彼女が僕の中にいる

第九話.僕は君のためを想う(page.A)



「うー、こんなことされるのもするのも初めてだったんだよ、やばい、意識失いそう」
 望海はよろよろとベッドに向かい、うつ伏せで倒れ込んだ。
 望海が落ち着いた頃、もう一度勝負しようと言いだした。望海が勝ったら、僕と雪兎がお互いの頬に口づけをする、という条件つきで。どうしても僕らにキスさせたいらしい。それだけでは盛り上がりに欠けるので、僕と雪兎の間で、負けた方は望海の提案する罰を受けるということにした。
 望海は勝ち目を掴めず、結局はまた僕らの一騎打ちになる。先ほどとは違って接戦だった。僕と雪兎はお互いに汚い妨害をやり合う。ゲームということで、ためらいのない罵り合いをしたり、望海を味方につけて有利になろうと説得を試みたりしていた。
「二人は兄弟みたい」ふと望海がいった。
「まあ、僕はそういう見方もできるけど、雪兎は違うだろうね」
「どういうこと?」望海はコントローラーを操作する。
「雪の顔のつくりは、僕なんかからかけ離れてるから。西村さんは兄弟いる?」
 望海は、何も返さない。それで少しの間ゲームの音がよく聞こえていた。あのおバカさんは忘れているだろう、前に望海がいった「再婚」というワードを。
 妹がいる、と望海は呟いた。それは父親違いの妹だといった。情報がぽつりぽつりと足されていき、やがて離婚と再婚の話の核心に触れはじめた。
 望海が物心つく前から両親は仲が悪かった。顔を合わせては喧嘩をする日々。時には手を出す夫、負けじと反撃する妻。望海はよく泣き喚いて止めようとしていた。そうすれば収まるときもあるし、無視されることもあった。
 月に一度は離婚の話をした二人だが、表向きは仲がよさそうだった。外にいる間は何も争わない。この点が木場夫婦とは違った。二人が喧嘩をしないからという理由で、望海は外出をよく強請った。
 喧嘩の内容は、いつも些細なものだ。夫に女の陰がちらつくとか、妻に男のにおいがするとか、そういうことはない。両親とも働いており、お金がないことで喧嘩しているわけでもない。主にお互いの忙しさについて文句を言いあったり、妻が「たまには家事を手伝え」と夫にいったり、夫が「母親として子供をもっとよく見ろ」と妻に述べたりしていた。妻は、金銭面で夫に頼り切ることが嫌だったので、仕事は絶対に辞めなかった。だから、児童館に望海を迎えに行く時間はいつも遅くなる。迷惑がかかるから、と、いつしか望海は鍵っ子になっていた。ギリギリのような、でもどこか安定しているような結婚生活は続いていった。弟や妹が誕生するようなことはなかったので、それは二人の仲が悪いからだと、子供なりに彼女は考えていた。
「そんな毎日がずっと続くものだと信じてた」
 望海は遠い日を思い返すような眼差しでいった。その日々は、望海が小学四年生のとき、突如として終わりを迎える。
「お母さんが浮気してたの」
 膝を抱えながら望海は呟いた。同じ職場に、四つ年下の間男がいた。その男は、浮気が発覚した一年前に職場に入ってきた新人だった。妻はその男に、自分のことはなんでも話すことができたらしい。冷めた家庭にいる辛さを幾度となく男に零しているうち、男がアプローチを始め、男女の関係になった。浮気だけはしないという不文律を妻は破った。
 一つ、気になることがある。「なんで浮気がバレちゃったの? 女の人ってそういう痕跡を残さないの得意だって聞いたことあるんだけど」
 望海は視線をさまよわせ、膝に顔を埋めた。「誰にもいわないでね」
 いわない、と、僕と雪兎が同時に発して声を調和させた。望海は肩を小刻みに震わせた。顔が上がると、笑んでいた。僕らもなんとなく笑う。
「お母さん、妊娠したの」
 笑みが凍りついた。思考が、完全に停止した。
 夫婦は長年のセックスレスだったので、妻の妊娠は間違いなく他人の子だった。二人の言い争いの中で、なぜ避妊をしなかったのかを、望海は知った。抜け出せない夫婦関係を天運に任せてぶっ壊したかったから、らしい。
 離婚し、母は再婚した。父は慰謝料の請求をせず、親権は放棄した。望海は母についていくしかなかった。そうして今のこの家に移り住んだ。ここは売りに出されていた家を買ったものだそうだ。
「妹ね、お母さんから産まれたことが不気味でたまらなかった。全然可愛いと思えないし。……私、最低なの。妹にどうしても苛々しちゃって。まだ幼いのに、何度か叩いてしまったことがあるの」
 意外な事実だが、妙に納得ができた。ドン引きしちゃうよね、と彼女はいうのだが、
「西村さんが素直なだけだよ」
 などと雪兎が一生懸命フォローしていた。
 両親は、望海の心情を配慮してか、元々あったこのガレージの二階を、彼女の部屋とした。そこに一切、妹を入れない。それで少しは気も楽になったのだが。
「まるで私は、ウチの子じゃないって追いだされたみたい。ここ、トイレないから、夜にトイレ行きたくなったら勝手口の鍵を開けて家に入らなきゃいけないの」
 僕はこのガレージ部屋に気楽な一人暮らしのようなイメージを抱いていた。そんな安易なものではなく、ここは西村家で唯一の、望海の居場所なんだ。
「家に入るとね、居間で、義理のお父さんと妹とお母さんが仲良くテレビ観ながら笑ってるの。それがすごく嫌……。気を遣って義理のお父さんが呼んでくれるんだけど、あの人のこと父なんて思えないし、妹を好きになれないから、私が避けてるんだけどね」
 先日望海から「再婚」というワードが出たとき、そこに広い奥行きのようなものを感じていた。それは心の闇の広さだったのだろう。
「やっぱり暗い雰囲気になっちゃったね」
 ゲームの愉快なBGMとは裏腹に、声のトーンを落とす望海。こんなとき、何か言葉をかけるのは無粋というものだ。かといって何もしないなんて嫌だった。僕は立って、望海の背後に回った。ガバっ、と思いきり抱きついてやる。キャッと悲鳴をあげる望海。
「全然暗い雰囲気になってないし。望海のこと知れて嬉しいよ、話してくれてありがとう」
 望海は首を振った。「ここまで深く話しちゃったの、雪ちゃんたちが初めて。聞いてもらえたら、胸がスッとした」
 僕は望海の髪に顔を擦り付ける。耳元に頬を寄せ、抱擁の力をこめた。望海は僕の手を握りしめてくれる。しばらくくっつきあっていた。
 望海は、僕の家族のことを訊ねてきたが、両親がちょっと変わっているだけで普通の家族だと答えておいた。そのあと雪兎にも内情を訊いてくれた。彼は自分のことを喋った。
「父親を亡くしたことについては、特に同情しなくても大丈夫だよ、もう何年も前の話だから」
 と、僕がいっておく。まあそうだね、と雪兎がいう。望海は小さく頷いた。
 会話に集中して止めていたゲームを再開する。結果、僕が優勝となった。
「あー、真剣な勝負で雪に負けた」と雪兎はいう。
「約束通り罰ゲームをやってもらうよ。僕が決めるね」
「いやいや待ってよ、罰を決めるのは西村さんなんでしょ」
「雪ちゃん、なんの罰ゲームにする? 私がそれをいえばいいのね」
「くそっ、これが女性の連帯感ってやつか」悔しそうに拳を握る雪兎。
「ふっふっふ、悪いようにはしないさ。さて、罰の内容は──」

 この部屋は、一人ではとても広く感じる。ガレージの部屋で過ごす望海の淋しい心境を想像し、噛み締めていると、一人の足音が戻ってくる。ドアが開くと、それは望海だ。雪兎はどうしたのかと訊くと、ついでにお手洗いに行ったと答えた。
「それでどうだった? 変な空気にならなかった?」
「ならないよ。お母さんはあんなだし、あの人は父親面して私をよろしく、だなんていってた」
 彼は拒否感を示していたが、罰だから、と望海に連れていかせたのだった。
「挨拶ができるしっかり者ね、ってお母さんはいってたよ。妹は見知らぬ人だからって逃げてったけどね」
 これで親公認の健全な仲になったな。
「さて望海。ちょいとそこのクッションに女の子座りしてもらっていいかな」
 さして疑問を述べず、彼女は座る。僕は「とうっ!」とかけ声をあげて膝の上に頭を乗せて横になった。
「どうしたの、雪ちゃん」望海は僕の髪を撫でる。
 もし僕が男なら悲鳴をあげられるところだろう。でもどうだ、何もいわれない。試しにこの状態でCカップの胸に触ってやろうか。どれ、モミモミと。
「雪ちゃんのえっち」
 ちょびっとだけ咎める声でいう彼女だが、どうだ、手を払いのけることもしない。僕は望海に痴漢し放題だ。
「私も同じことするよ、えいっ」
 望海も僕のおっぱいを触ってくれる。あぁ、女の子同士ってマジで最高。もう僕、女でいいや。
 望海の服をバッとめくり、顔を突っ込む。
「ちょっと雪ちゃん、服に無理やり頭を入れないで」
 腹に思いきり顔を擦り寄せた。「望海、良い肉付きしてる。全然デブじゃない。ぽっちゃりとも違うよ。僕はこれくらいが好みだし」
 イヤイヤいう望海。でも寝転がるだけで離れようとはしない。これが男ならどうだ、犯罪だ。でも女同士だから大丈夫。まあ見知らぬ他人にこんなことしたら女同士でも罪に問われるだろうけれど。
 階段を上る音がする。ドアが開く。服が伸びちゃう、と望海。
「何してるんだよ雪」
 僕は頭を出した。「膝枕だけど」
 服の上から望海の腹部を枕にする。そこ膝じゃないよね、とつっこむ彼。もう、と望海は怒りっぽくいうが、僕の頭部を優しく抱きしめてくれた。

 時刻が十一時を過ぎると、望海はいつも今ぐらいに就寝するそうなので、眠ることになった。三人で勝手口から家に入り、歯を磨く。僕はついでにご両親に挨拶をしておいた。パッと見、悪いそうな人たちには見えない。二人とも僕の容姿を褒めてくれた。
 飲食をしてしまったので便意を催したが、トイレに入ってもやはり何も出なかった。お腹に違和感もあったのだが……このまま眠るしかあるまい。
 望海のベッドの隣に僕、雪兎はだいぶ離して布団を敷いた。望海が電気を消し、ベッドに入る。僕は即布団から出て望海のベッドに潜りこんでいく。彼女はくすりと笑った。
「雪ちゃん、来ると思った」
 望海の中で僕はそういうキャラとして定着したようだ。
「僕が布団に入ってきて、嫌じゃないの?」
 全然、と彼女はやさしげにいってくれる。密着するほど身体を寄せて「嫌じゃない?」と訊いても、嫌じゃないよと答えてくれる。僕の脈は乱れ、息切れが落ち着かない。もう完全に欲情していた。腕を広げて望海に抱きつく。遠慮なく胸に顔面を押しつけた。
「ふぃふぁびゃふぁい?」
「なんにも嫌なことなんかないよ」望海が僕の後頭部に手を回す。「雪ちゃんは甘えん坊さんなのね」
 少し罪悪感に苛まれた。でも僕は抑えきれなくて、パジャマの上から望海の胸を揉みしだいた。しかし彼女は「よしよし」と僕を撫でるだけで、もう嫌がってくれない。
「雪ちゃん、来てくれて本当にありがとう。誰かといてこんなに楽しい気持ちになれたの、初めてだよ」
 望海のパジャマのボタンを外していく。「雪兎は必要なかったよね、今日全然喋ってないし」
「そんなことないよ。真白君も今日は来てくれてありがとう。幸福な一日になりました」
 こちらこそ、と低い声が聞こえる。望海の素肌に指を滑らせ、さりげなく乳頭に触れた。と、ガシリと腕が掴まれ、手が離された。逆に望海が僕の胸を鷲掴みにしてくる。
「私ね、人がその場に三人以上になると何を喋ったらいいか困って口数少なくなるの」
 それわかるよ、と雪兎。僕は懸命に望海の胸を触ろうとするが、意外に強い力で押さえられている。望海は僕のパジャマのボタンを開き、指を滑り込ませてきてくれた。
「でも、雪ちゃんと真白君の間にいると肩の力が抜ける。自然体でいていいんだって思える」僕の乳頭を責めてくる望海。「雪ちゃんは信じられないほど美人で、なんだか神聖な雰囲気もあって、ひどく緊張してたのに……もうこんなに仲良くなれてるから、不思議」
 望海の指使いは慣れていた。普段から自慰をしているな。胸を責められるのは、くすぐったさの中に妙な気持ちよさがあった。僕は本気を出して手を伸ばす。望海の乳房に届き、指を転がしてやる。
「雪は誰かにとって受け入れられやすいふうになるのがうまいんだよ」
 望海も巧みに僕の乳房を責める。喘ぎそうになって吐息が漏れた。それに気づかれたのか、望海は悪戯っぽく笑った。
「うーん、確かに真白君のいうようなところはあるかもだけど、なんていうか、雪ちゃんは、まさに名前のとおり純粋というか、無添加というか。容姿が整った女の子って、偽りの部分が際立って見えるんだよね。変に空気を読もうとして、人前では自分の可愛さを認めなかったり、性格の歪みがよくわかったりするというか。私、最低なこといってるかな」
 全然、と僕はいってあげる。
「雪ちゃんは、自分の素敵な外見に自信を持ってるし、明るいし、面白いし、変な壁を作ったりもしない。真っ直ぐに向かってきてくれる感じがするの」
「そうなれるのは相手が望海だからだよ。他の人だったら僕は超性格悪くなるかもね」
「そういうところだよ、雪ちゃんの良さって。はっきりしてて、八方美人な感じがしないの。真白君、顔もそうだけど、性格も雪ちゃんと似てるよね。真白君のテンションが女の子らしく更に高くなったのが雪ちゃんって感じ」
 ぷっ、という笑い声を僕と雪兎が発した。
「私、変なこといった? 別にね、テンション低い人が嫌いということはないんだよ。落ち着いてる人も好きだから」
「雪兎が好きってこと?」と、つっこんでみる。すると、雪ちゃんも好きだよ、とうまくかわされた。
「じゃあ、望海は好きな人っている?」
 んふふ、と彼女はおそらく口を閉じたまま笑った。「こういうときは恋バナだよね。でも、私は好きな人っていないんだ」
「ちょっと気になる人もいない?」
 んー、んー、んー、と望海は唸る。「雪ちゃんは?」
「僕は望海が好きだから、マジで付き合ってよ」
 え、と笑い気味にいう。「真面目に答えて」
「……男は誰も好きになれない」
「ゆ、雪ちゃんってもしかして、女の子が好きなの?」
 これを認めるとレズビアン認定されそうだ。「自分が恋愛をすることに今は興味ないだけだよ。はい、望海も真面目に答えて」
「私は、本当に好きな人いないんだよ。小学生の頃いいなあって思った男子はいるけど、それは憧れだったし。今はその人のことをなんとも思わない。真白君はどうなの?」
「あいつホモなんだよ」
「えっ……そういえば前に教室で──」
「こらこら、西村さんに妙なこと吹き込まないでください。僕は異性愛者だっての」
「じゃあ、好きな人はいる?」
 雪兎は何もいわない。僕も黙ってみた。いつのまにか胸の触り合いが止まっている。もう少しやりたいというか、むしろ責めてほしいのだが。
「僕は、愛してる人がいるよ」
 望海は驚嘆の声をあげた。「そういう関係の人がいるの?」
「違う、西村さんを愛してるんだ!」
「え、今の雪ちゃんがいったんだよね、声似てた」
「僕じゃないよ、雪兎が告白したんだよ」
「雪がいったんだよ。西村さんを勘違いさせるようなこというのやめてよ」
 その言葉は、まずかった。
「真白君……特別に想う人がいるんだ」
「いるよ。この人しかいないってほど愛してる。でもその人は、僕に好かれたくないみたいなんだ」
「……そう」消え入りそうな声だった。「私は、雪ちゃんも真白君も、好いてるよ?」
 雪兎に限定せずに放ったその言葉は、望海なりの確認だ。僕は口を挟みたくなった。だが、
「西村さんにそういってもらえるのはせめてもの救いです。愛する人に前向きになれそう」
 雪兎にそこまでいわせてしまった。
「真白君の想い、叶うといいね。私、心から応援してる」
 僕は拳を握りしめた。あいつの胸倉を掴んで色々いってやりたかった。
 妙な空気になり、誰も喋らない。僕はベッドから出たくなくて、ずっと望海の体温を感じていた。

  *

 朝には雨が止んでいたが、梅雨曇りだ。明日まで晴れないと天気予報が伝えていた。
 雪兎は昨日と同じ服、僕は望海に貰ったワンピースを着た。望海は七分丈の黒のデニムパンツに、無地で真っ青な半袖の服。それはワンピースのようになっている。青地の下に白地で玉柄の、二重構造のスカート状になっていた。さすがオシャレ師匠、良い服をお持ちになられている上にセンスのある着方をする。
 雪兎の朝食は、どこかで買って済ませるつもりだったが、何かあるかもしれない、と、望海は家を見に行った。雪兎はテレビを観ていたが、僕は消す。
「なんで消すんだよ」
「話があるからだよ」クッションに座った。「昨夜の会話はなんだ」
「好きな人の話のこと?」雪兎は面白くなさそうな顔をした。
「望海は、好きかどうかはっきりせずとも、多少なりともお前に気はある。雪兎さえ迫れば必ず付き合える。それなのにお前は全く気がないようなこといって……」
 雪兎はため息をついた。「雪が勝手に余計なことしてただけなんだよ。僕は雪のことが──」
「あー聞こえないーあーあーあー」両耳をばんばん叩く。「望海の頬にキスしたくせに。責任取れよ」
「雪がそう仕向けたんだろ」
「お前が全力を尽くして勝ったんだろ」
「違うね、雪は手を抜いてた。僕がそんなこともわからないとでも? 君は自分を誰だと思ってるんだよ」
 今度は僕がため息をついてやる。「それでも君が勝とうとしてたのは事実だ」
「そりゃゲームには勝とうとするよ、それが楽しみ方ってもんだろ。西村さんへのキスは、それとこれとは関係ない」
「うわあ、こいつ女たらしだ。別にキスを断ろうと思えばできたのに、それをしなかっただろ。どうしてだよ」
 雪兎は言葉を失くした。
「ほら、何もいえなくなった。望海にキスをしたい願望はあっただろ」
 突如、雪兎が立った。勢いよくこちらに近づいてくるので、僕はすぐに逃げられず、両肩を掴まれた。抵抗するが、雪兎が頬にキスをしてきた。僕は彼を突き飛ばす。よろけて尻餅をついた。僕は手の甲で頬を拭った。
「あのなあ、僕はお前の彼氏でも彼女でもないんだぞ。自分がキスしたいからって、気安くそんなことするのやめてくれ。お前のこと嫌いになった」
 え、と彼は悲しげな声を出す。「ごめん雪……僕は、ただ、雪のことを純粋に愛してるだけなんだ。だから心苦しくて、諦められない」
「僕に想いを向けるのは不毛だから止めよう。望海にシフトしたほうが絶対に良い。ちゃんと男女の仲にもなれるだろ? 望海の胸、触り心地良かったよ。肌もすべすべだ。欲望のまま自由に触りたいだろ? お前さえその気になれば恋人同士になれる。そうなってくれる方が僕は嬉しい」
 雪兎は、涙目だった。苦しそうに胸を押さえている。ふいに、こちらに向かってきた。僕にぶつかるようにして抱きしめられ、押し倒された。
「雪、その服本当によく似合ってる、めちゃくちゃ可愛いよ、大好きだ!」
 強引に好意を押しつけられ、そこには当然、欲情もまざっていて、僕の肉体に強い痛みを与えた。
「離れろよ、お前の気持ちは僕にとって痛いだけなんだ。お前、調子にのりすぎてる。前はもっと僕の気持ちを考えてくれたのに、今は押しつける一方だ。余計にお前を嫌いになるだけだぞ」
「雪が矛盾したこといって僕を惑わせてるんだよ。昨日、なんで駅から出るとき一緒の傘に入らせたんだ」
「あれはお前に異性への接し方を教育してやっただけだろ……クソッ、お願いもう離れてよ、苦しい」
 雪兎はハッとして、心情を抑え込め、ようやく離れていった。僕は立てそうになかった。身体の感覚が薄らいでいて、気力も湧かなかった。戻ってきた望海が「雪ちゃん、眠いの?」と訊くので、同意してごまかした。しばらく眠たいふりを続けた。
 望海のお母さんは朝食を大目に作ってくれたそうだ。食後は真面目に勉強を始めた。僕は勉強をする必要性を感じなかったが何もしないわけにはいかないし、テスト中は雪兎と協力して高い点数を出せるかもしれないので、参加する姿勢をとった。成績は望海の方が良いみたいで、特に英語が得意なようだ。英語が最も苦手な雪兎はいつもテストで赤点ぎりぎりである。洋楽に興味はあっても、雪兎の頭は英語の文法をちっとも解釈できなかった。そのバカな頭に、望海は根気よく、優しく教えてくれていた。
 お昼にデパートへ行く予定だったので、十二時前に一旦勉強を止めた。家族は出かけたらしく、望海は自分で食事を用意しなければならなかったから、ついでに昼食の材料を買うそうだ。僕らの分も作るといってくれた。……実をいうと、朝食を摂ってからお腹が少し痛い。でも僕の分はいらない、という不自然なことはいえない。望海の料理を食べたいし。まだ我慢できる痛みなので、今は耐えようと思った。
「雪兎はここで留守番ね」
 二人が「え」と声を揃えた。
「だって僕の下着を買うんだよ。男はいてほしくないなあ。ね、望海。わかるでしょ?」
「うーん、真白君がかわいそうだけど、そうだね。それに自転車一台しかないし、三人で行くのは大変かも。家から二キロくらいはあるから」
「それくらいなら余裕で走るんだけど。それにここは西村さんの部屋なのに、僕が一人でいてもいいの?」
「真白君は悪戯するような人じゃないから平気」
 笑顔でいう望海。雪兎はどこか不満げな表情をみせる。
「なんか欲しいものあるなら買ってきてやるよ。それとも僕のいうことが聞けないのか」
 僕にしたことを咎める雰囲気で威圧した。雪兎は自責の念に駆られ、弱気な表情に変わる。
「わかったよ、雪のいうこと聞く」
 それがせめてもの罪滅ぼしだ、とでもいっているようだった。



NEXT »
colorless Catトップ

inserted by FC2 system