彼女が僕の中にいる

第三話.僕が僕にストーカーをさせる(page.B)



 彼女の友達がいる四組は解散していて、二人は合流した。見失わぬよう、こちらの存在に気づかれぬよう、距離を保つ。部活には所属しないといけないのだが、非参加は黙認されていた。西村さんとその友達は、僕と同じく部活に出ない。駐輪場へ直行し、自転車で正門を出ていった。西村さんは、実に女の子らしい笑顔を浮かべている。弥城といる僕の姿が重なってみえた。
 正門を出ると三叉路(さんさろ)になっていて、車線のない銀杏の並木道が真っ直ぐ伸びている。そちらに進むまでは同じだ。次の十字路を右折すれば僕の帰り道なのだが、西村さんは直線に進んでいく。まだ部活の時間ということもあり、学校から少し離れるだけで生徒が疎らになった。何かの拍子で振り返れば、それで存在が知られてしまう。見失いそうなギリギリの距離を保つ必要があった。彼は犯罪行為をしている、と意識する。
 そのうち、覚えのあるデパートが見えた。小学生の頃、車で来た記憶がある。近くに、チェーン展開するドラッグストアや書店もあった。こっちは寄り道するところが色々あっていい。僕の寄り道といえば、コンビニの「エックスJ」くらいだ。住宅街と田圃と畑のド田舎にある唯一のコンビニなので、よく地元の人がたむろしていた。
 彼女たちはまだ一緒の道だった。案内標識が視界に入り、二人の行く方に森上(もりかみ)駅があることを知る。デパートから一キロほど進むと、車線はなくなり、道幅が狭まり、人家が密集していく。やがて名鉄尾西線が見えた。僕の地元に繋がるローカル線だ。ちょうど遮断機が下りている。二人は止まり、彼は車の陰に身を隠した。
(勢いでここまで来ちゃったけどさ、話しかけるのは無理だよね。あとをつけてきたなんて知ったらドン引きすると思うし。もう帰りたい)
『あれれ、いいの? 僕のキスが無しになっちゃうよ』
(じゃあ西村さんが一人になるところまでは行くよ。さすがにそろそろだろうし)
 真っ赤な電車が津島(つしま)方面に向けて通り過ぎ、遮断機が上がり、二人が線路を渡ると、こちらも動きだす。左方向に駅舎が見えた。周辺はやたらに古い家と商店が目立っている。近くにデパートがあるせいか、ほとんどの店のシャッターが下りているが、来る途中には大きな和菓子屋があったし、雑貨店、酒屋などが営業していた。
 ふいに二人が店の前で自転車を止めた。慌てた彼が急ブレーキをかけ、高い音が鳴り響く。二人はこちらを向かなかった。二人が止まった場所はT字路になっている。そこの店先に野菜や果物が見えるので、八百屋のようだった。自販機の前で会話をしている。そうして手を振り合い、ようやく友達と別れた。
 ──ププー!
 唐突にクラクションが耳を劈き、身が竦んだ。
「兄ちゃん、こんな道幅狭いところで止まって邪魔だぞ! 道にでも迷ってるんか?」
 軽トラックに乗ったおじさんに、声を荒らげられた。自転車となら余裕ですれ違える道幅なのに、なぜわざわざ声をかけてくるのか。なんでもないです、といい逃げるように自転車を後退させた──が、視線を前に向けたとき、西村さんが、こちらを見ていた。
『おっ、見つかったー』
(なにのん気にいってんだよ、ストーカーしてきたことがバレたじゃないか!)
 彼は瞬時に、これからの気まずい学校生活を想像した。ひどい焦りようだ。
『君はここまで来たくせにマジで声をかけないつもりでいたみたいだけど、僕がそんな選択を望んでると思う? 話しかけないとキスは無し―、っていうつもりだったし』
(あんた悪魔か! 僕をなんだと思ってるんだ!)
『いいからほら、西村さんが気になるから見て』
 すでに軽トラックは去っていき、西村さんは怯えるように首を動かして何回かこちらを見ていた。彼は、方向転換しようなどと考えてしまう。
『今彼女を無視したらそのほうがまずいでしょ。最高の客観的頭脳を持つ僕が全力でフォローするから、行けよ。仮に西村さんに嫌われても、僕は君を嫌わないから』
 そんな言葉で彼は容易に動きだす。僕の手にかかれば、僕という人間は操るのが簡単だ。彼は緊張のせいで足が震えだした。漕ぎだすのだがうまく進めず、自転車を降りてゆっくり押した。西村さんは前髪を触っている。
(なんて声をかければいいの)
『やあ僕のエンジェルちゃん、素敵な君に惹かれてここまで導かれてしまったぜ』
(真面目にお願いします)
『じゃあ初手謝罪。面と向き合って、ごめんなさいっておおげさに頭下げよう』
 西村さんとの距離を三メートルほど残して止まろうとする彼に、もっと近づけと指示した。残り二メートルまで接近し、止まった。西村さんも緊張してくれているようで、視線を泳がせている。彼は顔を熱くさせ、鼓動は早鐘を打っていた。スタンドを立てると、西村さんに対して「ごめんなさい!」と大声を出して腰を勢いよく折り曲げた。顔を上げようとするので、そのままでいろと指示。あ、あ、と西村さんの微かな声がする。咳を何度かして、「頭を上げてください」といってくれた。彼は顔を上げた。
「どうして、ここに?」
 彼は卒倒しそうなほどテンパって「あの」「その」と繰り返し、僕に救いを求めた。
『きっと今、西村さんは気味が悪いと感じてるかもしれないけど、それについては本当にごめんなさい。どうしても確かめたいことがあって、でも学校では話しかけるタイミングが見つからなくて、外で声をかけようとしたけど、友達と一緒だったし、迷惑だけはかけたくなかったんです。だから、西村さんが一人になったら話しかけようと思って、それでこんなところまで来ちゃって……バカですよね』
 彼は僕がいった通りを口元から発していった。すると西村さんは、首を大きく横に振ってくれて、胸ポケットから紙を取り出す。靴に入れたメモだった。
「これ……えっと、真白君がくれたものなんだよね?」
 ニュアンスから察するに、いけるぞと感じた。そうですそうです、と彼は繰り返し、小刻みに頷く。
「あの、そこに書いてある通り、もしよかったら──」
 彼が勝手に口走ろうとすると、西村さんが腰を折り曲げて思いきり頭を下げた。
「ごめんなさい!」
 言葉を受けた瞬間、彼も、僕も、強烈なショックを受けた。まるで好きな人への告白を断られた気分だった。告白したことなど一度もないが。若干、泣きそうになっている。
「私、携帯電話を持ってなくて」
 ──えっ?
 彼女は顔を上げた。「いまどき、ありえないよね。信じられないよね」
 いやいや、と首を振った。「全然そんなことはないです……」
 言葉が詰まる。何をいったらいいのかわからなくなった。僕が口を開く。
「もし携帯を持ってたら、メールをくれたんですか?」彼が僕の言葉を復唱した。
「迷いはすると思うけど、送ったはずです」
 盛大に安堵の吐息をついた。迂闊だった、電話番号も書いておくべきだったんだ。僕は台詞を考えて伝え、彼が素直に繰り返す。
「ごめんなさいっていわれたとき、メモの内容について断られたんだと思って……でもそうじゃなくて、めちゃくちゃ安心しました」
「そんな──私、なんなんだろうって、すごく気になってた。真白君かなあって思ってたけど、でも確信はなかったし、話しかけることもできなくて、どうしようもなくて」
 それなら名前を書いていたほうがよかったのだろうか。でも何かあって他の人に見つかったら、という懸念もあったわけで。
 ふいに咳払いが三度繰り返された。西村さんと僕が同時に音の方を見遣ると、八百屋の店主がいた。
「大声出すから何事かと思ってよ。ボロい構えだけど一応営業はしてるんでな、悪いけど移ってもらえるかい」
 彼の顔が熱くなった。西村さんも恥ずかしそうにして、店主に謝った。

 西村さんの案内で、淵森神社という場所に移った。広い敷地なのに誰もいない。無数の樹木が聳え、空気が澄んでいるように感じられる。鳥居をくぐり、コンクリートの道を進むと、
「ここ、シイノキっていう樹がたくさん生えてるんだよ」
 ふいに彼女が話題を口にしてくれた。へー、という生返事しかしない彼に、もっと興味を持てよ、と指示する。どういう樹か訊ねると、それを指して詳しく教えてくれた。
 シイノキはブナ科の常緑高木で、普通は単独樹ばかりらしい。それが群生している場所は珍しく、食べられるドングリともいわれるシイの実は縄文時代の貴重な食べ物だったとか。なので、市がここのシイノキの群生を天然記念物に指定しているそうだ。
「西村さん、物知りなんですね」
 彼女はどことなく笑み、奥を指さす。「そこの看板に書いてあるから」
 それを記憶しているということは、よく来る場所なのだろう。
 機転の利く僕は、彼に西村さんの飲み物を買わせていた。彼女は頑なに拒んだが、自販機にお金を入れて「熱いコーンポタージュのボタン押してしまうよ」と脅すと、「じゃあ、レモンティー」といってくれて、それを渡したのだった。
 社殿の周りは綺麗に砂利が敷き詰められている。拝殿の石段に腰を掛け、彼が同じレモンティーを口にすると、西村さんもプルタブを開けてごくごくと良い飲みっぷりを見せてくれた。彼も同じく音をたてた。飲み物が喉を通るのはそれほど不快ではない。
 声を交わし、飲み物をおごり、落ち着ける場所で二人、レモンティーをがぶ飲みする。たったこれだけの工程が僕らの間に絶大な効果を及ぼした。不安はだいぶ削ぎ落とされ、会話を再開するとお互いの声は弾んだ。西村さんは、真白雪兎に対して否定的な気持ちを微塵も抱いていなかった。むしろ同情している。
「真白君が色んな人に絡まれてて嫌な気分だった。居た堪れなくて、こういうのをイジメっていうんだなあって思って、なのに何もできなくて虚しいというか、心苦しかった」
 そんな真白君から唐突に挨拶をされた西村さん。最初は罰ゲームだと判断した。誰かに命令されて動いているんだ、かわいそうな人、と。メモについてもその可能性を考えたが、OCの授業の前に再び彼が近づいてきて、そうじゃないのではという疑念を抱いた。
「私、自分に興味を持つ人がいるのが信じられなくて……しかもそれが男子だなんて」
 と、西村さんはいう。僕は彼の言葉を指定した。
「勘違いだったら申し訳ないんですけど、西村さんは僕と境遇が似てる気がしたから、わかりあえそうな感じがしたんです」
 僕はくだけた表現をしたのだが、彼はあくまで敬語だ。更に説明を付与する。似てる境遇というのは、中学の友達はいるが高校では友達を作れない、ということ。別クラスにその友達はいるものの、そっちは新しい友人関係を築いたので輪には入れない。彼の場合は、仮に同じクラスになっていたとしても、迷惑をかけたくないからと遠慮するだろうが。
 僕の言葉に、西村さんは何度も頷いてくれた。一緒に帰っていた人は小学校からの友達だそうだ。一年のときは最初、同じクラスのその友達と行動していたのだが、その子は要領が良くてすぐ新しい友達を作り、グループができた。西村さんはその空気に打ち解けられなかった。二年に上がり、グループはバラけ、その中の二人と西村さんは一緒のクラスになったが、その子たちはすでに別の友達がいた。その輪に入りづらくて現在に至る。一緒に弁当を食べよう、と誘ってもらえたこともあったが、それは今までの付き合いで無理にいってくれたのだろうからと、迷惑をかけないよう断った。輪に入ったところでうまくやっていける自信もない。黙ってグループについていくことしかできない。自分のせいで雰囲気を悪くする。だから、独りでいる。
 僕と似通ったものをひしひしと感じられ、西村さんに対する親近感が強まった。
『ねえ、僕のことを西村さんに話してほしい』
(話すって、どうやって?)
 適切な言葉を述べていった。彼がそれを口にしてくれる。父方の親戚には、同い年の子がいて、そいつは同じようにクラスで孤立している。西村さんのことを話したら、友達になりたいっていっていた、と。これは西村さんに近づいた理由でもある。もちろん彼自身も西村さんと知り合いになりたいと望んでいた。彼女はこれを快く納得してくれた。
「じゃあその子、お名前はなんていうの?」
 あっ、と彼は微かに声を零す。僕は名前を訊ねられることを予期しており、回答は決まっていた。
『西村さんにこういって。その子の名前は──』
 真白雪。
 ……この名前を認めたわけじゃない。でも、仮に西村さんと顔を合わせるようなときがあれば、名前は必要だ。僕の外見は女だし、他の偽名を使うのは気がひけた。
「とっても可愛い名前。女の子なんだ?」
 彼が頷いて自分の言葉を発する。「控えめにいってもかなり可愛い女の子だよ。西村さんと仲の良い友達になれると思う」
 彼女は何度も頷く。「会ってみたい。真白君の親戚なんだから、私と違って目元がはっきりしてそう。魅力的な人なんだろうなあ」
 君のこと遠回しに褒めてるんだよ。そう僕はいう。でも彼は信じない。
「でも、それなのに友達が少ないんだ?」
 彼が勝手に口を開く。「気難しいところがあるんだよ。俺様系なSっぽい一面があるし、周りには受け入れられにくいんじゃないかな。でもすごく優しいんだよ。相手のことをいつも深く考えてくれる。それでいて、真っ直ぐな心の持ち主」
 西村さんは笑んだ。「真白君の話を聞くだけでも、もう私は雪さんのこと、好きになれたよ。私のことを伝えておいてほしい、会ってみたいっていってた、って。……でも、私なんかに会っても、何もない退屈な人間だから失望させちゃうだろうけど」
『否定しろ』
「何もないなんて、そんなことないよ」
 そこで途切れる。うまい言葉が見つからないからだった。西村さんは首を振った。
「本当に、何もないの。人に自慢できる趣味もない。誰かといるとき、自分が地味すぎてひどく申し訳なくなってくるよ……」
 ……この絶妙なマイナス思考、僕のどストライクだ。胸がきゅと締めつけられるようだった。彼もそんなふうになっているが、僕より弱い。
『僕が許す、西村さんを抱きしめろ』
(んなことしたら悲鳴あげられちゃうよ)
『クソッ、なら今すぐ外に出て僕が抱きしめてやる!』
(出れないでしょ。てかもし出ちゃったらものすんごいややこしくなるじゃないか)
 僕は試すのだが、悔しいことに、やはり出られる感覚を掴めない。
「ごめんね、私、暗いこといってたね。癖みたいなものなの」
 僕がこういう。『人間らしくて正常だよ。暗いなんて全然思わない。嘘で自分を塗り固めて虚栄心丸だしの人よりも、西村さんはよっぽど芯が強いはずだよ』
 僕の言葉に感心しつつ彼がリピート。西村さんは真面目な顔でこちらを見つめ、逸れると、二度小さく頷いて、ありがとうといってくれた。
「真白君もとっても強い人だよ。きっと雪さんも、毅然とした女性なんだろうなあ」
 女性といわれると、それが僕を指しているようには感じられなかった。
「確認したいんだけど、本当に雪さんは私に会ってみたいっていってくれてるの?」
 なぜ訊いたのだろうと思いつつ、彼に全力で頷かせた。
「それじゃあ今度、真白君と一緒に来て。あ、私が行ったほうがいいかな。どこに住んでるの?」
 弥富(やとみ)市だよ、と適当にいう。更に付け加えるべき言葉を口にさせる。
「西村さんが構わないなら、都合がいいときにお邪魔するよ」
 と言いつつ、彼も僕も初めて女性の家に行こうとしていることに強い緊張感を覚えた。
「えっと、僕みたいな男が家にお邪魔していいのかな」
「うん、大丈夫だよ。私の部屋、家と離れてるし。散らかってて、今日は入ってもらうことができないけど、すぐそこだよ。場所を見ていきますか?」
 どういうことかわからないが、彼は頷いた。レモンティーを飲み切って、神社を出た。
 西村さんの家は、八百屋からすぐそこだった。T字路を曲がり、百メーターもない。紺色の瓦屋根、黄土色のトタンの壁で、平屋の古風な家だった。二階建てのガレージが隣接しており、彼女の部屋がそちらにあるそうだ。
「ここね、お母さんが再婚したときから住んでる家なの」
 ふいに彼女が言い放った。真面目に聞いていなければ「へえ、そうなんだ」と軽く返してしまいそうなほど口調がさらりとしていた。言葉が引っかかった彼は、それを聞き返そうとするが、ストォォォォップ、と僕が叫んで制止した。
『再婚のことには触れないで。それは後日にしよう。僕が再び外に出ることができて、一緒にここへ来たときに。いいね』
(じゃあ西村さんにどういう反応すればいいの)
『何かを察して、しかし何も訊かないという、気遣いのできる紳士的な反応して』
 彼は困って、「そう」と一言だけ口にした。うん、と西村さんはいう。
『今日はもうおいとましよう。忘れず電話番号交換して。で、必ず雪を連れてくるからっていって』
 彼はいうとおりにしてくれた。別れ際、西村さんはお礼をいっていた。レモンティーのことだけではない。関わってきてくれた何もかもに対して。真白君と話せてすごく楽しかったです、と笑顔で口にしてくれていた。彼にも同じ言葉を返させた。
 暮色が迫っている。土地勘のある真白雪兎は、すぐに家の方向を把握した。家路を辿りつつ、西村さんと会話した事実を思い返す。自分のようなどぶ臭そうな人間とまともに喋ってくれたことが信じられない気持ちになっていた。そうやって卑下するのも、西村さんの視点も、僕は理解できている。
『君は今まで自分が徹底的にダサい生物だっていう妄想してただけなんだって』
 周りの評価を参考にした事実だと彼は言い張る。紅蓮だってそういっていた、と。
『あのね、僕は今日確信を得たことがある。男から何か非道いこといわれても、女子から罵倒を浴びせかけられたことなんてあったか? 西村さんは君のことを肯定的に見てる。じゃなかったら部屋に上げようと思わない、さらりと再婚のこともいわないはず』
 うん、と彼は喉を鳴らすように発した。
『同性の評価だけを気にするのは無駄だ。女の子が男を見るのと、男が男を見るのとでは、次元が違うんだよ。木場のような女もいるかもしれないけどさ、君を嫌悪しない女性がいることは事実だ』
 脳裏には姫宮さんと西村さんの姿が浮かぶ。
『性別が違うというだけでも魅力の補正はかかりうる。とにかく、堂々と女の子の前に立って君を知ってもらおう。君を気に入らない女性はもちろんいるだろうけど、必ず仲良くしてくれる人もいるはず。そしたら卑屈な心も少しはマシになるでしょ。まあこれから西村さんにどんどん関わっていけば、もっと前を向けるようになれるって』
 ──雪のおかげで、もう充分に前を向いて生きられるようになってるよ。
 彼がそう思考した。雪、という呼び名をはっきりと使ったが、それは僕が受け入れるかどうかを試してもいた。……条件をクリアした以上、受け入れてやらなければいけない。
『約束だから雪って呼んでもいいけどさ、本当は君と同じ真白雪兎なんだってことを忘れないでね』
「君が嫌だというなら雪なんて呼び名は封印するんだけど」
『そりゃ嫌だよ。でもそういう約束でここまで動いて、西村さんと仲良くなったんじゃん。だから僕も受け入れる。それよりなんとしてでも外に出たい。自由に君の中を出入りできるようになれば理想的なんだけど』
 彼もその状態を望んでいた。いずれ、出られるときがくるだろうか。
 彼は自転車を軽快に立ち漕ぐ。浮き足立っていた。そりゃそうだ、たった一日で彼の人間関係に大きな変化が起きたのだから。希望のある世界へ飛び込むには、結局、思いきったような変化を望むしかない。
『ここまで行動を起こして良かっただろ、雪兎』
 雪兎という言葉に彼が反応を示す。サドルに腰を下ろし、真っ直ぐ続く道の先を見つめ、うん、と強い意志を宿した返事をした。
「全部君のおかげだよ。ここまで連れてきてくれてありがとう」
『一人なら迷うことも、もう一人の自分の声が傍にあるだけで案外思いきれるもんだね』
 でもこんなのは変化の序の口にすぎない。僕が、君をもっと成長させてやる。現状で満足している自分すら遥か彼方に置き去りにするくらい、僕は真白雪兎という人間を変えてやるから。
『これからもっと大変なことがあるかもしれないから、覚悟しておいてね、雪兎』
 脅すような口調でそういってやるが、
「望むところだよ、雪」
 そう答えた彼の頬には喜色を滲ませ、胸中には気概を渦巻かせていた。

  *

 朝、テレビで「早朝から営業するホストクラブの実態」という特集を観た。彼の容姿を良くしたかった僕は、そこで思い立ち、兄が置き去りにしていった整髪料をつけることを勧めた。せっかく西村さんと繋がりを持ったのだし、それに見合う変化があってもいいはず。彼は頑なに嫌がるが、説得して整髪をさせた……が。
 全然、うまくやれない。
 ワックスをつけても髪を立たせることができなかった。量が足りないのかとたくさんつけても変わらない。悪戦苦闘の末に髪はよくにおうようになった。時間がなくて整髪料を洗い落とせず、べちょっとした髪のまま家を出るはめになった。



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