プロローグ


 階段から足を踏み外した。
 とっさに手を伸ばすも、手すりに届かない。顔から落ちていく。
 まあ、怪我を負って傷が残ってもいいか。でも痛いのは嫌だな。
 ふっと真っ黒なもので視界が覆われ、身体がぶちあたった。自分を止めたものに必死で縋る。ぎゅっと抱き返す力。音が聞こえた。ごとごとごと。ぱらぱらぱら。
 状況をすぐに理解できなかった。温かいなにかに力強く包まれている。身体が硬直して動けないし、自分を止めた対象も動かない。頭のなかでは、段々と事態を把握していった。
 私は、人に転ぶのを止められた。ここには階段を下りる私と、階段を上っていた五十嵐(いがらし)(はるか)しかいなかった。
 つまり、いま、五十嵐の胸元に抱きとめられている。
 心臓が早鐘を打ちはじめ、ようやく嫌悪感が湧いてきた。意識しだすと、もうダメだ。鳥肌が立ち、めまいを感じる。どく、どく、と脈打つ命の音が聴こえた。自分の鼓動かと思ったが、聴こえるはずない。五十嵐も生き物なのか、などと当たり前のことを思考した。
 膠着状態だった。辛うじて耐えているが、少しでも動けば身体が震えだしそうだ。緊張、動揺、気持ちの悪さと吐き気。階段を転がりかけた恐怖心。死の意識がちらつく。
「ごめん」
 耳元で声がした。なぜ五十嵐は謝ったのか。
 床を踏みしめる感覚を得た。早く男の傍を離れなければ。私は逃げるように踊り場まで駆け上がった。五十嵐は階段を下りていく。私は吐き気を飲みこんだ。寒いはずなのに、額や首元が汗でぐっしょりと濡れている。ハンカチで拭いながら階下に目をやると、ピンク色の物体が散乱していた。五十嵐はそれを拾い集めている。
 いったいなにしてるんだ……あぁ、持っていた荷物を落としたんだ。いい気味――
 次の思考で、誰のせいなのかを理解してしまった。
 意を決し、階段を下りていく。言葉が胸を詰まらせた。悪かったとか、ありがとうとか、言いたくなかった。ただ黙って、嫌悪を感じつつ冊子を拾う。『性と生』だった。男子には今日配られる予定だったのか。
 苛立つ。口が渇く。妊娠について書かれたこの小さな冊子を見るだけでも、不快だった。そんなもののために規則的に生理がきて、毎月嫌な思いをしつづけなければいけない……子供を産む器官を取り除けるなら喜んで排除する。それでもし男みたいになってしまうのだとしても構わない。
 一分も経過していないだろうが、ずいぶんと長い間拾い集めていたように感じた。
 五十嵐が階段の方を見て、上っていく。私が落とした『性と生』があった。触ってほしくないのだが、声を出せない。私がグシャグシャに潰したそれを五十嵐が拾ってきて、ダンボールに突っこんでしまう。また冊子を取りだした――真新しいやつだ。
「必要だろ」
 私は無言で受け取らなかった。五十嵐は冊子をこちらに突きだす。不快感を押し殺しながら、取った。
 五十嵐が、そっと微笑んだ。
 めちゃくちゃ気色悪かった。五十嵐が好きな女の子たちなら、この微笑でイチコロなのだろうが、私にはおぞましさしか感じられない。顔のパーツが整っていて二重で瞳が魅力的でくるくるのクセっ毛が素敵だという評判をよく耳にするが、その全てを毛ほども理解できなかった。
「新品になってよかったな」
 ええ、と震えた声で返事をした。急に五十嵐の笑みが消えて無表情になった。ダンボールを持ち上げて、階段を上っていく。不気味な後姿を見送ると、新しい冊子を軽く握ってしまっていた。
 落ち着いたはずの鼓動が、また、早鐘を打っている。



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