彼女が僕の中にいる

第十話.僕は君を大好きになる(page.B)



 紅蓮から超イケメンになる方法をついに教えてもらったのだが、それは本当に拍子抜けするようなことだった。
〈お前の頭、完全に床屋カットだよな。美容室行ってこい〉
 僕は裏技的な話を期待していたのだが。雪兎は、値段が安くて入りやすいという理由で床屋に行っていた。美容室なんて高レベルのオシャレ空間、自分が足を踏み入れていい世界ではない、と思っていた。そんな不安を紅蓮に少し零す。
〈安心しろ、俺もチェーン展開してるような気取ったデカイ美容室は好まない。下手な新人スタイリストもいるからな。確実にうまい人が切ってくれるアットホームな個人の店を俺は知ってる。場所教えるから必ずそこ行けよ、行かなかったら絶交だからな〉
 地図の画像、店の電話番号が送られてくる。店名は「Rain」といい、距離はあるが自転車で行ける範囲にあった。が、雪兎は行く気が全く湧かない。そろそろ髪を切らなければと思ってはいたが、雪兎は散髪自体、好きではない。いつも良いふうに仕上がらないからだ。今通っている店は辛うじてマシだが、それでも切り終わると、毎回鏡を見られなくなる。しかし、あの紅蓮が通っている店だ。それが雪兎のなかでポイントが高かった。でも同じ店に行ったからといって、あいつみたいに良くなれるとは考えられない。紅蓮は顔立ちが整っているのだから。
 返事をしないうちに、また紅蓮からメッセージが届く。
〈言い忘れてたが、行く日に電話してカットの予約取っとけよ。混むこともあるし予約してくれたほうが向こうは助かるからな〉
「髪切るのに予約が必要なのかよ……」
 雪兎は更に行く気を失くした。返事をしないでいると、また携帯が音を鳴らす。
〈お前、迷ってるかもしれないけどマジで行けよ。てか明日行け、土曜だし。どうせ暇なんだろ。んでそのあと俺とデートな〉
 最後に不穏な言葉がある。しかもハートの絵文字つきだ。雪兎は渋々、了解の返事を出す。
〈買うものあるから金持ってこいよ。一万ありゃ安心だ。それといっておくが全部お前のイケメンになりたい願いのために俺はいってるんだからな〉
 雪兎はその願いを後悔して、取り消したくなっていた。でもここから先に進まなければ自分が成長しないことを自覚している。紅蓮と出会い、こうなることは運命だった、なんて思い直し、雪兎は明日の嫌なことを全部こなす決意をした。

 土曜日。朝から陽が射さない曇天だった。まともに雨が降る可能性は低いと天気予報は伝えている。いっそ雨が降れば予定を中止にできるのに、と雪兎は落胆していた。母に頼み、お小遣いを貰った。美容室に行くことを告げると、「そういう年頃なのねえ」とどこか嬉しそうにいわれ、雪兎は気恥ずかしくなった。
 昼頃、ガチガチに緊張しつつ「Rain」に電話を掛けた。
「お電話ありがとうございまーす、ヘアーワークスレインです」
 その声を聞いたとき、雪兎は少し気が楽になった。男性の声なのだが、気さくで柔らかい口調だったから。たどたどしい声で予約を取りたい旨を伝える。一時間後に行くこととなった。
 美容室の予約を取って髪を切るだけの話なのだが、人生の初体験とは往々にして緊張を伴うものだ。雪兎はひたすら憂鬱で、少し道に迷いつつも時間より早めに店に着いた。外観は、まるで気取らないケーキ屋のようだ。住宅街の隣に店を構えており、途中に目立つ看板もなかったので、ひっそりとした美容室だった。
 開き戸を押して中へ。カウンターの女性が挨拶する。そちらでお待ちください、といわれた。ガラス張りの壁越しにある黒いソファーに腰掛け、気を紛らわせようと、上部に吊り下げられているテレビに目を向けた。天井は吹き抜けのように広々としている。
 やがて男性客がレジへやってくる。男のスタイリストもやってきて、客と話をしていた。電話の人と同じ声だ。三十代後半だろうか。眼鏡をしており、茶髪に染めた髪が綺麗に浮くようにセットされていて、若作りが非常にうまい。物腰の柔らかそうなお兄さん系の雰囲気だった。客をドアで見送ると、その視線が雪兎を向いた。
「お待たせしました、どうぞ」
 雪兎は恐縮しつつ頭を下げ、立ち上がった。足元がふらついている。通された椅子に腰を下ろし、鏡の自分が視界に入るとすぐ目を逸らした。
「えっと、どうされます?」
「髪を、切りたいんですけど、こういうところ初めてで、どうしたらいいかわからないんですけど」
「あぁ、やっぱり初めてのお客さんだよね」兄さんは傍を離れていく。「ウチは若い子がよく来てくれるから、顔を間違えそうになることがあるんだ」
 戻ってくると、その手にはヘアカタログ。雪兎の前でページをめくりつつ、顔を見てくる。
「真白君、高校生?」
 なぜ苗字を知っているのか、と思ったが予約して来ていたんだ。そうです、と答える。
「どんな感じがいいかな。こういうのはどう?」
 指し示すそのモデルはあまりにもイケメンすぎて、雪兎とはかけ離れている。複雑に毛束が浮いていて、そんな状態で学校に行ってもいいのかと心配した。
「こ、こんなすごい髪型になるんですか」
「カットだけじゃ限界があるんだけど、パーマかけたらかなり近い感じになるよ。でも高校って頭髪にうるさいでしょ。脱色とパーマ禁止にしてるとこ多いし、何かいわれたら俺、責任取れないから勧められないんだけど、どうする?」
 雪兎はパーマをかけないことにした。そうして、勧めてくれた髪型のようなカットをしてもらうことに。お兄さんはかなり喋る人だった。次第に雪兎は緊張から解放されていく。会話の中で、お兄さんが四十歳になったばかりだと知った。
「そういえば、国崎紅蓮ってわかりますよね?」
「あ、紅蓮君と同じ高校? あの子が真白君にここの店教えてくれたの?」
「いえ高校は違います、紅蓮と最近知り合って、ここを教えてもらったんです。紅蓮はパーマをかけてるんですか?」
 お兄さんはなぜか笑う。「あの子、ウチでパーマかけたんだけど、先生に怒られて帰らされたんだよ。それでまたウチ来てさ、パーマ落としてくれーって。シークレットパーマっていう目立たないかけかたしたんだけど、あの子難城学園でしょ、校則厳しいはずだし、ダメだったよね」
 察するに、今はパーマをかけてないのだろう。
「パーマ直しってだいたいどこも無料でやってるんだよ。紅蓮君それ知ってたはずだけど、直すからお金くださいって冗談でいったら貰えちゃったみたいで。でもあの子、それちゃんと先生に返したらしいよ」
 そういえばあいつって意外に真面目だっけ。鬱陶しいけどすごく良いやつなんだよな。
 カットがほぼ済んだようで、レジにいたアシスタントの女性が洗髪をしてくれる。綺麗なお姉さん系の人で、雪兎は薄れていた緊張が再びぶり返していた。それが済むと、洗面台から元の椅子に戻り、お兄さんがトリートメントを雪兎の髪に揉み込んでいく。風呂で使うものを想像するが、洗う必要はないそうだ。そのあとブローをする。すでに、いつも切ったときとは全く違う印象を受けた。髪の先端が細やかにとげとげとしていた。
 床屋なら、終わり際に「何かつけますか」といわれ、いつも断っていた。一度だけワックスをつけてもらったことがあるが、よくわからない髪型にされただけ。ワックスでセットするよ、とお兄さんがいい、それを断る思考があったのだが、雪兎は頷いた。
 最後の細かいカットの仕上げまで済み、人生初の美容室体験が終わった。

 トヨナガボールの敷地内にぽつんと一台の自転車。その横で紅蓮はしゃがみ込んで携帯をいじっていた。遠目からでも、奴の身だしなみが完璧に決まっているのがわかる。私服だとさすがにオシャレのレベルは高い。そんな紅蓮に声をかけることに緊張した。
 傍まで行くと、紅蓮が顔を上げた。
「ユキトたぁん、おっそーい! 罰としてクレープおごってよね」
 口元に拳を当て、「ぷんすかぷん」などと意味のわからないことをいう。待たされた恋人キャラを演じているらしい。
「飲み物くらいならおごるよ」
 紅蓮は立ち上がり、じっと雪兎の頭部を見つめる。「なるほど、そうきたか」
「え、やっぱり変な頭なの?」
「なわけあるか、俺が紹介した店だぞ。お兄さん髪切るのめっちゃうまいんだからな。お前もしかして、相当まともな頭になったっていう自覚ないわけ?」
 長さはショートだが、サイドの毛束をほんの少し長めに残していて、細やかに横にハネている。ホストみたいとまではいかないが、トップの毛束は無造作ながら綺麗に浮いており、計算された繊細なデザインが施されているようだった。僕は仕上がった頭を鏡越しで見たとき、紅蓮に感謝していた。
「なるほどそうきたかってのは、お前がどういったタイプのイケメンなのかに対していったんだ。イケメンっていっても種類がある。さわやか系、濃い系、渋い系、ワイルド系、ミステリアス系ってな具合な。俺はどう見てもさわやかアイドル系だな」
 紅蓮をさわやかアイドルという言葉で形容していいのかは疑問だが。
「そうして雪兎。お前はなかなか珍しい、セクシー系だ」
 えぇ、と彼は驚いて笑う。
「まあ雪兎はあの女神に似てるところがあるし、逆に納得だよ。だが今の段階では、まだブサイクの要素をしっかり兼ね備えてしまっている。まず服装だ。お前、自分で服買ってないだろ」
 痛いところを突かれてしまった。雪兎は視線を逸らしながら頷いた。
「人の親を批判したくはないが、勝手に服買って子供になんとなく着させるのは大罪だ。そういったセンスはガキの頃にきちんと磨いたほうが絶対に良いに決まってる。雪兎は俺と出会わなかったら、大人になってもオタクくさいファッションのままだったぞ、デュフフとか面白い笑い声が似合ってしまうところだったぞ」
 雪兎には言い返したい思いだけが募る。
「この辺りはクソ田舎でまともな服屋がないわけだが、幸いにも古着を扱うリサイクルショップが二軒、存在している」紅蓮は自転車に跨った。「俺についてこい、さすればお前を色気むんむんセクシー男子にしてやる」
 紅蓮が手招きをして発進する。ついていくしかないので、雪兎も自転車を漕ぎだした。
 近場で色んな店がある場所といえば、津島市しかない。そこには確かに、古着に力を入れたリサイクルショップがあるが、入ったことはなかった。紅蓮の後をついて服を見ていく。田舎過ぎて良い服が流れてこない、とぼやきつつ、何着か衣服を手渡された。チノパンツ、数種類のシャツ、VネックTシャツなど。有無をいわさず買わされた。駅前の商店街にあるもう一軒のリサイクルショップも行く。そこは幅広く雑貨を扱っていて、二階の半分だけ古着コーナーだった。でも意外に、豊富な種類の服や靴も売っている。地元でチェーン展開しているため、店舗同士で商品を流通させているのだという。そこでテーラードジャケットやローファー、七分袖の赤いVネックシャツ、カーディガン、シルバーのネックレスなどを買うことに。所持金の大半を使ってしまい、服に金をかけることがもったいないと考えていた雪兎は後悔していた。
 買い物はまだ続く。「ナナツヤ」の一階のドラッグストアへ入り、紅蓮は雪兎の髪に触れたり観察したりして、液状ワックスとスタイリングスプレーを選んだ。それと眉毛を手入れするアイブローキットを購入した。それで買い物は終了にしてもらえた。
 それから、電化製品を販売する二階のトイレに連れ込まれた。個室が広く、ひと気が少ないことを紅蓮は知っていて、そこで指定の服に着替えさせられた。
 個室から出る。洗面台にもたれていた紅蓮が、おぉ、と感嘆の声を漏らした。雪兎は鏡を見て、信じられないような顔をした。
「俺の見込み通りだ。お前を化けさせるのは簡単だったよ」
 元々持っていた薄い青のジーンズに、胸元がガラリと開いた赤いVネックシャツ、上にブラックテーラードジャケットを羽織っている。紅蓮の指示で袖をまくっていた。首から十字のネックレスをぶら下げ、胸元に視線がいきやすくしている。
 雪兎は、まだはっきりと自分の良さが自覚できていない。ほぼ底辺のセンスからたった一日で劇的に変わったので、認識がうまく追いついていなかった。けれど僕は、はっきりといえるよ。
 雪兎、君は紛れもないイケメンになれた。
 紅蓮は足元を見てくる。靴はスニーカーのままだ。ジーンズにローファーは合わない、とのことだったから。
「あとは靴が残念だな。金に余裕ができたらブーツくらい買えよ。わかるやつは靴をチェックするからな、にわかオシャレでダサいって舐められるぞ」
 これ以上のお金をかけたくないと思う雪兎だが、紅蓮のいうことなので頷くしかなかった。紅蓮は出入り口に向かって動きだす。
「小腹が減ったな。ファミレス行こうぜ、そこで眉毛の整え方をレクチャーしてやる」
 世話になったので、雪兎はおごらなければいけない気がした。とりあえず、口にしなければいけない言葉を、彼は発する。
「紅蓮、今日は僕のために色々付き合ってくれてありがとう。感謝してる」
 鈍い光の射しこむトイレの出入り口で、紅蓮は足を止め、振り向いた。
「バーカ、勘違いすんな、雪兎が俺の行く方向に付いてきてるんだよ」
 なぜか親指を立ててニッと笑う紅蓮。気取っている雰囲気がダサいはずなのだが、やはり雪兎にとってそんな紅蓮が異常に眩しく、かっこよく映った。

 ふと意識が始まる。
 紅蓮とのデート──ではなく買い物に疲れ、ベッドで横になると雪兎はそのまま眠ってしまったようだ。帰ってきた母が物音をたてていた。喉が渇いており、台所へ向かう。
「ちょっと、いやだ雪兎、その恰好どうしたの?」
 上着を脱いですらいなくて、母にそうつっこまれた。雪兎は冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを出す。
「変なかっこうに見える? 友達にいわれてこうしたんだけど」
「ああ、なるほどね。じゃあ美容室もその子の勧めか」
 雪兎は頷いて、コップになみなみ注いだドリンクを一気に飲む。
「女の子?」
 コップを口から離す。「違うよ、たまたま知り合った別の高校の男」
 ふーん、と母はいい、雪兎をじろじろ見る。それから、何度も頷いた。
「良い友達持ったじゃん、すごく色気があって似合ってる。あなた、若い頃のお父さんにそっくり」
 軽い衝撃を受けた。そうなんだ、と平静を装って返す。
「お父さん、雪兎みたいに寡黙でさ、あんまり着飾らない人だったけど、私とデートするときはそういう恰好してくれてたよ」
 嬉しかったなあ、と母は寂しげな表情で呟く。そのあと大きなため息をついて、無言で料理を始めた。

  *

 まだ梅雨が明けず、月曜もぐずついた天気だった。午後から降るところもある、と天気予報は伝えている。
 綺麗にセットされていた雪兎の髪型は、洗えば潰れてしまった。それでも以前の状態よりは格段にマシな雰囲気になっている。紅蓮は学校の日もワックスをつけろといったのだが、雪兎は億劫になっていた。ローファーを履いていくのも嫌だった。スニーカーで良いじゃん、と思っている。結局雪兎が自発的に変われたのは土曜日だけの話だった。
 しかしそんな雪兎の心すら見透かしているのか、紅蓮からメールが来た。
〈ゆきとてぃん、おはゆー。憂鬱な月曜だね。メンドーかもだけど、教えた通り疑似パーマかけてしっかりワックスつけるんだよぉ、ローファーも履くんだよぉ、今日は雨降るかもだけど外で体育のある日は運動靴を持って行くんだよぉー。いうとおりにしなかったら紅蓮ちん、ぷんぷんだかんねっ。うーそ、怒ったりなんかしないよぉ。でもでも、毎日ちゃんとオシャレ続けることは男の子にとって大切なのぉ、だからお願いねっ。はーと〉
 ……なんなんだこいつはいったい。
 雪兎は少し引いていて、関係を止めたくなっていた。でも客観的な思考を持てる僕は、紅蓮の気持ちもわかっていた。人はたった一日では変わらない。関わった以上オシャレを続けさせなければいけない、とあいつなりに責任を持ってくれているのだろう。雪兎は、そのことに気づいていない。
 鏡の前でどうするか迷った。別にこのままでも充分。今までと違って良い。なんて思う。セットするのは止めようと思考してしまう。
 だが、次の瞬間、別の意識が過ぎった。
「雪ならこういうとき、紅蓮のいうとおりにしろって僕に説教するんだろうな」
 そうだよ雪兎。むしろ僕が君の髪型をセットしてやっている。
 雪兎は「わかったよ」と口にした。それは僕の説教を想像していったのだった。
 昨日、紅蓮に教わってメモした通り、髪のセットを始める。まず浴室でまんべんなく髪を濡らし、半乾きまでタオルドライする。それから、兄の使っていたラバーワックスを手にとり、指の隙間にもつくよう手をこすり、髪全体になじませる。それを終えてドライヤーで乾かす。このとき髪に癖がつくように、毛束を浮かせながら乾かしていく。耳の後ろの髪は横に引き出すように手グシを通す。
 その工程まで終えると、すでにセットらしき形ができていた。トップを手で潰しても、軽く毛束が浮いたままだ。紅蓮いわく、これは疑似パーマというもので、あいつはこの方法で髪をセットしていた。あとは十円大ほどの液状ワックスを二度にわたって、毛束を引き出すように全体になじませるだけ。するとどうだろう。
「すごい……!」
 土曜のときに匹敵する完璧なセットができた。仕上げに、潰れにくくするため毛束を持ち上げながらヘアスプレーをかけていった。
 鏡を覗くと、そこにダサイ髪型の雪兎はいない。以前ワックスをつけたときは、ただ髪がベトベトになっただけで何も変化をつけられなかったが、髪の切り方とワックスの使い方でここまで整髪が変わるものなんだ。
「こんな髪で学校行っていいのかな」
 脱衣室を出たとき、母と顔を合わせ、「うわあ、上手にセットできてる」といわれ、彼は気恥ずかしくなった。



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