲掴みにして夢中で感触を楽しんでいる。
「おっぱいがそんなに恋しいか、マザコン野郎──」
 奴の顔を目がけ腕を振った。僕の胸に夢中になっていたから、容易に拳をぶち当てることができた。すぐに両手で勢いよく押し飛ばし、奴の身体を引きはがす。僕は感覚の鈍くなった肉体をがむしゃらに動かした。雪兎はすぐに追ってこない。這いつくばって台所を出ると、立ち上がって、走りだした。後方でも走る音がする。僕は階段を駆け上がった。雪兎は僕をどんなふうに犯したいかを家中に響く声量で叫んでいる。自分の部屋に飛び込み、ドアを引いたが、閉まらなかった。寸前で雪兎がノブを掴んだのだ。奴は無理やり、身体をねじ込んでくる。僕は力任せにドアを閉じた。
「いてええええええ!」
 雪兎が痛そうな声をあげ、僕はつい力を緩めてしまい、その隙を突くように奴が全力でドアを開いてきた。僕と奴は、同じ存在のはず。それなのに、ドアの隙間がどんどん開いていた。もう無理だと判断し、僕は手を放す。雪兎が突っ込んでくる。
 次の行動が、被った。
 お互いが相手の顔面に向かって拳を繰りだしている。腕が交差する形で、同時に頬をとらえた。直後、取っ組み合いにもつれ込む。僕らの喧嘩が終わる兆しはなかった。むしろ、今ようやく火蓋が切って落とされたようだ。

 闘いの経過は惨憺(さんたん)たるものだった。
 場が自分の部屋に移ったとき、すでにお互いの体力は激しく消耗していたものの、それでも殴る蹴るの応酬が続いた。時にベッドで押さえつけられ、一生懸命僕の肉体のあちらこちらをまさぐって強姦を果たそうとする雪兎。時に攻撃を華麗に避けてカウンターを決める僕。間違いなく真の喧嘩だった。僕は自分の命と身の貞操を賭けて。彼は雄としてのプライドと命を賭けて。
 ……でも、実のところ僕は全くの余裕だった。こちらが死に物狂いの力を示しさえすれば、雪兎は性行為まで辿りつけないから。そして僕は──確証はないのだが、究極の回復手段を思いついていた。だから彼が精も根も尽き果てるまで喧嘩を続ける覚悟だった。雪兎のどうしようもない鬱憤を全部吐きださせ、僕が受け止めるつもりだった。優男な雪兎にそんなことをさせられるのは、僕しかいないんだ。
 そうして雪兎は力尽きた。同じく僕も。まともな攻撃もできず、一緒にベッドに倒れた。
「死ぬ……」
 雪兎は呟いた。僕も死にそうだった。口の中を切りまくって血なまぐさい。試しにそれを吐きだすと、やはり消えた。僕は彼に擦り寄って、そっと腕を掴む。雪兎の虚ろな目がこちらに向き、瞳を重ねた。彼の髪を撫でてやる。
 僕は、雪兎の中に入った。
 彼の痛みのほどを知るが、さっきの僕とほとんど変わらない。
 再び、外に出た。
 するとどうだろう、思い描いていた通りだ。雪兎との闘いで受けたダメージは完全に消えた。生まれ変わったように、おそろしくすっきりとした気分だった。
「聞けよ雪兎、君から入って出たらすっかり元通りだ。ねえどう、君に殴られた所も綺麗になってる?」
 雪兎の顔を覗き込む。目元が腫れていて、虫の息だ。僕はそっと彼の首に手をかけた。
「今なら簡単に君を殺せるかな? ほら、抵抗してごらん」
 いっそ一思いに殺してほしい、と雪兎は半分本気で思考する。その奥にはもう、欲情の欠片も残っていなかった。
「そんなことするわけないだろ」手を離し、頬を撫でて微笑んだ。「僕と精根尽きるまで暴れて、すっきりした?」
 暴れさせるためにやったのか、とようやく雪兎は気づく。
「そうだよ。それに相手が僕なら、誰も傷つかずに君は貴重な経験ができる。欲望を渦巻かせながら美少女と死闘を繰り広げることができて、激しく興奮しただろ? アドレナリン分泌されまくりだっただろ?」
「君は、むちゃくちゃだ」
 彼は眠気に襲われていて、声が淀んでいた。
「まだ寝るな、君は飲み物を欲してる。一杯飲んでから寝た方がいい」
 立ち上がり、駆け出す。闘いで傷ついた愛しい男のために水を汲んでくる美少女、という構図をふと意識して、僕は自嘲した。
 部屋に戻るが、案の定ベッドから寝息が聞こえた。顔の至る所が腫れており、爪で引っ掻いた痕もあった。……やりすぎたかな。
 中に入れるか試そうと、肩を握って無理やり瞼を開いて瞳を覗くと、彼はうざったそうに唸った。何も起きず、入れない。身体に触れても思考が覗けなかった。見ている夢を知ることはできないのかなと期待したのだが、彼が寝ているときは同期できないようだ。どうしようもないので自分≠フ寝顔を見つめていてやる。意外と面白味はあった。

 ふっと目を開く。部屋が薄暗い。雪兎の姿が消えている。僕は目をこすった。
「僕も寝てたのか……」
 身体にブランケットがかけられ、テーブルのコップはない。時刻は十九時を回っていた。
 しばらくして階段を上ってくる音が聞こえた。音で人物はわかるが、念のためベッドの後ろに隠れる。ドアが開き、僕はちらりと覗いた。いた、と雪兎が呟く。
「君の顔腫れてるから、お母さんに心配されたでしょ」
 彼はベッドに腰かける。「ややこしくなるから、学校とは関係のない場所で不良と喧嘩したっていった。僕も相手をボコボコにしたって付け加えておいたよ」
 彼は手に氷嚢(ひょうのう)を持っていた。腫れた部分にそれをつけると、痛い、という。僕の胸も痛んだ。
「一応謝るよ。君に過激なことさせて悪かった」
 雪兎は何かを迷うように目を動かし、顔を伏せた。どうした、と問いかけるが、彼は何もいわずベッドに仰向けになる。
「疲れてるから僕は寝るよ。歯も磨いたし」
 僕は何か言いたくて、口を開いたのだが、なんていったいいのかわからなかった。だから、わかったよ、とだけいった。彼の中に入ろうと近づく。すると雪兎の視線が、まるで僕を刺すように向けられた。
「ひとりで寝たい。入ってこないで。押し入れに布団あるからそれで寝て。あるいは僕がそっちでもいいけど」
 ふっと胸が苦しくなった。突き放されている。だが、一人にしてあげたほうがいいのだと頭を切り替えた。
「君はダメージを回復しなきゃいけないからベッドで寝てくれ」
「うん……ごめんね」
 部屋着のままで布団に潜ってしまう。僕はパジャマと下着を出してベッドに投げ込み、明かりを常夜灯にした。雪兎は着替える。僕は押し入れから布団を出していった。
 相当ダメージが蓄積しているのか、僕が布団を敷き終わる頃、雪兎は朦朧としていた。僕も別のパジャマを着て、部屋の鍵を掛けると布団に入った。
 別々で寝るのは初めてだけど、特別な感じはしない。それより今日やったことは本当に正しかったのかと、薄暗い天井を見つめながら自問自答した。
 真白雪兎にとって、女性を殴ることは神への冒涜と同義だった。そもそも彼は人生で一度しか人を殴ったことがない。……相手は紅蓮だ。僕が中にいて煽ったことと、紅蓮も自分を殴るように仕向けてきたから、それでようやく手を出せた。雪兎にそんなことをさせた紅蓮は、とんでもないやつだと今は素直に感心できる。
 誰に対しても真白雪兎は他人行儀で、常に絶対的な壁を置いていた。だから本気で相手にぶつかることもしなかった。木場や一条や守丘にバカにされて叩かれても、やり返さない。報復が怖いというものあるけれど、攻撃を仕掛ければ、そのとき壁を自ら破ってしまうことになるから。自分の心を誰にも触れさせないために、人を冷めた目でしか見られない人間だった。そんなふうになってしまったのは、父の死が大きく関わっていることだろう。僕はこんな自分≠ェ嫌いだった。でも今日、殻を破った。真白雪兎が絶対にやるはずのないことをやったんだ。僕との闘いは、雪兎にとって、身も心もイケメンになるための通過儀礼だったと信じている。人を、ましてや女を殴るのは最低な奴のすることだとよくいうが、それは元々人を殴れる人間にしか通用しない台詞だ。暴力をふるうのは間違った行いだけど、人を殴れることと殴ることがどうしてもできないことは違う。真白雪兎はひたすら我慢して自分の感情を殺してしまう。だからこそ、自発的に僕を襲おうとしたことを評価してやれた。
 人に自分の感情や欲望をうまくぶつけられない気弱な奴は、ひたすら孤独だ。……僕は雪兎を、その孤独からほんの少しは解放してやったんだ。

 翌朝、雪兎はまともに起き上がれなかった。倦怠感と吐き気に見舞われ、発熱していた。……知らなかった。喧嘩して熱が出ることがあるんだ。
 彼は母に体調を伝えると、大事をとって病院に行くことになった。僕は中に入りたかったのだが、
「雪は留守番してて」
 と、死にそうな顔で彼はいった。あまりに酷い体調なので入ってきてほしくない、と頑なに拒まれた。僕は何も言い返せず、胸が痛んだ。
 家に僕一人だけとなる。ベッドに横たわってぼんやり過ごした。そうしていると、今まであったことは全て夢で、僕は真白雪兎に戻っているようだった。でも胸は異常なほど膨れ上がっているわけで、髪が長すぎるわけで。
「僕は真白雪兎だー!」
 それは女の声なわけで。僕は自嘲して、枕や布団のにおいを嗅ぐ。到底、他人のにおいとは思えない。嗅ぎ慣れた僕の体臭だった。
「……ごめん、雪兎」
 誰に謝ったのだろう。雪兎のいない状態でそれを口にしても可笑しいだけだった。彼に対する罪悪感はこの胸にあるのだが。

 車の音が聞こえた。
 僕は布団から出て、一応、ベッドの陰に隠れる。玄関が開く。お母さんの声。安静にしていなさい。もう無茶なことはしないように。そんな言葉が微かに聞き取れた。階段を上ってくる。部屋のドアが開く。僕は少し覗いて、彼と目が合った。
「おかえり」
「隠れなくても、この部屋には僕しか入ってこないよ。お母さんは仕事に行ったし」
「万が一があるだろ」立ち上がり、布団をめくる。雪兎の腕を掴んで引っ張った。
「何するんだよ」
「横になるんだよ。安静にしてなさいってお母さんいってたし」彼をベッドに押し倒す。布団を被せた。「何か検査とかしたの? 異常あった?」
「むち打ちと、殴打による腫れがあるだけ。骨折はしてない。数日安静にしてれば腫れも引くってさ」
 僕は数度頷く。「僕にできることはある? なんでもいってよ、裸体になってご奉仕はしないけど」
 彼は力なく笑い、辛そうに深呼吸した。「身体がだるい、気持ち悪いよ」
 うっ、と胸が詰まった。「ごめん、マジで僕がバカだったよ」
 彼は不器用に首を振った。「僕、ずっと考えてたんだ。どうして君は、僕をけしかけたのかって。雪は今まで、何もかも、僕のためを思ってやってくれてたんだよね。よく知ってると思うけど、僕は一度だって人に対して本気で向かっていったことなんかなかった。波風立たないように心を殺して生きてた。感情をむきだしにして相手を何度も殴るなんて絶対にありえないことだった。形はどうあれ、雪はそれを僕にやらせたんだ」
 さすが雪兎、意図を把握している。僕は頷いた。
「歪んでるけど、熱情を持って相手に思いきりぶつかることを君は教えてくれた。その受け皿になってくれたんだろ。普通そんなことできない。君みたいな美女が自分の肉体を餌にして、僕が封じ込めた情感を本気で引き出そうとするなんて……常人にやれるわけない」
「まあ僕は君の中に入って出れば元に戻るだろうって思ってたんだけどね」
「そうなんだろうけど……。雪の真意を知って、僕、泣いたんだよ」
「えっ」
「昨晩の眠る直前、色々考えてさ、理解して、声を押し殺して泣いてた」
「じゃあ僕のしたことは正しかった?」
 うん、と彼はいい、僕を見る。「自分ができることあるかって雪はいったけど……それなら僕の恋人になってよ」
「そういう関係にはならないって」窓の傍に近づいて、曇り空を眺めた。「これだけはわかってほしい」
 黙然とした空気になった。しばらくして、雪兎が微かに息をつく。
「きっとそれも僕のためなんだろうね」
 窓を向いたままで静かに笑んだ。「自分と恋愛関係になるのが嫌なだけだよ」
 布が擦れる音。視線をベッドにやると、雪兎は壁を向いていた。



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