彼女が僕の中にいる

第十話.僕は君を大好きになる(page.A)



 金曜の二時限でテストが終わり、あとは七時限まで普通の授業だった。雪兎は弁当を一人で食べた。だから望海も一人ぼっちだ。それについて姫宮さんに、携帯のテキストチャットで訊かれた。雪兎は、「結局元に戻ることにした」と嘘をついた。周りなんて気にしなければいいのに、と姫宮さんはいうが、「それができない不器用な二人なんだ。とにかくそっとしておいて」と返信する。あっそう、と返事が来る。そこでやりとりを止めた。
 全ての授業が終わり、下校となる。テストも終わり、金曜ということもあって生徒たちのテンションが高い。浮かれ気分を先生が注意した。終礼が済むと、雪兎はいつも通り、さっさと教室を出ていく。そんな彼に、もう望海は声をかけなかった。
 部活は来週からなので一斉下校だった。階段を下りていると弥城が隣に来た。大勢の生徒が列を詰まらせるようにして、昇降口から出ていく。明るい顔の生徒ばかりだ。
「頭の固い教師だ、すぐそこで待たせてくれればそれでいいっていってるのになぜ面倒事に発展させようとする。偏差値の低い高校だから教師も柔軟な思考ができないんだな」
 生徒たちの浮かれた顔が、曇った。元々無表情だった雪兎の顔が凍りつく。校門に立つ先生の怒号。小ばかにするように言葉を返す一人の生徒。遠目からでもこの学校の制服ではないことがわかる。声に聞き覚えがあった。
「どうしよう」
 雪兎は僕に語りかけたつもりでもあった。とにかく自転車に乗り、顔を背けて弥城と校門に向かう。無視して突っ切ろうとした。
「あぁいた! 雪兎ぉぉぉぉぉぉ!」
 彼を見つけたそいつは、教師の手を振り切り、自転車の前に飛び出してきた。雪兎はブレーキをかけざるをえなくて、奴を轢きそうになりつつ止まった。
「おい、俺のこと覚えてるよなあ?」胸倉を掴んでくる。「俺の名を呼んでみせろ!」
 ──国崎紅蓮。インパクトがありすぎて忘れるわけない。
「なんでここにいるの、紅蓮」
 紅蓮が左拳を握りしめる。「クソッ、お前をぶん殴りたいができない、先にお前が俺を殴ってくれないと。さあ殴れ!」
 教師の前だからとかじゃないのか。
「そんなことするわけないよ」
「クソッ! どうして連絡をくれなかったんだよ、俺たち、友達じゃなかったのか?」紅蓮の目が潤んでいる。「お前をブサイクだといったことを怒ってるのか。でも撤回しないぞ、俺は本音でわかりあえるやつを求めてるんだ。お前は見込みがあったのに……俺を裏切った!」
 あまりにもむちゃくちゃなやつなので、僕は思わず声を発しそうになった。
「お前は必ず連絡くれるって信じてずっと待ってたんだぞ。きっと、少し迷ってるだけだろうって言い聞かせてた。人間関係っていうのは、そういう迷いを整理させながら、ちょっとずつ近づきあうものだからな。お前とはファーストコンタクトで分かり合えたから……それなのに──」俯いて、洟をすする紅蓮。「もう待てなかった。でも下手に迷惑かけたくなかったから、朝日西高校のことを調べ上げて、殴り込みかけるのは期末考査が済んでからにしてやろうって決めたんだ」
 すでにかなりの迷惑を被っているけれど。傍を抜ける生徒たちが好奇の眼差しを向けている。雪兎は、針の(むしろ)に立たされている気分だった。
 校門の前にいた生活指導の教師は、なんとなくで事情を察し、学校の敷地から出て話しなさいといった。くれぐれも穏便に、問題を起こさないようにとも付け加える。紅蓮は下唇を噛んで雪兎をうらめしそうに見つめ、親指で外を指した。傍で停止していた弥城は、込み入った事情があることを察して先に帰るといい、去った。
 校門から出て少し左に進んだ先のT字路には自販機が設置されている。紅蓮は真っ先にそこへ向かった。
「ジャンケンで負けたやつが飲み物をおごる。ジャンケンポン!」
 と、出し抜けにジャンケンをされて、雪兎は反射的にグーを出した。紅蓮はチョキ。
「俺の負けか。飲みたいものはなんだ」
 紅蓮の勢いに流されつつ、雪兎は絶句していた。札を入れた紅蓮に急かされ、ビンの炭酸栄養ドリンクをリクエストする。紅蓮はボタンを押し、更に熱いコーンポタージュを選んだ。今日は晴天で、この時間でも三十度を超すほどなのにそんなものを飲むらしい。
 と思ったら、更に冷たい缶コーヒーを選んだ。そういう飲み方をする人間なのか。釣銭を取り、飲み物を渡してくれる。
「ここで待て、絶対に逃げるなよ、そしたら次は自宅を調べ上げるからな」
 離れていく紅蓮。その入れ替わりに面倒な人間が二人、やってきた。紅蓮はすれ違い際、睨み合ってしまう。その二人が雪兎の前で止まった。
「ブレザー着たあのウザそうな奴なに?」一条が鋭い眼つきでこちらを見る。「お前のダチ?」
「あれ難城の制服だろ?」守丘は嘲笑する。「やっぱ頭良いやつってイカれてんだな」
 雪兎は飲み物を口にする。紅蓮は缶コーヒーを教師に渡していた。だから買ったのか。コーヒーを返そうとする教師に対して、紅蓮は深々と何度もお辞儀をしていた。難城学園にこの件が報告されて面倒になる可能性は無きにしも非ずなんだ。……だったらもっと穏便に済ませようとすればいいのに。
 その傍を、望海とその友達がゆっくりと抜けていった。こちらに視線をくれるが、雪兎は目を逸らす。
「それアイツにおごってもらったの? オレにも買って」
 おれもお願い、と守丘。徹底して無視する雪兎。一条が舌打ちした。殴りたそうに拳を握っているが、生徒と教師の目もあるのでできない。
「おっ、なんだなんだ、君たちは雪兎のフレンズだったのかい?」爽やかな顔で紅蓮は戻ってきた。
「おぉ、そんなとこ」と、一条が嘘をつく。
「友達じゃないよ、二人とも」
 冷たい声で雪兎がはっきりと言い放った。二人が同時に舌打ちする。
「真白君ってほんといちいちむかつくな」守丘が目を細めた。
「同感だ、雪兎はクソむかつく野郎だ」
 と、紅蓮がいったので、僕は危うく笑いそうになった。二人は微笑している。
「じゃあ雪兎、教えてほしい。俺はフレンドか?」
 雪兎は、自分が手にしてる飲み物を見て、言葉を決めた。
「少なくとも、この二人とは違って紅蓮の方が友達だとは思えるよ」
「ああ。俺の見込み通り、お前は嘘がつけない男だ。むかつくところはあるが、君ら二人はダチじゃない上に、どうやら雪兎にとって因縁があるとみえる」
 そうだね、と雪兎。よし、と紅蓮。
「つまり、君らは俺の敵な」
 いや、そこまでいわなくても。余計なことをいったせいで、二人が顔を歪ませた。
「雪兎、お前の身に何かあったら、必ず俺にいえよ。ダチなんだからな」
 う、うん。そう彼は返事した。バカにするように小首をかしげる一条。そのマネをする紅蓮。一条は瞼をぴくぴくとさせた。こちらをきつく睨んでくる。そうして、守丘と共に、何もいわず去っていった。
「なあ雪兎よ、まさかお前、虐められてないだろうな」
 この男は本当に勘の冴えた奴だ。雪兎は、知られたくないので否定した。
「あいつらは、ただの面倒くさい奴らだよ」
「そうか。俺はどうだ、面倒な人間か?」
 こんなところまで来られて面倒じゃないなんてのもおかしいだろ。
「紅蓮はあいつらとは違って良い人だと思うけど、でもわざわざここまで来るんだから面倒な人だよね」
 紅蓮の表情に突然、絶望感が満ちる。「お前、俺を殴れ。俺がお前を殴りたいから」
「殴らないよ。連絡しなかったのは、ごめん。迷ったんだけど、ずるずる日にちが経って、結局止めたんだ」
 紅蓮は拳を解いた。「そんなとこだろうと思った。お前は本当に見た目通りだ。だが俺は雪兎みたいなやつ、嫌いじゃない。むしろ好きだ。お前とはわかりえる気しかしない。俺の言葉を信じろマイフレンド」
 こいつの、雪兎への執着心はなんなのだろう。僕に似てるからか。雪兎は紅蓮の強い想いに引っ張られ、わかったよ、と返事をした。よし、と紅蓮は満足げにいう。なぜか両腕を広げた。
「それならば、がっちりと抱き合おう。欧米スタイルの挨拶だ」
 ハグをしよう、と。ここは日本だし雪兎は男なので、拒絶したくなっていた。女同士ならわかるが、男同士のそれはホモっぽい。だが紅蓮のあまりの爽やかな笑顔と、彼自体は整った顔立ちに髪型も決まっているので、漂うイケメンオーラに雪兎は惹かれる。通りがかる女子生徒も明らかに紅蓮を意識していた。雪兎は、そんな彼に触れれば、少しは良い気≠ェ貰えるような錯覚がして、紅蓮と抱擁を交わした。
「あぁ、五感が興奮するよ」
 ふいに囁くような声がして雪兎は耳を疑った。「今、変なこといったよね」
「気のせいだ」紅蓮が背中を二度叩いてくる。「これで俺たちはハグを交わしたディープな関係になったわけだ」
 紅蓮から離れていった。奴はズボンのポケットから紙を取り出し、それを広げて見せてきた。似顔絵が描かれている。それはどう見ても僕で、雪兎は「すごい」とつい口走った。その自分の失態に気づいていない。
「似てるだろ?」瞳を輝かせて紅蓮がいう。
 僕は口を挟みたくなったが、雪兎は声に出す直前、気づいて、言葉を変えた。
「それはわからないけど、めちゃくちゃ絵がうまいね、すごいよ紅蓮」
 紅蓮は普通の顔に戻り、「なんだ、思い当たったわけじゃないのか」といった。
「あの天使と遭遇したことのあるやつにこれを見せれば、必ず思い当たるだろうと俺は踏んでいる。朝西の学ランを着てたくらいだ、ここで聞き込みをすれば情報が掴めるはず」
 こいつがここまで来た理由って絶対これだろ。
「さあ、まずは校門に立つあの教師に訊ねよう」
 などと言い背中を押された。何から何まで紅蓮の掌の上だった。
 似顔絵は、ほぼ完璧に僕だ。一度会っただけなのにおそろしく正確な描写だった。こういう天才っているものなんだな。
 校門で生徒を見送る教師に絵を見せて訊くも、知るはずない。その先生に許可を得て紅蓮は通りがかりの生徒にも訊ねていくが、みんな首を振った。紅蓮は諦めの色を見せ始める。僕を知る人物は二人とももういないので、情報を掴めるはずもない。
 そう思った矢先。雪兎がふと自転車を放置した自販機の方に視線をやったとき、いるはずのない人が自転車を停めて立っていた。雪兎は焦る。紅蓮を遠ざけようと思考を巡らせるが、答えを出す前に紅蓮が彼女を視認した。
「お、次はあの子に訊こう。なんだ、こっち見てるぞ。……あっ、まさか」
 紅蓮が雪兎を見る。知り合いであることはバレたか。
「俺があまりにもかっこいいから、それで戻ってきたんだ、つまり愛の告白だよ!」
 ……そっちの方向に勘違いしたか。
「紅蓮、僕があの子に訊いてみるよ。同じクラスの人なんだ」
「お、さては雪兎、あの子に気があるとみた。俺に奪われるのが怖いのだろう。なあに大丈夫、俺が愛するのはこの大天使だけだ、案ずるな我が友よ」
 僕の顔が描かれた紙をひらひらとさせ、紅蓮は歩いていく。止められそうになかった。雪兎の自転車の傍で待つ生徒──望海は、居住まいを正し、前髪を整えようと触る。ありゃ完全に俺に恋をしてる乙女だわ、などと紅蓮がいう。やがて望海の前に立った。
「こんにちは子猫ちゃん、いや君はどちらかというと子犬のようにラブリーだね」
「こ、こんにちは。真白君のお友達ですか」
「肌を重ね合いお互いの温もりを知った仲だよ」
 え、と望海は笑っていう。
「なにかこの俺に用なのかな。遠慮せずになんでも──」
「いえ、私、真白君に用があって」
 紅蓮の表情が曇る。望海は真っ直ぐな瞳をこちらに向けてくれた。
「私が駅でいったこと、全部取り消したい。それを伝えたくて戻ってきたの。真白君、私を無視するから……。そんなの止めてほしい。私、死にたくなる。こんなこと言いたくないけど、でもそれくらい辛いの。また雪ちゃんと──」
 まずい予感に突き動かされた雪兎は、大胆にも望海の両肩をがっちりと掴んだ。驚いた彼女は声を止めた。
「帰って」
「……どうして?」
 望海の声は震えた。お願い、と雪兎はいう。望海は視線を巡らせる。今にも泣きだしそうな目をしていた。
「わかったよ。いうとおりにするね」
 冷たくするつもりはなかった。ただ今は言い方が思い浮かばなかっただけ。だから取り繕う言葉を考え──
 が、雪兎は最悪なことを考えた。
「うん、さっさと帰れ」
 更に、突き放す言葉。そのせいで余計に望海は悲愴な面持ちになる。雪兎は僕に語りかけた。このままでいいのか、雪が黙り続けるなら西村さんの繊細な心に深刻な傷をつけてやる、と。僕を喋らせるためだとしても、人としてやってはいけないことだった。だが雪兎は、僕がまた現れるようになることが望海のためにもなる、などと確信している。
 泣きそうな顔で自転車に跨る望海。が、紅蓮がさっと近づいた。
「待ちたまえ。二人の間にどういう事情があるかはわからない。俺はそういうのに首を突っ込む気はないんだが、女の悲しい顔を見て黙って帰すことはできないんだ」紅蓮はポケットに手を入れて名刺を出した。「何かあったら俺に相談してくれよ。力になるから」
 望海は名刺を手にした。
「それとこれを確認してくれ」
 と、ついに紅蓮が似顔絵を望海に見せてしまう。雪兎にはそれを止める術はなかった。僕との繋がりがばれてしまう。望海は似顔絵を見ると、あ、と声を漏らした。
「この女神様を知ってるのかい? 俺はこの子と運命の赤い糸できつく結びつけられているんだ、知ってたら教えてほしい」
 不審な言い方のお蔭か、望海はこちらに目をくれた。紅蓮に気づかれぬよう、雪兎は痛がるような顔でかなり小刻みに首を横に振った。
「いえ、駅で見たことがあるような気がしただけです」
 望海は空気を読んだ。ようやく掴んだ情報に、紅蓮のテンションは高まり、どこの駅かを訊ねる。思い出せない、何線かもわからない、と彼女は返す。なんとなく顔が印象に残っていただけで、人違いかもしれない、ともいった。紅蓮は両肩をがっくりと落とした。
「引き留めて悪かった」似顔絵を差し出す。「もしこの子を見かけたら教えてほしい」
「私が貰っていいってことですか? どうみても手書きなんですけど……。コピーはないんですか?」
 ない、ときっぱりいう。「でも良いよ。またあの女神を描写できると思うと、あぁ……愛しさが噴水のように溢れてくる」
 自分の身を抱きしめてくねくねと動く紅蓮。望海は引いていた。
 望海は別れをいい、去っていく。雪兎はもう彼女を一切見なかった。紅蓮は雪兎の前に立ち、ふいに肩を強く掴んでくる。真顔だった。唐突に、おでこ目がけ、バツ、と音が鳴るほどのデコピンをされた。地味な痛みだった。
「いきなりなにするんだよ」
「女を泣かせた罰よ」なぜか女口調の紅蓮。「お前、微妙な顔してやり手なんだな」
「別に、彼女はただのクラスメイトだから」
「バカ。さっきの顔と会話からしてそんなわけないだろ、そんなこともわからない俺様にみえるか、いいやみえないな。女のことについては百戦錬磨の紅蓮さんはピンときたね、あの子は雪兎にゾッコンだ。表向きはなんとか平静を装ってもいるが、ありゃ内側で溜まってるぞ、きっと布団の中でお前のこと考えてナニをするんだ、クソッ、もう一発だこの野郎っ」
 またデコピンをしてくる紅蓮。
「変なこといわないでよ、とにかく僕とあの子はなんでもない。この話はもう終わり」
 わかった、と急に素直な声でいい、紅蓮は離れた。「あ、今のデコピンは、あの子の胸の痛みの代わりだぞ。雪兎は俺にデコピンする権利ないからな」
 雪兎は肩を揺らして鼻で笑う。紅蓮の相手をするのに疲れていた。
「さて、似顔絵もなくなったことだし、お前にも会えたし、帰る」新しい名刺を出す。「前にやったのは捨ててるだろ」
 雪兎は無言で受け取った。やっぱりな、と紅蓮。それから両手で顔を覆い、「やっぱり捨てたのかよぉ……」と落ち込んだ。
「そのことについてはごめんって。次はちゃんとメールするから」
 パッと顔を出す。「その言葉を信じる。じゃあな雪兎、またどこかで会おう」
 紅蓮はなぜか丁寧に敬礼をして、さっさと歩きだした。そういえばあいつの自転車はない。まさか歩きで来たのか。駅は高校からかなり離れた場所にしかないのに。
 雪兎は自転車を漕ぎだし、紅蓮に追いつく。
「お、なんだ雪兎、こっちの道だったのか」
「すぐそこで曲がっちゃうけどね。紅蓮、もしかして駅に向かってる?」
「そうだ」
「それなら、二人乗りで良かったら僕が連れてくよ」
「俺に道路交通法違反をしろというのか」
 こいつ、一応は真面目な人間だったんだな。
「案ずるな、俺はヒッチハイクでここまで来た」
「え、走ってる車を停めて乗せてもらってきたってこと?」
「案外乗せてもらえるんだぞ、ここは田舎だし難易度は低い。雪兎は度胸がないだろうから難しいだろうけどなあ」
「……そうだね。紅蓮って、一見頭がイカれてそうだけど、色々と凄いよ」
「よくいってくれた、よくいわれる。そしてそうやっていうやつは全員、俺を心から尊敬している。つまりありがとう」
 言葉の選択が忙しいやつだ。
「よし雪兎、なぜ俺がお前とフレンドになろうとしたか教えてやろう」
 それは僕に顔が似てるからでは。
「それは雪兎がすかしたような奴だからだ。お前のような人間は、一度しっかり信頼関係を持つと、決して自分から人を裏切らない。相手が裏切るかどうかにしか興味がないからな。男も百戦錬磨な紅蓮さんはそれをよく知ってる。そして紅蓮さんは、人に裏切られるのが怖い。ガラスのハートだ。大好きな友達に騙されたときは数日寝込んだ。小学生のときの話だけどな。それからだって幾度となく人間関係で嫌なことがありまくった。まあとにかくだ、お前と俺なら大丈夫ってことなんだよ」
 分かれ道で紅蓮は止まり、こちらを向いた。その顔はどこか寂しそうな微笑にみえる。
「ここ曲がるんだろ。じゃあな雪兎」
 紅蓮は手を少し挙げてから、背中を見せて歩きだす。雪兎は、自分にとって紅蓮が「過ぎた友人」のように思えていた。あんな風格のある男と自分は釣り合わない、と。いくら紅蓮がああいってくれても、友達という関係を与えられているようだった。紅蓮と雪兎は、まるで僕と望海の関係に近いものがある。
 ふと、雪兎の脳裏に、あることが過ぎる。僕はすっかり忘れていた。雪兎はそれを紅蓮に訊きたい、と思い始めていた。迷っている。僕は背中を押したかった。それが彼にとって絶対に必要なことだったから。雪兎が拒み続けている変化だから。
 紅蓮の姿がどんどん小さくなっていく。こっちは自転車だから、行けば充分に間に合う。だが雪兎は、今回は見送ろう、などと甘い思考をした。今できないやつがこの先でも変われるとは思えない。やっぱりこいつは、僕がいなければ自分を変えられないダメな男なのか……。
 雪兎は、そもそも自分がそんなふうに変貌できるとも思わなくなった。手間がかかる、お金もかかりそう。無駄な努力。仮にやってみせたとしても身の丈にあってない。教室で存在が浮くだけ。日々机に顔を伏せているような人間なのに──そんな、せっかく今まで積み上げた自信をぶち壊すような否定的な思考を巡らせてしまう。これが真白雪兎という人間。僕の本来の姿なんだ。
 雪兎は、道を曲がってしまった。紅蓮とは繋がりを持つ気はあるのだし、あるいはあいつなら、いつか雪兎を導いてくれるかもしれない。
「こんなとき雪なら……」
 唐突に僕の姿が浮かんだ。雪兎は、勝手に僕の言動を想像している。膨大な思考が流れた。今の自分を雪が見ているなら失望すること、今の自分では雪と釣り合わないこと、本当は変わりたい願望、なんのために雪が自分に尽くしていたか、雪が全力で自分を受け入れ続けたこと。
(僕が一方的に拒んでどうする。だから、僕は、ずっと何も変えられなかったんだ)
 雪兎は、自転車をターンさせた。立ち漕ぎで、紅蓮のいる方へ猛スピードで進んだ。やがて紅蓮を越し、ブレーキの甲高い音を響かせて自転車を停めた。
「僕を超イケメンにする方法ってやつを、教えてくれ!」
 紅蓮は、あっ気に取られた。雪兎は呼吸を乱している。数秒、喋らなかった。紅蓮がふっと笑みを浮かべる。
「世のイケメンが増えるのは癪だが、それが雪兎なら歓迎だ。俺もお前の変身した姿を見てみたい。詳細は追ってメールで説明する。といっても、魔法みたいな特別なことはないんだけどな」
 紅蓮は雪兎の肩に触れ、すれ違っていく。
「必要だったのは雪兎、お前のその変わりたいという本物の意志だけだよ。もうお前はイケメンの階段を駆け上がっているのさ」
 背中を見せながら手を振る紅蓮。盲目になっているだけだと思うが、雪兎にとってその姿が異常にかっこよくみえた。



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