彼女が僕の中にいる

第七話.僕が僕を看病する(page.B)



 僕らはほとんど喋らなかった。雪兎は時折呻き声をあげるから、せめて苦しみを共有しようと僕は中に入ろうとするが、拒まれた。
「雪が外にいてくれるほうが気が楽だよ」
 人の気配があるほうが苦しみも少しは紛れる、と。それなら、もうじき昼なので雑炊を作って食べさせようと思い立つが、まともに料理をしたことがないので作り方がわからない。漠然と、難しくないのはわかるが。雪兎に訊いてもわかるはずないので、メールで母に訊いた。母は主に事務を担当しているが、時折現場の仕事を手伝う。事務所にいないならメールは来ないだろう。そのときは想像に任せて作るか。
「携帯を触って何してるの?」
「お母さんに雑炊の作り方訊いた」
「え、なに、意味わからない。変な文章打ってないよね? てかもしかして僕のために作ろうとしてる?」
「美少女が飯を作ってくれるのが信じられないのはわかるけど、誰が雑炊を食うんだよ」
「そんな面倒なことしないで、食欲もないし……僕の傍にいてよ」
 胸が、きゅっと詰まった。なんだ今の。まるで捨て猫が僕を見て「にー」と鳴かれたときに感じた心境に近かった。
「それでも何か食べないとダメだ。きっと消化の良いものがいい」
 うー、と微かに唸る音。「本当に、いてくれるだけでいいから。もう僕を好きになってともいわない。襲ったりもしない」
「あ、それは別にいいよ、いつでも受けて立つから。でもまた君がこんなふうになるのは嫌だな」
 彼は笑った。「君、凄いよ、もう僕の妄想を遥かに超えた存在になってる」
「僕は信じられないほど美しいからね。真白雪兎はさ、自分の見て呉れを良くすることを(はな)っから諦めてたじゃん。でも君ももっとかっこよくなれば、絶対に効率よく内面が変わるはずだって」
「整形でもしろって?」
「そうじゃない。紅蓮がいってただろ、君は簡単に化けるって。紅蓮にルックスのこと教えてもらったら、もっと自分に自信が持てるんじゃないかな」
「……名刺は捨てたし、あったとしても今更連絡したくないよ」
 まとめて燃えるゴミに出しているので、すでに名刺は家にはない。でもトヨナガボールに通えば、あいつに会えるかもしれないけれど。
 母のメールを受信した。雪兎を心配する文とレシピが記載されている。僕は大丈夫だよ、ありがとうお母さん。そう打ち込んで送信。携帯を雪兎に渡し、作ってくると告げた。
「僕は頑固だから、こうなったらもう止められないね」
 雪兎は諦めたようにそういった。
 材料を確認し、レシピ通り作れることはわかった。慣れない手つきで調理を始める。風邪を引いた彼氏のために愛情たっぷりの卵雑炊を作る気分だった。
 特に問題なく完成して、お椀を二つ出して一応僕の分も盛る。部屋に戻り、サービスで僕がスプーンで彼の口に運んであげた。
「美味しいよ、ずっと昔、母さんが作ってくれたのと全く一緒だ」
 僕はじーっと彼を見つめ、また一口食べさせる。雪兎もこちらを見つめ返していた。
「どうして僕が君を見つめてるかって?」
 雪兎は咀嚼しながら頷く。
「自分で作ったものを自分に与えて自分が食してる不気味な光景を楽しんでた」
 彼は喉を鳴らす。少し笑ったようだ。
「なんていうか、まるで僕が食べられてるような感じがするよ。彼氏に手料理を食べてもらうのは、きっと女にとって愛情のやりとりのようなものなんだな」
「……雪にとって、僕は彼氏ではないんでしょ」
 そうだよ、ときっぱりいった。面白くなさそうな顔の雪兎にスプーンを渡し、僕も食べてみた。お腹は空いていたし。
 物を食べて雪兎の中に入ると全て下に落ちてしまう。では充分な時間、外に居続けたら、果たして消化されるのかどうか。そこに興味もあった。
 なんだかんだいって雪兎は腹が空いていたようだ。おかわりまでして、残っていた雑炊を平らげた。僕は片づけを済ませると、あとは部屋でゲームをしていた。背後のベッドにいる雪兎がそれをぼんやり見つめている。
 熱中して遊んでいると、下校の時間を過ぎていた。
「雪兎、西村さんに電話しなよ」
 えぇ、と彼は嫌そうにいう。
「当然だろ、今日は彼女を孤独にさせた。昨日、変な雰囲気になっちゃったけど、西村さんは絶対に今日も一緒に過ごそうって思ってくれてたはずだよ」
「でもわざわざ電話して何をいうの」
「愛してるぞ望海、一刻も早く俺様のガキを孕めええええええ!」
「真面目に答えてよ」
「じゃあ普通に謝ればいいじゃん。今日は学校行けなくてごめん、風邪をひいたんだ。明日もいけないかも、とか。でも土曜には必ず行くよ、と」
 うーん、と彼は渋る。
「電話すりゃ絶対に好感度は上がる。僕の言葉を信じろ」
「わかったよ、その通りにします」
 おや、意外だ。もうちょっと拒むと思ったのだが。
「まだ帰ってきてないんじゃないかな」起き上がった雪兎は携帯を操作して、なんのためらいもなく電話を掛けた。「あ、もしもし。真白ですけど、望海さんはいらっしゃいますか? あ、西村さんだったんだ。あぁ、うん。大丈夫です、ただの風邪だから。えっと、今日、学校行けなくてごめんなさい。それだけは伝えた方がいいかなって、電話したんだけど…………そう? じゃあ電話して良かったです。明日も行けるかわからないけど、とにかく、西村さんさえよかったら、また僕と一緒に学校で過ごしてください。あ、そうだったんだ。……うん。そうだね」
 やけに雪兎の口調が滑らかで饒舌になっていた。また学校で、と雪兎はいい、切った。倒れるようにベッドに横になる。
「君さ、よく喋れるようになったね。いつもは言葉を詰まらせるのに」
「そうかな。緊張はしてたんだけど。まあ何回か電話してるし」
 慣れもあるだろうが、僕との死闘は絶対に効いているはず。という自己満足に僕が浸りたいだけなのかもしれないが。
「西村さんって、なんか良いね」
「え! 今更に望海の魅力に気づいたんですか!?」
「うん、そうかも。電話して良かったよ。ありがとう雪」
 うむ、と僕は偉そうにいってやり、止めていたゲームを再開した。

 尿が出ない。
 ふいに尿意を催して、つい癖で小便器に立ったわけだが、それではやりにくいことに気づいて大便器に座り、しばらくじっとしていたが、何も出てこなかった。雪兎にそれを報告するとぎこちなく笑われた。
「体調がすぐれないところ申し訳ないけど、もう一回トイレに行くから、一緒に来て」
「へッ?」
「いいからとっとと来いよ」
 雪兎を引っ張り、部屋を出た。階段の手すりに引っ掛けてある大きなタオルを一枚取って、トイレのドアを開ける。
「何するんだよ、またそうやって僕の心を弄ぶつもりなの?」
「真面目にやってるんだよ僕は。今から君の中に入る。それで食べ物がどうなるのか見るんだ。服は全部脱ぐからそこで待ってて」
 え、ちょ、雪、という声を無視しつつドアを閉め、服を脱いでいく。全裸になり、タオルを巻いてから、戸を開けた。雪兎は僕の姿を見て息を呑む。
「タオル巻いた姿は前に見ただろ。ほら、服をそっちに置いて」
 着ていた服を手渡し、雪兎はラックに置いてくれた。
「中に入ってきて」
 手招きして大の個室に誘う。だが彼の足が動かない。
「僕、君と一緒にそんな狭い空間に入ったら、正常じゃいられないよ。また雪に何かするかも……」
 僕は理解を示すような、柔らかな笑みを浮かべてやった。
「今の君はそんなことしないよ、命を賭けてもいい」
 雪兎はどこか難しそうな表情を浮かべると、僕の姿をなめまわすように見て、それから目を逸らし、短く息を吐いた。
「早く済ませよう、怠いからベッドで横になりたいんだ」
 僕は頷いて、便座に腰を下ろした。雪兎にタオルの端を掴ませ、僕は彼の腕を掴み、瞳を重ねる。当然だが雪兎は激しく興奮していた。僕と交わりたくてたまらない気持ちになっている。なんだか、かわいそうだった。せめて彼の発する欲情に耐えた。相変わらずそれは痛みを伴う。うまく集中できない。なかなか彼の中に入れなかった。
「どうしたの、早く入ってほしいんだけど」
「わかってる。……悪いけど、少しだけ君の興奮を鎮めてくれないかな」
 そんなの無理だと雪兎はぼやくが、それでも気を静めようと自身に語りかけた。今の雪兎の心境は、喩えるなら焼いた肉汁たっぷりの高級なステーキを一口も手をつけずトイレに突っ込んで流すようなものだ。雪兎は心の中で嘆いている。
「ごめん」
 彼の悲しい瞳を見つめていたら、口をついてそういった。
 ──と、視界が暗転し、切り替わった。その手はタオルを掴んでおり、何かが下に落ちていく。便器に溜まる水がはねた。
『おぉ! 雪兎、入れたよ。ねえ、便器に落ちたものを確認して』
 雪兎は正気を取り戻し、便座に顔を近づける。それは紛れもなく雑炊だった。よく噛んでいないところは米の形を保っている。咀嚼後に吐きだしたらこんな感じなのだろう。つまり、これは全く消化されていないんだ。
 ふと僕は気づいた。雪兎が吐きそうなほど気分が悪くなっている。
『おい大丈夫か、すごく無理してたんだな、ごめん』
「いや、いいよ。それより、僕の外に出てくれないかな」
 堪え切れなくて、便器に向かって嘔吐(えず)こうとしていた。その醜い姿を僕に知られたくない、などと思考している。
『僕と君の関係性でそんなふうに考えるなよ、早く便器に顔突っ込んで』
 だが雪兎は頑なにそれをしない。出ていってほしい、とひたすら思い続けている。なんか、むかついた。なぜ自分に°草竄ウれなければいけないのか。納得がいかなくて渋り続けた。
「いいから、僕から出てけよ!」
 雪兎が声を絞りだした。僕はあっ気にとられた。突如、雪兎はタイルの壁に頭をぶつけだす。
「出てって、お願いだから早く!」
 僕は焦って外に飛び出した。それに気づかず彼は頭を打ち続ける。肩を掴んで止めた。
「もう、出たよ」
 彼は気づいて止まった。
「そこまで拒絶することないじゃないか……」
「ごめん。でもお願い、早く離れて」
 吐くところを見られたくないのはわかるけど、だからって、あんまりだ。
「せめて背中をさすりたいんだけど」
「そんなことしなくていいから」
 僕は憤った。トイレを出て、ぴしゃりと引き戸を閉めてやった。低い唸り声が聞こえる。気持ち悪い、死にそう、と彼は独り言を口にしていた。小刻みに呼吸を繰り返している。本当に死ぬんじゃないかと不安になった。
「……なんで拒むんだよ、僕はそこに寄り添ってあげられるのに」
 衣類を手にして、部屋に戻った。

 彼の熱が上がっていた。嘔吐したようだが、それで楽になることもなかったらしい。ベッドで横たわり、ひたすら荒い呼吸を繰り返していた。そんな彼にお茶を用意してやり、背中や胸の辺りをさすってあげた。そのときは僕の存在にありがたみを感じている。
「そんなふうに思うなら、さっきだってあんなに拒まなくていいのに」
(嫌だったんだよ、とにかく見られたくなかった)
 喋るのもえらい彼は思考していた。
「君からしたら、僕は全く別の人間に見えるから、そんなふうに思ったんだと理解はしてやれるけど。でも僕と君は他人じゃないんだよ、ほぼ同一人物。その相手に拒まれた僕の心境がわかるか? 胸を抉られるくらい傷ついたんだけど」
 彼は悪かったと思う。オナニーする姿は見せられるくせに、嘔吐が見せられないとか、難儀なやつだ。
 母が帰ってくると、「様子を見に来ると思うから押し入れに隠れて」と雪兎はいった。ボケとツッコミの言葉が頭に浮かぶのだが、口にするのが億劫になり、従ってやった。部屋に入ってきた母が体調を訊ねる。朝よりひどくなってる、と彼は答えた。
「そうだろうと思った。メール、いつもと様子が違ったから、相当悪化してるだろうなってお母さん心配したんだよ」
 そのメールを送ったのは僕なのですが。……お母さんには違いがわかるんだ。
 夕飯や明日の学校のことなどのやりとりをして、母は部屋を出ていった。一階へ向かう足音を耳にしつつ、押し入れから出る。テーブルの上にスポーツ飲料のペットボトルと、冷却ジェルの箱が置かれていた。僕はそれを開封し、雪兎のおでこに貼りつけてやる。
「ありがとう、雪は優しいよね」
「君の身体は、僕の身体でもある。君にすることは全て僕のためだよ」
 うん、と彼は呟く。なぜか僕に背を向けた。なんとなく背中をさすってやると、僕に添い寝を求める思考がみえた。やってあげてもよかったのだが……安易に尽くしすぎないほうがいい。そのほうが、雪兎を余計に苦しめずに済むのだから。

 次の日も雪兎は学校を休んだ。その次の木曜も。
 木曜の夜には、熱も腫れもだいぶ引いていた。地獄から生還したようなくらい、雪兎は楽になっていた。金曜になって、ようやく学校に行ける体調になった。まだ殴打の痕は見受けられ、雪兎は鏡を見てかなり気にしているが、そうやってよく見ないと気づかない程度だよ、と僕は教えた。
 通学路では弥城に会った。高熱で休んでいることは伝えてあったので心配してくれた。
「今日の真白はなんだか覇気が感じられるな」
 ふいに弥城がそういってくれた。それはきっとランナーズハイならぬ、病み上がりハイになっているからだろう。
 教室に入ると、生徒たちはちらほらとこちらを注目した。さすがに三日も休めば物珍しそうな反応もされる。椅子には例の如く姫宮さんが座っていた。机に覆い被さるように寝そべっている。もう完全に彼女の席だ。
「姫宮さん、おはよう」
 彼女は起き上がってこちらを向いた。「おぉ! 真白君じゃん、もうこのまま退学しちゃうんじゃないかと思ったわよ」
「ただ風邪ひいてただけだよ。席、いい?」
「ダメっていったらどうするの?」
「机に座るよ」
「じゃあそうしなさいよ」
 わかった、と雪兎はなんのためらいもなく机に座った。ほんとに座った、と姫宮さんが笑う。視線の先には、顔を伏せている西村さんがいて、横目でこちらを見ている。雪兎が微かに笑んだ。すると西村さんも、小さな笑みをみせてくれた。
 教室に木場が入ってきた。誰かを捜すように見渡して、雪兎と目が合う。すると木場は目つきを鋭くさせ、向かってきた。
「お前、一条にいびられて学校辞めたんじゃなかったの」
「風邪で休んでただけだよ」
「このクソ暑い時期に風邪とかやっぱお前バカなんだな。つーかなんでそこに座ってんの」木場はちらっと女子の姿を確認。
「席を譲ってくれないから仕方なく」
 ハッ、と木場は笑う。「お前、数学の教科書貸せよ」
「松本君や一条に借りたらいいじゃん。まだ来てないけど」
 木場は舌打ちした。頬をピクピクとさせ、睨んでくる。「なにその態度。舐めてんの?」
「木場君さ、僕の教科書を紛失してるよね。僕は自腹でまた購入したんだよ。バカみたいじゃない?」
 木場が胸倉を掴んできた。「失くしたもんは仕方ねえだろ。お前が勝手に買ったんだ。俺は知らねえよそんなこと。お前も誰かから借りれは済む話だろ。あ、一年のときから友達いないからどうしようもないか」
 へらへらと笑い、突き飛ばすように雪兎を放した。雪兎の脳裏には一年の頃が過ぎる。思い返せば、こいつが僕にいじられる生徒のイメージをいちはやく定着させたんだ。そういうタイプの人間だとすぐ嗅ぎつけられた。散々な嫌がらせを受けたっけ。今の一条みたく通りがかりで適当に殴ったり、パシリに使おうとしてきたりすることもよくあった。それは拒否していたけど。金を貸せといわれても貸さなかった。嫌々、教科書を貸したら返ってこなくなるし。数えきれないくらい罵倒もされた。キモいとか汚いとか、貧乏人独特の悪臭がするなどと言いがかりをつけられたこともあった。
 突如、雪兎が満面の笑みを作った。
「なんだよてめえ、気持ちわりぃ」木場の声が僅かに震え、拳を握った。「その顔止めろ、殴るぞ」
 笑顔は、胸倉を掴んだり殴ったりできない雪兎が考えた唯一の攻撃だった。
「教科書の件、木場君にはなんの請求もしないことにするよ。だから二度と僕を頼らないで。木場君は友達が多いんだから、わざわざ弱そうな僕なんかから物を借りようとしないで」
 言葉を受けた木場は顔中をひきつらせたが、殴ってこなかった。姫宮さんがいるからだろう。やがて振り返り、行こうとする。だが雪兎は、また更に余計なことをいおうとしていた。それを止めるべきか迷った。けれど、やはり任せることに。
「殴るのよく我慢できたねえ、木場君、えらいねえ」
 挑発だった。木場は足を止めた。踵を翻し、全身から憎悪を醸し出している。
『雪兎、あいつ絶対に来るぞ、逃げる体勢に入れ』
 指示を出しても、雪兎は机の上で微動だもしない。殴られることを受け入れていた。案の定、近づいてきた木場が拳を振った。雪兎は歯を食いしばり、反射的に瞼を閉じて顔を動かし、頬の辺りにヒットする。痛みが走り、体勢を崩した。倒れる、と危惧したのだが、傾いた身体を姫宮さんが支えて止めた。



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