彼女が僕の中にいる

第十二話.僕は彼女の中にいる(page.A)



 小路を抜けると、煌びやかな世界が飛び込んできた。昔は川だったといわれる、外周約七百メーター以上の広大な丸池を、出店や提灯などの無数の光が囲んでいた。人のざわめきが鼓膜でひしめくようで、熱気を感じる。人の多さに望海は尻込みしたのか雪兎に身を寄せた。女性の扱い方がまるでわかっていない彼はそのまま進んでいってしまう。望海がもうちょっとうまくリードしてくれたらいいのに。
 駐輪が可能な場所へ行くため、青々とした桜並木の堤防を行く。多くの人が堤防の斜面に座り込んで会場の様子を眺めていた。
「人がいっぱい」ふと望海が呟く。
「西村さんは人ごみ苦手?」
 首を振った。「わくわく」
「心が躍る?」
 興奮気味に、うん、と彼女は頷いた。「ここのお祭り、中一の頃に友達と一度しか来たことないの。そのときは人の多さにただ呑まれてただけだったけど、今は面白がれる。男の子の友達が隣にいてくれてるし」少しだけこちらを見た。「真白君、姫宮さんたちにお祭りのこと話してたでしょ。あれ聞いて、世界が変わったっていうか……それはちょっと大げさかもだけど、何百年もこうやって毎年、祭りが行われてたって思うと、その歴史に参加できるのがたまらなく嬉しいというか、私も夏を健康的に過ごしたいっていうか……うまくいえない」
 望海はふっと笑った。雪兎はなんとなく笑みを返して、桜並木の向こうの丸池を見下ろす。蝉しぐれを凌駕するくらい、群衆のお祭り騒ぎが聞こえていた。そんな様子を見ていると、今から百年後もここで蝉は鳴いていて、同じように祭りも行われている気がした。百年前に雪兎たちがここにいたことなど誰も知る由はないけれど、歴史に名を残した者が祭りに参加していたことを知り、今の望海のように同じ感銘を受けるのだろう。
 祭りが執り行われる丸池からはずれた南側には屋台もなく、数えきれない台数の自転車が乱雑に駐輪していた。そこに自転車を置き、池へ戻る。今は水上花火が打ち上がっていた。ねずみ花火みたいでしょぼい、と誰かが言い捨てた。二人はそれをぼんやり眺めている。数十分そのままでいて、このままではいけない、と雪兎は口を開いた。
「準備中の巻藁(まきわら)船、見にいく?」
 望海は小首を傾げて疑問符を顔に浮かべた。後に池を渡る提灯のついた大きな船のことだと説明すると、「あー、あれね」とわかってくれた。まあ祭りに来るだけの人にとっては、どっちかというとメインは花火で、なぜ池に無数の提灯がついた船が出てくるのかわからないだろう。
 人ごみを縫うように進みだす。望海は下駄なので遅く、その歩度をうかがいながら雪兎は歩いていた。手を繋げよ、といってやりたくなってくる。
「どうしたの、真白君」
 まるで僕の声が聞こえたかのように、雪兎は止まっていた。僕の言葉を正確に想像していたのだ。望海の瞳が水上花火の光を反射させている。雪兎は一歩を踏みだせない。いいからさっさと実行しろ、と僕は念じた。雪兎はグーにした右腕を持ち上げる。手を広げて差し出せない。見ているこっちがじれったくなる。望海も左腕を持ち上げ、「ジャンケン?」と訊いてきた。違う、そうじゃない。なのに雪兎はごまかすように頷いて、「じゃーんけーん」とかけ声をあげた。望海ものってくれる。その手≠ノ勝てるチョキを出した。望海は、パーを出してくれている。
「あ、負けた」
 悲しげな表情になる望海。そのパーが閉じてしまう直前、雪兎は思いきって腕を伸ばし、望海の手を掴んだ。ふへぇ、という声で彼女は驚く。
「僕が勝ったから、こうしないといけない……」
 拙い台詞を口にして手を握りしめる。望海の表情はみるみる綻んだ。んふふ、という口を閉じて笑う癖をみせてくれた。行こう、と雪兎は手を引っ張る。望海は握り返してくれる。手の温かさが、僕にもよく伝わっていた。
 天王川公園の東には入り江のような、車河戸(くるまこうど)と呼ばれる場所があり、夏祭りではここで巻藁船の準備をしていた。平底の船を二艘繋ぎ、その中心に屋台を設置し、頂点の真柱には一年を表す十二の提灯が取りつけられ、その下はお椀を伏せたような形になるよう、これも一年を表す三六五の提灯が飾り付けられる。だが実際は綺麗な形になるよう、四〇〇個余り付けられるのだが。更にその下に、一ヶ月を表す三十個の小さな赤い提灯が飾られている。その船が全部で五艘あった。
 提灯の数の意味を望海に教えると、興味深そうに巻藁船を見上げた。
「それじゃあ、この船がお祭りに登場する意味はなに?」視線を雪兎に戻す。「真白君、わかる?」
 雪兎は頷き、口を開く。巻藁船は真柱を含めると、高さは約二十メーターあるわけだが、無数の提灯を飾り付けた山車(だし)が出るのは、その明るさで神様をお導きするためだった。
 望海は感心して、もっと祭りのことを教えてほしいといった。雪兎は知っている限りのことを喋った。その大半は津島市生まれの父が教えてくれたことだ。祭屋台でもてなされているお稚児さんのこと、巻藁船の目的地である御旅所(おたびしょ)のこと、そこで御鎮座された神様に挨拶することが、この宵祭りの最終目的であるということ。信仰深かった豊臣秀吉がこの幻想的な夏祭りを愛し、京都の伏見桃山城を建てる際、祭りを執り行う神社を伏見に移したいと頼んだこと。それはご神意に沿わない、と断られたが。
 提灯の光を反射させる望海の瞳は、子供のようにきらきらとしている。手を握る力がいっそう強くなっていた。
「真白君、物知り。真白君と一緒に来て良かった。あ、そもそも他に一緒に来られる人はいないんだけど」
「中学の頃の友達はここに来てないの?」
「私の友達らしい友達って、よく一緒に帰る子だけだよ。別の友達と来てるかもね」望海は巻藁船の方を向く。「私って、気難しくて暗い人間みたいだから。行事に誘われなくなるっていうか……私が溶け込めないから悪いんだけどね」
 望海は自嘲した。それから、嘆息をつく。
「雪ちゃんだけなんだよ、あんなにも仲良くなれた女の子って。それもたった一度会っただけなのに」
 雪ちゃんもこのお祭りに来てないかな。淋しそうな声で望海は呟いた。僕は心が痛み、雪兎は僕を責めた。
 船の完成までまだ時間がある。二人は屋台を回ることにした。ふりふりポテトや厚切りタン塩、玉子せんべえなど、二人で分けられるものを一つ買って仲良く食べた。望海は常に嬉しそうに笑っている。雪兎の胸中には幸福感があった。移動している途中、望海が「あっ」と小さく声をあげた。更に大きな声で「あっ」と誰かがいう。よく見れば、すぐ傍に姫宮さんたちがいた。女性はすれ違う人の顔をよく見ている。雪兎は人の顔なんて全然見ていなかった。姫宮さんは、繋いでいる雪兎と望海の手を、からかうように凝視した。二人は恥ずかしくなって手を離してしまう。
「あれ、離していいのかしら?」姫宮さんが雪兎の手を掴んだ。「やっぱ男っ気がないとわびしいから、ユッキー貰ってくわよ」
「え、あ、その」望海はあからさまに取り乱した。両手で雪兎の腕と手を掴む。「それなら、みんなで一緒にっていうのは……」
 思わずというふうに姫宮さんは笑い、雪兎の腕を離した。「望海ちゃん可愛い」
 他の女子もくすくすと笑っている。雪兎は肘でぐいぐい突かれた。邪魔しちゃ悪いから行こう、と姫宮さんがいい、手を振りながら一方的に去っていった。二人は茫然とする。望海を見ると、恥ずかしそうに俯いた。雪兎の手は離さないが。
 水上花火の音が連続して轟いた。巻藁船が完成し、それを祝す花火だ。アナウンスは船の出航を告げる。望海は巻藁船が見たいと言いだし、雪兎を引っ張って車河戸へ向かった。
 松並木の遊歩道に人が群がっている。テレビ局のクルーが機材を設置して中継していた。お囃子(はやし)が太鼓と笛を鳴らして、巨大な巻藁船が、水面に煌びやかな提灯の光を反射させ、優雅に進んでいく。ほとんどの人が、携帯やカメラなどで撮影していた。雑誌ほどの大きさのタブレットで動画を撮る人もいる。ゆったりとした船の動きに合わせるように、遠方の夜空には大玉の花火も度々打ち上げられた。それはここから数百メーター離れたグラウンドから上げられるものだった。
「ねえ、ゆ、グ……」
 丸池へと向かう船を見送りながら、望海は何かを言いかけた。どうしたのかと問うと、望海はトートバッグを肘裏に引っ掛けて、手をグーにした。
「ジャンケンしてほしい」
 突拍子もない要求に雪兎は眉をひそめたが、ひとまずグーを出す。
「私が勝ったら、真白君のことを、名前で呼ばないといけないの」
 意図を察した。雪兎は、望海のことが愛おしくなる。二人はジャンケンをした。雪兎がパーで、望海はチョキ。んふふ、と彼女は笑った。
「私が勝ったから、呼ばなきゃいけないね」
 雪兎は喜色を頬に滲ませて頷く。望海は口を開いた。しかし、「あ」という声を連続させて、いえずにいた。あまりにも羞恥心が強いらしい。
「あ、御旅所が見たい」
 名を呼べずごまかしてしまった。雪兎は残念に思うが、無理強いはしないでおくつもりだった。
 御旅所は祭りのとき、近づくことはできない。平時に見に行っても、鳥居と石造りの台座があっただけだと前置きするが、それでも見たいと望海は強くいうので案内した。花火が上がると、人の群れは足を止める。雪兎も目を奪われ、望海は感嘆の声を漏らした。
 御旅所付近は背の高い竹柵で囲われ、その内側でテレビ局のクルーが三階の(やぐら)を建てて撮影している。よく見えないので、二人は坂を上がって歩道に出た。御旅所には立ち入れないよう、ここも竹柵で隔てており、中には白いテントが建っている。御旅所は屋根が作られ、幕が張られているため、見ることができなかった。そこには神輿があるのだと望海に教えた。
「じゃあ、今そこに神様がいるってことなんだ」
「そうそう、そういうこと」
「私、祭りのこと何も知らなかったから、そんな秘密があったなんて……感慨深いね」
 そんなことをいって何も見えない御旅所の後姿に注目している若い娘はこの子だけだった。他の人たちは目もくれず、中へと進み、上空に咲く花火を見上げている。交通規制により遊歩道となった県道でナンパしている男たちもいた。道路の向こう側にある「エックスJ」の駐車場の隅で「たまやああああああ」と声を張り上げて下品に笑う男女グループもいた。アルコールが入っているような挙動がみられる。
 望海に視線をやると、竹柵の隙間からどこかを凝視していた。
「西村さん、なにを見てるの?」
「神様の視点を想像してるの」
 なるほど、と雪兎はいって微笑んだ。望海は満足するとこちらを振り返り、中に戻ろう、といった。けれど視線を雪兎の奥にやり、「やっぱりコンビニに行きたい」といった。
 二人は飲み物を買って外に出る。ちょうど花火が夜空を彩った。望海は、最初に大玉の打ち上げ花火を見たときと変わらない感嘆の声を漏らす。
「巻藁船の提灯が水面に綺麗に反射してる姿と、花火を一緒に見るのが、とても風情があるよね」
 望海はそれを見たことがあるだろう、という態で彼はいったが、彼女は目を輝かせて「それ見たい、早く戻ろっ」と声をあげた。極自然な動作で雪兎の手を握りしめてくる。変に意識していないだけかと思いきや、数歩引っ張られてから、望海はハッとして手を離した。
「私、いま、びっくりするくらい勝手に手を繋いでたよね」
「僕もちょっと驚いたけど、ずっとそうしてたんだから変なことじゃないよ」
「そう? じゃあ、私の右手をお願いします」
 差し出す彼女の手に、雪兎はそっと左手を重ね、握った。
 今、雪兎は完全に彼女を受け入れている。ほとんど恋人同士のような意識を持っていた。雪兎のなかで、告白する決心がついに固まった。今宵、最高のタイミングで口にしようと思考している。
 二人は、再び人ごみの中へ溶け込んでいった。
「なあ、おいって、止まれよ」
 人を呼び止める声がしていた。それは別の誰かにいっていることだと思っていた。突如、雪兎の肩が掴まれた。身を竦ませ、振り向く。
「やっぱそうだ。てめえ本当に来てたんだな」
 木場亮太が目の前にいる。
 それが信じられなくて、目を疑った。だいたい、最後に見たときとは外見が違っている。髪を赤色に染めて逆立てており、上下真っ黒な装いで、上は金の刺繍が施されたジャージのような半袖の上着一枚のみ。雪兎以上に胸元をガラリと開けている。似たような人物があと二人、木場の後ろに立っていた。
「……木場君も、来てたんだ。僕がいることを知ってたの?」
 おそるおそる雪兎はいうと、木場は舌打ちして睨んできた。その目を、望海に向けやがる。雪兎に視線を戻すと、嘲笑した。
「てめえさあ、面貸せよ。ボッコボコにするから」
 心拍数が跳ね上がった。「なんでそんなことされなきゃいけないの」
「むかつくからに決まってるだろ。てめえが俺を挑発したことを今から後悔させてやるんだよ」木場が二人に目配せした。「女つかまえといてえ」
 二人が望海に手を出し、彼女は嫌がる声をあげ、雪兎は思わず割って入った。
「どうして西村さんに手を出すの、用があるのは僕なんでしょ?」
「てめえを存分に痛めつけるためだよ、センコーにチクってめんどくせーことにしやがって。てめえのせいで俺は何もかもやる気がなくなった。俺が学校辞めたのてめえのせいだからなあ」
 頼むわ、とまた二人に指示を出すと、望海の腕を無理やり掴み、引っ張った。彼女が抵抗の声をあげ、ゴリラみたいな顔の男が「シー」と唇の前で人差し指を立てた。
「騒ぐなよ、なにもする気ないから」ゴリラが顔の前で手を振る。「微妙なランクの女には興味ないしさ」
 雪兎が自分の身体を二人の間に差し込み、望海の腕を掴んだ。
「何もしないんだとしても離してあげてよ。じゃないと警察呼ぶよ、すぐそこで待機してるんだから」
「てめえそんなことしたら女も無事じゃ済まないからなあ。黙って俺と一緒に来ればいいんだよ」
 雪兎はこのとき、自分が木場に痛めつけられることを甘受した。
「わかった、いうとおりにするから。西村さんの身体を掴むのだけは止めてほしい。じゃないと僕は今ここで叫ぶよ」
 私は今すぐ叫びたいんですけど、と望海がか弱い声でいう。んなことしたら浴衣剥ぐからな、と彼女より背の小さい童顔の男がいった。望海は泣きだしそうになってしまう。
「頼むからさ、この子に乱暴な言動も止めてよ、じゃないと一向に話が進まない。まず腕を離して。僕は木場君の指示に従うから」
 奴の目を見つめて懇願した。木場は顔を歪めて睨み返してくる。やがてその視線を二人の男に向け、離したってぇ、という。望海を解放してくれた。
「いっておくけど俺はブスでも女を痛めつける趣味はねえからな。けどサツに通報するかもしんねえし、女を一人にしておくわけにはいかない。こっちについてくるか、あっちにいる俺のチームの奴らと一緒にいるか選べ」
 木場は親指でコンビニの方を指す。どうやら元々あの男女グループにまじっていたようだ。結構な人数がいたし、酒を飲んでいそうな雰囲気で、年上っぽい人たちもいた。松本君は木場のチームは大したものじゃないといっていたのに……雪兎に余計な心配させないための嘘だったのか。
 望海は雪兎の腕をぎゅっと掴んだ。「私、真白君と一緒にいる」
 どちらがいいのか。望海には手を出さないつもりだから見える場所にいてくれるほうが良い気がするし、女性もいる向こうの不良たちと一緒のほうが良い気もする。だが、望海があまりにも強く抱きついているので、雪兎のなかでは離れる考えが消えていった。
「行くぞ」木場は顎でしゃくる。「ユウダイとタケシもついてきて」
 木場を先頭にして動きだす。ユウダイとタケシは、雪兎が逃げないよう、両サイドについていた。望海は傍らで震え、雪兎にしがみついている。



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