彼女が僕の中にいる

第一話.君が僕の中にいる(page.B)



 奴は漫画みたいに頬をぐいぐいとつねっている。僕は軽い吐き気を覚えながらその様を見ていた。
「信じられない、僕の妄想の君≠ェ目の前にいる! ねえ、君の名前、もう一度落ち着いて名乗ってみて?」
「僕は、真白雪兎だ!」
 叫んでみせると、奴は肩を竦めた。
「姿は違うものに見えるかもしれないけど僕は僕だ」
「それじゃあ君は、いままでどこでなにをしてたの」
 トヨナガボールでの出来事を思い出す。飛び降りて、奇跡的に無事で、自転車がなくて、徒歩で帰ってきた経緯を説明した。僕も同じ質問をする。奴は普通に自転車で帰ってきたといった。僕と奴の記憶は、飛び降りるべきか否かと思考し、君≠フ姿が鮮明に浮かんだ、というところまで共通していた。違いが発生するのはその後。
「君≠ェ僕を呼んでるみたいに感じたんだ。あのときは地上に吸い込まれるようだった。でも突然、恐ろしくなったんだ。心が恐怖に呑まれて……後ろへ飛んだ。勢い余って頭を打ったよ。少し朦朧として、自分がやろうとしたことを考えたらおぞましくなった。あそこ心霊スポットだし、僕を死に導く強い力が働いたんじゃないかって。それでとにかくトヨナガボールから逃げたんだ」
 それはとても僕らしい=B君≠ェ死の世界に呼んでいるようで、飛び降りたら会える気がしたという、いま思えばひどくバカらしい瞬間的な妄想は一致していたが……僕は、本気で飛び降りた。
「僕は飛び降りなかった。君は、飛び降りた。ここが大きな違いだ。きっとこのタイミングでなにかあったんだよ。そして君は、僕が瞼の裏で見ていた君≠ネんだ」
「……僕は、ずっと、真白雪兎として生きてきたんだぞ」
「そう思うのは、君の中身も完璧な真白雪兎だからだよ」
 自分自身に諭されて、情けなくなってくる。奴は雑に顔を手で覆った。なんとなく思考が透けてみえた。
「僕のことをどうしようかって考えてるんだろ」
 奴の大きな瞳がこちらに向く。「すごい、当たってるよ。どうしたらいいと思う?」
 委ねられても困る。事実上、僕には居場所が存在しないんだ。僕に野宿させるか、と苛立ちまじりにいってやった。直後、奴の想念を察した。
「そんな気は絶対ない、君さえよければこの家で生活したらいいよ、ただ母さんにどう説明すればいいのかわからないけど……」
 それが僕という人間だ。「この人は記憶喪失、とか、家に帰れない事情があってしばらく住まわせてやってほしい、とかいえば、お母さんもわかってくれるとは思うけど、でも僕は不安なんだよ」
 奴はふっと笑う。「君にとっても僕の母さんは母親なんだね」
 癪に障る言い草だ。携帯が気になり、思いきって手に取る。新しいメッセージなどをチェックした。携帯をポケットに入れてみる。奴は目を泳がせるだけで口を開かなかった。
 僕は衣類ケースを開ける。あ、着替えるのか、と声がした。奴は厚めの黒いジャージズボンと無地の黒い長袖のTシャツ一枚を着用している。ジャージズボンは他に夏用の白色のものしかない。それと白地で柄の入った長袖シャツを出した。奴が傍にいるが気にしないようにして学生服を脱ぎ、それを一旦ベッドに放る──
 服が、蒸発した。
 そのとき僕らは「えっ!」という声を高音と低音で見事に調和させた。ポケットに入っていた携帯電話だけが、ベッドに着地。僕の手を離れた瞬間、学生服は下の部分から上の空間に巻き上げられるような形で消え失せてしまった。
「僕は、いったいなんなんだ……」
 僕はやはり、元々この世界に住んでいた真白雪兎ではないんだ。そして、デカイ目玉をくりくりさせて僕を見てやがる目の前の男こそ、元々の真白雪兎なんだ。
「君の他の服も、脱いだら消えるのかな?」
 試してやろうとボタンに手をかける。外すたび、胸の圧迫のせいでパツっという音が鳴り、窮屈さから解放された。三つボタンを外すと丸みを帯びた胸の側部が見えた。四つ目のボタンに手をかけ──気が進まなくなった。心がなにかに縛られたというか。手を動かしたくない。もしこの四つ目を外すと、大きな胸が露わになる。……僕は羞恥心を感じているのか。
「なんか恥ずかしい」奴を見て苦笑いした。
「ごめん、出てったほうがいいよね」奴はそそくさとドアに向かう。
「もしかして僕の身体、見たかったりするの?」
 背中に問いかけると、奴はぎこちない動きで振り返った。
「ミタイ」
 絞りだしたような声音だった。にわかに信じられないが、僕の肉体は、男を催淫(さいいん)できるんだ。自分の身体で自分≠誘惑できるなんて奇怪でしかないけれど。
 僕は微笑みを浮かべた。「ダメ、見せたくない」
 すると奴は一瞬、生きる希望が完全に失われたような顔になった。パッと無理やりな笑みを作って「そうだよね」と口にし、部屋を出ていった。
「さてと」
 胸元に視線を落とす。はだけることに緊張していた。ボタンを全て外す。バッと服を開く。淡い肌色の巨大な乳房が露出した。まるで異世界の果実が、僕の胸で実ってしまったように見えた。薄っすら血管が浮き、乳頭はつんと突きでている。気安く触れていけない物がしっかりと僕の一部になっている。一方で不気味に思い、一方で興奮しながら、掌で覆いきれないほど大きな乳房の感触を夢中で確かめた。柔らかくかつ弾力があり、手に吸いつくような揉みごたえだ。
 ふと思い立ち、股に触れた。……あるはずのものはなくなっている。感覚で、男性器がないのは勘付いていた。それでもいざ事実を知るのは強烈なショックだった。
 ズボンを脱ぐ。放り投げると、手から離れた瞬間にズボンは空間へ吸い込まれるように蒸発して消えた。自分の手を見つめる。左手で、右手を触る。僕は消えない。でも、漠然とした不安が脳裏を過ぎった。いまはそんなことを考えないでおこうと、邪魔な衣服を脱ぎ捨て、全裸になった。じっくり女性の部分をチェックしていく。未知の世界を拝むことと淫行に対する高揚を感じる。勢いに任せて陰核をまさぐった。じんとした感覚が抜ける。やばい、なんだこれ。更に刺激を加えたくなってくる。指先で押しつける度、じわっと広がるような熱い感覚が下半身に伝わり、勝手に高い声が漏れた。喘ぎ声って本当に出るんだな。
「……なにやってんだ僕は」
 正気を取り戻すように頭を振る。指の位置を下へやり、探ると、窪みがあった。少しだけ中指を入れて確認。ここに男性器を挿入するのかな。
「じゃあ僕は妊娠できるのか?」
 信じられない、赤ちゃんを出産できるのか。
「クソッ」
 完全に女だ。心だけは、真白雪兎の記憶で埋め尽くされている。
 濃い絶望を吐きだすようなため息をついた。涙が滲む。でも零れてこなかった。こうなったらとことん愉しんでやろうと、鏡を取る。肉体の隅々を観察しながら、また指先で下腹部の刺激を始めた。

 服には白黒で街並みが描かれていて、街灯の天辺に右の乳頭が当たっていた。左は「STOP」の標識のOの部分に乳輪がぴったりハマっている。
「君は……下着をつけたほうがいいね」
「んなこといってもどうしようもないだろ、母さんのブラをつけるわけにもいかない」
 奴は小さく三度頷いた。いちいち動作がなよっとしている。僕は自分自身≠まじまじと見回した。こうして客観的に見るのは不気味だ。一周して奴の正面に戻ると、右手を差し出した。
「これからどうなるかわからないけど、とりあえず、よろしく」
 奴の目が大きく見開く。僕の手を握った。自分との握手に奇妙な印象を抱きつつ、握り返す。
 ──瞬間、僕は驚いて、手を放した。
「え、どうしたの? なにかまずいことした? ごめん」
「いや……自分と握手したら妙な気分になっただけだよ」再び手を差し出した。「もう一回、握手しておこう」
 奴はそっと手を出し、僕らは握手を交わす。すると聞こえた。これからの不安、まるで他人を家に住まわせるような気持ち。僕という存在に対する激しい興奮と好意。奴の思考が僕の内側に入り込んでいた。それは見方を変えれば、まるで僕自身の思考≠セ。よろしくお願いします、という奴の声がくぐもって聞こえた。僕の意識が混濁している。手を離すと、現実感が戻ってきた。ふう、と息を吐く。
「とりあえずさ、他人行儀になったり、僕をよそ者扱いするのは止めてほしい。君にとってそうは見えないかもしれないけど、僕は真白雪兎なんだ。それだけはわかってくれ」
 奴は何度か頷いた。僕は堂々とベッドに座る。しかし奴はよそよそしい雰囲気で、僕から離れた床に腰を下ろした。空間に視線をさまよわせている。
「だから、借りてきた猫みたいになるのやめてよ。普段の僕なら、帰ってきてまずゲームやってるね」
 奴は小刻みに頷く。「じゃあ、ゲームするよ」
「いや、僕もやりたいんだけど。せっかくだから勝負しない? 君と僕が格闘ゲームで対戦したら、どうなるのか気になる」
「すごく面白そう、やろうよ」
 僕の脳裏には、ある提案が浮かんでいた。ゲームの準備をする間、さりげなく奴の身体に足をくっつけて試した。すると、それだけでも奴の思考を知ることができた。
 僕はベッドに腰を掛ける。奴は離れた場所に行こうとするが、ここの座布団が空いてるじゃん、と促して傍に座らせた。
「盛り上げるためにさ、勝った人は相手になにかを要求できることにしようよ」
 奴は楽しそうな顔をした。「いいよ。君は僕になにを要求するの?」
「そうだなあ」と考えるふりをする。「僕の立場を、君より上にしてほしい」
「それは、君が僕のご主人、みたいなことをいってるの?」
「そう思ってくれるならそれでいいけど。ほんの少しだけ僕を上の立場に見てほしいっていうだけだよ」
 これはいわば通過儀礼みたいなものなんだ。僕の、奴やこの家に対するためらいや遠慮の気持ちを消すための。奴はどことなく笑んで肯定してくれた。
「じゃあ君が勝ったら僕になにを要求したい? なんでもいいよ。なんでもさせてあげる」
 奴は僕の胸に視線を注いだ。それを覚られまいと目が泳ぐ。自分自身にそんな態度をとられるというのは、なんとも形容しがたいものだった。まあ、なにを要求されても僕は負けないから問題ない。
「それじゃあ、君の名前を、あの呼び方で呼んでもいい?」
 それは予想していない要求で、動揺した。その名前は僕が真白雪兎であることの否定になるから、頭の片隅に追いやって考えないようにしていたけれど、奴の言葉ではっきりと意識してしまった。
 真白雪。
 瞼の裏に描いていた、寒気のするような妄想の女性に僕が≠ツけた気色悪い発想からの命名。その寒気のする妄想の女は僕なんだ。堪え切れず立ち上がって窓際に向かった。こみ上げるものはあったが、涙は流れない。
「ごめん。君の心境、なんとなくわかるよ。僕は失礼なこといったよね」
 いや、と窓に向けていう。「なんでも要求していいっていったのはこっちだし」
 言葉がなくなる。ゲームの勇ましいBGMが滑稽だった。
「受けて立つよ」僕は振り返り、自信をこめた表情を見せる。「負けなければいいんだし」
 奴の口元が動くが、なにもいわなかった。僕は戻ってコントローラーを握った。
 予想通り互いが同じキャラを選択した。試合が始まると、同時に同じ必殺を使い、僕らは笑った。一試合三ラウンド制の対決で、序盤の動きこそ揃うが、時間が経つと違いが出る。可能なら実力で勝ちたくて、第一ラウンドは真面目に戦った。すると僅差で僕が勝った。もしや僕の方がゲームにおいて優れているのか。と思ったが、第二ラウンドではあと少しのところで一気にコンボを決められ、負けた。
 運命の第三ラウンド。確実に勝つにはやるしかなかった。途中までは真剣にやった。互いの体力は半分まで減り、一気に方を付けようと、奴の身体に左足をくっつける。奴が攻めてくる。ガードを続け、隙をみてコンボで切り返す。起き攻めの選択も誤らない。ダウンを奪う足払いを当て、奴の体力は残り僅かとなった。あとは超必殺技をガードされても削りで勝ち確定だ。
 ──これ、僕の思考が読まれてるんじゃないのか。
 奴が突如、そう思考した。足をくっつけていることはすでに覚られていて、僕の動きがあまりにも的確だったから、もしや考えを読み取れるのでは、と奴の想像が行き着いた。接近する僕に対し、奴は起き上がりに「トラップキック」という、バク転で下がりながら蹴り上げる技を放つ気だった。そこにトドメを被せるつもりだったのだが、奴はコマンド入力を行う間も迷い、ギリギリで技の発動を止めた。僕は、超必殺技のコマンドを入れてしまっていた。その場で多段攻撃を行う乱舞技なので、初撃さえガードさせれば削りで倒せるから、出し得だと考えたんだ。
 寸前で、その考えが読まれた。奴のキャラは垂直にジャンプした。
 それでも、奴が下りてきたところに一発でも打撃が当たればいける……というのは、甘い考えだった。ジャンプ中の強い蹴りで技が止められた。
 次の瞬間。奴から物凄い闘志を感じた。何度繰り返しても成功したことのないハイレベルな目押しコンボが脳裏に浮かんでいる。奴のキャラが着地したと同時に、入力が開始された。そんなもの完走させられるはずない、1フレームの入力猶予が何度も続くんだ。タイミングを外せば隙だらけになる上、コマンドの複雑さから、プロゲーマーでも多用は避けるのに。
 そう踏んでいたのに、奴はミスをする気配がなかった。僕に絶対勝ってあの名前で呼びたい、と胸中で叫んですらいる。気持ち悪くなって奴から足を離した。
「おい、嘘だろ」
 ミスをしない。締めの超必殺技コマンドまで入力してしまう。画面内のキャラが命令通り技を発動させた。僕のキャラにヒット。その瞬間、僕と、奴も、息を呑んだ。無慈悲な連続技が叩き込まれていく。すでにオーバーキルで、僕は茫然としていた。勝利エフェクトが表示される。
「勝ったァ!」
 奴はコントローラーを放って拳を突き上げた。
「……なんでだよ、あのコンボ、一度も成功したことなかったのに」
「僕もびっくりだよ、手汗がやばい」
 奴は手をさする。僕はコントローラーを床に放り投げた。奴は手を止め、こちらを見上げる。
「君さ、もしかして僕に触れてるとき、思考を読むことができるの?」
 露骨にため息を吐いて立ち上がった。「勝ったんだからあの名前で呼べよ」
 奴は目をキョロキョロとさせる。「君は、そう呼ばれたくないんじゃないの?」
 嘲笑ってやった。「お前、なんのために条件出して必死になって勝ったんだよ。君のいうとおり僕は思考を覗ける……それなのに負けたんだ、クソッ。ズルまでしたのに自分自身に負けたなんて、どれだけ屈辱的か、わかるか」
 奴は弱気な顔で「ごめん」と謝ってきた。それが無性に腹立たしい。
「余計惨めになってくる……鏡の自分が情けない顔して謝ってくるとこを想像してみろよ」
 奴は立った。「君は僕のこと、ドッペルゲンガーみたいに見えるんだろうけどさ、僕にとったら君は全く別の存在にしか見えないんだよ。だから能力の違いはあるんじゃないかな。君はどこからどう見ても……すごく、素敵な女の子だから」
 口許を緩ませて放った奴のその言葉は、僕の胸に突き刺さった。女の子だから格闘ゲームで負けても仕方ないといわれているようだった。奴を睨みつける。涙がこみ上げてきた。でも流れださない。もうなにもかもぶっ壊してやろうと、服を脱ぎ捨てていった。
「ちょっとなにする気、いきなり脱がないでよ」
「女扱いするんじゃねえ、お前がなんといおうが僕は真白雪兎だ、男なんだよ! それを証明してやる──」全ての衣服を脱ぎ、胸を突き出す。「ほら見たかったんだろ、こっち向けよ。僕は男だから羞恥心の欠片も持てないけどね」
 奴は顔を背けて両腕で防御の構えをしている。
「恥ずかしいからってさっきは僕を追いだしたじゃないか」
「それはいきなり女の身体になって戸惑ってただけだ。なあ、見ろ、僕にとっては同性に見られることと同義なんだ」
「……本当に、見ていいの?」
 でれっとした声音だった。それが余計に癪だった。
「女の裸体を目にすることに畏れを感じてるのか」
 そうだよ、と小さな声。僕は衣類を奴に投げつけた。
「ならずっとそうしてろ! 僕は男に全裸見られてもなにも感じないことを証明してくる。じゃあな!」
 僕は家を飛び出した。だが、外の風が股間に当たると、冷静になった。常識的に考えると気が咎める。ひとまず裏庭への砂利道に入って息を潜めた。奴は必ず追ってくるだろうな。
 壁際から奴の姿を目にする。両手に僕が着ていた服を抱え、門を抜けて行く。改めて、胸とアソコ丸出しの裸体を見回す。僕は息をついた。部屋に戻って、新しい衣類を出す。下は薄い青のジーンズしかないのでそれを穿いた。
 ゲームは付けっ放しだ。奴が先ほどやったコンボに挑戦してみるが、成功させられない。諦めて、窓際に立った。奴を捜しているわけだが、ぼんやりと対戦時のことを考えていた。きっとあの名前≠呼びたいという、いうなれば異性への強い想いが、驚異的な集中力を生んだのではないだろうか。同じ存在でも、そのような渇望がなかった僕には、限界を超えた能力を生みだせないんだ。
 数十分を経てもあいつは戻ってこなかった。僕は昔を思い出していた。小学五年の頃、真っ白な文鳥を飼っていて、たまに外へ出してあげていたのだけど、ある日帰ってこなくなった。僕は外が暗くなっても泣きながら名前を呼び続けた。母は気が済むまで捜しなさいといい、明け方まで捜したのに、結局見つからず、長い間喪失感が僕を苦しめていた。
「……行くか」

 陽は遥か向こうに霞んで見える山々に隠れたばかり。僕は日光川沿いの堤防へ上った。高校への通学路でもあるが、この場所が気に入っていた。川は濁っていて水辺の癒しなんて言葉は使えないが、一帯は家も疎らで田圃が多く、見晴らしは良い。大通りまで狭い砂利道が続き、両端に草が生い茂っているため、人は全く来なかった。高校とは逆方向へゆっくり進みつつ、遠くを眺める。奴は見当たらない。
 少し経つと、思考の世界に呑まれていた。これから、どう生きていけばいいのか。高校に行っても僕は真白雪兎として認知されない。あんなところ、ずっと辛かっただけだから、それは良いことなのだろうか……。
 下を向けば、つま先しか見えないほど膨らんだ胸。風でなびく、肩甲骨まで伸びたストレートの黒髪。あー、といえば高い声が自然に出る。僕は真白雪兎として生きてきたのに、その記憶が確かにあるのに、そうではなくなったことを受け入れなければいけなかった。
 髪の表面を爪先でなぞられたような違和感を覚えた。百メートルほど向こうにある小さな橋を、僕≠ェ全力疾走で渡って、堤防の道に入ってきた。かなり不気味なので逃げようかと過ぎるが、地に足を踏ん張る。奴は三メートルほど距離を残して止まった。ぜえぜえと呼吸を荒くしている。
「めちゃくちゃ、心配したよ!」
 目元が赤く腫れていた。滑稽だ、僕のせいで泣いたらしい。
「服、着てるってことは、家に戻ったんだね」
「家の陰に身を潜めて、必死な君を見送ったよ。全裸で出歩くわけないじゃん、君にはそれくらいの分別もあるだろ」
 奴は何度も頷き、地べたに尻を着けた。手に持つ衣類が垂れて砂利に触れていた。
「服汚れるからお尻上げようよ、あと裾が地面についてる」
「あぁ、ごめん」奴はお尻を浮かせ、衣服を抱えなおした。
「気味が悪い……自分の服を自分が汚して、自分に謝られるとか」
「いや、何度もいうけど、僕にとって君は、真白雪兎じゃない。僕の面影はたくさん感じられるけど……君は二卵性の双子みたいだ」
 奴は、僕にとっての辛い心境を全くわかろうとしない。僕は口を開き──奴が「でも」と言葉を被せてきた。
「君にとっては、君も、僕も、同じ真白雪兎なんだよね。それはしっかり心に留めておくよ」奴は腰を上げ、立った。「だから君も、僕の心情を、一応胸に留めておいてほしい」
 風が、僕の髪を弄ぶ。顔にかかった。指先でかいて耳にかける。その仕草が自分を女性なのだと意識させ、拳を握りしめた。
「僕は、これからどう生きたらいい……」
 奴は目を伏せ、黙考する。やがて視線がこちらに向いた。
「君のしたいようにすればいいよ、僕が精一杯そこに寄り添う」
 ──気持ち悪っ!
僕≠チてこんな鳥肌立つようなキメ顔する人間だったのかよ。でも、想いが真面目なものであることは受け入れられた。
「僕は真白雪兎だ」
「それで良いと思う。……けど、周りはそれを認めてくれないよ」
 そんなの充分にわかってる。あんなに高校が嫌だったのに、いざその生活を失うとなると、悲しみで胸が詰まりそうだった。友人も親族も僕を真白雪兎だとは思わない。目の前に、本物の真白雪兎がいるのだから。僕は二度と真白雪兎として生きることはできない。顔面を両手で剥ぐような仕草をとっても、それは皮膚を寄せるだけ。(はな)をすすった。涙がこみあげてくるが、やはり流れださない。泣いているような表情を見られたくなくて、顔を押さえつけ続けた。奴が近づいてきて、傍で足を止めた。指の隙間から覗くと、奴はこちらに手を伸ばしていて、僕が手を下げると、サッと引っ込めた。
「なにしようとした」
「なんにもだよ、肩にゴミが──」
 素早く奴の腕を掴んで思考を読んだ。哀愁の漂う愛しい僕に触れたくて我慢できない、あわよくば抱きしめたいけどさすがにそれはできないからせめて肩に触れて「大丈夫、なるようになるさ」とか言いたい、という願望がそこにあった。奴が腕を引く。
「……いま、僕の考え全部知ったんだよね」
 鼻で笑ってやった。「安心しなよ、察しはついてたから」
 ごめんと奴はいう。安心しろといってやってるのにいちいち謝るなといいたいが、気持ちがわかるので口にしなかった。僕は川の方へ身体を向ける。思考するのも疲れてきて、ぼんやり遠くを見つめた。隣で深呼吸が聞こえる。ちらっと見ると、真剣な眼差しが僕に向けられていた。
「お願いがあるんだ。これは、僕がゲームに勝ったことの願いとして受け止めてほしい」
 ナニ、と僕は声色を低くしていった。
「僕の前からいなくならないで」
 警戒する僕の心が、ふっと和らいだ。
「わかるでしょ? ものすごく心配したんだよ。怖くて胸が張り裂けそうだった。君の立場は僕より上で構わない。君が僕のご主人様っていう考え方をしろといわれたら、それでもいい。だから、二度と僕を突き放して去ろうとしないで」
 顔を伏せ、お願いだから、と声を震わせた。触れずとも、彼の思考がよくわかった。
「そんなことお願いされても、そもそも僕には他に行くところがないし。だから代わりに、違うお願いをいま叶えてあげるよ」
「えっ」
「さっき、心に思った願望があるでしょ?」
 彼は黙考してから、なんのことかわからない、と口にした。
「なんでわからないの。思い出せないならこの話は無しだから」
 彼の思考を読んだとき、不思議とそれを気持ち悪く感じられなかった。簡単に叶えてあげられるし、僕自身がそうされることに興味もあった。
 彼は懊悩している。残り十秒、とカウントダウンを始めてやると、彼は焦り、必死で思い出そうと目をぐるぐる動かしていた。五、四、三──
 彼の瞳が僕の目線に重なる。わかったようだ。でも恥ずかしいのだろう、口をパクパクとさせて目を泳がせていた。僕は腕を組んだ。早くいえよ、と催促してやると、再び彼の瞳が、真っ直ぐ僕を見た。
「君を、抱きしめさせてほしい」
 はっ、と吹き出すように笑ってしまった。
「違うの? さっき君に読まれた願望って肩に触れるか抱きしめるかだったから」
 いや、と首を振り、腕組みを解いた。「正解。でもいざいわれたら、おかしくて笑っちゃったよね」
 僕は長い間自分を蔑んできたから、抱きしめるほどの価値があるのかと疑問なのだが、彼の熱烈な好意はいまの僕の価値を確固たるものにしてくれていた。人に抱きしめられるのって、どういう感じか知りたいし、ましてやその相手が自分。どんな気分になるのか余計、興味があったんだ。
「本当にいいの?」彼は不安な顔をして身を引いている。
「僕という人間はさ、女性を神仏みたいな崇高なもののようにとらえることがあるよね。君を見てるとその態度は過剰だと思うよ。せめて僕に対してはおどおどしたり気を弱くして躊躇したりしないでくれ」
「上の立場として見てっていったじゃん」
「そうはいったけど……矛盾してるかもだけど、特別視しないで」
 彼は困り顔になる。僕は小さく息をつき、目の前まで近づいてあげた。彼は尻込みする。笑えた。彼が持つ衣服を奪い、両手を空けさせてやった。
「ほら、抱きしめてみないの?」
 彼の顔が紅潮する。おそるおそる両手を伸ばしてきた。不気味だが、拒絶感は湧かない。ただ自分の顔≠ヘ直視できなくて、右を向いた。彼の腕が、僕の背中に回る。思考は読まないよう自分を制御した。あとは力を加えるだけなのだが、彼はためらっている。夜の闇が迫っていた。早くしなよ、と急かすと、ようやく僕の腰が引き寄せられた。胸が彼に押しつけられていく。
 すると、予期せぬ現象が起こった。
 僕は一切彼の内部に意識を集中していない。それなのに、彼の熱情が、まるで押し寄せる波のように流れこんできた。その大半は、欲情だった。純粋だった彼の恋情の、その殻を破り、激しい色欲が溢れ出ている。僕とキスをしたい。押し倒して男女の交わりを果たしたい。それらの願望が、まるで、僕に痛みを与えるように感じられた。最初は鈍痛だったが、次第に強さが増し、身が焼かれるような苦痛に変わった。離れてしまいたかったのだが、うまく力が入らず、その上、彼は僕を離す気がなかった。僕の肉体を貪りたいという気持ちを強めてくる。意識が一気に遠ざかった。掠れた声を漏らすと、彼は僕の異変に気づき、両肩を掴まれ、少し身体が離れた。なにかを口にしているが聞き取れない。けれど思考ははっきりと知れた。僕の心配をしている。焼け付くような感覚が少しだけ失せるが、胸部が圧迫されているようで、このまま死ぬのかと過ぎった。救いを求めるように、彼の泣きだしそうな眼差しを見つめた。
 ふいに、いままで感じたことのない感覚が肉体の隅々を支配する。
 それは、言い表せば、全身のあらゆる液体が外側に向けて噴き出すようだった。それを彼に全部ぶちまけてしまうようだった。死に際はこんなふうなのかと冷静に体感していると、突如、意識がはっきりとし、視界が明瞭になった。さきほど僕を苦しめた激痛が、消失している。
「ユキ!」
 彼の声。僕を呼んだのだろうが、その寒気のする名前で呼ぶのを正式に許可した覚えはない。
「ユキ、いない、どうして──」
 視界が勝手にぐるぐると回る。……なんだこれ。彼はどこにもいないし。
『その名前に反応したくないんだけど、僕はここだよ。君こそどこにいるの』
 視界が目まぐるしく動く。僕を捜す彼の声。持っていた衣類が地面に落ちているのが見えて、それを勝手に¥Eった。
『なにこれ、嘘でしょ、どうなってるんだ』
「ねえ、君はどこにいるんだよ!」
『……ここにいるよ。左手を顔の前に上げてみて』
 僕がそういうと、身体が動いて、左手が顔の前に出た。
『すごい、その手で自分を指してごらん』
 人差し指が、僕の顔に向いた。まさか、と彼はいう。
『そうだよ、僕は、君の中にいる』
 両手を見つめる。「この視界が見えてるの?」
『うん、まるで僕がそのまま見てるみたいにね』
「なにがどうなったの。もしかして君が僕の中に戻ったってこと?」
 かもしれない。奇妙な状態で彼と一体化したのだろうか。
「もう出ることはできないの?」
 僕は離れるような意志を持ってみる。一向に変化は訪れなかった。出られそうにないことを伝えると、生身の僕を失ったことへの絶望感が蔓延した。
『君がそうやって残念がるのは理解してあげられるけどさ、僕はこれで良かったと安心してるよ』
(僕の心の声とか感情とか、筒抜けになってるの?)
 その彼の思考に対し、僕も同じく思考で返事をする。しかし彼はなにもいってくれない。僕の思考を彼が感じることはできないようだ。そう説明する。あと、先ほどの問いへの返答もした。彼の思考が筒抜けというか、僕は制御不能な真白雪兎になったようなものだ。……これで良かった、などとは思ったけれど、これはこれで辛いものがあった。
 彼が、僕の心情を汲もうと思考を巡らせている。
『僕のことを理解して同情しようとしてくれてありがとう。複雑だけど、ずっとこのままならそれを受け入れようと思ってるから。ほら、すっかり暗くなったし、もう君の家に戻ったほうがいいよ』
 それは違う、と彼は否定の思考を流す。
「僕の家じゃなくて、僕らの家だよ」
 彼はそう呟いた。内心では自分の家だと思っているが。でも感情は嘘をついていない。そんな優しさのこもる気遣い、僕の心は少し、ありがたみを感じた。



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