彼女が僕の中にいる

第八話.僕は彼女にハグをする(page.A)



 職員室の前の廊下に差しかかると、担任の後藤悠次郎先生が出てきていた。姫宮さんが「ゆーじん」と先生のあだ名で呼び止めて、さきほどの経緯を話した。先生は雪兎の殴られた痕を診る。腫れてきてる、といわれた。他にもそれっぽい痕跡があるといわれたが、それは僕が殴ったところなので、雪兎は気のせいだといった。
「早く冷やしたほうがいいぞ。保健室行っとけ。先生は木場に話を聞くから」
「ゆーじん、いっとくけど真白君はなんも悪くないからね。あたしは目の前にいたんだから。あれは誰がどうみても全面的にあいつが悪いのよ」
 わかったわかった、と先生はいい、僕らから離れていく。頭を掻いて、どこか面倒くさそうにため息をついていた。
「さあ保健室行こう」姫宮さんが背中を押してくる。
「ここまで付き添ってくれてありがと」
「あたし、まだ付き添ってあげるつもりなんだけど」
「ああ、そうなんだ、わかった」動揺しつついった。
 姫宮さんは嘲笑(ちょうしょう)する。「いきなりきょどりすぎ、真白君てほんと童貞」
 すごいいわれようだ。はは、と雪兎は笑って歩きだした。

 保健の先生に氷嚢を作ってもらい、教室へ向かう。姫宮さんが間近で傷を診てきた。
「それくらいの腫れだと、三日くらいは治まらないよ」
 具体的な日数を口にしたことに引っかかった。「姫宮さん、こういう経験あるの?」
「あるある、親にしょっちゅう殴られてるし」
 とんでもないことをさらりと口にされた。雪兎は反応に困る。
「しょっちゅうっていっても、そこまで酷いのはしばらくないよ。ウチの親さ、ほんと無駄に厳しくてさ、鬱陶しいのよね。真白君は親に殴られたことってないでしょ」
 なぜそこまで厳密にいえるのかと僕らは思った。
「確かにないけど、でも怒られるときは関節技決められてたよ」
 姫宮さんは吹き出した。「なにそれ、ウケるんだけど」
 母は、決して僕に手をあげることはなかった。あなたの大切な顔をビンタすることなんてできない。かといって大事な頭を小突くこともしたくない。だから腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがため)を決めてあげる。などとよくいわれたものだ。それを話すと姫宮さんは足を止めて笑い続けた。
「超面白いんだけど、さすがあんたの母さんだわ──」こちらの身体をばんばんと叩いている。「じゃあなに、お父さんは怒ったら巴投げでもするわけ?」
 雪兎は父のことを話す思考を過ぎらせた。さらりとさらけ出しても良いと思うよ、と僕は述べる。雪兎は父のことを吐露した。父には殴られたことがないことも述べておく。
「顔に似合わず苦労してんのね」
 黙考した後で姫宮さんはぽつりといった。僕の中で、姫宮さんこそそんなギャル系の出で立ちで苦労している、という言葉が過ぎるが、黙った。むしろそんな家庭の苦労があるからこその、彼女のスタイルなのだろう。
 教室に戻ると、普通に後藤先生が立っていた。淀みなく来週の期末考査の話をしている。何事もなく一時間目が始まった。まだ木場には何もいっていないのだろうか。
 と思ったら一時間目が終わった直後、後藤先生に呼ばれ、指導室に向かった。そこには木場が一人で座っていた。僕が入ると、顔を歪ませて睨んでくる。
「木場、その表情はなんだ」後藤先生が抑揚のない声でいう。「真白が告げ口したからこんな面倒なことになった、とか浅はかなことを考えてないか」
 先生に背中を押されて木場の傍に立たされた。腫れを見せてやれ、というので、氷嚢をずらした。
「顔の腫れ、よく見えるよな。先生は老眼気味だけど、これに気づかないわけないだろ」
 木場は目を逸らす。でも先生が無理やり頭を掴んで曲げた。
「お前がやったんだろ、どうして顔を背けるんだ。よく見てやれ」
 その手を振り払うように木場は動く。後藤先生は頭を掻いた。向かいに座れ、と雪兎に指示した。
 そうして話し合いをした。詳細な経緯を伝える必要があったので、一年の頃から木場がよくつっかかってくることや、教科書を失くされたこと、挑発となった言葉をつい口にしたこともいった。だからって殴って良いことにはならないし、雪兎が苛立っていてつい口にしたのだと、先生は理解してくれた。
 警察に被害届を出すかどうかは親御さんに任せると先生はいった。それとは別に、学校の規則として、傷害を起こした木場の無期停学処分が決まった。来週の期末考査が受けられなくなり、全て0点扱い。強制的に全教科、追試験となる、と先生は説明する。アホな雪兎は、頭の片隅で木場に申し訳ないと感じていた。
 面倒なことになって若干後悔する雪兎だが、僕は、彼の状況が大きく好転する予感がした。僕の力ではこんなふうに導いてやることはできなかっただろう。だから、姫宮さんには多大な感謝を寄せた。
『飲み物買っていって』
 木場より先に指導室を出た雪兎にそう指示する。水筒のお茶が過ぎった。
『違う、気が利かない君に代わってお礼の品を買わせようとしてんだよ』
 意図に気づいて、自販機のある購買に向かった。そこでボトル缶の『デカデカ』というエナジードリンクを買わせる。雪兎は全く覚えてないが、姫宮さんはこれが好きなのだ。
 二時間目の授業は始まっていたため、休み時間に入ってから姫宮さんの元へ行き、何もいわず缶を机に置いた。へっ、と彼女は呟く。
「付き添ってくれたお礼です」
「……やばい、真白君イケメンすぎる、しかもあたしが好きなやつじゃん」
 雪兎は気分が良くなり、男らしく無言で去ろうとする。が、グイっとズボンを引っ張られた。
「携帯持ってるわよね? アドレスとか交換しよう。あたしら友達だし」
『お、まさかの展開。ユイたんルートの完全攻略は時間の問題だぜ』
 雪兎は連絡先の交換を快諾する。お互い、相手の情報を登録した。
「ユイ、彼氏いるのに浮気だー」
 姫宮さんの友達がいった。そんなまさかの言葉に、僕らは少し残念に思う。
「真白君は友達だっての。それに真白君には本命の子がいるじゃん」
 姫宮さんの視線が奥にいく。たぶん、西村さんの方を見たんだ。
『本命っていってもまだちゃんと交際してないから。ユイたんが構わないなら僕と火遊びしようよ』
「西村さんも友達だよ」雪兎は僕を無視して口にする。
「ふーん。じゃあそういうことにしといたげる。ほら、そろそろ望海ちゃんのところに行ってあげなよ、淋しそうにしてるよ」
 そちらを見遣ると、彼女は机に顔を伏せていた。そのついでに一条や守丘が視線に入り、思いきり睨まれていたことに気づいた。彼らを大きく避けるルートで席に戻る。椅子を西村さんの隣につけた。すると彼女はチラッとだけこちらを見る。
「色々と大変でしたね」
 うん、といい座る。「面倒になった。顔は腫れるし」
「痛そうですね……明日、大丈夫ですか?」
 大丈夫です、と雪兎は即答。よかった、と彼女は呟いた。
「雪に会えるのは楽しみですか?」
「それはもちろんだけど、私は二人揃って来てくれること自体が楽しみなんです。それとも真白君、私なんかと遊ぶのが退屈に思えちゃった? 姫宮さんみたいな明るい人の方が、真白君も活き活きとできていいかもね」
『お、おい、これってまさか、あれか、姫宮さんに嫉妬してんのかああああああなんていじらしいんだ望海ぃぃぃぃぃぃ!』
 雪兎は無意味に両耳を押さえた。そんなことしても僕の言葉は遮断できないわけだが。
「どうしたの真白君」
「ちょっと耳鳴りが」
 そう、と西村さんはいう。それから、こちらに視線をぴったり合わせてきた。
「男子三日会わざれば刮目して見よ」
 急に堅苦しいそうな言葉を言い放つので、雪兎は眉を持ち上げた。
「真白君、少し変わった。本当はだいぶ変わったように感じてたんだけど、でも話してみたらいつもの真白君だから……」
「僕は元々いつも通りの僕だよ」
「そうかな。朝、ガラリと印象が違ってみえたから、なんだか怖かった。関わりにくそうにみえたっていうか、良い意味で軽い雰囲気になったというか」
 西村さんは、ありのままの雪兎を心から受け入れてくれていたんだ。
「それを悪いなんてもちろん思ってないんだよ、三日の内に、何か心境の変化があったのかなあって」
 確かに、姫宮さんや木場と相対するときに抱いていたはずの畏れが完全に消えていた。僕の調教の成果だ。雪兎もそう自覚していた。

 昼休み、雪兎と西村さんは弁当のおかずを交換したり、明日のことを話したりする。傍からみたらやはりカップルにしか見えないだろう。けれど、もはや露骨に生徒が反応することがなかった。多少、煽りのような囁きが聞こえるだけだ。
 食事を終え、残りの時間を喋りながら過ごした。二人の話題は、主に僕のことだ。西村さんは僕と対面することを心待ちにしており、僕について様々な質問を雪兎に投げかけていた。時には「んふふ」という具合に口を閉じたまま笑って身体を揺らしつつ「明日楽しみ―」とかいって嬉しそうにしていた。可愛い。
 ふと携帯の振動を感じる。姫宮さんからのメッセージだった。雪兎という字はゆきとと読むのか、と。そうだよ、と彼は返信する。じゃあこれからはユッキーって呼ぶ、と返事がきた。
「私も携帯買おうかなあ」ぽつりと西村さんがいう。
「そういえば、どうして西村さんは携帯を持たないの? 両親が許さないとか?」
「……私ね、携帯って欲しくなかったの。友達は数えるほどしかいないし、そういうものに縛られたくないなあって。おかしいよね」
 雪兎は首を振る。「何もおかしくないよ、素敵な個性なんじゃないかな」
 なにいってんだこいつ。
「個性……。そういえば雪ちゃんも持ってないんだよね」
 うん、と答えると、西村さんは口を閉じたまま「んふふふ」と笑い、身体を少し揺らした。
「雪ちゃんとお揃いだー」
 彼女の想像が過剰に良い方向に一人歩きしている気がしてきた。実際に僕と会ったら、失望させてしまうんじゃないだろうか。
 教室の出入り口に珍しい人が入ってきた。橋本君の友達だ。類は友を呼ぶという言葉どおり、その友達も二次元の美少女キャラが好きだった。普段孤立して過ごしているからか、体格のせいか、喋るときは人一倍声がデカくなり、平気でアニメの話をしている。ウチの高校はそういうものに偏見を持つ人が多いため、男女ともにいつもドン引きしていた。
 友達がポケットからカードを出し、机に置いた。すると橋本君が驚嘆をあげた。
「やだ、気持ち悪い……」
 席を通り過ぎた女子がぽつりといった。彼らは全く気に留めていない。
「すげえなお前さん、マジでナナコのレアカード所有してたのかよ、えっ本当に交換してくれんの?」
「はよお主もブツを出せ、こまちゃんのカード拝ませろぉ」
 橋本君がカードを出す。遠巻きで見ている女子が悲鳴をあげた。全く気にせず二人はカードを交換する。
「おぉー最高だぞこれ、愛しのナナコが素敵なレイプ目だよぉ」
 橋本君がカードを掲げ、ナナコと呼ばれるキャラを見つめている。遠目から察するに小学生の少女キャラだった。
「西村さんは、やっぱりああいうのって嫌い?」
 彼女はなぜか小刻みに首を振る。それはどういう反応なのかよくわからなかった。
「真白君は? アニメとかは見る人?」
「話題性のあるものだけ見てるかなあ。録画して、暇つぶしにしてる」
 ふーん、と西村さん。ふと一条の姿が見えた。橋本君の席を覗き込んでいる。危険な空気を察したのか、友達は「もう戻るっす」と橋本君に別れをいい、教室を出ていった。
「気持ちわりぃことしてんじゃねえよクソブタ」
 橋本君はカードをポケットに入れてから机に顔を伏せた。一条は舌打ちして、彼の机を蹴飛ばす。橋本君は反応しない。キモブタ、と一条は声をあげ、橋本君の背を殴った。
「竜也ぁ、真白君が見てるからそれくらいにしといたほうがいいぞ」守丘の声だった。
 一条がこっちを向く。雪兎は目を逸らす。来る雰囲気を感じた。案の定、おい、と声をかけられる。雪兎は一条に目を向けた。
「うわっひでえな、その腫れ」一条は痛そうに顔を歪ませた。「オレはお前を怪我させたことなんかないよな、だってオレたちのはじゃれ合いみたいなもんだし」なれなれしく肩に手を置いてくる。「お前はなんも知らねえだろうけど、木場ってデカイチームに入ってんだ。チームって意味わかる? お前ってそういう言葉も知らなそうだよな。わかりやすくいえば暴走族みたいなもんだよ」
 雪兎の心拍数が上がった。
「同じクラスメイトとして、忠告しといたからな」
 一条が去っていった。雪兎は動揺し続けている。あれは脅しで、一条は自分も先生に告発されることを恐れているだけ。僕がそう言い聞かせても、雪兎の不安を拭えなかった。
「真白君、何かあったらすぐ警察を頼ろうね、私ができることがあったら必ずいってね」
 西村さんはその瞳の奥で怯えを宿している。雪兎は申し訳なくなった。

 掃除の時間、松本君がやってきた。雪兎が休んでいる間は真面目に来ていたらしい。彼は木場と仲が良いから、咎めてくるのではと構えていた。でも何もいってこない。
「ねえ松本君。木場君が停学になったんだけど、その理由は知ってるよね? 友達として僕を恨まないの?」
 思いきって訊いた。すると松本君は「真面目かよ」とこちらの胸を叩いてつっこむ。
「友達の前に常識はあるっての。自業自得だろ、停学は」
 松本君は良識のきちんとした人だ。ついでに木場のチームの話も訊きなよと僕はいう。雪兎はそのことを話した。すると松本君はバカにするように笑った。
「一条ってガキだよなあ、飛躍させすぎ。チームつったって地元の知り合いの寄せ集めだよ、俺も知ってる奴ばっかだし。適当にバイク転がして遊んでるだけ。ウサギ君が一方的にぶん殴られて停学になってんだし、そこにわざわざ殴り込みかけるようなバカなチームじゃないって。もう気にすんなよ」
 一条の話で想像したのが、警察のドキュメンタリーに出てくるような暴走族だったので、そうではないとわかり雪兎は気が楽になった。
「木場もガキっちゃーガキっぽいとこあんだけどさ、あいつは、根は優しいんだよ。ウサギ君には全然想像つかないだろうけどさ。だから、俺さ、あいつには大人になってほしいっていうか、丸くなってほしいんだよ」松本君はブラシで力強くタイルをこすり始める。
 そんなことをいう彼は、木場よりも遥かに優しい人だ。外見は明らかに木場より怖いが。

 夜、木場の両親が家に来た。
 母は雪兎と木場の件を担任から知らされており、空気を読んでくれたようで先日雪兎がもっとひどく顔を腫らしていたことは口にしていない。木場本人はいなかった。連れてくるはずだったのだが頑なに拒んだそうだ。
 居間に通すと、出し抜けに二人が土下座した。顔を上げてくださいと母はいうが、畳に頭を密着させ続けた。
「こういうこと、初めてじゃないんです」木場の母がいった。「ほんとどうしようもない子で、悪いことをしょっちゅう繰り返してるんです」
「これでも以前よりはおとなしくなったんです。でも癖が抜けてないようで」
 もっと厳しくしてればこんなことにはならなかったはずなのに、と父は付け加えるが、なぜか小声だった。母が顔を上げる。
「それ私にいってるんでしょ。あなた何様のつもりなの。自分の子供がよそ様の子を怪我させたってのに、頭おかしいんじゃない?」
 父が顔を上げた。「お前だけにいったんじゃない、俺たち夫婦がもっとそうしてれば、ってことだろ」
「夫婦なんて言葉使うのやめてくれない? 気持ち悪い……」視線がこちらに向けられた。「病院には行きましたか?」
 雪兎は首を振る。「腫れてるけど、大丈夫です」
 ぶっちゃけ僕がぶん殴ったときより痛みは弱いので、もはや経験則だった。そのときレントゲンを撮っても異常がなかったのだから問題ないだろう。母も少し腫れているだけだといった。
「男の子だから、こういうのは仕方がないって思うけど、でもお子さんにはよくいっておいてくださいね。私は子供を殴ったことなんか一度もないですから」
 まるで水戸光圀公の紋所を見せられた敵役のように夫婦はまた盛大に土下座した。
「本当に申し訳ありませんでした!」父が大仰に声をあげる。「真白くんは、非常に良い子なのですね。奥様もお父様もしっかりしていらっしゃることと思います」
「旦那は、雪兎が小学生の頃に他界しております」
 父は顔を少し上げ、まずいことを口にした、という顔になった。
「あなたバカでしょ、失礼なこといって」
「わかるわけないだろ」再び父が畳に頭をつける。「不躾なことをいってしまいすみません!」
「いえ、お気になさらないで。周りの方には話さないでくださいね、片親ってあまりよいイメージをもたれないですし」
 母は顔を上げる。「立派にお子様を育てていらっしゃるので、同じ母として尊敬します。それに較べてウチときたら……。旦那様も立派な方だったのでしょうね」横目で父を見る。「この人は中途半端にしか子供と接しないから、亮太もあなたと同じでおかしくなっちゃって」
 いっそ亡くなってるほうが、という小声が聞こえた。……おそろしい夫婦だなこりゃ。
 父が怒気をはらんで言葉を返す。抑揚のない口調で母は応戦する。この夫婦の間では、常に諍いが起きていた。雪兎も母も、そんな姿に辟易としていた。
『木場の両親、話は通じるみたいだからさ、教科書のこといったら? さすがにお金請求していいと思うし』
 そのことは不問にしたいと彼は考えている。そういうところがダメなんだ。自分が被害者ならそれで良いと甘受してしまう。今回殴られたことは、こちらの挑発もあったので強く出る必要はないかもしれないが、教科書のことは全面的に木場が悪い。だからいえと僕は発した。雪兎は申し訳ない気持ちで口を開いた。すると火に油を注いだように、夫婦は謝ったあと更なる諍いを始めた。だから言いたくなかった、と雪兎は思う。
『雪兎はバカに人が良すぎる。受け身すぎるっていうか……。気を強く持て、そのほうが人生はもっと愉しくなるって』
 そんなこといわれても簡単になれるはずないと思考しつつ立ち上がった。教科書の領収書は仕舞ってあるので、それを取りに自分の部屋へ向かった。
 雪兎が離れている間、お母さんが二人に何かを言い聞かせているようだった。額面通りのお金と、菓子折りも受け取って、二人はようやく引き上げていった。
「雪兎、この間の方がもっとひどく顔を腫らしてたけど、その時は、本当に絡まれてそうなったのよね? それであなたもやり返したのよね?」
 雪兎は頷く。
「じゃあ、よく今回はやり返さなかったわね。おかしなこというようだけど、雪兎が殴り合いをしたって聞いて、お母さんは少し嬉しかったのよ。雪兎はお兄ちゃんと違って女々しいというか、気が小さいから、もっと猛々しくなったほうがいいって考えてた。だから激しい喧嘩をしたのは悪いなんて全く思ってないんだよ」
 ──お父さんがいないからって、弱い男になってほしくないんだから。
 母は呟くようにいって、廊下を歩いていった。同じようなことを昔、いわれたことがある。母には、父がいないからこそ立派な男に育てたい、という想いがあるはずなんだ。今の僕にはそれが痛いほどわかる。
 部屋に戻ると雪兎はベッドにうつぶせで倒れた。
「あー、疲れた。正に木場の両親だったね」
『悪い人たちじゃないんだけど、あれじゃ木場がグレるのも無理ないだろうね』
 雪兎は起き上がってベッドに座った。鏡を取り出して頬を見る。僕との殴り合いで病院に行った際、腫れはとにかく冷やし続けるのが良いと医者から聞いていたので、ずっと氷嚢で冷やしていた。そのお蔭なのか、症状が軽かったからか、思ったより腫れが落ち着いているように見受けられる。
 今日のことは、全て儲けものだ。姫宮さんの連絡先を手に入れ、菓子折りと教科書の代金を貰い、木場の家族のことが少しわかった。頬の腫れがそれらと引き換えなら安い。なのに雪兎のバカは不幸な一日だったと意気消沈している。そうじゃないということを、僕は彼の内側からよく言い聞かせてやるのだった。

  *

 土曜は天気が崩れた。予定に雨が絡むのは梅雨なので仕方ない。明日の朝まで降るそうだ。母は仕事が休みなので夕食を早めてもらった。雪兎は風呂に行ったあと、六時半頃に西村さんに電話をして今から行くと告げる。雨降りだからもう来てくれないと思ってた、と彼女は若干涙声でそういってくれた。雨なので母に送ってもらうことと、日曜は電車で帰る旨を伝えると、西村さんは二人の電車代を半分出す、なんていってくれた。そんなこと気にしなくていいよと雪兎は返した。電話を終え、荷物をまとめたリュックを二つ持ち、母と家を出る。まだ日没の時間ではないが、外は薄暗い灰色の世界になっていた。
 母には森上駅で降ろしてもらった。駅の男子トイレの個室に入る。僕は雪兎から出て、リュックを受け取り、人の気配がないことを確認して雪兎が個室から出ていく。僕は鍵を締めて、服を脱いで全て消した。コピーの服では不都合があるし、雪兎と同じ服だと変に思われるだろうし。かといってブラもショーツも持っていない僕は、トランクスを穿くわけだから、もしこれを見られたらそれはそれで相当おかしく思われるだろう。
 薄い白のジャージズボンに、上は真っ黒な半袖。雨降りで肌寒いので黄土色の薄い長袖の上着を羽織った。……どう見ても女が着るオシャレな服じゃねえな。靴は履きつぶして使わなくなった男物のスニーカーだし。まあ僕は何を着たって超可愛いので、まともな服は全て雪兎に譲ったわけだが。
 咳で合図を出す。誰も来てないよ、と声がするので、個室から出た。雪兎はトイレの出入り口に立っている。
「雪は何を着てたって可愛いね」
 ぽつりと彼がいった。洗面台の鏡に見慣れた美少女が映っていることを確認し、そうだね、と同意した。
 駅を出ると雪兎が傘をさしてこちらに差し出す。
「僕は濡れてもいいから」
 つまりこいつは、一緒に傘に入るという度胸がないんだ。
「真白君ってほんと童貞」
 雪兎は軽く顔を歪ませた。「一緒に入って行くってこと?」
「僕があまりにも美しすぎて傍に立つのも気が引けるのはわかるけどさ」傘の下に入る。「なんのために僕と激しいバトルをさせたと思ってんだよ。ちょっとは女慣れしたかと思えば、まだ全然だね」
 雪兎は難しそうな顔をしてから、身体をしっかり傘の下に入れた。僕らは歩きだす。線路を渡って古びた商店街を五十メートルほど進むと、八百屋と自販機の分かれ道に着く。そこを左に曲がり、少し進めば、もう西村さんの家だ。
 玄関に立ち、雪兎がチャイムを押す。直後に騒々しい足音。格子のガラス戸が開いた。そこには西村さんが立っていたわけだが、彼女は雪兎を見て、僕を視認した瞬間、息を呑んだ。それから、ほんの五秒だけ僕らの時間が止まったみたいになった。
「こんばんは」雪兎が挨拶をする。
 西村さんの視線が雪兎にいく。こんばんは、と微かな声でいい、また僕に注目した。
「あなたが、雪さんなのですか?」
 僕は頷く。西村さんは手で口を押さえ、僕を凝視したままぎこちなく外に出て戸を閉めた。
「はじめまして西村さん、真白雪と言います」
 そう僕がいうと、彼女はなぜか震えだした。微かに息を漏らし、何か言葉を発しようとしているみたいだが何もいってくれない。
「西村さん?」
 呼びかけると視線を外され、雪兎をじっと見る。喋れない、と囁いた。「緊張して喋れないってこと?」と雪兎が訊くと、彼女は口を押さえたまま「そう」といい、小刻みに震え続ける。僕のファッションがあまりにも酷いから怯えさせてしまっているのだろうか。
「あ、これ、ご家族で召し上がってください」
 雪兎が差し出したのは木場夫婦の菓子折りだった。詫びで持ってきてくれた物を贈り物として渡すという失礼極まりないことをしているわけだが、使えるものはなんでも使っておくべきだ。確実に好意的にとらえてもらうようにと、僕の指示で持ってきたのだった。
 西村さんは無言で受け取り、玄関を少し開けて棚の上に置いた。再びこちらを向くと、ガレージの方を指す。直後、彼女は雨中へ駆け出して行ってしまった。
「ねえ雪兎、僕は望海に拒まれてるのかな」
「いや、初対面だからあんなふうになっちゃってるだけなんじゃないかな」
 そうだろうか。最初に彼女が雪兎と会話したときはこんなふうではなかったのに。



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colorless Catトップ

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