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 親友の(みどり)が、大好きだった男子に告白して振られた。
 その一部始終を、視聴覚室の片隅で聞かされ、私は(ほう)けていた。真由子(まゆこ)が、翠の告白の言葉を喋る。翠の人格を考慮しつつ台詞と場景を思い浮かべていった。ファミレスからの帰り、腹を決めた翠が「五十嵐君に告白するから、二人きりになりたい」と真由子に耳打ちする。それから二人は夕闇に包まれる公園に入り、翠が胸の内を語っていく。
『わたし、五十嵐君のことを想ってるの。それはつまり、好きっていうことなんだけど……。いきなりこんなこと言われたら困るよね。でも五十嵐君がまだ恋とかしたくないのはわかってるから。付き合ってほしいなんて言わないよ、大丈夫。いままでどおり変わらず、友達でいてくれたら嬉しい。気持ちだけ伝えたかっただけなの』
 そんな慎ましい言葉を受けた相手の五十嵐(いがらし)(はるか)は、その場ではわかったように頷いた。それから一切メールが返ってこなくなったらしい。
「夜中の一時過ぎに翠からメール来た。どうしよう、五十嵐君に無視されてるかも、って。仕方ないから、その日一緒に遊びに行った男子に連絡して五十嵐君に聞いてくれるよう頼んだんだ。そしたらね、五十嵐君、翠からくるメッセージは全て受信拒否にして、着信も拒否に設定しちゃったんだってさ。もう一切連絡はとりたくないって」
 だから今日、翠は学校に来なかったんだ。
 教材を抱きしめる腕と手に力がこもった。保健体育の教科書が曲がっていく。脳天に濃厚な憎悪を含んだ血が上った。
「完全に切られちゃったみたいでさ、そのことすぐに翠に伝えてあげた」
「……黙っててあげればよかったのに。こっそり五十嵐を説得して、せめて連絡を取り合える状態に戻れば、あの子の傷は浅く済んだかもしれない」
 真由子は鼻で笑う。「愛ってさ、過保護だよね」
「友達想いって言ってほしいんだけど」
 真由子の顔は窓の外に向き、はあ、とどこか演技的な溜め息をついた。
「翠は神経が細すぎんのよ。愛みたいに面倒みきれない。……あたし、ついでに色々思ってること言っちゃった」
 唯一、五十嵐の連絡先を知っている翠が羨ましくて、時折のろける彼女を妬み、疎ましく感じていたこと。どこか甘えたような性格が気に障ること。それを聞いた私は、なんて非道いことを言ったのかと思ったけれど、「友達だから、胸の内を知ってほしかった」「翠のことが嫌いなわけじゃない」と、最後には彼女に伝えたらしい。
 私は否定するのをやめ、真由子の広いおでこに人差し指の腹をぶつけてやる。彼女は顔をしかめた。私は、小さく笑む。
「私のいないところでいつもあの子を見ていてくれてありがとう」
 真由子がふっと笑う。「愛は翠のお母さんみたい」
「私は妹が欲しかったから、姉が良い」
「じゃああたしが長女で愛が次女、翠は三女」
「私はすでにお姉ちゃんいるからだめ。末っ子は自由奔放でわがままってよくいうから、真由子が三女」
 えー、と彼女は反感の声をあげる。そこに被るように部屋の扉が開き、体育の女教師が入ってきた。まだチャイムは鳴っていないけれど、「席に着いてー」と声を張り上げた。
「今日はビデオでも観るの?」と女子生徒が教師に訊ねる。いつもなら保健体育は空き教室で授業を行うのだが、場所が視聴覚室ということはなにかを観るということだった。
「女性にとってとても大事なビデオを観ます。この前配ったピンク色の冊子はみんな持ってきてる? 授業で使うから教室に忘れた人はいまのうち取りに戻ってね」
 それは『性と生』などという安易なタイトルの、性や妊娠のことについて書かれた小さな冊子だった。その言葉を見聞きするだけで苛立ち、口の中が渇く。妊娠という機能は自分の身体から除去したい。そんなもののために規則的に生理が起きて、毎月嫌な思いをしつづけなければいけないから。子供を産む器官を取り除けるなら私は喜んで排除する。それでもし男みたいになってしまうのだとしても構わない。
 真由子は教科書を開いて冊子を確認する。私も挟んでいるだろうと、教科書を見る。……なにも挟まっていない。
 教室を出た。真由子はついてってあげると言ってくれたけれど、ありがとう、と言ってその優しさだけ受け取った。どうやら忘れたのは私だけらしい。
 ひと気のない廊下はまるで巨大な冷蔵庫のようだ。だいたい、なぜ女子だけが保健体育で別の教室に移動しなければならないのか。今日はビデオを観るから仕方ないけれど、いつもは空き教室まで移動しなければならなかった。元気しか取り柄のない男子が動けばいいのに。毎回、三階の私たちの教室から四階の空き教室まで移動するときはどこにも当てつけられない憤りが胸中に渦巻いていた。
 渡り廊下を抜け、第二校舎から第一校舎の二階に出る。寒い身体を温めようと、足早に三階まで上った。教室へ向かうと、気色の悪い男のはしゃぐ声。いまは男子しかいない。
 意識しだすと、いまからやろうとしていることがおそろしくなった。私にとって男しかいない教室に入ることはゴキブリの巣に突っ込むことと同義。想像するだけで拒絶反応が起きる。これ以上進むな、と脳が警告していた。だがいつまでもここにいるわけにはいかない。おそるおそる、ドアの小窓から覗く。
 様子がおかしかった。後ろの席には誰もいない。
 前の席を見ると、その意味に気づいて青ざめ、身が震えた。男子が全員、前に詰めるよう席を移動している。中央の前列にある私の席には男子が座っていた。話を聞きやすいように、先生が指示したんだ。私たちが教室に戻ってくるときにはすでに戻っていたので、知らなかった。
 ……最悪。私はあんなにも汚い席に、なにも知らず座っていたんだ。
 目の前が白くなりかけた。卒倒する手前、頭を振った。こんなことでいちいち辟易(へきえき)していたら、これから先の人生、絶対に生き抜いていけない。別にあの場に座っている男子には悪気もなにもないんだ。それくらいは理解できている。
 勇気を振り絞り教室のドアを開く。男子の目が一斉にこちらを向いた。虫けらが触覚を向けたみたいに思えた。なんだ忘れもんでもしたんか、と男の体育教師が言う。そうです、と返事をする。なんとか声は震えなかった。席に向かい、ついでに憎き男の姿を探す。だが五十嵐は見当たらない。席の前に立ち、隣の男子と喋りながらへらへらと笑っている坊主頭の生徒に「ちょっと退いて」と言った。つい言い方が高圧的になってしまう。それなのに、男子は私のことなど気に留めず会話を続けていた。ねえ、と声を振り絞って呼ぶ。するとアホ面を私に見せ、「なにぃ?」と言う。
「探し物をしたいから席を立って」
 坊主男が機敏に動きだす。あろうことか私の机の中に手を突っ込んだ。
「ちょっと!」
「物はなに? 俺が出すよ」
 私は拳を握りしめて、この軽率な男を心のなかでぶん殴っていた。
「自分で探すから退いてよ」
「遠慮するなってぇ」
 なんなんだこいつは、これだから男という生き物は大嫌いなんだ! 異性という間柄じゃなくとも、人の荷物を勝手に探るなんて頭おかしいんじゃないの?
「あ、なんか奥にあるよー」
 がさごそと音をたてながら取りだす。探していた例の冊子だった。だが、原型を留めていない。
「めっちゃぐちゃぐちゃ」男はへらへら笑う。
「うわぁお前ひっでぇ」
「俺じゃないよ、元々こうだったって」
 この坊主が乱暴に探したせいで潰れたのかもしれないし、私が教科書を仕舞う際に冊子を奥に押し込んで潰したのかもしれない。
「性と生? なんかエロ本みたいなタイトル」
 バッ、と奪い取った。あっ、と男は呟く。
 すぐに教室の出入り口を目指した。男たちが囁きだす。
 ──なに、エロ本だったの?
 ──嘘だろ、女子が学校にエロ本って。
 ──漣さんってそういうキャラだったんだ。
 屈辱だった。涙が溢れていた。なんでこんなことで私が泣かなければいけないのか。そう思うと余計、プライドが傷ついていく。教室を飛びだすと、更に冊子をぐちゃぐちゃに握り潰しながら廊下を走った。階段を下っていく。足音が聞こえた。誰かが上ってきている。私は踊り場を折り返す。
 肩がすくんだ。教室にいなかった五十嵐がいる。小さなダンボールを両手で抱えていた。
 彼を見ていると嫌悪感しか湧かない。顔のパーツが整っていて二重で瞳が魅力的でくるくるのクセっ毛が素敵だという評判を耳にするが、その全てを毛ほども理解できそうになかった。
 私はどこにもぶつけられない憤りを瞳に宿し、五十嵐を睨みつけた。むかついたとき壁を殴るのと同じ。五十嵐は、眉根を寄せた。どう思おうが私の知ったことではない。元から恨む理由はあったのだし。
 そうして、私は隅のほうへと寄った。なるべく離れてすれ違いたかった。顔を背けて階段を下っていく。
 ガクン、となにかずれた。意図しない動きが身に起きた。次の瞬間には、足を踏み外したんだと知った。
 あ、やばいかも。そんなふうに冷静に考えた。完全に身体が前方に傾いている。まだ階段は半分以上残っていた。手すりもないし、とっさに壁に向かって手を伸ばすも、身体が傾きすぎて微かに触れただけだった。
 顔面から、落ちていく。一刹那の出来事なのだが、顔に大怪我を負ってもまあいいか、でも痛いのは嫌だな、という思考にまで達した。
 ふっと、真っ黒いもので視界が覆われる。そこにぶちあたって身体が止まった。けれど転んでしまうという恐怖は続いていて、私は自分を止めたものに必死で縋った。ぎゅっと抱き返す力を感じる。私が落ちていかないよう、その力はクッションのように小さく上下した。そのまま静止する。音が聞こえた。ごとごとごと。ぱらぱらぱら。
 状況をすぐに理解できなかった。ただ、このクソ寒い中で、温かいなにかに自分は力強く包まれている。身体が硬直して動けなかった。自分を止めている対象も動かない。頭のなかでは、段々とこの事態を把握していった。
 私は、人に転ぶのを止められたんだ。ここには私と五十嵐しかいない。つまり、いま、五十嵐に抱きとめられている。私は男の胸元に、自分から抱き縋って顔を押し付けている。
 心臓が早鐘を打ち始める。ようやく嫌悪感が湧いてきた。意識しだすと、もうダメだ。鳥肌が立ち、めまいを感じる。それなのに動けない。どく、どく、と脈打つ命の音が聴こえる。なに動揺してるんだ、と思ったがよく考えると自分の鼓動が聴こえるはずなかった。五十嵐の胸から発するものだった。最後に心音を聴いたのはいつだっただろう? いや、生まれてから一度もないのかもしれない。鼓動を聞いていると、こいつも生きているのか、などと当たり前のことを思考した。
 五十嵐は、動かない。私も動けず、膠着状態に陥っていた。いまは辛うじて耐えているが、少しでも動けば身体が震えだしそうだ。緊張、動揺、気持ちの悪さと吐き気。階段を転がりかけた恐怖心。大げさだろうが死に対する意識もあった。それら様々な感情が、私の身体を蝕んでいる。
「ごめん」
 耳元で声が発生した。なぜ五十嵐は謝ったのか。わからない。
 ふと床を踏みしめる感覚を得る。身体に力が入りだした。すると、早くこの男の傍を離れなければという思考で脳内が満たされる。私が転ばないよう、五十嵐が力をこめて体勢を戻してくれる。直立になると、私は逃げるように階段を駆け上がった。
 踊り場で振り返ってみる。五十嵐は私が逃げたことを全く気に留めるでもなく、階段を下りていく。私は吐き気を飲み込んだ。寒いはずなのに、額や首元が汗でぐっしょりと濡れている。ハンカチを出して拭いながら階下に目をやると、ピンク色の物体が散乱していた。五十嵐はそれを拾い集める。
 あいつはいったいなにをしているんだ。あぁ、そうか、持っていた荷物を落としたんだ。いい気味。笑える──
 だが次の思考で、誰のせいでそうなったのかということを理解してしまった。
 意を決して階段を下りていく。お礼の言葉が胸を詰まらせていた。彼が瞬時に動いて私を止めてくれたのに、なにも言えない。ただ黙って、気分の悪さと若干の嫌悪を感じつつ床に散らばっている冊子を拾った。それは『性と生』だった。男子には今日配られる予定だったらしい。この男はおそらく保健体育の係なのだろう。
 床に散らばったものを全てダンボールに入れた。一分も経過していないだろうが、私は様々な感情を堪えつつ手伝ったので、随分と長い間拾い集めていたように感じた。
 ふと五十嵐が階段の方を見る。そこに、私が落としたっきりの冊子があった。奴は無言で階段を上る。触ってほしくなかったので止めようとしたのだが、声を出せなかった。五十嵐はくしゃくしゃになっている『性と生』を拾い、下りてくる。だが私の方へ来なかった。ダンボールにそれを突っ込んでしまう。私のものだというのがわかっていないのか。動向をみていると、仕舞ったはずの冊子を取りだした──いや、真新しいやつだ。それを持って五十嵐が私の目の前に立つ。
 冊子を、こちらに差しだしてきた。私は戸惑いつつ「んっ?」という音を出す。
「必要だろ」
 う、うん。そう返事ができた。五十嵐は更に冊子を突きだしてくる。不快感を押し殺しながらそれを手に取った。
 五十嵐が、そっと微笑んだ。
 それがめちゃくちゃ気色悪かった。いや、こいつ自身に悪気はないのだろうが、男から笑顔を向けられるのは耐え難いものがあった。顔がひきつりそうになる。そんな顔をしてはいけない、と、なんとかぎこちない笑顔を返した。本当はもう泣きそうだ。
「新品になってよかったな」
 ええ、と微かに震えた声で返事をした。急に五十嵐の笑みが消える。無表情になった。ダンボールを持ち上げて、階段を上っていく。不気味な後姿を見送ると、新しい冊子を軽く握ってしまっていた。落ち着いたはずの鼓動が、また、早鐘を打っている。

「漣さん、高野真由子さん」
 一時間目の保健体育が終わって教室に戻ると、副担任の椙村千穂先生に呼ばれた。廊下に出ると、寒くて真由子が無理やり私にくっついてくる。先生の表情は真剣だった。
「翠さんのこと知らない? 家に電話しても連絡がつかないの」
 私と真由子は顔を見合わせた。先に私が、千穂先生に視線を戻す。
「欠席の連絡はなかったんですか?」
 ええ、と先生は言う。……保健体育の授業でビデオを観ているとき、私はこっそり翠とメッセージのやり取りをしていた。私と翠の仲なのに、なにも相談せずいきなり五十嵐に告白したことを謝り、今日は休む、と言っていた。
「翠の携帯に連絡はしたんですか?」
 先生は首を振る。「生徒の携帯の連絡先は知らないから」
 ポケットに手を突っ込む。「携帯使っていいですか?」
 先生は頷いた。電源は常にオフにしていなければならないのだが、それを守る生徒というのはほとんどいない。先生は咎めないと思うが、一応離れつつ携帯を出し、翠に電話を掛けた。
 呼びだし音が続く。なかなか応答しない。私は、彼女の心情を想像していく。思った以上に傷ついているんだ。
「もしもし」
 翠の声が聞こえた。だが外にいるためか風の音がうるさい。
「翠、おはよう。いまベランダにいるの?」
 返事を待つも、なにも言ってくれなかった。
「学校は、休むんだよね? 連絡しないと。千穂先生が心配してたよ」
 風を切るような音が続く。さー、という違う音も聴こえて、どうやらそれは車が通過していく音のようだった。ザー、という音も微かに聞こえる。雨音に似ているのだが、外は雪も降っておらず、雲っているだけだった。
「ちょっと、代わってもらっていい?」先生が傍に来ていた。
「翠、先生に代わっていい?」
「ダメ。誰にも代わらないで」
「千穂先生だよ?」
「千穂先生でもだめ。代わるなら、切る」
 送話口を手で塞ぎ、「代わりたくないって」と言った。そう、と先生は少し悲しげな顔をした。
「ねえ翠、私が力になれるならなんでも言ってよ。今日はもう学校これないだろうけどさ、帰りに寄っていい?」
 彼女は無言だった。車の通過する音が連続する。
「いまどこにいるの? 家じゃないよね? 寒くない?」
 返事をしてくれない。私は徹底的にこの無言に寄り添う気でいた。翠にだけは、なにがあっても優しく尽くしたい。彼女がいなければ私の人生はめちゃくちゃなままだったから。私を救ってくれた翠に冷たくすることなど、できるはずもなかった。
「私はいつだって翠の味方だよ。居場所を教えて。いまから迎えにいくよ。もちろん翠が嫌だって言ったら、行けないけど」
 風の音に紛れて、(はな)をすする音が聞こえた。
「温かい飲み物買ってってあげる。翠、ミルクティ好きだよね」
「そんなの、いいよ」
「ううん、私がそうしたいんだから。いつも翠の家に行くと、あなたはおもてなししてくれるもん。飲み物おごるくらいしなきゃ、バチがあたりそうでこわい」
 誘うように笑ってみせる。翠は全く笑わなかった。洟をすする音が続く。
 ずっと、引っかかり続けていた事柄があった。もしそれがこの状況の理由なら……。
「どこにいるの? 教えて」
 私に身を委ねてほしかった。受け入れてもらうため、一切の棘を排除した柔らかい口調で言葉を口にしていた。
「はし」
 二文字、聞こえたのだが、意味がわからない。他の文字は風と車の音によって彼方に吹き飛ばされていったのだろうか。ハシ? と訊き返した。
海馬(かいま)大橋」
 息を呑みかけた。動揺したと覚られたくなかったので抑えた。こんな冬空の下、なぜ橋にいるのか。深刻な状況だと確信した。
 取り乱してはいけない。あくまで私は、彼女の行いのなにもかもを(ゆる)しているふうでなければ。そういった余裕を彼女に感じてもらうことが重要だった。
「じゃあ、そこに行くからね」
「だめ、来ないで」
「えー、もう歩きだしてるよ」本当はまだ突っ立っていた。「ちゃんとそこまで行くから、待っててよ」
 翠は黙る。待ってて、ともう一度言ったが、電話を切られた。
 翠を迎えに行くと告げ、私一人学校を出た。千穂先生は私に任せると言ってくれた。
 学校から橋までは二キロほどの距離がある。足が雪にとらわれて思うように走れない。転ばぬよう、全力で走り続けるが、ついに一度転倒した。運動神経の悪い自分が無様だった。
 坂が見え、上っていくと、全長七百メートルを越す長い橋が視界に入った。数メートルおきに整然と堰柱が並んでいる。可動堰で、各堰柱の頭にはゲートの操作室が突きだしていた。
 橋の入口の脇に、翠の自転車があった。先を見通しても人の姿は見当たらない。注意深く辺りを見回しながら進んだ。橋の上でも水の流れる音がよく聞こえる。水門を抜けて上流側から下流へ水が落ちているので飛沫が舞い上がり、鉄のにおいを含む湿った空気が漂っていた。
 海馬大橋は歩道が狭く、車道との境には縁石があるだけなので、大型のトラックが通過するだけで怖くて身震いが起きる。眼下に広がる川面を確認しつつ、進む。堰柱にはそれぞれ番号が振り分けられていた。橋の鉄柵は私の胸の高さもない。これを乗り越えて堰柱に備え付けられている鉄板の通路を進むのは簡単なことだった。
 三番の堰柱を過ぎて、四番に目を向ける。コンクリートの柱の影に、人の姿が見えた。いる位置がおかしい。外側に背中が飛びだしていた。
 橋の柵を越えて堰柱の中に入る。青いペンキで塗られた鉄板を進んだ。彼女が私の姿に気づく。
「なにしてるの」
 声をかけると、翠の瞳孔が開く。目が大きいので瞳の動きがよくわかった。それから、さっと顔を背けてしまう。翠は柵の向こう側にいて、手すりを掴んで鉄板に足先を引っ掛けているだけだった。落ちようとしたときにいつでも身体を掴めるよう、彼女の目の前に立つ。
「こんなことして、バカだって思ってるでしょ」
 首を振った。「思うわけない。翠がどれだけ五十嵐に対して本気だったか、私は誰よりも理解してたんだから」
 翠は俯く。ミドルヘアが風で靡いていた。
「制服には着替えたんだね」
 紺のセーラー服を着用していた。コートは羽織っていない。私はコートを脱ぐ。冷気が肌に刺すが、そこはもう堪えるしかない。
「これ着て。ポケットにちゃんとミルクティあるから」
 一瞬、翠の瞳に光が宿った。可愛くて、私はつい微笑んでしまう。
「ほら、こっち来てよ。着せてあげるから」
 翠は動いてくれない。
「制服に着替えて、行けなかった。五十嵐君の顔、見れない。まゆちゃんにも会えないと思った。色々言われて、迷惑かけてたんだなぁってわかった」
 私は微かに白い息を吐いた。真由子のことを少しだけ恨んだ。
「真由子のことは気にしなくていいって。翠が学校に連絡も入れてないって聞いて、心配そうな顔してたよ。真由子はさ、ほら、O型だから世話焼きなんだよ。それでたまにそういう自分に疲れちゃうような子だから。翠を嫌いなわけじゃないって、そう言ったんでしょ? 世話が焼けるあなたのこと、大切に想ってるはずだよ」
 翠は俯く。髪で顔が覆われた。
「まゆちゃんも五十嵐君のこと好きだったんだよね。わたしそれわかってるのに、のろけたようなこと平気で言ってた。自分は性悪な女だってわかったんだ」
「だからって罪悪感覚えてこんなことする必要ないでしょ。真由子がこれを知ったらショック受けちゃうよ」
 翠の表情に不安の色が広がる。
「あ、翠がこの橋にいることは誰にも言ってないよ。大丈夫。真由子に、元気な姿を見せてあげよう。千穂先生もすごく心配してるし。まあ、今日は帰って休んだほうがいいかもね。家でゆっくり温まったほうがいいよ。ほら、こっちにおいで」
 手招きする。翠は迷うように、こちらの足場と私を交互に見た。
「本当はね、わたしに勇気があったらもう死んでるの」
「私も、勇気があったら死んでた」
 翠は首を振った。「昨日、飛び降りようとした。家のベランダから。やっぱり怖くて無理だった。飛び降りたらきっと痛いんだろうな、って。でも川に飛び込めば、そんなことないのかなって」
 ふっと笑ってみせる。「飛び降りって、成功すればそこで死ぬんだからなんの苦しみも痛みもないんだよ」
「あ、そっか……」
 こういう天然なところがある翠が、私にとっては愛おしかった。
「翠、泳げないからそれに任せて死のうとしたんでしょ。そっちの方が苦しいよ?」
 彼女は頷く。「きっとわたし、もがいて生きようとしちゃう。冷たい川で窒息するの想像したら、やっぱり無理だった。わたし、これからどうしたらいいのかな」
「どうもしなくていいよ、五十嵐のことは忘れよう」
「無理だよ」言い方が強かった。「愛ちゃんはそういうことわからないだろうけど、本当に好きだったんだ」
「私だってそれくらいの気持ちは理解できるよ」
 ふっと、白いなにかが吹き付けてきた。雪だ。ずっと止んでいたのに。上空を見上げると、まるで灰が降ってきているみたいに見えた。
「雪降ってきちゃったね。もう帰ろう」
「愛ちゃん一人で帰って」
 私は口を尖らせる。じっと瞳を見つめてやる。頭には多くの言葉が思い浮かび、その一つ一つを、言うべきか、言わないべきかと取捨(しゅしゃ)選択していく。けれど最終的にはそんなふうに気を遣うことも意味がないように思えてしまった。
「わたし、もうちょっとここで色々悩みたいから。愛ちゃんは帰ってよ」
 こんな状態の彼女を一人になんてできない。
「私がここを去ってから飛び降りるかもしれない?」
 翠は俯く。「わからないよ。だいたいわたしが自分の命をどうしようが勝手じゃん」
 一瞬、翠の頬をはたく想像をした。実際にそのようなことができるはずない。するわけない。私は素早く手を伸ばし、柵を挟んで彼女を抱きしめた。
「愛ちゃん?」
 私はどうしようもなく無力だ。この子の寂しさに、これ以上寄り添えないことが、悲しかった。だからもう、一方的なわがままを口にするしか、言えることがない。
「ふざけないでよ」
「ふざけてなんかないよ」
「ふざけてるよ! あなたがいなくなったら私はどうすればいいの? 私がいつも学校でどんな思いしてるか、わかってるでしょ? 翠がいないと不安なの。五十嵐に振られて死ぬくらいなら、いっそ私と付き合ってよ」
 言ったあとで、馬鹿なことを口走ったと後悔した。
「わたしと愛ちゃんが付き合うの?」
「……五十嵐には、あなたはもったいないよ。翠は私の全部を知ってるでしょ? もし私が男になれたら、絶対翠と付き合いたいと思うもん」
 いつも親身になって話を聞いてくれる。突然家に押し掛けても嫌な顔せずおもてなししてくれる。人のことを、ちゃんと理解していてくれる。私が最低な状況に陥って、本気で死んでしまおうか悩んで鬱状態になって塞ぎ込み続けていたときも、翠は支えてくれた。
「私の心の全ては翠にしか話せなかった。だから、もしどうしても死にたいっていうんだったら」
 彼女から身体を離し、コートを青い鉄柵に引っ掛けて、おそるおそる柵を跨ぐ。翠は私の行為を止めようとしてきた。構うことなく隣に移動する。鉄板に足先を引っ掛け、手すりを握る。
「好きな人に死なれるのは辛いから。私も一緒に落ちるよ。翠がいなくなったら、きっとまともに生きていけないだろうし」
 翠の表情が歪む。「冗談でしょ? 飛び降りさせないためにこんなことするんだ」
 首を振る。柵から左手を離した。「なんなら、私が先にいくよ」
 翠は大きく首を振った。視線を下に向けて、身を竦ませている。
 翠は迷っているが、仮に本当に飛んでも良かった。人生に未練がない。私には生きる希望が皆無なわけだし。ここで死んでしまうほうが楽な気がした。
 愛ちゃん、と名を呼ばれる。「なに?」と返事をした。翠も、右手を離す。私の左手を掴んでくれた。
「わたし、死ぬ前に愛ちゃんの彼女になってみたい」
 思わずふっと笑ってしまった。「それは冗談じゃなくって?」
「愛ちゃんは冗談で言ったの?」
 首を振った。「本気だったよ。私は生涯、男と付き合えないからさ。女の子と付き合うならありかな、って思ってた」
 翠は俯く。少しためらいを見せたが、次に顔をあげたときはいつもの朗らかな笑顔になっていた。
「だったら、わたしと付き合って」
 身体が浮き上がるような感じがした。同性なのに本気で喜んでしまう自分がいた。
「本当に?」
 本当に、と彼女が返す。「でも、五十嵐君のことは好きなままでいてもいい?」
 ふっと笑ってみせる。「二股掛けられてるみたい」
「やっぱり嫌?」
「ううん。元々私は翠の恋を応援してたじゃん。翠は翠のままでいてくれたら、それでいいから」
 彼女は大きな黒目を輝かせた。「ありがとう」
 また一段と愛らしさを感じて、笑みが零れてしまう。
「私たちの関係はみんなに秘密ね。真由子にも言っちゃだめ」
 うん、と翠は微笑みながら返事をし、足を上げて向こう側に戻りだす。内心、安堵していた。
「ずっとここに立ってたから疲れちゃった」
「ずっと? 私と電話してたときも?」
「うん。手すりにしがみつきながら通話してた」翠が柵を跨ぎきる。「バカだよね」
 ううん、と私は言う。跨ごうと、足を上げる。
 バタン。なにかが閉まる音が聞こえた。振り向くと、男がこちらに来ていた。車道に車が停まっている。おい、そこの子なにしてる。そう呼びかけられた。察するに二十代くらいで、髪が短く、目つきが鋭そうにみえる。私たちのいる場所は物陰になっていてわかりにくかったのだが、ついに見つかった。
「どうしよ愛ちゃん」
 男が駆け寄ってくる。風貌がどことなく見知った人間に似ていた。面影を感じると、恐怖を覚える。逃げだしたくなった。出口を塞がれるのではと危惧(きぐ)する。堰柱の中の狭い通路からしか歩道には戻れないので、そこに立たれたくなかった。一刻も早く柵を越えてここを出なければ、と足を動かす。
 ガクン、と、なにかずれた。意図しない動きが起こった。
 足元の感覚が消えている。踏み外した。柵を跨ごうとした右足が滑り、全体重が両手にかかる。勢いもあったので、腕の力だけでは身体を支えられるはずなかった。手が、離れてしまう。柵から完全に身体が離れた。
 終わった、と思った。翠の叫ぶ声が耳に入る。身体が空を切っていく。たくさんのことが頭を過ぎった。水温のこと。岸まで泳げるかということ。冷たいが、制服を脱ぎ捨てて泳げば助かるだろうか。裸を人に見られる。それは想像するだけで耐えがたかった。いっそ、このまま自殺してしまうか。そうも過ぎった。けれど翠を一人にはしたくない。せっかくカップルになれたのに。
 身体を捻る余裕はあった。水面に顔が向いたとき、着水は目前だった。
 最後に思考したのは、黒い物体だった。それの暖かさや、しっかりと自分を受け止めてくれた感覚を、どうしてか思いだした。あんなものを求めたくはないのだけど、いくら否定しても、あいつの胸におさまる自分の姿を払拭できなかった。
 ふっと、なにかが目の前を横切る。
 真っ黒いもので視界が覆われた。身体がそこで止まり、ドン、となにかを打ち付ける音がした。
「はっ?」と、傍で低い声がした。それがきちんと聞こえていたのに、落ちて水中に沈んで溺れる、という恐怖があとからやってきた。視界が暗くて、いまどうなっているのか定かではないが、なにかに抱きつくことができた。ぎゅっと縋る。それはなぜか温もりがあった。良い匂いもした。助かりたい一心で、とにかく、必死で抱擁の力を加える。
「おい……」
 ぴたり、と私の動きが止まった。
「なんだよ、なにが起きた、どこから出てきたんだよ」
 なぜこんな幻聴が聞こえるのかと、真剣に訝った。よく思い返せ、聞き覚えがある。いま、ここは川の中なのだろうか。あまりの出来事に私の頭はおかしくなって、異常な状態に陥っているのか。目の前のもののにおいのほかに、よく嗅いでみればドブのようなにおいもする。だが水中にいるという感覚は全くない。
 それでも生き延びるためにクロールを始めた。空間を掻く。腕がなにかにぶつかる。それを、触る。ぷにぷにと柔らかかった。もう一方の手で、更に上の方を触る。藻のようなものがあったが、乾いていた。
「おい、なにするんだ……お前、漣だろ」
 震えた声で名を呼ばれ、はっとして顔を上げた。
 目の前に、人の顔がある。
 男の顔。
 どうみても、五十嵐の顔。
 頬と髪を、私は素手で触っている。
 え、え、え、え──「え」を連発した。水の中じゃなくて、薄暗い空間の中に自分はいる。なにが、起きたのか。全くもって理解できなくて、無理やり解釈をしたかったのだけど、その案すら思い浮かばない。なにか、いまの状況を知るための手がかりはないかと、周りを見る。
 ふと目に付いた。真っ白い枠の中にある、見慣れた茶色の物体。……人間の排泄物だった。
 五十嵐の顔を、見る。なにかを喋っていた。もう一度、下を向く。やっぱり汚物がある。そういえば、とても狭い空間に自分がいることに気づいた。
 いま、私はどこにいるのか。覚った瞬間、思考がはじけた。



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