彼女が僕の中にいる

第十一話.僕は君を小一時間は責め立てたい(page.A)



 土日中、望海から何度か携帯に電話はあったが、それを無視していた。なので余計に彼女の胸中が心配だったのだが、それでも、僕が口を開かない限り望海とは口を利かないことを貫き続ける気でいた。
 そうなると、雪兎自身もまた誰とも話さず自分の席に居続けるだけになるわけだが、でも時折姫宮さんたちが雪兎を会話に入れてくれていた。以前の雪兎なら、女子生徒との会話を長続きさせることは困難だったが、そんな状況にも少しずつ慣れがきていた。
 姫宮さんたちがどこかへ行ってしまった休み時間、一条と守丘が彼をいじりにきた。
「真白君、髪のセットやりすぎだろ、気持ちわりぃって。下ろせよ」
 守丘が頭に手を伸ばしてくる。雪兎は反射的に弾いた。守丘は舌打ちする。
「先生は何もいってこなかったし、問題ないだろ。まあ守丘は若干天パ入ってて髪が短すぎるからこういうことできないだろうけど」
「あぁ? 喧嘩売ってんの?」睨みを利かせる守丘。
「ほんとお前調子にのるようになったな」
 雪兎は一条の頭部を見る。「別に整髪ぐらい普通でしょ、一条だってやってるじゃん。僕、その髪型かっこいいと思ってたし」
 はあ? といい笑う一条。まんざらでもないようだった。
「今めちゃくちゃキモい上にウザかった」一条は拳を構える。「殴っていい?」
「一発五百円ね」
 僕は笑いそうになった。現在金欠なので、そこからきた発想だ。二人も思わずという具合に吹き出していた。一条は更に拳を振り翳す。
「百円にまけろ」
「高すぎでしょ、一円でいいって」
「ならいっそ殴って五百円もらうか」
「それ普通の恐喝じゃん」守丘が笑う。
 廊下の方から、次の授業の先生の声が聞こえた。一条は拳を下ろした。じっと、こちらを睨んでくる。ふいに一条がぶん殴ろうとするふりをしてきたが、雪兎の表情筋は少しも動かなかった。もはや、殴られることが怖くなくなっていた。二人はそれぞれこちらを睨み、去っていった。

 昼休み。先週の金曜と同じく、雪兎は独りで弁当を食べる。
「ユッキーさあ、そんな味気ないぼっち飯してないで、あたしらと一緒に食べようよ」
 姫宮さんの言葉に、雪兎はオーバー気味に眉を持ち上げて目を見開いて驚いた。それが面白かったようで、女子たちは笑っている。
「いいの? 僕なんかが一緒で……」
「はあ? あたしら友達なんだから、もうちょいその自覚持ちなよね」
 遠慮せずに席をくっつけていいよ、と隣の天野さんも優しくいってくれて、雪兎の涙腺が緩んだ。まさか、こんな日が来るとは。雪兎を取り巻く環境は、本当に大きく変わってしまった。
 姫宮さんが、ふと視線を望海へやった。雪兎もつい目にしてしまう。望海は席で背中を丸めて俯き、孤独に弁当を食べていた。目がどこか虚ろで、動作が鈍い。その姿を見たとき、僕も、雪兎も、心を激しく責め立てられて強い胸の痛みを感じた。
「望海ちゃんも一緒に食べようよ」
 姫宮さんが誘ってくれた。雪兎は複雑な気持ちになる。しかし望海は浮かない顔で首を振り、弁当に視線を戻した。姫宮さんはため息をつき、小首を傾げた。
「付き合いづらかったでしょ」
 姫宮さんがいった。雪兎が一緒に行動をとらなくなった理由として、彼女の難儀さを挙げているんだ。
「悪い子じゃないんだけどね。ネガティブすぎるでしょ、だからこっちが影響されてすごく疲れるのよね」
 その言葉に、雪兎は内側で激昂した。当然僕もそうだった。姫宮さんがそこまで理解のない言葉を吐く人だったなんて、信じられなかった。でも言い返す言葉が浮かばない。
 ただ、もやもやしているだけの雪兎とは違って、僕は少し経てば姫宮さんの分析ができた。これは同族嫌悪に近いのでは。自身のネガティブさに向き合いたくないだけ。それと、姫宮さんは望海に信頼され、理解する努力を何もしなかったのではないだろうか。親族を亡くした人に、何も知らず「あなたは暗い性格ね」というようなものだ。野良猫においでと呼んでも逃げていくことに対して「こっちはただ触ろうとしただけなのに。あの猫はバカだ」といっているようなものだ。
 望海の方が、真剣に自分の弱さと向き合っているはずだし、だからこそ相手のことを思い遣れるはず。姫宮さんより望海の方がずっと大人だし、精神面でも望海の方が強い女性だと確信を持てる。……でもそれは結局のところ、望海自身を孤独にしてしまうような強さなのだが。
 と、僕は思考を熱くさせてしまった。信頼していた姫宮さんから、僕の大事な望海のことをあんなふうにいわれたら黙ってはいられない。まあ喋れないんだけど。雪兎はうまく受け止められず、まるで自分がそういわれたように感じて傷ついていた。
 かといって、姫宮さんと距離を置くことはしなかった。雪兎はそれからも、整髪や身だしなみを毎日きちんとして、休み時間はなんとか彼女たちの輪に入ったり、お昼も「遠慮しないで」と他の女子もいってくれていたので、一緒に弁当を食べたりしていた。そんな状況、ほんの一か月前の真白雪兎からは想像もできない。
 日が経つにつれ、「真白雪」を意識しない時間が増えていた。でも一旦僕を思い出すと、強烈な好意を湧かせた。僕の扇情的な肉体美、キスの感触、触れたときの女性的な弾力などを過ぎらせては、僕の名を呼びながら自慰行為に耽っていた。

 七月一日、金曜日。
 本格的な夏の季節がやってきた、かと思えば梅雨が明けきっておらず、その日は朝から雨だった。先日、雨降りを体験しており、合羽を被っても疑似パーマをすれば髪のセットが持続することはわかっていた。面倒とは思いながらも雪兎は慣れた動作で整髪した。
 学校に着いてすぐトイレに入り、鏡を見て髪を直す。そういうことを自然とやるようになったのは素晴らしい意識の変わりようだった。彼の見て呉れが良くなった結果か、一条と守丘も以前のような絡み方をしてこなくなった。木場はまだ謹慎が解けていないので、そのせいもあるかもしれないが。
 と思いきや一時間目の授業が始まる前、おい、と一条に肩を殴られた。それほど強くはないが、雪兎は苛立った。
「亮太が退学したぞ」
 苛立ちが、急速に引いていった。一条は顔を雪兎の耳元に近づけてくる。
「あいつは自分から辞めたんだけどな、でもお前をかなり恨んでるぞ。夜道には気をつけろよ。そう伝えておいてくれって亮太にいわれたんだ。わざわざ警告してくれるなんて優しいな」
 含み笑いをして、あとは何もせず去っていく。一条は何事もなかったように友達と会話を始めていた。雪兎は蒼ざめて、理不尽だと思った。恨まれるのはお門違い。きっと、ただ自分をビビらせているだけだ。そう考えることで不安の芽を潰していた。
 なぜ木場は退学したのだろう。ただ謹慎になっただけだし、雪兎とあいつとでは、木場の方が立場も強い。雪兎のせいだけで学校を辞めたとは考えにくかった。あの両親とのいざこざが辞める大きな要因になったのではないだろうか。
 昼休み、雪兎は変わりなく姫宮さんたちと弁当を食べていた。この状態も五日目に入り、女子グループといる緊張感はかなり薄らいでいた。でも今日の終礼か来週には、月一の席替えが行われるわけで、雪兎はその後のことを気にしている。今は天野さんが隣の席で、そこに姫宮さんたちが来る形になっているからこそ輪に入りやすい。席がバラバラになったあと、男子である自分が席を立って堂々と女子の輪に突っ込んでもいいのか、などと雪兎は考えていた。……問題はそれじゃねえだろ、望海は完全に放置したままかよ。
 当の姫宮さんたちは席替えなどというイベントを話題に出すこともなく。七月に入ったことで、夏休みと、七月の第四土曜に行われる津島市の夏祭りのことを話していた。高校から津島までは距離もあるし、彼女たちの地元とは離れているはずなので、その話を始めたときは意外だった。
「津島の天王祭、知ってるんだ?」
 当たり前でしょ、と姫宮さん。「あれ超長い歴史のある伝統の祭りなのよ。綺麗な花火もたくさん打ち上がるし、毎年めっちゃ人来るじゃん」
「あのお祭りって、織田信長も見に来てたらしいじゃんね」
「それかなり凄いことだよね」
「あの祭り、ナンパ率高いよねえ。信長も女漁りに来てたのかなあ」
「ウケるんだけど──」
 と、四人の女子は盛り上がっている。真白雪兎は図書館に行った際、天王祭の資料を見つけて読んだことがあった。彼はその知識を口にしてみる。彼女たちはなんとなくで耳を傾けてくれた。
 尾張津島天王祭は、室町時代から続く六百年以上の歴史を持った日本の三大川祭りの一つだ。織田信長や豊臣秀吉などの名将に愛され、重要無形民俗文化財にも指定されている。宵祭りと翌日に行われる朝祭りと二日にかけて行われ、宵祭りでは四百余りの提灯をまとった五艘の船が池をゆっくりと漕ぎ渡るわけだが、それはかつて津島が(みなと)町だったことが由来している。なぜ、この天王祭が行われるようになったかというと、細かい話はわかりにくいので省き、わかりやすくいうと、皆が夏の酷暑を病気一つせず健康的に過ごすことを祈願するために、毎年行われているのである。
 雪兎は解説を終えた。いつのまにか四人は黙り込んで、こちらをじっと見つめている。ふいに、洟をすすりだした姫宮さん。突然のことに雪兎は戸惑った。
「姫宮さん、どうしたの」
 んん、と涙声で答える。「そんなお祭りだったなんて知らなかったから、なんか、あたしって無知なんだなあとか、皆が夏を健康的に過ごすことを祈るためとか、色々考えたら泣けてきてさあ……」
 他の人も瞳を潤ませていた。まさかこんなことで泣くとは思わず、雪兎は動揺し続ける。女性の涙のツボが純粋な点にあるということを、今の僕ならわからないでもない。
「今年も絶対に行こ。あたし健康でいたいし」姫宮さんは目元を拭う。「ユッキー、一緒に行こ」
 えっ、と彼は声をあげた。他の女子までも驚いていた。なにその反応、と怒りっぽい口調になる姫宮さん。
「ユイ、彼氏と二人で行くんじゃないの? そんなような話を前にしてた」
「うーん……でもユッキーと行きたい。ユッキーだけじゃなくて、やっぱみんなで行きたいの。あたしの彼氏、名古屋の人じゃん、遠いから行けるかわかんないとかいってるのよ。だったらこのメンバーで天王祭に行きたい」
「私らは元々三人で行くつもりだったし。そこにユイが入るだけのことだから、何も気にしないよ」天野さんの視線がこちらに向く。「真白君、来る?」
「僕がいると、邪魔なんじゃないかな。ほら、さっきみんながいったように、きっとお祭りって出会いの場でもあると思うからさ。せっかくの素敵な女性陣の中に僕みたいなのがいたら声かけづらいだろうし」
 なぜか笑われた。四人ともくすくすと笑っている。
「えっと、なんでみなさん笑ってるんでしょうか」
 わからないけどなんか面白くて、などといわれる。
「ユッキーいたらさ、便利そうじゃない?」
 意味深なことをいわれた。虫除けになる、という声。それに真白君って無害だし、という声。いないよりいてくれる方がいいよね、という声。よし、と手を叩く姫宮さん。
「決まり。一緒に行こうね、ユッキー。いざというときはあたしらの魔除けになってくれると助かるし」
 虫除けから魔除けに変わったが、雪兎は求められている立場を理解した。人が大勢来る祭りなので、邪な考えを持つ者もいる。だから雪兎のような扱いやすい男がいれば、少しは立ち回りが楽になる。都合の良い護衛役、というか本当に魔除けの飾りというわけだ。別にそれでもいいかと雪兎は思う。四人の女性とハーレム気分で祭りに行けるんだ。それだけでも彼にとってはあり得ないような貴重な体験だった。雪兎は彼女たちと祭りに行くことを快諾した。
 ──じゃなくて、僕はそんなものを引き受けてほしくないんだよ。ますます望海との距離がかけ離れていく。もはや僕が口を開かない限り、二人の関係の修復は絶望的だ。
 ……けれど、僕は少しずつ、雪兎の人生がどうでもよくなってきていた。この四人の誰かと交際するならそれでいいんじゃないの、と投げやりに思考してしまっていた。
 望海とくっつくのがもちろん一番良い。しかし、もはや雪兎はあまり彼女を意識していなかった。いっそ、また僕が現れたほうがいいのだろうか。でも嫌なんだ、雪兎に好意を向けられたくない。それが避けられないことはわかっていた。僕が今、一言でも言葉を発すれば、せっかく薄まった恋情がぶり返すだろう。それではまともに人を愛せないようになってしまう。空想の存在から卒業してほしかった。今の雪兎の精神状態は良好なんだ。僕がしゃしゃりでれば、それをぶっ壊してしまうだけ。
 ……僕だって、本当は君の願いどおり、愛されてあげたいよ。
 でもそれじゃあ、真白雪兎の人生はダメになるんだ。

「次、その後ろの西村さん。五七頁の終わりまで読んでください」
 自分の思考に没頭していて、気づいたら五時限目の現国が始まっていた。僕に授業は関係ないんだけど、久しぶりに望海の声が聴けるのがたまらなく嬉しい。
 だが、彼女は一向に口を開かなかった。雪兎は気になり、ちらっと右を見た。本は構えている。口も開いていた。
 しかし、声が出ていない。
 息が漏れていて、微かな音は出ていた。それはやがて、いきんだような声に変わる。濁点のついたウとアを連続させはじめた。およそ女性の声とは思えない。酔ったオヤジがえづく音に近かった。
「なにあれ気持ち悪い」「ちょっと、やばいでしょ」「おっさんみたいなひどい声」
 生徒たちが笑いだす。教師はあっ気にとられていたが、一通り生徒の心配と中傷が飛び出した後、「西村、どうした、大丈夫か」とようやく口にした。
 その瞬間だった。ポタ、という、紙の上に水滴が落ちた音が聞こえ、彼女の濁った声は泣き声に変わった。生徒たちは一斉に黙った。雪兎の頭は真っ白になっている。僕の胸中は今すぐ彼女を教室から連れだしてほしい願いでいっぱいだった。雪兎をけしかける思考もあったが、先生が女子のクラス委員に、保健室へ連れていくよう指示した。

 五時限目の休み時間に入ると望海の話で持ち切りだったが、それはほんの数分のことで、すぐに誰も彼女を話題にしなくなる。それで良いのだが、あんなことがあっても大して関心を示されない望海のことを思うと、僕は無性に悲しくなった。
 望海が戻ってきたのは終礼だった。後藤先生が声をかけると、彼女は普通に返事をしていたので、僕も雪兎も安堵していた。
 外はまだ、ぽつぽつとした弱い雨が降り続いている。面倒くさがって合羽を着ない生徒たちもいたが、家まで距離がある雪兎は着用して学校を出た。
 ひと気のない小道に入ったとき、ふと、違和感を覚えた。そこはいつも車が入ってくることさえほぼないのだが、音が聞こえた。音なんて有り触れているわけだが、それは微かな高い音で、雪兎はなんとなく背後を振り向いた。
 電柱の陰に、何かいる。
 その横が畑になっていて、金木犀(きんもくせい)の枝葉が道路に出ていた。それのせいでどういった人物がそこにいるのか全くわからなかったが、自転車は見える。
 もしや。僕と雪兎が同時に考えていた。今いる道は田畑ばかりで見通しが良いから、バレないようにそこで止まったのではないだろうか。雪兎は再び自転車を漕ぎだした。十字路を左に曲がり、真っ直ぐ行くと、自動車が一台しか通れない幅の橋がある。そこを渡って右へ。家の方まで続く堤防の道に入った。青々とした桜並木が続く道で、身を隠せるポイントは存在しない。そこを充分進み、再び後ろを振り向いた。
 ──いた。およそ七十メーター以上先。自転車に乗っている女子生徒の姿がある。雨が降っているのに合羽を着ていなかった。雪兎が振り向いたのを知ると、止まった。学校からずっと後をつけてきていたんだ。
 雪兎はどうしたものかと考え、僕に答えを求めてきた。僕は「彼との勝負」にこれで決着がついたと確信した。
「雪が喋らないなら、全力で彼女を引き離す。迷って帰れなくなるかもね」
 もはや悪あがきだ。僕が黙っていると、雪兎は苛立ち、前を向いて立ち漕ぎを始めた。雨が弱くとも、スピードを上げれば雨脚が強くなったかのようになる。雪兎は、表面上、本気で彼女を置いてきぼりにする気になっているが、心の深い部分では葛藤していた。真白雪兎はそういうやつだ。
 堤防の道が終わり、県道に入る。姿が見えなくなった彼女のことを、結局は心配していた。雪兎は交差点を曲がる前に止まった。もし来たら、ここを曲がらなければ真白家にはたどり着けないから。
 やがて、その姿が見えた。しっかり追ってきてくれていた。雪兎は諦めたような気持ちで吐息をつき、再び漕ぎだす。



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