彼女が僕の中にいる

第二話.僕が僕を変える(page.A)



弥城(やしろ)、いつからいたの」
 と、その言葉は彼と僕が同時にいっていた。僕の言葉は音として発せられないので、相手に届かないが。
「追いついたのはついさっきだ。喋り声がするから電話してるのかと思えばそうじゃないし、不気味だったぞ」
 弥城はハンドグリッパーを右手に持ち替え、繰り返し握る。
(どうしよう)
『独り言いってたっていうしかないんじゃない』
 そうは言いたくない、と彼は思う。「弥城、柔道部の朝練は?」
「休みだ」
「ふーん。ハンドグリッパー、今日も家を出てからずっとやってるの?」
「ああ、日課だからな。学校まで距離があるおかげで丹念に握力のトレーニングができる。真白もやれ。右ポケットに軽いやつが入ってる」
 弥城は速度を上げ、併走する。彼は面倒くさくて断る気でいた。
『やったら? そうしたら独りで喋ってたことはツッコまれずに済むかも』
 小さくため息をつき、渋々、弥城の学ランのポケットに手を入れた。赤いハンドグリッパーを取り出し、握る。「固っ!」と、僕と彼が同時にいった。弥城はふっと笑う。
「俺は手を休めるときそっちに持ち替えるんだがな。真白は相変わらず軟弱だ」
 筋肉バカと一緒にしないでほしい。とは思っても彼は口にしない。僕は弥城と出会った中学から、その強さを尊敬していた。
「学校まで付き合ってもらうぞ、俺とここで出会ったのが運の尽きだな」
 弥城は軽々とグリップを握る。そっちの方が軽いんじゃないかと錯覚した。僕の意志で動かしていないとはいえ、彼の筋肉の疲れは、僕の疲労でもあった。学校に着くころには、手が痛くて思うように動かせなくなっていた。
「おめでとう。真白の握力はレベル2に上がった」
 友達に呼ばれた弥城は満足げな顔でそういい、僕の前から離れていった。
 高校でできた友達と楽しげに喋る弥城。後ろの方で、手を揉みほぐしながらその様子を見ていた。弥城は三組の教室へ入る。僕は二組へ。廊下側から三列目、後ろから三列目の自分の席に向かう。が、そこに姫宮ゆいという、小麦色の肌をしたギャル系の女子が座っていた。コミュ障な彼の胸中は塞ぎ込んでいった。僕の左隣りの席は彼女の友達なのでよくこういうことがある。一生懸命声をかけて、なぜか笑われたことがあった。でも今の僕にとってこれは他人事で、気楽になるのは容易だ。
『爽やかに挨拶しようよ』
 僕の言葉に、無理だ、と彼は否定して席へ向かう。ひどく緊張して、不安で心が押しつぶされそうになっている。姫宮さんの背後に立った。
『おはよう天使たち、今日も目が眩みそうなほど美しい。席を譲ってくれないかい?』
 と僕は格好つけていってみせる。彼は笑いそうになって喉が鳴った。姫宮さんがこちらに気づく。
『席、代わってもらっていい?』
 と僕は柔らかな口調でいう。彼は同じようにいった。
「ああ、うん、ごめんね」
 姫宮さんはすんなり席を立ってくれた。
『僕がいないときは自由に使っていいから』
 と僕はまたいってみる。すると彼はこれを復唱した。姫宮さんは微笑み、ありがと、と返してくれる。その女性らしい顔を直視できず、サッと席に座った。
『へえ、やればできるじゃん。女子とコミュニケーションがとれて良かったね』
(うん……)
 彼は胸中で僕に感謝した。

 一時間目が終わると、いつも通り机に顔を伏せる。僕に情けない姿を見せている、などと彼は考えていた。
『君はどうしても僕を特別視してるけど、そんなふうに恥じる必要は全くないんだよ。君の姿はかつての僕。君の考えることは全て僕が考えてることでもある。疲れるでしょ、自分の中の存在にいちいち気を遣うとか』
 彼は、もっと気楽でいていいのだと受け取ってくれた。それから、今の自分が多重人格のようだと考えた。彼はテレビで知った多重人格者の情報を脳裏に過ぎらせていく。同じ脳を共有しているのは当然だが、人格者たちはそれぞれ、脳の使い方に差異があるのだという。別人格の思考を知れる者もいれば、他の人格のことは一切わからない者もいる。主人格は別人格の考えを知ることができず、別人格は主人格の思考がわかる場合が多い。これは僕と彼の関係と似ている。
 もっと多重人格のことを知れば、僕が外に出られる糸口が見つかるかも。僕らはそう考えた。それ系の本が図書館にあったっけ。
 暇つぶしに、僕らはくだらないダジャレの応酬を始めた。それだけで彼は幸せだった。それでふと、同じ状況だった人のことが気になる。通り道を挟んだ右隣りの席の西村さんを視界に入れた。机に顔を伏せている。彼女は孤立するタイプには見えないのに、教室では誰とも話さず、淋しく過ごしていた。
『西村さんに話しかけてみて』
(言うは易く行うは難しっていうことわざわかるよね?)
 そんな行動をとれば好奇の目にさらされて、本気で虐められるようになるかも。西村さんにも迷惑がかかる。彼はそう考えていた。
『マイスイートハニー、さあ顔を上げて、可愛い君には俯いている姿が似合わない』
 好き勝手いってみると、彼は吹き出しそうになって口に空気が溜まった。
(姫宮さんのときは君の台詞を口にできたけど、こればっかりは無理だよ)
『西村、俺と付き合ってくれ! さん、はい』
(サン、ハイ、とかいわれても絶対そんなのいえないよ)
『でも西村さんと交際したいってのは元々真白雪兎の願望でしょ』
 彼は思考する。僕と交際したい、と。肉体がなくとも構わない、と。僕は男でもあるんだよと言い返したいのだが、止めた。
『西村さんを見て』右目の視界に西村さんが入る。『それじゃあ友達になろう』
(だから無理だってば、まず声をかけれるはずない。僕がそんなことできると思う?)
 全く思わない。仮に教室で一緒に過ごすような状態になったら、生徒たちがひっくり返るだろう。けれど、僕は端整な顔立ちの女になってしまった自分の姿を認識しているので、深刻に否定的にはなれなかった。友達になれたらあわよくば女同士なのをいいことに、あんなことやこんなこともやれるのに。

 外は微弱な風が吹く、穏やかな陽気だった。自転車を漕いでトヨナガボールへ向かう。今日は昼食後、机に顔を伏せていたとき、木場には耳元で叫ばれて驚かされ、一条からは横腹を平手で叩かれる嫌がらせをされた。僕を使って面白いことをする遊びだったらしい。他に大したことはなかったので、こんな日常がずっと続けばいい、僕さえいれば多くは望まない、と彼は嬉々としていた。客観的に見ていると、自分≠ェ惨めすぎて憐れになるのだが。
 屋上へ来ると、空に浮かぶ雲には手が届きそうな気になれる。端の傍から身を乗りだして下を覗いた。樹木が無数に生えており、手前にはアスファルト。僕が木々に飛び込んでいたなんて全く信じられずにいる。
『僕だって自分のしたことを信じられないよ。でも飛び降りたことは覚えてる』
 辛いことばかりで、枯れた心を妄想で癒すだけが救いで、この先、一生、僕の孤独の傍に誰もいてくれないだろうと覚り、絶望したんだ。後はもう、吸い込まれるように身体が傾いていった。
 だが飛び降りた僕は、僕ではないものに変貌していた。いや、本当の真白雪兎は飛び降りてさえいなかったんだ。
『……さあ、端に立ってみて。昨日の再現をしよう』
 上半身を段差に密着させ、おそるおそる足をひっかけた。だが地上が見えると身が竦んで、足を戻した。死にたいという気持ちは微塵もない。無理だよ、と彼はいった。
『でも再び僕が顕現するかも』
「君は飛び降りるような状態になるんでしょ。次は無事じゃ済まないかもしれない。僕は死のうなんてもう微塵も思えないし、下手なことして君を失いたくないし、今のままでも良い」
『君は僕のお蔭で希望に満ちた人生が始まったんだろうけどさ、僕の幸せは考えてくれないの? 一生君の中で、意識だけの存在として過ごさなきゃいけない絶望を、君は理解してくれないの?』
 そこまでいってやると、ようやく彼は察し、罪悪感を胸中に満たしていった。でも根本で意見を変える気はなかった。再現できたとして、同じように僕が木に引っ掛かるような状態になれる保障はない。顕現した僕がアスファルトに激突して死ねば、僕そのものが消滅するのではないかと危惧(きぐ)している。
『君が心を砕くのは痛いほどわかるよ。でもここは僕のいうことを聞いて。もう一度、端に立って。お願いだから』
 ため息を吐く。腹を括り、端の段差を上った。
「僕に死ぬ気がないのはどうしようもないからね。でもなんとか昨日の再現に挑戦するよ」
『うん、それでいい』
 彼は気持ちを入れ始める。高校での嫌なことを思い返していく。携帯の機種が古いと木場にバカにされたこと。汚いスリッパでよく衣服や頭をはたかれること。サッカーの授業でシュートしたら誤って木場に当たり、怒った奴は教室に戻った後で僕に土下座をさせ、頭を何度も踏み、制服をゴミ箱に捨てたこと。一条に、ご飯を踏んだスリッパを服や机に擦りつけられたこと。守丘がよく消しゴムの屑を服の中に入れてくること。……こうやって客観的に知ると、僕って結構な虐めに遭ってるな。
(でも、もうそんなのどうでもいい)
 と、彼は思考してしまう。顕現したリアルな僕が脳裏に描かれた。さらさらのロングヘア、明眸皓歯の美しい顔立ち、女性らしい腰のラインと立派な胸。あの姿をまた見たいという願望丸だしだ。その考えを打ち消すように、また嫌がらせの内容を思い返していき、死にたい、と心の中で呟く。
『もういいよ。君がほんの少しも死ぬ気になれないのはよくわかった。危ないから下りなよ』
 僕の願いを叶えられないことに、彼は胸を痛ませた。僕が現れることはもうないのだと、ひどく残念がった。段差から下りて、もう家に帰るかどうするかと、僕に訊く。
『綺麗な夕景が見たい。建物の内部からね。夕陽と廃墟が織り成す幻想的な姿を、ぼんやり見つめたい』
 彼の暗い感情が吹き飛ぶ。容易に叶えられるし、彼もそこに魅入られていたから。素晴らしい情景を共有できる者が自分の中にいる事実に、激しい喜びを感じていた。
 景色に心が奪われるのはとてつもない癒しなのだと、彼の中にいて思い知った。僕は二倍の脳の働きを直に感じているから、彼と僕の思考が休まるのは重要なことだった。骨組だけのエスカレーター。取り残された椅子やソファー、無数のピンやボール、シューズ。壁にはグラフィティ。割れた大窓の向こうは木々が広がり、夕陽が木漏れ日となって射しこんでいる。元々は森林地帯だったそうだが、バブル期にホテル会社をいくつも経営していた社長が、地元の田舎を開拓するために巨額の費用をかけて「森林浴のできるボーリング場」というコンセプトの元、ここが建設された。木々の向こうには街が見える。後ろを振り向けば、沈黙した広大なレーン。この静謐(せいひつ)な光景を目の当たりにすれば、廃墟に魅せられる人のことを理解できる。
 充足すると外へ出た。西日が眩しい。自転車に乗って県道に出て、ふと見覚えのある姿を見かけた。そいつは自転車を止めて道路脇に佇んでいる。僕を見つけると、無言で追ってきた。



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