彼女が僕の中にいる第九話.僕は君のためを想う(page.B) |
異性との二人乗りは、僕の夢だった。真面目な彼女は拒むのだが強引に後ろに乗ってもらい、なるべく車の通らない道を選んで進んだ。遠慮がちに僕の腰に手を添える彼女に「もっとしがみついて」というと、しっかり手を回してくれる。青春映画の恋人同士みたいになれて幸せだ。どうみても女の友達同士だがな。 田舎の古いデパートなので、休日でも駐車場には空きが多くみられた。望海の手を引き、入口へ。店内では逆に望海が僕の手を引き、真っ先に下着売り場へ入った。彼女が「森さん」と、二十代くらいの女性店員に声をかける。向こうも望海のことを知っていた。何度か来ているので顔見知りなのだという。 「この子の胸のサイズを測ってあげてほしいんですけど」 「望海ちゃんの友達?」 「いいえ僕は彼氏です」 森さんはぶっと噴き出した。直後、真顔になって望海を見つめる。 「もしかして今の冗談じゃなかった?」 望海は首を振る。「こういう冗談をいう子です」 半分本気でいったんだけど。森さんは笑みを浮かべた。 「面白い子だね。その上、キュートな顔してる」僕の身体を見回す。「服の上からでもわかるくらいスタイルも抜群。いや、本当にすごいよ、もしかしてモデルの経験あるんじゃない?」 僕は首を振った。 「そうだよね、こんな片田舎だし。でもあなた、絶対にできるよ。写真撮って雑誌社に送りなよ、すぐ読モになれるって」 「あんまり興味ないかな……」 森さんは肩を落とした。「そっか。でもその気が出たらチャレンジしたほうがいいよ、こんなこといった以上、私も協力するから」 森さんは快活そうな女性だった。ショートカットがよく似合っており、本物のボーイッシュさを纏っていた。昔、雑誌のボーイッシュ女子特集に載ったことがあるのだという。 案内されて試着室に入り、ワンピースを脱いだ。ブラをしていないことや胸の大きさに何か反応されそうな気がしていたのだが、そんなことはない。メジャーで手際よく測ってくれた。終わったよ、といわれ、僕はさっさと服を着る。 「きちんと測ったのは初めて?」 僕は頷く。森さんは三度頷く。 「あなたのサイズは、トップ96.1、アンダーは68ね。カップはH」 そうか、僕はHカップなのか。 「お店としては残念だけど、G以上の大きなサイズは置いてないんだ」 ないんですか、と驚く声を、僕と外で待つ望海が同時に発した。森さんはくすっと笑う。カーテンを開くと、望海は僕の胸に注目してから、露骨に落胆した。それほど僕にブラジャーを身に着けさせたかったようだ。 G以上のサイズは、下着の専門店や大きな店にしか置いていないらしい。通販で買う選択もあるが、試着したほうが良いと望海も森さんもいった。 ショーツは大概、ブラとセットで買うものだそうだ。僕は穿きなれたトランクスのままで構わなかったが、望海はショーツ単品の購入を強く勧めてきた。お金を出すとまでいう。トランクスなのがどうしても許せないらしい。 仕方ないので、淡い水色のショーツを自腹で買い、試着室で穿いて望海に満足してもらった。意外にショーツのフィット感は心地好い。これでブラジャーも着けたら、身も心ももっと女性色に染まるだろうな。 「ユキちゃんは、 森さんとの別れ際にそういわれた。下着売り場を出ると、望海が僕の手をきつく握りしめてくる。こちらからも握り返すと、手の温かさがよく伝わってきた。 それから終始、望海は僕の手を離さなかった。僕がまともに大勢の人がいる場に出たのはこれが初めてで、想像以上に周囲の視線を感じた。特に男性が、鼻の下を伸ばして僕を見ているのがよくわかった。そんな男たちが、僕にはゲイにしかみえない。 「雪ちゃん、みんなに注目されてたね」 再び僕が前で二人乗りして、デパートを出ると、望海がそういった。そうだね、と僕は苦笑いしていった。 しばらくして、ずっと訊きたかったことを切り出した。 「ねえ望海。雪兎のことどう思う? 恋愛対象としてみれるかどうかという話なんだけど」 「うん、みれるよ」 あまりにもあっさりいうものだから、その言葉を受け止めるのに一瞬の時間を要した。そうなんだ、と僕はいう。 「そりゃみれるよ、真白君は男の子なんだから」 異性だからそうみれることが当たり前、と彼女はいっているんだ。 「あいつの顔、微妙じゃない? 頬にキスされたとき、キモっとか、ばっちいとか思わなかった?」 「それなら拒んでるよ」軽く笑った。「真白君は優しい顔してる。雪ちゃんもだけど」 「じゃあ、あくまで仮定の話として受け取ってほしいんだけど、雪兎が付き合ってほしいって告白してきたらどうする? 僕は親戚だし、あいつを男としてはみれないから、他の女性からしたら雪兎って男として魅力あるのかなあって」 望海は沈黙した。長いこと、口を開かなかった。僕は痺れを切らすように彼女を呼ぶ。 「えっとね、家庭を持って、子供が二人か三人いて、たまに雪ちゃんが遊びに来てくれるところまで想像した」 「それは雪兎との結婚生活を思い描いたってこと?」 「そうだよ?」 当たり前じゃん、みたいな具合だった。これでは結局のところ、アイドルとの結婚生活を妄想するのに近いわけで、望海の本質の気持ちがわからない。……昨夜、雪兎のあんな言動を聞いたあとだから、仕方ないのだろうか。 「逆に訊きたいんだけど、雪ちゃんが仮に真白君と親戚でもないとして、真白君が告白してきたらどうする?」 「あいつを……幼いときからよく知ってるし、うまく想像することはできない。だから他を当たれよって即答する」 「まあそうだよね。姉弟みたいなものだもんね」 「うん。望海、結婚生活まで想像したっていうことは、じゃあ雪兎がマジで告白してきたら、当然OKして付き合うってことだよね?」 そうはっきり口にすると、また望海は黙った。長いこと口を開かなくて、僕は痺れを切らすように彼女を呼ぶと、望海は「うんとね」と切り出す。 「怖いかも、そうなったら。OKはするよ、こんな私でいいのか疑問だけど……。私、今より自分が良くなれると思えないし、付き合ってる内に悪い部分がたくさん見つかって、関係が壊れそう」 だから怖い、か。 「私、今、幸せなの。雪ちゃんと真白君が私に幸せをくれたの。すごく感謝してる。それで、これからも二人が泊まりにきて、一緒に遊んだり、勉強もしたりしたい。でも真白君との距離が近づいたら、そんな楽しい空気が台無しになりそう」 そんなことはない、と断言したかったのだが、いえるはずない。そもそも雪兎は僕のことが好きなんだし。仮に二人が付き合う状態になっても、その先がうまく続けられるかなんて、今の僕にわかるはずないし。ただここまで色々と訊いて、望海は大人びていて、等身大の雪兎を受け止めてくれている、というのはよくわかった。 望海は家に入り、僕はガレージの部屋に戻る。雪兎はちらっと僕の胸を確認するが、何もいわなかった。いやらしい顔つきに見えたので、 「Hカップのブラは普通の店に売ってねえんだとさ!」 そう声をあげてトランクスの入った紙袋を顔に投げつけてやった。 望海は焼きそばを調理してくれた。食後、雪兎を誘って洗い物を手伝おうとしたのだが、「部屋で待っててください」といわれてしまう。食い下がったのだが、「これくらいの洗い物、一人でやるほうが早いよ」なんていわれてしまい、仕方なく僕らは戻った。何から何までできた娘だ。 「お前にはもったいないよ」 部屋に戻ったとき僕はそういってやった。なにが、と彼は問うが、面倒になりそうなので答えなかった。 それから、僕らは引き続き勉強を開始するわけだが、時にはお互い教科書や問題集を見ながらクイズを出し、間違ったら些細な罰ゲームをするという具合に飽きない工夫をしていた。変顔をする、筋トレする、恥ずかしいことを叫ぶ、二人で鼻の穴に指を突っ込むなど。時にはバカみたいに笑いあっていた。 夕暮れになると、ようやくお 駅まで見送りたいと望海はいうのだが、それはまずい。見送られると淋しくなるから、と適当に言い聞かせ、また必ず泊まりにくると約束をして、望海とは家で別れた。 「実は、ずっとお腹がじくじくと痛んでたんだ。それとすげえ気持ち悪い」 駅に向かう途中、彼にそう打ち明けた。こうやって歩いているのもしんどかった。雪兎は肩を貸してくれて、胸中ではひたすら心配していた。 人がいないときを見計らい、森上駅の男子トイレに僕らは入る。雪兎の中に入ってしまえば、この体調不良から解放されるだろう。しんどさを堪えながら、服を汚さないために全て脱いで裸体になった。雪兎が鼻息を荒くしている。便座に腰を下ろし、そっぽを向く雪兎の腕を掴む。彼の思考は僕への肉欲で満たされていて、すぐに手を離した。 「ごめん、雪、もう抑えられないんだ……我慢ができない」 息を乱して彼はいった。三人で過ごしていたときから、雪兎は昂ぶった気持ちを幾度も殺していたのだろう。……こうなったらもうどうしようもないのはよく知っていた。トイレットペーパーを渡してやり、彼はズボンを下げて自慰を始める。僕を見つめながら、すぐ果てた。 雪兎が落ち着いたので、再び腕を掴む。瞳を重ね、雪兎の中に入ろうと試みた。だが、なかなか入れない。いつも入るときのような感覚はあるのだが、自分の身体に引き戻されているようだった。でも、それを何度か繰り返しているうち、彼の中に入れた。僕の体内にあったものは便器に落ちる。色とりどりの食べ物の欠片が浮いていた。消化された跡は全く見受けられない。……僕は自分の身体だけでは生きられないのだろうか。 『ねえ、手を合わせてください』 どういうことかと彼は問うが、とにかく便器に向かって拝めと要求した。彼は合掌する。 『愛しの望海さん、食べ物を粗末にしてごめんなさい。お母様の料理も望海の料理も、とても美味しかったです。ごちそうさまでした。はい、流して』 理解した彼も同じような罪悪感を脳裏に過ぎらせたあと、レバーを捻った。 改札を抜け、駅舎とは逆側の島のホームに移り、電車を待つ。あと二分で来る。雪兎は、望海とのひと時を思い返していた。なんだかんだで名残惜しいようだ。 唐突に、僕が知らない望海の情報が過ぎった。 『……お前、僕らが外に出てる間に物置を漁ったのかよ』 あ、と彼は声を漏らす。そのことは考えまいとしていたようだが、彼がほんの一瞬思考を過ぎらせただけでも明確にとらえることができた。彼は物置で発見したものを次々と過ぎらせてしまう。 「悪気はないんだよ、暇だったから、物置はどうなってるのかって見たくなったんだ」 下着類を漁っていないか、望海のベッドの匂いを変態的に嗅いではいないのか、と揺さぶりをかけても、その願望はあったがやっていない。ぶっちゃけ僕がこいつの立場ならそれらをしているはずなのだが。彼はみっともない姿を知られたと感じた。 『あのさ雪兎、僕を誰だと思ってるんだよ。僕は君自身でもあるんだ。逆の立場なら同じことをしてたよ。で、見たことについては、よくやったと褒めてやる。こんなの隠してたなんて可愛いじゃん』 雪兎は安堵して、同意していた。 「真白君!」 突然の声に驚いて、振り返ると、自転車に乗った望海の姿があった。線路を挟んだ柵の向こうはアパートの駐車場になっており、そこで手を振っている。 「やっぱり見送りたくて、来ちゃった。雪ちゃんは?」 こりゃまずいな。『すでにこの場にはいないことにしたほうがいい』 彼は思考を巡らせる。そこから僕が言葉を導きだし、復唱させる。 「雪、間違えて反対側の電車に乗っちゃったよ。あいつ天然ドジなとこがあってさ」ははは、と笑う雪兎。 望海は心配そうな顔で何度か頷いてくれた。僕は更に雪兎に言葉を伝える。 「あいつなら大丈夫だよ、心配しないで。雪が僕の家に着いたら、西村さんの家に電話させるよ」 彼女は微笑み、頷いた。「真白君、絶対にまた雪ちゃんと来てね」 彼は頷く。「約束したんだから行くよ。でも、雪だけでいいんじゃない? もう僕がいなくても、西村さんと雪は仲良くやっていけるはずだから」 余計なこといってるな、こいつ。 「そんなこといわないで。真白君もいたほうが楽しいんだから。私、たった一日で雪ちゃんのことが大好きになれたの。それと同じくらい、真白君のことも好きになれたから」 ライクの意味だとわかっていても、好き、という言葉に雪兎の心は反応した。 『同じような言葉を返してあげたら?』 「僕も、西村さんと一緒に過ごして、もっと好きになれたよ」 マジでためらいなく言いやがった。しかも、雪兎は更なる余計な言葉を浮かべている。止めようとしたが、いや任せようと思い直した。 「物置に隠してあった物を見ても、心からそう思ってる」 望海が肩を持ち上げ、驚愕の表情を浮かべた。 「物置部屋に入ったの?」 雪兎は頷いた。「勝手に見てごめんなさい。でも、次に僕らが行くときは隠さなくていいよ。漫画も、美少女フィギュアも、アニメのタペストリーも、同人誌もね」 微笑みを浮かべながら、雪兎は言いきった。 階段を上った突き当たりの物置部屋。そこには布で隠されていた段ボールがいくつもあった。電化製品やネット通販の空箱などを積んでいたのだが、何かを隠していると察していた雪兎はそれらをどかして漁り、彼女の趣味を知った。百合を題材にした漫画の数々。フィギュアのほとんどが愛くるしいロリキャラで占められていた。同人誌が結構あった。薄いのでかさばらないが、一つのダンボ―ル箱に一杯だった。大半がガールズラブ系である。数は少ないがボーイズラブ系もあり、男の娘と呼ばれそうな美少年系キャラの絡みばかりだった。 望海は両手で顔を覆っている。思い詰めるような瞳が指の隙間から見えた。 「ちゃんと隠してたのに……全部、見たの?」 「今挙げたものが全部なら、そうだね」 彼女はこちらを窺う。目が据わっていた。 「あれを見ても、私のこと、嫌にならないの? 気持ち悪くないの?」 「アニメくらい僕も観るよ、雪だってそうだし。フィギュアとかグッズは持ってないけどね」 望海は首を振った。「だって私が持ってるものって、ほとんど可愛い幼女ものばかりで、変な本も持ってて、見られたら絶対に頭狂ってるって思われるって──」 思わない、と遮った。「雪だって気にしないよ、僕が断言する」 「そんなの信じられない。私、友達に自分の趣味を見せたら、ドン引きされて、避けられるようになったんだよ? お願い真白君、雪ちゃんにはいわないで……」 それは高校に入ってからできた友達なのだろうか。なんにしても、僕は彼女の真の姿を知って更に興味が湧いたのですが。 「雪なら絶対大丈夫だから。あいつなら余計西村さんに興味を示すようになるよ」 望海は駄々をこねる子供のようにイヤイヤ言い続けた。 「じゃあこうしよう、雪にこのことを話して、それで西村さんを嫌うようなことがあれば、僕は君の前で自殺するよ」 うわあ、なんかすげえなこといってるなあこいつ。 「私、そんなこと望んでない」 「うん、だけどそれくらいの覚悟を持てるんだ。まあ死ぬってのは言いすぎてるから、坊主頭にするよ。西村さんがバリカンで僕の髪を綺麗に剃って」 望海は不安げに瞳を潤ませている。雪兎に知られたことと、僕に知られることに強烈な不安を感じているようで、手と唇が震えていた。望海は口を押さえ、視線を宙にさまよわせる。ふいに何かを思い立ったように、視線がピッとこちらに向けられた。 「私と、付き合ってください」 ──えっ? 「もし雪ちゃんが私を嫌うようなことがあったら、真白君は愛する人のことを綺麗さっぱりと諦めて、私と付き合ってください」 ……なにをいってるんだ、あの子は。 「それ、冗談でいってる?」 望海は思いきり首を振った。「冗談じゃない、真白君はあれを見ても、何も思わないんでしょ?」 雪兎は頷く。 「じゃあ、私と、付き合って。私の恋人になってよ!」 僕らの内面は、彼女の言葉に引っ掻き回されて混乱していた。 「私、真白君と付き合いたいの、お願い!」 その言葉には、僕が嫌うようなことがあったら、という前提が抜けているように思える。雪兎は、望海の言葉を、いったいどう受け止めればいいのかと当惑していた。 すでにホームには、真っ赤な電車が停車している。 雪兎は望海を見ていられなくて、逃げるように電車の中に飛び込んだ。ドアが閉まり、電車が動きだす。望海は、自転車を漕ぎだして追ってきた。電車の速度が上がっていく。望海は必死の形相で、がむしゃらに自転車を漕いでいた。危ないから止めてほしいのだが、何かを叫びながら電車を追い続けた。引き離されても、望海が豆粒みたいに小さくなっても、こちらに向かってくる姿が見え続けた。 雪兎はずっとめまぐるしく思考をしていて、僕は何もいえなかった。家に着くまで僕らは喋らなかった。 部屋に入り、二人分の荷物を床に置く。雪兎は、僕に電話するよういった。 『しない』 「はっ? 雪が電話の提案したんだろ、約束したんだからしてよ」 『雪兎が全部いってよ、僕はしない』 「なんでだよ、雪が話さないと意味ないだろ、西村さん、色々心配してる」 その色々にはまさに多くの意味があった。だから避けたいんだ。 「別に、雪は何も知らないふりをしたらいいだろ」 まあそうなんだけど。……望海を下手に安心させたくない。口にしたことを取り消してしまいそうな気がしていたから。かといって放っておくのも心苦しい。 仕方なく雪兎から出て、望海の家に電話を掛けた。呼び出し音が続く。出る気配がない。……出ない。 時間を置いて、更に二度掛けた。一度目は出なくて、二度目のとき望海の母が出た。「今は外に出てる」といわれた。意図的に避けられているようだった。 母が帰ってくる。姿を見られぬよう雪兎の中に入った。母が部屋の前を通りがかると、案の定ノックされ、ドアが開いた。 「お寿司買ってきたから食べなよ」 酒を飲んだようで顔が赤い。寿司を手渡されると、ふいに中を覗いてきた。なに、と彼は低い声を出す。 「いやあ、誰かいるなら顔ぐらい見ないとと思って」 どうしてそれを察したのか。親の勘の鋭さはすごい。 「誰もいないよ。だいたい客がいれば靴でわかるでしょ」 ふーん、と母はいう。アルコール臭がした。 「再三いうけどさ、お母さんはあなたが女の子を連れ込んでも歓迎するだけだからね。でも変な子だけは連れてこないで」 「わかったから。もういいでしょ」 母は口を尖らせ、部屋を後にした。ドアを閉め、雪兎はため息を吐いた。 寿司を食べ終えて一息ついたころ、散歩しよう、と僕は切り出した。 「外に出るってこと?」 『家を歩き回る散歩をして楽しいの?』 彼は迷う思考を巡らせた後、何もいわずに立ち上がった。すでに出る方向に意志は決定されている。彼は元々、外に出たい気分になっていた。 堤防にはひと気がなくて、僕は彼から出た。お互いの足は自然といつもランニングする方向へ進む。数分も歩けば、砂利道は舗装された道路に変わり、田圃だらけだった景色は家並みになっている。でも堤防には誰もいない。いくら家々があるといっても、この辺りが田舎であることは変わらないので、夜に出歩く人間はほとんどいないのだ。 雪兎は立ち止まり、ぼんやりと梅雨の月を仰ぐ。満月を過ぎたばかりで、雲の薄い部分が白く光っていた。僕は百メーター先の対岸の向こうに見える家々の灯りに目をやった。そこを見つめていると、なんとも不思議な気持ちになってくる。それを言い表すことはできない。自分の存在が不確かだから、こんな気分に陥るのだろう。 「雪兎、落ち着いてるね。僕がこうやって傍にいることには慣れた?」 「意識しないようにしてるだけだよ。そうやって僕の心を突っつかないで」 彼のわき腹を突いてやると、その身をくねらせて距離を置いた。僕は悪戯っぽく笑う。彼は無言でそっぽを向いた。 「望海と付き合おう」 横顔に向かってそう言い放ってやった。彼には全く動揺がみられない。 「そんな話をするだろうって思ってたよ」街灯に反射する彼の大きな瞳が、真っ直ぐこちらを見据える。「答えはノーだ、僕は君を愛してるんだから」 鼻で笑ってやった。「好意を示されるだろうって僕は思ってた。そして充分わかってるだろうけど、僕は君を愛せない。だって自分自身だからね。生々しく愛されることもできない。全身が謎の激痛に侵されるし」 おかされるし、と口にした瞬間、彼の身体が一気にこちらに迫った。身構えていた僕は後ろに飛んでかわした。雪兎の両腕が、中途半端な位置で止まっている。 「気安く抱きしめようとするのは止めてくれ、僕はホモじゃないんだ」 雪兎は拳を握り、哀愁を帯びた眼差しでこちらを睨んでいる。 「僕らは存在が近すぎるから、君の距離感が麻痺してるのはわかるけど、僕は君のモノではないんだよ」 「違う、君は僕に寄生してるんだから、僕だけのものなんだ! 僕のこの感情は君のものでもあるんだろ、なのになんで僕を愛してくれないんだ!」 全身に溜まった鬱憤を絞りだすように、低い声をまじえたため息を吐いてやった。 「僕はね、君のためにいってる節もあるんだよ。僕は人らしく生きれない。戸籍も存在しない。食べ物を消化できない、排泄もできない。君と男女の仲にもなれない。そんな僕を愛してどうする。君はずっと僕とのことで苦しみ続けることになるんだぞ。別に良いじゃないか、望海と交際したって僕がいなくなるわけじゃない。ていうかさ、望海に僕のことを何もかも話そう。きっとわかってくれる。それで三人一緒に楽しくやっていこう。なっ? あんないい子、他にいないって。望海とくっついたほうが絶対に幸せになれる。僕のいうとおりにしてくれ。君だって望海が嫌いってわけじゃないんだから」 「西村さんは良い人だけど、僕は君じゃなきゃダメなんだ。好きな人にそんなこといわれるのは辛すぎる。ひどいよ……」 雪兎は俯いて、身を震わせていた。 「君は、僕と天秤にかけるせいで、望海への気持ちがうまく働かなくなってるだけだ。僕がいなければ君は望海と付き合ってる」 「でも君はここにいるじゃないか!」顔を上げた。「そもそもこんな状況になったのは、君がいたからだ。雪がいなかったら、僕は西村さんと知り合ってもいない」 前はそれを否定していたくせに、都合がいいもんだ。 「雪のことを諦めたくない。それじゃあ、西村さんと付き合うから、雪も僕の彼女になってよ」 ぶっと吹き出した。「お前、すげえこというようになったな。あのなあ雪兎、お前に二股かけさせて望海を傷つける結果になんかしたくもないんだよ。……頼むからさ、望海と恋人同士になって。君は今の僕以上に、望海を好きになれるはず。あの子は、等身大の君を好きになってるんだ。ちゃんと結婚もできて、子供は二人か三人できそうだ。僕とは結婚できないし、たぶん子供もできない。それ以前に君とセックスできないんだけど」 雪兎は洟をすすっている。それほどまでに僕を愛してくれていることが、少し信じられなかった。その強い愛情を望海に向けてやってほしい。今なら彼女は受け入れてくれるし、関係はうまくいくはず。 突如、雪兎は踵を返して走りだした。 「おい雪兎、どこ行くんだよ!」 全速力で行ってしまう。あとを追うべきか、どうするか。数秒迷ううちに、彼の姿は闇に溶けていった。 家へ戻った。母に見つかれば面倒になるから中には入らない。部屋の電気はついていないので、あいつはまだ外だ。 待っていれば必ず帰ってくる。僕はそう安心していたんだ。それなのに、二十分ほど経ても、更に三十分ほど経ても、戻ってこなかった。 僕が動く必要はない。だってあいつの帰る場所は家しかないのだから。……そう思えても、更に時間が経過していくと、不安が募り、捜しに行きたくなっていた。時計がないから時間の感覚がわからない。もどかしくなってくる。 およそ、合計で二時間以上は経過しただろうか。さすがにもう待ちたくなかった。僕は自転車に乗り、雪兎の捜索を開始した。 あいつの行きそうな場所はわかる。と、安易に考えていた。よく通りがかる神社、中学校の体育館裏、兄と秘密基地にしていた廃小屋、堤防の下やランニングのときの折り返し地点など。思い浮かぶ場所を見て回ったのにどこにもいない。一度家に戻るが、窓は灯りがともっていないままだった。帰ってきて電気を消している可能性は無きにしも非ずだが、あいつの性格上、僕を放っておけるわけがない。戻ってきているなら、自転車がなくなっているので、察して家の前で待っているはずだった。 一か所、思い当たる場所で、行っていないところがある。 ただ、こんな時間にそこへ行くとは思えなかった。昼間でもかなり薄暗いし。いわくつきだし、夜に足を踏み入れるには、強大な恐怖を乗り越えなければならなかった。僕とのことで傷つき、どこかでぼんやりしたいのだとしても、あそこだけは選択しないはず。 「……つまり、そこってことか」 今の複雑な心境なら、あの場所に行っているのがむしろ自然。僕は再び自転車に乗り、漕ぎだした。 たとえば、僕が全く予想できない場所に行ってしまうこともできる。闇雲に遠ざかり続ければ、いくら僕でも居場所を予測しきれない。だがあいつはそれをしないはず。僕のことで苦しんでいるのだから、僕には見つかりたくないと考えてはいるだろう。それでも、僕の知る場所にいるはずなんだ。心の深層では、僕に見つけてほしいと願っているから。本当は僕に甘えたくて仕方ないはずなんだ。 僕は彼を一〇〇パーセントわかってやれる存在だ。だから自分の考えに確信があった。 次第に晴れてきているようで、雲間から月光が射している。遠景に、巨大なボーリングのピンのオブジェがはっきりと見えていた。 トヨナガボールの不気味な雰囲気は僕の想像を遥かに超えていた。霊を絶対に信じない人でも、暗闇の奥に威圧感を汲み取ってしまうだろう。僕だって心霊現象は信じないほうなのに、恐怖が歩みを拒んでいた。僕は尿が出ないわけだが、ちびりそうだ。 月明かりを頼りに、足音を殺して階段を上っていく。ひとまず屋上を目指そうとした矢先、漠然と気配を感じた。すると僕のなかから、この場に対する恐怖が一気に消え失せた。 中二階に入る。室内と外と繋がっている外廊下があり、景色を一望することができた。空はだいぶ雲が引いており、街に月光が降り注いでいた。廊下を少し進み、部屋を覗く。円形のソファーが設置されている。その上に、人が、背を向けて横になっていた。安堵感からか、涙腺の緩みを感じた。僕は吐息をつき、彼に近づく。 「雪兎、帰ろう」 背中に向かって声をかけた。だが反応してくれない。正面に回り、顔を覗いた。 「……なんだ。こっちはめちゃくちゃ心配して捜し回ってたってのに」 雪兎は瞼を閉じていて、寝息をたてていやがった。 「こんな場所でのん気に寝やがって」しゃがんで彼の髪を撫でた。 うぅ、と唸る声。なんだか無性に可愛くて、頬にキスをしてやった。すると彼の瞼がゆっくり開く。僕は髪を撫でながら、その瞳を愛おしそうに覗き込んだ。 あの感覚がはじまる。全身のあらゆる液体が外に向けて放たれ、彼に吸い込まれるみたいだった。 壁が、真っ赤に照り輝いている。いきなり光景が移り変わった。 身体が勝手に起き上がり、周囲を見渡す。その時点で僕は彼の中にいるのだと気づいた。真っ暗だったはずの外が、夜明けを迎えている。時間が飛んでいる。その理由は、すぐわかった。雪兎はこの場で一夜を過ごしてしまったと思うのだが、僕のことを覚えていない。あのとき少し瞼を開いただけで、まともに覚醒しなかったんだ。 驚かせてやろうと、声を── ……止めた。 僕は考えて、決断をした。 雪兎は自分の置かれた状況に焦り、駆け出す。頭のなかは僕のことでいっぱいだ。もう学校は間に合わない、と思考する。ここから徒歩で家に向かうにはとても時間がかかるから。そんな彼の不安を知っても、僕は口を開かない。 雪兎はエントランスを出て、走りだす。が、左側のモノに気づいて、足をぴたりと止めた。そこには自転車。雪兎は瞬時に察した。 「雪、いるんだろ」 僕は口を開かない。彼は自転車が自分のものであることを確認した。 「ここに自転車を持ってこれるやつなんて雪しかいない。どうして黙ってるんだよ」 雪兎は僕に語りかけ続けるが、一切反応しない。彼は、僕がトヨナガボールをさまよっているのではと考えた。建物の中に戻り、僕の名を呼ぶ。何度も雪という名を叫び続けた。やがて、その声に気づいた近隣に住むおじさんがやってきた。こんなとこで何をしてるんだ、ここは立入禁止だぞ、と咎められた。彼は僕のことを説明しようか迷う。だが、早く出ていきなさいと急かされ、トヨナガボールから離れざるをえなかった。 彼の勘は僕が中にいると信じている。でも僕が反応しないので、少しずつあやふやになってきていた。携帯は部屋に置きっぱなしで時間がわからなかったが、家に着いたときはまだ母も起きていなかった。学校には充分間に合う。雪兎は制服に着替え、疲れを癒そうとベッドに倒れた。 「雪、なんで返事しないんだ。僕のためにそうやって黙ってるつもりか」 そうそう。それと、望海のためな。 |
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