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「漣さん、高野真由子さん」
 保健体育が終わって教室に戻ると、副担任の椙村千穂先生に呼ばれた。廊下に出ると、寒いのか真由子が無理やりくっついてくる。先生の表情は真剣だった。
「翠さんのこと知らない? 家に電話しても連絡がつかないの」
 私と真由子は顔を見合わせた。先に私が、千穂先生に視線を戻す。
「欠席の連絡はなかったんですか?」
 ええ、と先生は言う。……保健体育の授業でビデオを観ているとき、私はこっそり翠とメッセージのやり取りをしていた。私と翠の仲なのに、なにも相談せずいきなり五十嵐に告白したことを謝り、今日は休む、と言っていた。
「携帯使っていいですか?」
 先生は頷いた。翠に電話を掛ける。呼びだし音が続く。応答しない。私は、彼女の心情を想像していく。思った以上に、ひどく傷ついているんだ。
「もしもし」
 翠の声が聞こえた。外にいるためか風の音がうるさい。
「翠、おはよう。いまベランダにいるの?」
 返事を待つも、なにも言ってくれなかった。
「学校は、休むんだよね? 連絡しないと。千穂先生が心配してたよ」
 風を切るような音が続く。さー、という違う音も聴こえて、どうやら車が通過していく音のようだった。ザー、という音も微かに聞こえる。雨音に似ているのだが、外は雪も降っておらず、雲っているだけだった。
「ちょっと、代わってもらっていい?」先生が傍に来ていた。
「翠、先生に代わっていい?」
「ダメ。誰にも代わらないで」
「千穂先生だよ?」
「千穂先生でもだめ。代わるなら、切る」
 送話口を手で塞ぎ、「代わりたくないって」と言った。そう、と先生は悲しげな顔をした。
「私が力になれるならなんでも言ってよ。今日はもう学校これないだろうけどさ、帰りに寄っていい?」
 彼女は無言だった。車の通過する音が連続する。
「いまどこにいるの? 家じゃないよね? 寒くない?」
 返事をしてくれない。私は徹底的にこの無言に寄り添う気でいた。翠にだけは、なにがあっても優しく尽くしたい。彼女がいなければ私の人生はめちゃくちゃなままだったから。私を救ってくれた翠に冷たくすることなど、できるはずもなかった。
「私はいつだって翠の味方だよ。居場所を教えて。いまから迎えにいくから。もちろん翠が嫌だって言ったら、行けないけど」
 風の音に紛れて、(はな)をすする音が聞こえた。
「温かい飲み物買ってってあげる。翠の好きなミルクティでいい?」
「そんなの、いいよ」
「だめ、私がそうしたいんだから。いつも翠の家に行くと、あなたはおもてなししてくれるもん。飲み物おごるくらいしなきゃ、バチがあたりそうでこわい」
 誘うように笑ってみせる。翠は全く笑わなかった。洟をすする音が続く。
「……どこにいるの? 教えて」
 身を委ねてもらうため、一切の棘を排除した柔らかい声音で言葉を口にしていた。
「はし」
 意味がわからない。他の文字は風と車の音によって彼方に吹き飛ばされていったのだろうか。ハシ? と訊き返した。
海馬(かいま)大橋」
 息を呑みかけた。動揺したと覚られたくなかったので抑えた。冬空の下、なぜ橋にいるのか……。取り乱してはいけない。あくまで私は、彼女の行いのなにもかもを(ゆる)しているふうでなければ。
「じゃあ、そこに行くからね」
「だめ、来ないで」
「もう歩きだしてる。ちゃんと待っててよ」
 翠は黙る。待ってて、ともう一度言ったが、電話を切られた。
 翠を迎えに行くと告げ、一人で学校を出た。千穂先生は私に任せると言ってくれた。
 学校から橋までは二キロほどの距離がある。足が雪にとらわれて思うように走れない。転ばぬよう、全力で走り続けるが、ついに一度転倒した。運動神経の悪い自分が無様だった。
 坂が見え、上っていくと、全長七百メートルを越す長い橋が視界に入った。数メートルおきに整然と堰柱が並んでいる。可動堰で、各堰柱の頭にはゲートの操作室が突きだしていた。
 橋の入口の脇に、翠の自転車があった。先を見通しても人の姿は見当たらない。注意深く辺りを見回しながら進んだ。橋の上でも水の流れる音がよく聞こえる。水門を抜けて上流側から下流へ水が落ちているので飛沫が舞い上がり、鉄のにおいを含む湿った空気が漂っていた。
 海馬大橋は歩道が狭く、車道との境には縁石があるだけなので、大型のトラックが通過するだけで怖くて身震いが起きる。眼下に広がる川面を確認しつつ、進む。堰柱にはそれぞれ番号が振り分けられていた。橋の鉄柵は私の胸の高さもない。これを乗り越えて堰柱に備え付けられている鉄板の通路を進むのは簡単なことだった。
 三番の堰柱を過ぎて、四番に目を向ける。コンクリートの柱の影に、人の姿が見えた。いる位置がおかしい。外側に背中が飛びだしていた。
 橋の柵を越えて堰柱の中に入る。青いペンキで塗られた鉄板を進んだ。彼女が私の姿に気づく。
「なにしてるの」
 翠が目を見開く。黒い瞳がはっきりと見える。翠は柵の向こう側にいて、手すりを掴んで鉄板に足先を引っ掛けているだけだった。落ちようとしたときにいつでも身体を掴めるよう、彼女の目の前に立つ。
「こんなことして、バカだって思ってるでしょ」
 首を振った。「思うわけない。翠がどれだけ五十嵐に対して本気だったか、私は誰よりも理解してたんだから」
 翠は俯く。ミドルヘアが風で靡いていた。
「制服には着替えたんだね」
 紺のセーラー服を着用していた。コートは羽織っていない。私はコートを脱ぐ。冷気が肌に刺す。
「これ着て。ポケットにミルクティあるから」
 一瞬、翠の瞳に光が宿った。可愛くて、私はつい微笑んでしまう。
「ほら、こっち来てよ。着せてあげるから」
「……制服に着替えて、行けなかった。五十嵐君の顔、見れない。まゆちゃんにも会えないと思った。色々言われて、迷惑かけてたんだなぁってわかった」
「真由子のことは気にしなくていいって。翠が学校に連絡も入れてないって聞いて、心配そうな顔してたよ。真由子はさ、ほら、O型だから世話焼きなんだよ。たまにそういう自分に疲れちゃうような子だから。翠を嫌いなわけじゃないって、そう言ったんでしょ? 世話が焼けるあなたのこと、大切に想ってるはずだよ」
 翠は俯く。髪で顔が覆われた。
「まゆちゃんも五十嵐君のこと好きだったんだよね。それわかってるのに、のろけたようなこと平気で言ってた。自分は性悪な女だってわかったんだ」
「だからってこんなことする必要ないでしょ。真由子が知ったらショック受けちゃうよ──あ、翠がこの橋にいることは誰にも言ってないよ。真由子に、元気な姿を見せてあげよう。千穂先生もすごく心配してるし。まあ、今日は帰って休んだほうがいいかもね。ほら、おいで」
「……本当はね、わたしに勇気があったらもう死んでるの」
「私も、勇気があったら死んでた」
 翠は首を振った。「昨日、飛び降りようとした。家のベランダから。やっぱり怖くて無理だった。飛び降りたらきっと痛いんだろうな、って。でも川に飛び込めば、そんなことないのかなって」
「飛び降りって、成功すればそこで死ぬんだからなんの苦しみも痛みもないんだよ」
「あ、そっか……」
 ふっと笑ってみせる。「翠、泳げないからそれに任せて死のうとしたんでしょ。そっちの方が苦しいよ?」
 彼女は頷く。「きっとわたし、もがいて生きようとしちゃう。冷たい川で窒息するの想像したら、やっぱり無理だった。わたし、これからどうしたらいいのかな」
「どうもしなくていいよ、五十嵐のことは忘れよう」
「無理だよ」言い方が強かった。「愛ちゃんはそういうことわからないだろうけど、本当に好きだったんだ」
「私だってそれくらいの気持ちは理解できるよ」
 白いなにかが吹き付けてきた。雪だ。上空を見上げると、まるで灰が降ってきているみたいに見えた。
「愛ちゃん、帰って。わたし、もうちょっとここで色々悩みたいから」
 私は口を尖らせる。じっと瞳を見つめてやる。頭には多くの言葉が思い浮かび、その一つ一つを、言うべきか、言わないべきかと取捨(しゅしゃ)選択していく。けれど最終的にはそんなふうに気を遣うことも意味がないように思えてしまった。
「私がここを去ってから飛び降りるかもしれない?」
「わからないよ。だいたいわたしが自分の命をどうしようが勝手じゃん」
 一瞬、翠の頬をはたく想像をした。私は素早く手を伸ばし、柵を挟んで彼女を抱きしめた。
「愛ちゃん?」
 私は無力だ。この子の寂しさに、これ以上寄り添えないことが、悲しかった。だからもう、一方的なわがままを口にするしか、言えることがない。
「ふざけないでよ」
「ふざけてなんかないよ」
「ふざけてるよ! あなたがいなくなったら私はどうすればいいの? 私がいつも学校でどんな思いしてるか、わかってるでしょ? 翠がいないと不安なの。五十嵐に振られて死ぬくらいなら、いっそ私と付き合ってよ」
 言ったあとで、馬鹿なことを口走ったと後悔した。
「わたしと愛ちゃんが付き合うの?」
「……五十嵐には、あなたはもったいないよ。翠は私の全部を知ってるでしょ? もし私が男になれたら、絶対翠と付き合いたいもん」
 いつも親身になって話を聞いてくれる。突然家に押し掛けても嫌な顔せずおもてなししてくれる。私が最低な状況に陥って、本気で死んでしまおうか悩んで鬱状態になって塞ぎ込み続けていたときも、翠はずっと支えてくれた。
「私の心の全ては翠にしか話せなかった。だから、もしどうしても死にたいっていうんだったら」
 彼女から身体を離し、コートを青い鉄柵に引っ掛けて、おそるおそる柵を跨ぐ。翠は私の行為を止めようとしてきた。構うことなく隣に移動する。鉄板に足先を引っ掛け、手すりを握る。
「好きな人に死なれるのは辛いから。私も一緒に落ちるよ。翠がいなくなったら、きっとまともに生きていけないだろうし」
「冗談でしょ? 飛び降りさせないためにこんなことするんだ」
 首を振る。柵から左手を離した。「なんなら、私が先にいくよ」
 翠は大きく首を振った。視線を下に向けて、身を竦ませている。仮に、飛んでも良かった。人生に未練がない。私には生きる希望が皆無なわけだし。ここで死んでしまうほうが楽な気がした。
 愛ちゃん、と名を呼ばれる。「なに?」と返事をした。翠も、右手を離す。私の左手を掴んでくれた。
「わたし、死ぬ前に愛ちゃんの彼女になりたい」
 思わずふっと笑ってしまった。「それは冗談じゃなくって?」
「愛ちゃんは冗談で言ったの?」
 首を振った。「本気だったよ。私は生涯、男と付き合えないからさ。女の子と付き合うならありかな、って思ってた」
 翠は俯く。少しためらいを見せたが、次に顔をあげたときはいつもの朗らかな笑顔になっていた。
「だったら、わたしと付き合ってよ」
 身体が浮き上がるようだった。同性なのに本気で喜んでしまう自分がいた。
 でも、と彼女が言う。「五十嵐君のことは好きなままでいてもいい?」
 ふっと笑った。「二股掛けられてるみたい」
「やっぱり嫌?」
「ううん。私は翠の恋を応援してたじゃん。翠は翠のままでいてくれたら、それでいいから」
 彼女は大きな黒目を輝かせた。「ありがとう」
 翠の愛らしさに笑みが零れてしまう。
「私たちの関係は秘密ね。真由子にも言っちゃだめ」
 翠は微笑んで「うん」と返事をし、足を上げて向こう側に戻りだす。内心、安堵した。
 バタン。
 なにかが閉まる音が聞こえた。振り向くと、男が来ていた。車道に車が停まっている。おい、そこの子なにしてる。呼びかけられた。察するに二十代くらいで、髪が短く、目つきが鋭そうにみえる。私たちのいる場所は物陰になっていてわかりにくかったのだが、ついに見つかった。
「どうしよ愛ちゃん」
 男が駆け寄ってくる。風貌がどことなく見知った人間に似ていた。面影を感じると、恐怖を覚える。出口を塞がれるのではと危惧(きぐ)した。堰柱の中の狭い通路からしか歩道には戻れないので、そこに立たれたくなかった。一刻も早く柵を越えて出なければ、と足を動かす。
 ガクン、と、なにかずれた。意図しない動きが起こった。
 足元の感覚が消えている。踏み外した。柵を跨ごうとした右足が滑り、全体重が両手にかかる。腕の力だけでは身体を支えられなかった。柵から、手が離れた。
 終わった、と思った。翠の叫ぶ声。身体が空を切っていく。たくさんのことが頭を過ぎった。水温のこと。岸まで泳げるかということ。冷たいが、制服を脱ぎ捨てて泳げば助かるだろうか。裸を人に見られる。いっそ、このまま自殺してしまうか。でも翠を一人にしたくない。せっかくカップルになれたのに。
 身体を捻る余裕はあった。水面に顔が向いたとき、着水は目前だった。
 最後に思考したのは、黒い物体だった。暖かさや、しっかりと自分を受け止めてくれた感覚を、どうしてか思いだした。あんなものを求めたくはないのだけど、いくら否定しても、あいつの胸におさまる自分の姿を払拭できなかった。
 ふっと、なにかが目の前を横切る。
 真っ黒いもので視界が覆われた。身体がそこで止まり、ドン、となにかを打ち付ける音がした。
「はっ?」と、傍で低い声がした。それが聞こえていたのに、落ちて水中に沈んで溺れる、という恐怖があとからやってきた。視界が暗くて、いまどうなっているのか定かではないが、なにかに抱きつくことができた。なぜか温もりがあった。良い匂いもした。助かりたい一心で、とにかく、必死で抱擁の力を加える。
「おい……」
 ぴたり、と私の動きが止まった。
「なんだよ、なにが起きた、どこから出てきたんだよ」
 なぜこんな幻聴が聞こえるのかと訝った。聞き覚えがある。あまりの出来事に頭がおかしくなったのか。よく嗅いでみればドブのようなにおいもした。だが水中にいるという感覚は全くない。
 それでもクロールを始めた。空間を掻く。腕がなにかにぶつかる。柔らかかった。もう一方の手で、更に上の方を触る。藻のようなものがあったが、乾いていた。
「おい、なにするんだ……お前、漣だろ」
 震えた声で名を呼ばれ、はっとして顔を上げた。
 目の前に、人の顔がある。男の顔。
 どうみても五十嵐の顔。
 頬と髪を、私は素手で触っている。
 え、え、え、え──「え」を連発した。水の中じゃなくて、薄暗い空間にいる。なにが、起きたのか、全くもって理解できなくて、無理やり解釈をしたかった。状況を知るための手がかりはないかと、周りを見る。
 真っ白い枠が目につく。そのなかに、見慣れた茶色の物体があった。人間の排泄物だ。
 五十嵐の顔を、見る。なにかを喋っていた。もう一度、下を向く。やっぱり汚物がある。
 いま、私はどこにいるのか。
 覚った瞬間、思考がはじけた。



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colorless Catトップ


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