彼女が僕の中にいる

第十二話.僕は彼女の中にいる(エピローグ)



 地面。
 それが目の前にある。
 息を切らして、雑草と土を見つめていた。時折、地面が照らされ、爆発音が響く。僕は両足を折り曲げ、肘を立てた状態でうつ伏せになっていた。まるでストレッチでもしているようだが、ズボンを着用していない。
 ……これはなんだ。
 自分がよくわからなかった。いや、なぜズボンを穿いていないのかはわかる。性行為をしていたからだ。でも、僕の下には、何もない。相手がいない。
 とっさに胸を触った。そこは平たくなっている。下半身を確認すると、やはり男性器があった。
 さっと周りを見渡した。誰もいない。……雪は? 雪兎は?
「雪兎、どこにいるの」
 思わず呼びかけた。その雪兎は、僕なのではないだろうか。でも自覚をうまく持てなかった。雪兎は消えた? かといって、さっきいたはずの雪も消失した、という認識があった。
「僕は、いったい、誰なんだ」
 僕は雪? 僕は雪兎? それとも、全く違う人物?
 思わず頭を抱えた。おそろしくなった。自分が男なのか、女なのかさえ、不明だった。でも身体は男だ。だから僕は真白雪兎なのか? そう考えても、自分が女だという意識が払拭しきれない。
 闇雲に走りだしたい衝動に駆られたが、下を穿いていないことは頭にあった。靴も脱げている。それらを身に着けてから、この場を後にした。
 天王川公園へ戻る間に、僕は更に自分を調べた。髪を触るとそれは女の長さではない。声を出せば、男の声が出る。だそうと思えば女性らしい声音も使えた。
 祭りはクライマックスを迎えているようで、会場は消灯し、御旅所の前には五艘の巻藁船が並んでいる。その絢爛(けんらん)たる幽玄な姿に人々は魅了されていた。
 誰でもいいから、手に持っている携帯やカメラで僕を撮ってほしかった。僕がどんな顔をしているのか知りたかった。だったら自分で撮れば、と思ったが……わかってる、この分だと顔だって男だ。真白雪兎の顔をしているんだ。でも僕は女だとも思うし、雪は消えた、という意識もある。それは、僕が、そう選択したんだ。
 雪兎の欲情を身に受けると、いつも耐えがたい苦痛が僕を襲った。その先には僕の死か、完全な消滅が待っているのだと考えていて、それにより雪兎の前から消えるつもりだった。そうすれば真白雪兎は望海と幸せになれるのだから。
 それなのに、全く予期せぬことが起きてしまった。
 僕は死んでいないし、消滅していない。でも、雪の身体はどこにもなくなっていた。
「もう、なんなんだ、これは……」
 ただ錯乱している。時間が経つと、雪の記憶も、雪兎の記憶も、しっかりと頭にあることに気づいた。自分はどちらでもあって、どちらでもない。仮に今、雪兎と呼ばれても、それに返事をする自信がないし、雪と呼ばれても、心から返事ができる気でいた。じゃあ僕は真白雪なのか、と自問自答すると、わからなくなる。愛していた雪が消えたことの悲愴はあった。
 混乱した自分の状態に、ついに眩暈がして、拍動は速まり、息切れが増し、強い吐き気に見舞われ、口の端から涎が垂れて地面に落ちた。思考が定まらない。人ごみのなかでうずくまった。誰も、そんな僕に声をかけない。いくつもの足が目の前を行き交う。意識が朦朧としだす。脳裏には、雪兎と過ごした日々が過ぎり、同時に、雪と過ごした日々も過ぎっていた。
 そんな僕らの間にいた、一人の女性の姿が、唐突に浮かぶ。
 ふと目の前に、止まってこちらを向く足が見えた。下駄を履いており、蝶が描かれた浴衣を着ている。その人がしゃがんで、僕は顔を持ち上げると、目が合った。
「私をほったらかして、どうしてここにいるの」
 ……西村望海だ。
 怒ったような顔をして、真っ直ぐ目を見てくれている。僕はひどく安心感を覚えた。それはまるで、迷子になったときに、もう永遠にこのままなのではと恐怖したそのあとにようやく母と会えた瞬間の安堵と、酷似していた。
 だから僕は、顔をくしゃくしゃに歪めてしまい、なりふり構わず彼女に飛びついた。
「ちょっと、雪兎君──」
 その名前を呼ばれた瞬間、たまらず声を張り上げて泣きだした。
 迷子の恐怖から解放されたときのように、胸に縋りついて望海の名をひたすらに呼んだ。望海は体勢を保てず地面にお尻を着く。それを気に留めず、彼女は僕をあやしてくれた。優しい声音で「よしよし」と囁き、背中や頭をいっぱい撫でてくれた。
「私は傍にいるからね」
 僕は頷き、頭を望海に擦りつけ、浴衣を涙で濡らした。
 轟音が鳴り響いて、空気の振動が伝わってくる。夜空の向こうには、今、フィナーレの連発花火が打ち上がっているのだろう。
「望海は絶対、僕の前からいなくならないで──」
 人々の拍手と歓声に呑まれないよう、大きく声をあげた。望海も、僕を抱きしめ、
「ずっと一緒にいるよ──」
 耳元で強い声を出してくれた。
 僕は幼子のように、いつまでも、彼女の胸の中で泣きじゃくり続けた。



(了)

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