君は、僕のものにはならない。
「ねえ、あたしは正哉のこと、大好きなんだよ」
 それが嘘だってこと、僕はよくわかっている。
「本当だよ、愛してるんだよ?」
 何度この言葉を聞いただろうか。三年目に突入すると、さすがにもう飽きてきた。
「どうしてわかってくれないの? どうして信じてくれないの?」
 信じられるはずがない。君が僕に対して、好意の欠片も抱いていないことをよく知っている。
「どうしたら信じてくれるの? 身体で証明すればいいの?」
 身体を張れば男なんてどうとでもなる、などと彼女は思っているに違いない。
「なんとか言ってよ、ほら……」
 彼女が僕の手を握る。引っ張って、豊満なバストに手を置かれる。
「好きにしていいんだから」
 そう言われても、僕は何もしない。何も答えない。
「今日はどうしちゃったの? いつもみたいにしていいのに」
 いつもみたいに“して”、イって、終わる。ただそれだけの行為。何も残らない。虚しさだけが僕の胸を蝕むことになる。
「ほら、早くしてよ」
 そう言われても何もしない。ここに来店したのは僕の意志なのに。
 実働八時間でサービス残業四時間付きの仕事。毎日ノルマという生存競争に追われ続け、年下のイケメン上司に「あんたはデブの天パだから、女と付き合ったこともないし童貞だろ」とバカにされ、悔しくて繁華街を歩いた。キャッチにつかまって、引っ張られるがままに風俗店に入った。
 アヤという僕を担当する十九歳の女が言った。
「どういうプレーがしたい?」
 そんな彼女に、僕はこう言った。
「二十八歳にもなって恋をしたことがないんだ」
 すると、まがい物の恋愛を体験させられた。そういうプレーだ、ってわかっているのに、それなのに、誰とも付き合ったことのない僕は、彼女を大好きにならざるを得なかった。あとは本能に操作されるがまま、お金が出来る度に来店を繰り返す。六十分で二万だった。延長はいつもしない。時間内に彼女はきちんと終わらせてくれる。それだけが救いだった。
 初月は一回行っただけだった。次の月は二週に一回、次は一週間に一回。今は三日に一回、来店していた。
「僕、他の子を指名したことがないんだよ、君だけなんだよ」
 抱き合ったままそう言うと、
「指名? なんのこと言ってるの? あ、さては風俗なんかいってるのね?」
 などと言いアヤは演技をやめなかった。六十分丸々、あくまで僕の彼女でいる、という態でいつも物語が展開される。ここはそういう店なんだ。月に約十回来店するので、毎月二十万が吹き飛ぶ計算になる。安月給の上に独り暮らしをしているので、当然お金は工面できていなかった。消費者金融からの借り入れがいくらまで膨らんでいるのか、今はもうわからない。
「ねえアヤ、こんな仕事、もう辞めよう。僕と結婚してほしいんだ……」
「こんな仕事? あなたはいったい何を言ってるの?」騎上位でアヤが動きながら言う。僕のお腹がぷるぷると揺れる。「ブックブックで販売の仕事してるなんて素敵だね、って前は言ってたくせに」
 僕が勝手に決めた設定だった。古本屋、ブックブック。昔、そこで働いている子に少し惹かれていたんだ。
「結婚は少し待ってほしいなあ。もうちょっとお金が貯まったら、まずは同棲しましょうよ。焦っちゃだめ。私はあなたの元から離れないから」
 離れないのは僕の方だった。三年も足しげく通っているのだから。アヤは、息の長い風俗嬢だった。
「もう、やめてくれよ。こんな芝居、もういい」
「芝居? ねえ、ホントに今日はどうしちゃったの?」アヤは僕に顔を近づけ、舌を絡ませてくれる。「私のこと、好きじゃなくなったの?」
「好きだよ! だから、もう終わらせたいんだ。君もいつまでも風俗嬢を続けられるわけじゃないだろ……。君のこと、好きだというやつは他にいるのか?」
「そ、そんな人いないよ」
「そうだろ? きっと僕が一番長く君の元に通ってるはずだし、僕が一番に君を愛してるはずだ。僕は君が風俗嬢であることを受け入れられる。どんな君も心から愛せるんだ。だからお願いだよ、もう、この仕事やめよう。僕のお嫁になってくれよ……」
 アヤは、悲しげな表情をする。いつも僕が真剣に言葉を重ねれば、そんな顔をしてくれた。そうして、ただ黙って腰を動かす。いっそう喘ぎ声が強まり、濃厚に舌を絡ませてくれる。きっと本気で愛を感じているに違いない。「愛を感じてる」という言葉を耳にしたことがないが、そう信じていた。
 そうして、射精する。僕が部屋に入ってから五十八分後のことだった。いつも、その時間でイかされる。
「お願いだよアヤ、真剣に考えてほしい。今日の僕は違うよ。イったからって、考えは変わらないから。本気で君を愛してるんだ。店を辞めてくれ。僕と結婚してくれ。もし、次に来たときまだここに在籍していたら、もう僕は君の元に現れないから」
 六十分が経ち、僕は店を出た。

 と、一連の流れは、ほぼいつものやりとりだった。これがもはやお決まりのパターン。会社で後輩たちに馬鹿にされ、例のイケメン年下上司に恫喝され、三日経つと死にたくなってお店にふらりとやってくる。入店して、アヤを指名してしまっていた。
「すみませんお客様、アヤさんは先日お店を辞めてしまいました。もしよろしければ最近入店したみずみずしい十八歳、ミユコなどはいかがでしょうか――」
 黒服の言葉は、耳に入っていなかった。どうして辞めたんだ、と問いただした。
「そういったことはお答えできません、なにぶん、プライバシーに関わることなので」
 いくら訊いても黒服は答えてくれなかった。アヤだけが心の支えだったのに、唐突にその支柱が抜け落ちてしまったショックは計り知れない。お店の外に出てからしばらく一歩も動けなかった。
 いや――
 ふいに、頭を過ぎった。そうだ、アヤは風俗嬢を、辞めたんだ。
 次の瞬間には興奮と感動に身体が打ち震えた。店に戻り、黒服の両肩をがしりと掴んだ。
「おい頼む、アヤの連絡先を教えてくれ、なあ、お願いだよ」
「いえお客様、そのようなことはできかねます。いくらウチをごひいきにしてくださっている正哉様の頼みとはいえ、さすがに連絡先は――」
「いや、大丈夫なんだよ、彼女のほうもきっと僕の連絡先を知りたがっているに決まってる。だから、頼む。教えてくれたら、これからも通うから」
「ですから、それで問題が起こった場合訴えられるのはウチなんです、不可能なんです」
「そこをなんとか」
「無理です。正哉様、そんなことより今日はご利用なさいませんか? 特別サービスで割引いたしますよ」
 僕は引き下がらなかった。愛するアヤのためだったから。延々と食下がっていると、ついに黒服は折れてくれた。連絡先は教えてくれなかったが、携帯でアヤに連絡を取ってくれた。
 黒服が、受話口の向こうにいるアヤと話し合う。何かがまとまり、電話を切った。
「今月の二十五日、ご来店ください。アヤが給与を取りにやってきます。そのとき正哉様にお会いする、とのことです」
 ひゃっほうと両手を上げて喜んだ。そんな僕を見て黒服がふうっと溜め息を吐き出す。
 もし嫌なら会いたくないはず。会う、ということは、僕と一緒になってくれるも同然だった。

 約束の二十五日、クリーニングから返ってきたばかりのスーツを着て出向いた。黒服はわざわざスタッフルームで僕を待たせてくれた。若干性器を勃起させつつ待っていると、ふいに扉が開く。アヤが、来た。
「アヤ!」
 同時に席を立つ僕。傍に駆け寄り、抱きついた。それに対して彼女は何も抵抗をしない。間近で見つめあい、僕と結婚してくれるのかい? と訊いた。すると彼女はふっと目を伏せた。
「外、行こう」
 ここでは話しにくいのだろう。僕は外に出た。歓楽街なので、キャバ嬢風の女やホスト風の男などが道を歩いている。店の傍にも、金色の長髪を盛った明らかなホストが居た。そいつが僕の顔を見て笑う。
「お前が正哉なん?」
 ……名前を呼ばれた瞬間には、ある程度覚っていた。一応、僕は戸惑い気味にアヤとホストを交互に見遣る。
「三十一歳なんだって? あはは、すっげぇ老けてるうえにデブ! くっそ笑える」
 アヤがくすりと笑った。男が、彼女のくびれた腰に手を回して抱き寄せる。
「こいつとしかヤったことないんだって? 三年もここ通い続けたんだろ? あんたさあ、月にいくら稼いでんの? 実際借金まみれなんじゃねぇ? 爆笑もんだよ」
 そう言いつつホストは小さく笑う。
「おいアヤ、これはどういうことなんだ、この男はいったいなんなんだ」
 訊かずにはいられなかった。アヤは「彼氏」と答えた。
「だぁかぁらぁ、俺はお前の彼氏じゃねぇって。ただの同居人」
「ちがうもん、同棲だもん」
「お前さ、そこんとこちゃんと理解しててくれただろ? お前のおかげでナンバー1になれた。そのお礼で一緒に住むことにしたけどさ、それ以上は無し。特定の恋人持っちゃうと客に申し訳ねぇじゃん?」
 アヤが、口を尖らせた。可愛い。三年通い続けて、見たことのない顔だった。ホストは微笑み、アヤの頭をなでなでする。それから、公衆の面前にも拘わらずホストはアヤの股と胸に手をかけた。僕に見せ付けるようにペッティングする。アヤは完全にメスの表情だった。
「こいつの身体、結構気持ちよかっただろ。今度さ、別の店で働くことになってんだよ」
「ちょっと、それ言わないでよ」
「なんで? こいついなくなったらお前、俺の店に通ってくれなくなるじゃん」
「大丈夫、次のお店でもちゃんと稼ぐからぁ」
 アヤが、こちらに目を向けた。ホストから身体を離し、呆然としている僕の前に立つ。口をもごもごとさせる。
 プッ!
 顔に、唾が吐きつけられた。
「今まで通ってくれたご褒美。もう二度とあたしの前に顔を見せないで。気色悪い」
 げらげらとホストが笑う。アヤはホストに抱きつく。
「あたしわぁ、セイトだけのものだよ?」
「それは嬉しいけどさあ、ハゲちゃぴんデブのおっさんとくっ付いたほうがいんじゃね? たぶんお前のこと大事にしてくれるぞ」
「無理無理。こんなキモいのが毎日あたしに愛を迫ってくるんだよ?」アヤがこちらを向く。「お金がかかってても、もう嫌だもん。身震いしてゲロっちゃうよ」
 垂れてきた唾が僕の唇に到達した。それを、舐める。
「見ろよ、お前の唾おいしそうになめてるぞ」
「うわぁ気持ち悪い……。ねえ行こ、セイト。お給料出たし、今日はボトル入れたげる」
「さすが。ユミが居てくれてホントよかった。マジで大好き。これからも、俺のこと支えてくれよ。俺もお前を支え続けるから」
 ユミ、というのは本名だろうか。
「嬉しい。だったら結婚して」
「だぁからぁ、それは無理だってぇ――」
 ネオンの向こうに、二人が消えて行く。足の力が抜けて僕は地面に座り込んだ。涙が零れる。嗚咽まじりの泣き声で、悲しみを吐き出していた。肩を、とんとんと叩かれる。振り向くと黒服が立っていた。
「正哉様、ここで泣かれると他のお客様や通行人の皆様にご迷惑がかかります。どうでしょう? 女の子の胸で泣いてみてはいかがですか? サービスしますよ」
 ぴたり、と泣き声が止んでしまった。黒服は微笑みを浮かべている。優しいと思った。一瞬この男に惹かれそうになるが、同性なのでそんな情を抱くことはなく。
 じゅうはっさい、みずみずしい、ミユコ。その三つのワードを、僕は心の中で唱え続けていた。
「こらっ、だめ」
 黒服が入口を抜けていったあと、僕を叱るような幻聴が耳に届いた。そのあと左腕を引っ張られた。
 振り返ると、なぜかアヤが立っている。
「アヤ……?」
「他の人を指名しちゃ、だめ」
 意味がよくわからなかった。傍にホストはいない。今目の前にいるのは、どういう種類のアヤなのか。
「これから先、一生、あたし以外の風俗嬢を指名しないで。わかった? 正哉」
 付き合いの長い彼女の言うことなので、僕はおそるおそる首を縦に振る以外の選択肢を持てなかった。すると、アヤが僕の頭を撫でてくれる。
「あなたはとても純粋な人。あたしなんかよりも、こんな汚い街にいる娼婦たちよりも、もっと相応しい人がいるはずだよ」アヤは、親指で自分が在籍していた店を指す。「これでもあたし、ここでは売れてた方だからよくわかるの。正哉は自信が無いだけ。あなたは、あたしが相手にしてきた客の誰よりも、心が透き通った素敵な男性なんだから」
 ふっと彼女の顔が迫る。唇が重ねられた。ほんの二秒だった。もっと続けたかったのだが、僕が押し返すと同時に彼女が身を引いた。
 間近で目を合わせる。アヤの瞳が少し潤んでいるように見えた。今まで見たこともない、ぎこちない笑顔を浮かべている。
「さようなら」
 アヤは小さく手を振った。背中を見せて、今度こそ去っていった。
 黒服が入口から顔を出して「正哉様」と言う。僕は顔をそちらに向けて、手を振る。
「さようなら」
 背中を見せて、立ち去った。
 さようならアヤ。さようなら、風俗。



colorless Catトップ


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