彼女が僕の中にいる

第十一話.僕は君を小一時間は責め立てたい(page.B)



 家に着き、ガレージの前で自転車を降りて、フードを後ろにやって頭を出す。二十メーターほど離れていた彼女も、その距離を詰め、高いブレーキ音をたてて自転車を止めた。
 彼女は、申し訳なさそうな表情をしている。雪兎の口元は迷いをみせるが、
「あのときとは逆だね、西村さん」
 ついに言葉を発した。望海は、一瞬顔を歪め、泣きだしそうになりながらも、それをぐっとこらえるように笑顔を作った。
「真白君、ずっと口を利いてくれなかったから──電話しても出てくれないから、こうするしかなかった。真白君だって、私のことストーカーみたいに追ってきてくれたから、同じことをするのは許されると思って……どうしても一言、伝えたいことがあったから」
 望海は苦しそうに言葉を繋いでいた。その一言とはなんだろう。だいたい一言で足りるのか。僕は雪兎を小一時間は責め立てたいのに。
「それは、なに?」
 訊くと、望海は自転車を降りた。小雨でも、長い間浴び続けたせいで、彼女はずぶ濡れのようになっている。潤んだ瞳が、真っ直ぐこちらを射抜いた。
「津島のお祭り、私と一緒に行ってください!」
 ……えっ?
 僕も雪兎もあっ気にとられた。意外すぎて。
「えっと、僕、姫宮さんたち──」
 知ってる、と遮られた。「声は全部聞こえてた。もう他の人と約束してるもんね。でも私は、姫宮さんが誘うよりもっと前からお祭り一緒に行きたいって言いたかったんだよ。断られることがわかってても、いわずに後悔したくなかった。学校でも電話でも喋ってくれないから、もう嫌われてもいいと思って……。このまま真白君と永久に声を交わさないよりも、こうしたほうが私は後悔しないから。だから追ってきたの。すっごく迷惑でしょ」
 望海の健気さが、雪兎の胸をきつく締めつけた。それでも、まだ僕を喋らせる算段を立てていた。再び望海を突き放してしまおうかと思考する。そうしたら、もう二度と彼女は関わってこないだろう。だがその前に、雪兎はどうしても望海に問いたいことがあった。
「どうして僕なの?」
 その言葉が届いた瞬間、彼女は目を丸くした。頑張って作っていた愛らしい笑みが消え失せた。
「どうしてって? そんなの、あなたが私の友達になってくれたからに決まってるじゃない! こっちだって聞きたいよ、こんなことになるならどうしてあなたは私と仲良くなろうとしてきたの?」
 望海のイメージを壊すような、小雨が吹き飛びそうなくらいの大音声だった。
「全部私のせい? あなたに好意を持った私が悪いの? こんなことになるなら、私はずっと独りのままのほうがよかったよ! なんで関わってきたの? こんなに苦しくなるなら、私は孤独なままでいたかった! もう嫌、友達なんて二度といらない、みんな大嫌い!」
 望海は背を向けて足早に自転車を押す。雪兎は圧倒されていた。彼女が自転車に跨ってしまう。早く掴まえろバカ野郎と発したかった。望海が自転車を漕ぎ、離れていく。雪兎は立ち尽くしたままで、心が動かない。……ダメなのか。
「待ってよ西村さん!」
 突然、雪兎は声をあげて一気に駆け出した。その行動後、心が望海の方へ傾いた。逃げるように彼女はスピードを上げる。雪兎は必死で呼ぶも、望海は止まってくれない。もう足では追いつかなかった。雪兎は自転車に乗り、全速力で望海を追いかけた。直に彼女の横に出て、腕を掴んだ。
「離してよ、なんで掴まえるの、もう私を独りにして、これ以上苦しめようとしないで!」
「ごめん、僕が悪かった、全部僕のせいだ、今まで無視してごめん、償いをするから、お祭りも一緒に行くから、だから止まってほしい!」
 絶叫するように声を絞りだしていた。すると、望海の足は動かなくなった。彼女の強張りが解けたようにみえた。スピードは落ちていき、二人の自転車は止まった。
 ようやく終わったんだ。僕は雪兎との根競べゲームで勝ちを制した。

 玄関で望海にタオルを渡し、自分の部屋へ案内した。制服が乾くまでここにいてといい、彼女は頷いた。
 合羽を着ていない理由は、雪兎が学校からさっさと出ていったために着用する時間がなかったからだった。そんなふうにさせたことを雪兎はとにかく謝っていた。私が勝手にしたことだから、と彼女はいう。
 望海は、付き合ってほしい、というあの言葉のせいでこんな状態になったのだと思っていることだろう。確かにそれがきっかけでもあるが、僕と雪兎の関係が一番の要因だ。雪兎はそれを説明したかったのだけど、いっそ何もかも話すべきかと迷った。
「あのね、西村さん。雪のことなんだけど、実はね、あいつはある日唐突に僕の前に現れたんだ」
 六月の初めごろ、突然見知らぬ女が家にやってきて、そいつは自分を真白雪兎だと言い張った。母に黙って、他に帰る場所のないその危なっかしい子と同居していた。本当は親戚なんかじゃない。素性のわからない、不思議な女性だった。
 そんなとんでもない説明を、望海は信じてくれた。もはや僕がいるかどうか、彼は確信をもてなくなりはじめているが、全ての真実を話すかどうかは僕に委ねると思考した。
「それでね、僕は雪のことを愛してたんだ」
 諦めを込めた過去形の言い方だった。望海の表情には別段、変化がない。
「それって、二人が恋仲にあったってこと?」
「僕が一方的に想いを寄せてただけだよ。……でも、キスはしてくれた」
 望海の表情がぴくりと動く。何度か小さく頷いた。
「なんとなくね、真白君が雪ちゃんのことを特別な目で見てる雰囲気は察してたよ。やっぱり好きだったんだ」
 望海から目を逸らす雪兎。
「あんなに美人で可愛いんだもん、当然だよ。私がもし男だったら、雪ちゃんの奪い合いしちゃうよ」
 雪兎はなんとなく笑った。望海も同じように笑む。
「雪ちゃん、今どこにいるの? 一緒に住んでるんでしょ?」
 雪兎は言葉を選ぶ。「何もいわず消えたよ」
「どういうこと? 家を出てって、戻ってこないってこと?」
「元の場所に還ったんじゃないかな、きっと」
 その言葉を噛み締めるように、彼女はゆっくりと二度頷いた。
「それって、私のせいだ」
「西村さんは関係ないよ」
 望海は首を振る。「真白君にはうまくいえないけど、今の話聞いたら、私のせいだっていう気がした」
 彼女のせいというのは違うが、望海が雪兎に付き合ってほしいといい、それを実らせるためには僕の存在が邪魔だった。だから僕は今の状態を選んだんだ。このことに望海は気づいている。雪兎は鈍いのでうまく理解できていないが。
 望海を無視していた理由については、何もいわず消えた僕へのあてつけのようなものだと説明した。
「雪はさ、西村さんのことが心から大切だったんだ。それで今、雪がいきなり消えちゃって……雪の大事な西村さんのことを無視してたっていうか。どっかで見てるかもしれないから、西村さんのことを知ったら、黙っていられなくなってさ、戻ってきてくれるかもって……。なんか、変なこといってるね、僕」
 望海はぶんぶんと首を振ってくれた。
「真白君が雪ちゃんのことを本気で愛してたんだってよくわかった」
「付け加えておきたいんだけど、僕にとっても西村さんは、とても大事な存在なんだよ、今までこんなふうにしておいて、説得力がないかもしれないけど……」
 望海は笑み、ありがとう、といった。「戻ってきてくれるといいね。私だって会いたい。一緒に下着を探しに行く約束してたのに。こんなふうにいなくなった雪ちゃんに小一時間、怒りたい」
 うっ、と言いかけた。ごめん、と僕は思考した。
「雪は、たぶん、もう戻ってこないよ。僕、あいつのことよくわかるんだ。傍でみてたからとかじゃなくて、雪の思考回路は僕の頭にもあるっていうか……それくらい雪のことはわかるんだ。戻ってくるとしたら……」
 雪兎は思考を巡らす。望海と交際して、愛を深め、二人の仲がぶれることもなくなり、結婚し、子供を持つ。その辺りでようやく出てくるかもしれない。そんなふうに考えた。大方その通りだ。この先、二人が一緒にならないとしても、他の誰かとの恋情がきちんと深まり、雪兎の気持ちが「真白雪」になびかないだろうという確信が持てるところまでいけば、僕は出られる。それらは全て、他ならない大事な雪兎のためなんだよ。
「うまくいえないけど、もっと長い月日が経ったあとじゃないと戻ってこない」
 望海は雪兎の真意を探るような眼差しを向けるが、彼の言葉は掴みどころがないため、やがて諦めるように微笑んだ。望海は立ち上がり、ベッドに座る雪兎に身体を向けた。
「じゃあ、もし真白君さえよければ、どんな関係でもいいから、これからも私と親しくしてください」
 そういって彼女は頭を下げた。雪兎はどう応じたらいいのか戸惑い、ベッドから立って同じように頭を下げた。
「こちらこそ、こんな僕でよければこれからも仲良くしてください」
 うんうんと望海は頷く。「するする、いくらでも仲良くします。……でも、ふと思ったんだけど、私がいなくなったほうが雪ちゃんは戻ってくるんじゃないかな」
「その言葉、雪が聞いたら悲しむよ」
 雪兎がそういうと、望海はどこか淋しそうな顔で微かに笑んだ。彼女は動きだして、窓際に立つ。雨の降り具合を見ているようだった。その後姿を見つめていると、雪兎は、彼女に愛しさを覚えた。本物の女性を部屋に上げたのは初めてだし、気を許せる相手だから、その気持ちは当然のようなものだ。望海が好意を抱いてくれていることは知っているのだし、勢い余って告白してしまおうかと、彼は思考する。でもそれは安易な行いだと思い直した。「雪を愛してる」などといった手前だ。もう戻ってこないと思うからじゃあ付き合って、なんて都合の良いことを彼はいえない。
 その代わり、雪兎の脳裏には、鮮明に未来を見出している。
 もう少しお互いを知り、仲を深め、いつか自分から望海に告白する未来を。

  *

 姫宮さんに事情を説明するため、雪兎は電話を掛けた。望海との仲が戻り、どうしても彼女と祭りに行きたい旨を述べる。姫宮さんに嫌われるのではと危惧していたが、
「ならあたしらと一緒に行けばいいじゃん」
 予想外なことをいわれた。その手もあったかと思うが、二人きりで過ごしたいとも考える。どちらがいいのだろう。微妙に返事を濁らせてしまうと、姫宮さんが口を開いた。
「まあさ、あたしはユッキーが望海ちゃんと一緒に行くようになったっていわれても、それで怒る気とかないから。授業中にあんなふうに泣きだす姿を見た後だからさ、むしろ良かったってひと安心してるわよ。気が向いたら合流すればいいんじゃない?」
 ああ、うんと返す。「えっと、姫宮さんが僕のことを誘ってくれてものすごく嬉しかったんだ。それなのに、こんな形になってごめんなさい」
「だぁかぁらぁ、あたしは気にしないしむしろ良かったっていってるでしょ」
「じゃあ、ありがとうだね」
 うん、と彼女は返す。雪兎は更に、これから学校では再び望海と過ごすことになると伝えた。これに関しては「一緒に」といわない姫宮さん。
「二人、今度は離れないようにね」
「うん。短い間だったけど、学校で一緒に過ごしてくれてありがとう。僕は姫宮さんたちに救われたよ」
 彼女は笑う。「大げさだし、まだクラスでは一緒だし。それにあたしらは友達でしょ」
 自分相手に女子生徒が「あなたは友達」と強く述べてくれることを、雪兎は素直に信じられなかった。その胸中は漏らすことなく、「うん、友達」と返した。そうだよ、と姫宮さん。そのあと、微かに息を吐く音が聞こえた。
「こっちこそ、楽しかったんだから。ユッキーは面白い上にめちゃくちゃ良い人だったからさ。もっと自信持ってよね。それじゃあまた学校で」
 一方的に電話を切られた。
 雪兎は佇んだまま、窓外を見つめた。姫宮さんの言葉を頭に巡らせている。そうして、彼女が友達だといってくれた気持ちを素直に受け止めよう、と言い聞かせた。

 七月は球技大会以外に大きな行事はない。それが終われば夏休みは目前だ。相変わらず隙を見つけては守丘が絡んでくるが、いつのまにか一条は雪兎の相手をしなくなった。雪兎が変化して立ち振る舞いも堂々とするようになり、一条に認められたんだ。木場もいなくなったことでいじられ≠ヘ終焉を迎えた。
 雪兎と望海は元の鞘に収まったわけだが、もはや周りは大した反応も示さない。クラスでは、雪兎は女子といるキャラ、というふうに認識が完了していた。二人はまだ友達の次元なわけで、松本君のように露骨な恋人同士としていちゃつくわけでもないし、クラスメイトたちには純粋な関係に見えていることだろう。時折、女子生徒が「あなたたち付き合っちゃいなよ」とそそのかしてくることがあった。そういうときは望海が「私たちはただの友達で、真白君は他に好きな人がいるから」というのだが。
 雪兎自身は、心奥で望海との距離を詰めたがっていた。交際してほしいと口にしてしまえば、望海は二つ返事で受け入れてくれる想像もできている。だがそんな簡単に手を伸ばしていいのだろうかと真面目に考えていた。ただ恋人という相手を欲しているだけなのでは、傍にいてくれる女性で恋愛を取り繕おうとしているだけなのでは、と。それに、やはり雪兎にとって本当に好きなのは、僕なんだ。そんな手前で望海に手を出していいのか、とひどく真剣に悩んでいた。休みの日に望海の家に遊びに行ったとき、彼女に触れてしまいたい衝動に駆られていた。好きだと迫り、男女として生々しく繋がりたい情動が沸き起こっていた。その裏側で、望海との関係を大切にしたいという想いから、安易な言動を抑制し、雪兎は自制を利かせていた。
 雪兎は苦しんでいる。僕と望海との間で。だから、あとは時間の問題だった。
 雪兎と望海は、微妙な距離感を保ったまま、夏休みに入る。

  *

 七月二十三日土曜日。津島の天王祭当日。
 夜でも気温は二十八度ほどになるそうで、テーラードジャケットは暑くて着られず、紅蓮の教えを参考に別のコーディネイトで行くことにした。下は黒のチノカーゴパンツ。上は白シャツ。たったそれだけ。でも雪兎にはとても似合っていた。シャツのボタンは適度に開けて、シルバーのネックレスが見えるようにする。もちろん髪もしっかりとセット済みだ。靴は、数日前に古着屋で見つけた赤茶のブーツ。中古なのに六千円もしたが思いきって購入した。
 女性の横に立つ以上は恥じない姿でいたい、と雪兎は生意気にも思っている。父がデートの時、色気のあるコーディネイトで来てくれたことが嬉しかった、という母の言葉が僕の中で浮かんでいた。
 雪兎は自転車、望海は電車で津島駅へ行く。雪兎は電車の到着時刻より先に駅で待った。古びた駅構内はごった返している。女性はだいたい浴衣を着ていた。津島市自体は、高層ビルもほとんどなくて全く栄えていない。駅からほんの少し離れれば田圃と畑ばかりだ。駅前の商店街ですら、営業していない店が目立った。人がわざわざ電車に乗ってくる場所でもない。でもこのお祭りのときだけは、様々な地域から大勢、人がやってくる。
「真白君」
 唐突に浴衣の女性に声をかけられた。一瞬、それが誰なのか判然としなかった。
「え、西村さん?」
 えぇっ、と笑う。「私だよ。変なかっこうしてる? 似合ってないとか?」
 雪兎は首を横に振りまくる。彼女は髪を綺麗に編んでアップにしており、うなじがしっかり見えた。少し化粧もしている。蝶が描かれた水色の浴衣に、下駄を履いていた。
「普段の西村さんとは全然違ったから、誰なのかわからなかった」
「それはこっちの台詞。真白君、とっても大人っぽいし、一瞬違うのかなって思っちゃったんだから」
 望海の視線が雪兎の胸元にきて、再びこちらの顔を見た。口を閉じたまま、んふふ、と笑う。
「私ね、男の子とお祭り行くのも夢だったんだ。こんなに素敵な男性と一緒に来られるなんて嬉しい。真白君の隣にいるのが不釣合いに思えちゃうよ」
 私の代わりに雪ちゃんがいればよかったね、と彼女は小さくいった。こやつ、狙っていっているのではないだろうか。
「不釣り合いに感じるのは同じだよ、僕なんかが一緒にいていいのかって緊張するくらい、西村さんは浴衣美人だから」
 望海は目を丸くして肩を持ち上げた。視線を逸らして身体を小さく振る。恥ずかしがっているようだ。ごまかすように、彼女は「行こう」と口にして歩きだした。
 空は青黒く、微かな明かりを残している。雪兎の自転車に望海のトートバッグを入れて、二人は天王川公園を目指す。会場の方から祭りらしい唄の放送が聴こえていた。



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