※この物語はフィクションです。が登場する本は実在のものです

プロローグ
第1話.『王様の速読術』(著者:斉藤英治)
第2話.『ゲームの父・横井軍平伝』(著者:牧野武文)
第3話.『チェスをする女』(著者:ベルティーナ・ヘンリヒス)
第4話.『元気な脳が君たちの未来をひらく』(著者:川島隆太)
第5話.『ミトコンドリア革命』(著者:宇野克明)




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  プロローグ


 わたしは読書が苦手だ。
 うまく活字を拾えないのだ。
 本当はたくさんの物語を欲しているのに。活字を脳にガンガン浴びて中毒になりたいとさえ願っているのに。
 そんなわたしに、どうしても大量の本を読まなければならない事情が出てきた。
 わたしは、中学卒業までに、作家としてデビューする!
 これはわたしの中では決定事項なのだ。高校なんか行きたくない。絶対つまらないのが目に見えている。わたしは周囲の凡人とは違う、特別な人生を歩みたい。
 タイムリミットはあと一年くらい。中学三年までにデビューを決めたい。
 だが、今の自力では賞の最終選考に残ることすら難しいと思い知った(一次選考くらいは通過できたけれど)。だから多読が必要だった。
 しかし本を買い漁るような金はない。廃屋のような家に住むわたしにはそのような金を捻出することなどできない。
 そこで、向かいに住む幼馴染に相談してやることにした。できればそいつにだけは頼りたくなかったが。
 向かいといっても、わたしの住む廃屋の隣は堤防になっていた。昔この一帯は川だったのだと、死んだおばあちゃんが言っていた。堤防は車線のない道路になっている。そこを挟んだ向かいに、幼馴染の家があった。反吐(へど)が出るような三階建ての立派なお(うち)だ。
 二階の窓からレーザーポインターで、遥か上に見える豪邸の三階の窓を射した。カーテンの隙間を執拗に射しつづけた。気づかないならそれで構わなかったけれど、カーテンと窓が開いて、奴は顔を見せた。
「やあジュリエット、こんな夜更けになんの用だい?」
「恥ずかしいからその台詞やめてくれない?」と、わたしはこれまで何度言っただろうか。
 さっさと窓を閉めたくて、わたしは単刀直入に事情を喋った。
「ならば、我が秘蔵の書物をお主に与えよう!」
 そう言って奴が取り出したのはライトノベルと同人誌だった。
「あんたが持ってるのはそういう本ばかりでしょ。もっと色んなジャンルの本がほしいの。家にない?」
 わたしがそう言うと、
「はっ……ははははは、あーはっはっはっはっは!」
 と、奴は高笑いをはじめた。
「近所迷惑だから高笑いするのやめろ」
「あ、うん。ごめん」と奴は素直に謝る。
「で、なに? なんか思いついたの?」
 奴が、ピッと人差し指を街の中心部へ向けた。
「俺さあ、何度もお前を誘ったよな。図書館行こうって」
「ああ、うん」でもこいつと一緒に図書館なんて恥ずかしくて嫌だった。
「じゃあ明日、一緒に行こうぜ」
「え、絶対に無理」
「なんでだよ! 大量の本を読みたいんだろ!」
「近所迷惑だから大声はやめろ」
「あ、うん。ごめん」
「あんたの言いたいことはわかったわ。でも図書館って、おじいちゃんおばあちゃんや何かの専門家が読むような堅苦しい本しかないでしょ」
「それ完全に先入観ですから。一度も図書館行ったことない人の台詞ですから」
 図書館ねえ……。「じゃあ考えておいてあげる。あ、これは図書館に行くことを考慮するのであって、あんたと行くは無いから」
「ふざけるな、そこも考慮しろよ!」
「相談に乗ってくれてありがと。あんたってたまに頼りになるわね」
「そ、そうか? へへへ……」
 わたしは一方的に窓とカーテンを閉めた。「おやすみの言葉もなしかよ!」という声が聞こえた。


  第1話.『王様の速読術』


 初経験にビビっていた。自分のような不審者が、いかにも厳格そうな図書館に入館して良いのかと、そう思って家にも帰らずセーラー服姿でやってきた。
 まあ、不安は杞憂だった。司書の方々はわたしに目もくれない。お客さんはまるでブック○フにでもいるかのように、本棚の前で立ち読みしている。ソファーに座る誰もが自宅にいるみたいにくつろいでいた。暖色の明かりが館内を照らしていて、静かだ。
 予想外にも、書店以上に幅広いジャンルの本が棚に収まっていた。本が苦手でもそれらを眺めているだけで胸が躍る。……が、どれを手に取っても、中身は活字。
 活字活字活字活字活字活字活字活字活字!
 頭が痛くなる。本棚の前で腕組みをして、うーんと唸った。
「なにかお困りでしょうか、お嬢さん」
 背後から、イケボで声をかけられた。イケメンの司書さんが、わたしの様子から察して話しかけてくれたのかしら。わたしは頬をゆるませ、振り向いた。
 目の前には、学生服姿の太った男。
 ちりちりの天然パーマ。
 眼鏡をくいっと指で動かし、かっこうつけたような眼光をわたしに向けている。
「ムフフフ、君に会いたくて来ちゃった」
 ってお前かああああああキモヲタデブの幼馴染ぃぃぃぃぃぃ!
 ……わたしは、奥の本棚に真剣に目をやって移動した。
「で、でたー、一瞬俺を視認したのに見てないふりをはじめる奴ー」
 無視していると、奴はストーカーみたく追ってくる。気持ち悪い……、とは、それほど思っていない。小さい頃から金魚のフンみたいについてくるので、慣れていたのだ。
「どうだ幼馴染よ、お主の図書館に対するその幻想ををぶち殺すくらい、多種多様な蔵書があるであろう」
 まあね、と返した。「ただ、何を借りたらいいのかわからないわ」
「だったらなおさら、この藤間(ふじま)唯織(いおり)が必要であったな」
 なぜ急にフルネームを出す。
「読書界の英雄とまで言われた俺が、最適の本を選んでやろう。さあ、私についてこい!」
 唯織は腕組みしてわたしと正反対の方向へ行った。
 わたしが小説コーナーをただぼんやり見ていると、背後から息切れが聞こえた。
「なぜ、ついてこなかった」
「なんとなく」と言う。適当に小説を取ろうとしたとき、わたしの視界を一冊の本が覆った。王様のイラストと『王様の速読術 1冊30分でも必要な知識は吸収できる』という題名が目に入った。
「貴殿はまず、この図書館で、本の読み方を学ぶと良い。そんな貴殿の性格にもぴったりな一冊がこれだ。これを読めば、たったそれだけで貴殿は女王として君臨できる。素敵だと思わないか」
 中二病な発言をしているだけだろう。そう思ったが、唯織の言うことも一理ある。本の読み方を本で知るなんて考えも及ばなかった。わたしはこの一冊を借りることに。
 が、問題が発生した。図書カードを持っていない。カードを作るには身分を証明する何かが必要だった。そんなものを今は持っていない。「悔しいが、唯織に借りてもらうしかなかった。結局こいつと来ることが必要だったのだ。その事実が、わたしには屈辱だった」
「……一人称の語りみたいにそんなこと言うのやめてくれよ」
 屈辱を心のなかだけに留めたくなかったんだもん。

 一週間というハイペースで読み切った。……読書家にとっては時間がかかりすぎているのだろうが。とても読みやすいつくりになっていた。
『本たちは、優れた家来』
 本にはそう書かれていた。『アカルイ国』と『クライ国』という二つの国が隣り合った世界で、クライ国のクラゾーという者が、豊かな暮らしをするアカルイ国の王様に謁見するところから物語が始まる。クライ国は情勢が不安定で、アカルイ国の秘密を探るべく、クラゾーはやってきたのだ。
 王様は、豊富な知識を誰にでも平等に分け与えていた。相手がスパイでも、平等に四分ほど謁見をする。もっと話す必要がある者には更に時間を与える。王様は、クラゾーと毎日十分、会うことにした。
 王様は激務に追われる中、たくさんの本を読むが、一冊を三〇分で読んでしまう。いや、言い換えるなら、王様は本という家来たちに、三〇分ずつ平等に謁見をしているのだ。
 三〇分の読み方も詳しく書かれていた。三〇分が経てば一冊は終わり。王様は忙しい。もっと時間が必要だと感じれば、後でまた謁見する≠ニいう具合だ。
 本には、まさにわたしが必要としている知識が濃縮されていた。ちょっとバカっぽいかもだけれど、わたしは自分を女王だと思えばいい。そして一冊の本とは三〇分だけ謁見する。内容が良ければ家来にしてあげる。読んでみたいたくさんの本と謁見をして、優れた家来を増やそう。そうして最強の女王として君臨するのよ。
「……なんだか目的がすり替わってる気がするのはどうしてかしら」


  第2話.『ゲームの父・横井軍平伝』


 インターホンが鳴り、読書を中断した。居留守を使いたいが、何度も鳴らされる。仕方なく玄関へおもむき、外用の愛らしい笑みを作って「はあい」と引き戸を開けた。
「ついにこれを渡す日が来たのだな」
 出し抜けにキモオタが本を差し出してくる。わたしの顔面は一瞬にして、子供が見たら泣き出すくらいの憎悪に満ちた表情に変わった。本を睨む。『ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男』それが題だった。
「ゲームの本なんか興味ないんだけどしねキモヲタ」
「これはモノ作りの教科書であって、ゲームの本ではない」
 唯織はめげずに本を突き出す。とりあえず持ってあげた。
「勘違いをするんじゃあないぞ、お前に貸すのだからな。だが返却はいつでもいい。なんたって俺とお前は幼馴染、そしていいなずけ──」
 わたしはバッと本を開いてから地面に捨てた。
「ぬわああああああ俺の軍平さんの本がああああああ!」
「面白かったわ。もう返すね。それじゃあ」
 戸をぴしゃりと閉めて鍵を掛けた。
「これを読まなかったら後悔するぞ! この本にはお前の出生の秘密が書かれているんだ! ポストに投函しておくからな!」
 ポストに入れられる音。奴は去っていく。出生の秘密とかなんの設定だよ。わたしはそもそもゲームもしないっての。いや弟とはよくやったけれど。
「……くそ。しゃーねえな」
 本を回収して部屋に戻った。唯織が真面目に勧めてくる本でハズレたことはないのだし、三十分だけ謁見してやろうと、本を開いた。
 それからは時間が読書に溶けて消えていくようだった。
 本には、任天堂がいかにゲーム会社の大手として成長したかや、三代目社長の慧眼(けいがん)、任天堂の玩具の歴史、それらの立て役者である横井軍平という人が業界に多大な影響を与えたことが、まざまざと書き記されていた。ロボット掃除機が登場する二〇年前に、軍平氏は『チリトリー』というコンセプトの似た掃除機を世に出していた。軍平氏が生んだ『ゲーム&ウォッチ』(この誕生が後にDSまで繋がる)が、縮小しようとしていたシャープの液晶工場を盛り返し、TFT液晶まで繋がったこと。
 昨今の携帯ゲーム機には軍平氏の遺伝子ががっちり組み込まれているといっても過言ではない。その基本のデザインは、中年のサラリーマンが新幹線でもさりげなく遊べるよう決められた。携帯ゲーム機は、元は大人のユーザーを獲得することを意識して作られたものともいえるのかもしれない。子供は必ず飛びついてくれる確信もあったのだろう。
 しかし、小学生に絶大な支持を得るモンスターソフトが誕生してしまった。『ポケットモンスター』だ。これがゲームボーイは子供のアイテム≠ニして完全に定着させることとなる。DSはこの点を踏まえ、大人をターゲットにしたゲームが数多くある。だが今や、大人たちはスマートフォンでゲームをするのが主流になっていた。携帯なら大人は持っているから、ゲームが入っていても恥ずかしくはない。
「あれれー、まだ起きてるのぉ? 不良娘だぁー」
 母、帰宅。わたしは軍平氏の本を読み耽っていた。もう深夜二時を過ぎている。
「明日休みだからいいでしょ。本読んでるんだから出てってよ」
「えー、ここお母さんの家なのにぃー」
「でもここはわたしの部屋です」
「あなたの部屋だけどあたしの家ーい!」
「掃除炊事洗濯を放棄してもいいかしら」
 母はわたしにがばっと抱きついてくる。酒と煙草と香水くさい。
「ごぉーめぇんってー。冗談だってばあ」
「わたしはものすごく本に集中してたの。お願いだから読書の邪魔しないでください」
「もぉ、最近は本ばっかり読むようになっちゃって。なに読んでるの」母が首を傾けて表紙を覗く。「あーこの人知ってるー、交通事故で亡くなった偉い人―」
「はぁ?!」母が軍平氏知っていたこともそうだが、亡くなったという言葉に驚いた。「この人、もう生きてないの?」
「まあ知らないよねえ、あなたは産まれてないしぃ。でもこの人のおかげであなたは生まれたのよぉ」
「……は?」
「この人、ゲームボーイ作った人でしょー。そんでこの人が通信ポートもつけてたからミヤちゃんとパパは結ばれたんだよぉ離婚したけどぉ」
 母とお父さんは高校の頃に知り合った。母はゲーマーで(今知った事実)、友達とゲームセンターによく足を運んでいた。母は格ゲーに興味を持ち、初めてプレイした格ゲーでしかも初めて乱入をした。その相手が父。当然母は勝てない。しかし悔しくて、何度も乱入した。父がその金額に心配するほどで、母に恐る恐るお金を返そうとしたという。
 それで二人はゲームに関する会話をした。その話がポケモンにおよび、
「あたしねー、初代のポケモンがクリアできてなくてねー、それがなんかすっごく心残りなんだ」
 と、母が零した。それならと父が、
「俺のポケモンあげますから、クリアしませんか?」
 そう母を誘った。その日のうちに母は、父の家に行った。初代ポケモンは様々なバグ技があったそうだが、初代の時代はとうに過ぎていてもうやらないからと、真面目に育てたリザードンを母にあげた。そうして母はゲームをクリアして、大泣きしたそうだ。
「ミヤちゃんとパパは付き合うようになって、それからすぐあなたを妊娠しちゃって大変だったけど、でもあのころは幸せだったなあ」
 ぐすん、と母は泣きだす。
「……ねえ、その話さ、唯織に喋ったわけ?」
 母は笑みを浮かべる。「うん、ふーくんはゲーマーだしあたしと息ぴったりなんだよぉ。あの子が十八になったら再婚考えちゃおっか──」
「絶対やめてお願いだから」
「あぁーかわいいー、嫉妬してる──」
「嫉妬とかじゃなくて拒絶反応だしそれ以上喋らないでください」
 母はにやにやと笑い、視線を本にやった。
「お母さんね、その人の作ったバーチャルボーイも持ってたんだよぉ。すごいっしょ」
 自慢したいのだろうがよく知らないので「へー」と生返事しておいた。
「あれ、なんだか不思議で面白かったなあ。目に悪いってイメージあったけど、何時間も覗き込んで遊んでたなあ。ほら、いまようやく似たようなコンセプトでゲーム作られてるでしょぉー、だから時代の先取りだったなあ。ねえ、その本、お母さんも読むから、終わったら貸して?」
「あ、うん」
 やったー、と母はもろ手を挙げて喜ぶ。鼻歌まじりにやっと部屋から出ていってくれた。
 わたしは本に視線を落とす。『ゲームの父・横井軍平』……なんだかわたしの父のようにも思えてきた。
 まあわたしは任天堂っていったら、四代目社長のほうが大好きだけれど。


  第3話.『チェスをする女』


 しつこく藤間家のインターホンを鳴らす。唯織しかいないことはわかっていた。数分して、ようやく出てきた。
「ねえキモヲタ、あなたキモいから、日本人は全くやらないチェスのルールさえもわかるでしょ?」
「……突然すぎて意味がわからんのだが。FPSゲームの大事な局面をほっぽりだして玄関まで出てきたんだが。お前のせいで大切に付き合ってきたクランから追放されるのだが」
「チェスのルールは知ってるかって訊いてんの」
 唯織は眼鏡をくいっと持ち上げた。
「チェスは紳士のたしなみだからね。もちろん知ってはいるが」
 そういえば、日本には「紳士のたしなむゲーム」というものがないな、といま気づいた。
 持っていた本を唯織に差し出す。「あんたたまに本を勧めてくるでしょ。だからわたしもお返しにこれ勧めるわ」
「ほう、『チェスをする女』とな」
「知ってるの?」
「いや知らん。さしずめこれを読んで、チェスを覚えたくなったのであろう」
 ええそうよ、とためらいなく言う。「一昔前の村みたいな閉鎖的な美しい島でひっそり生きる子持ち人妻が主人公なの。その人妻は観光客のためのホテルで働いているわ。島の暗黙の掟みたいなのに(のっと)って、日々を、どこか機械的に生きるの。夫との愛も枯れ気味の四十二歳。ある日、宿泊客のフランス人のカップルの部屋で、人妻はチェスを見かけるの。それで、自分も夫と仲良くおしゃれにチェスをしたいと思うの。夫の誕生日に高い電子チェスをプレゼントするわ。けれど夫は全く興味を示さず、仕方なく人妻がひとりでチェスを触ってのめり込んでいく──」
「待て待て待て待て待て待て待て」
 わたしは眉を持ち上げて声を止めた。
「ふぅ、危ねえこのお嬢さん。放っておいたら全部話しちゃうところだったぜ。オウケイ、読むよ。すっかり全部読むさ」
「うん。読んだら津織市の図書館に返してきてね。明日が返却日だから」
「……行くのがめんどくさくて俺に押しつけたな」
「じゃなかったらあんたに本を勧めるなんて気持ちの悪いことしないんだけど。さて唯織、チェスはどうやってやるのかしら。どうせ中二病だからおしゃれ気取ってチェス盤も持ってるでしょ。公園でやりましょう」
「待て待て、お嬢さん、どうしてわざわざ公園に行くんだよ、家でやればいいだろ」
「あんたと家で二人きりっていうシチュエーションが生理的に無理。それに外でやるほうがあんたの中二病心も満たされるでしょ? せっかく天気も良いんだし。さあ行くわよ」
「……全く。とんだじゃじゃ馬お嬢さんだ」
 自転車で、近くの街西(かいせい)公園に移動した。テーブル付きのベンチに腰掛け、折り畳みのチェス盤を広げた。お父さんと将棋をやったことがあるので、三局ほど打てばルールを把握できた。三局目、わたしは意味のない手を何度も重ねて負けた。
「無駄な手が多かったな。それにしてもお前の飲みこみ早くて俺びっくりするわ」
「まあね。ところでお尻が痛くなってくるわね、どうしてクッションみたいなもの持ってこなかったのよこの役立たず」
「お前は俺に無茶苦茶言うのが大好きなんだな」
「次の勝負さ、女王(クイーン)無しのハンデちょうだいよ、それでわたしが勝ったら、百均のダイナソーでクッション買ってきて」
「別にいいけど、そっちが負けたら?」
「帰る」
 唯織の口元がパクパクと動き、「わかった」と言った。わたしにツッコミを入れようか迷ったのだろう。いや、わたしを打ち負かして帰ってネトゲやるのも良いとか考えたのかも。
 しかし、わたしは簡単に唯織に勝ってみせた。
 前の三局目ですでに唯織の実力にだいぶ近づいていたし、わたしはそのときこの提案を思いついていたのだ。そしてわざと馬鹿なふりをして唯織に負けたのだった。唯織に女王(クイーン)無しのハンデを受け入れさせれば、勝つことは雑作もなかった。
「ちっ、仕方ねえか。ジュリエット姫のために軽くひとっ走りしてきてやらぁ」
「ついでに飲み物もお願いね、あと恥ずかしいからその呼び方止めろ」
 唯織はニッと笑って親指を立て、走っていった。
 罠にはめたことについて罪悪感はない。良いダイエットになるだろうし。それに、部屋に閉じこもってゲームするよりは、外でチェスをしていたほうがよっぽど健全だ。


  第4話.『元気な脳が君たちの未来をひらく』


 見知らぬ靴が玄関にある。
 わたしは、ゆっくりとした足取りで階段を上り、部屋の戸を開けた。
 そこに、美少年が座っている。
 風が吹けば窓がガタガタ音をたてるボロ()の、あまり綺麗でもないわたしの部屋で、勝手に居座って本を読んでいた。しかしそれは名画になりそうな美しい情景に映った。わたしは、見惚れた。このようなありえない、物語の始まりを感じさせる瞬間が訪れようとは。あぁ、ここからどうしたらいいのかしら。この美少年、自由に触ってもいいのかしら。いいのよね、勝手にあがりこんでいるのだから……。
「お姉ちゃんおかえり」
 こちらを向いた美少年が微笑んで言った。わたしは我に返ってよだれを拭いた。
「遊びに来てたのね、恭介(きょうすけ)
 呼び捨てにした瞬間、たまらなく興奮した──いや落ち着け、この子はわたしの弟よ。
「お姉ちゃん、図書館で本を借りるんだね」弟が本のシールを見て言う。
「この間、初めて行ったの。多様なジャンルの本がたくさんあって便利よ」
「へえ、なんか知的でかっこいいなあ。今度一緒に行きたい」
「一緒にイク?」わたしは軽く(たか)ぶった。
 弟はうなずく。その無垢な瞳に耐え切れず、わたしは目を逸らして座った。
「今日はまたどうして来たの?」
 弟の美しい顔がわたしに向いたのが横目に見えた。
「お姉ちゃんの顔が見たくて」
 グラッ、と身体が揺れた気がした。
「お父さん、元気?」
「元気……かな。最近仕事が忙しいみたいで、一緒に住んでてもまともに顔を合わせてないんだ」
 弟は小さく笑った。それで寂しくて、わたしに会いにきたのだろうか。なんやこの可愛い男。本当にわたしの弟なんか。むしろどうしてわたしの弟なんだ、結婚できへんやろ!
 お母さんは元気? と弟。相変わらず母親にはみえないわねと返した。料理も洗濯も掃除も一切何もしないし。そりゃ働いてくれるお蔭で飯が食えることは感謝しているけれど。
「……恭介、家のことは誰がやってるの? あなた?」
「お父さんと分担でやってるよ」
「そっか。でも忙しいってことは、朝はどうしてるの?」
「朝ごはん?」
 わたしはうんうんとうなずく。
「コンビニでパン買ってる。学校行く途中でね」弟は小さく笑う。「ランドセル背負ってコンビニ入ると注目されるんだよ、それが面白い。食べ物持って学校いけないし、いつも公園で食べるんだ。それ友達に話したらさ、かっこいいって言われたよ」
 ──この子、アカン! こ、このままじゃ将来が危うい! たしかにこんな小六の美少年が朝コンビニで飯買って公園で食べてたらかっこいいって感覚はわからないでもないけれど。
 恭介の両肩をがしりと掴んだ。「まともな朝ご飯を食べなきゃだめよ」
「まとも? 充分まともなもの食べてるよ?」
「朝はパンだけってのが、かなりまずいのよ。いい? 朝食を制するものは人生を制すの。わかりやすいように例えるけれど、あなたがレベル100の勇者だとするわよ? 倒すべき魔王はなんの修行もせず最初からレベル90とするわ。勇者はレベル100だから絶対に倒せるだろうと、ちょっと気持ちのゆるみが生まれるの。朝食は手早く大きなパンだけを食べてるわ。それで満腹度はマックスになるわよ? でも、実は朝食をしっかり()らなければ、レベルが80までダウンしちゃうの。勇者はそれに気づいていないわ。一方魔王は毎日贅沢に朝食を摂るの。さらってきた女たちをはべらせ、日々豪遊、気に入らない弱い人間たちを殺し放題。そのくせ夜は十一時に寝てるわ。たくましい肉体を維持するには、早寝もかなり大切なの。でも勇者みたいに鍛える努力はしないから、レベルは90のままね。さて二人がついに闘うことになるわ。どっちが勝つかしら?」
「勇者が奇跡の力を発揮して魔王を打ち滅ぼす!」
「うん、ドラマチックね。お姉ちゃんもそうゆうの大好き」
 弟のさらさらの髪を撫でた。弟ははにかんだ。わたしは幸せだった。このまま時が止まればいいのに。
 ──違う。「現実は、そうじゃないの。勇者恭介は毎朝大きなパンしか食べなかったせいでレベル80の実力しか出せず、負けるのよ。そして勇者の大事なお姫様が魔王の手に落ちるの」
「お姉ちゃんのこと?」
「え?」
「だって、僕の大事なお姫様はお姉ちゃんだから」
 顔が燃えるように熱くなって息が詰まった。動揺するなと自分に言い聞かせ、髪をかいた。
「嬉しいこと言ってくれるわね」一冊の本を取る。「DSの脳トレゲーム、あるでしょ? これはあのゲームを監修した人の本よ。児童書だから、読みやすいつくりになってるわ」
 弟に本が渡ると、愛らしい瞳をキョロキョロと動かして本を読みだした。
「そこに書いてあるのだけど、朝は白米と、そしてたくさんのおかずを食べるのがすごく良いの。味噌汁とか、玉子焼きとか、ゆで卵でも。ハムとか納豆とかヨーグルトなんかもいいわね。あとサラダもね。一日三食のなかで朝が特に重要なの。その生活を続けるだけで、運動でも勉強でも常に高いポテンシャルが発揮できると言っても過言ではないわ」
「そういえば最近体育がすっげーめんどくさい」弟は笑って言う。
「そうでしょ。それを読むまで、わたしも適当に朝食を摂ってたわ。今はしっかり作ってるけど」
「作るのすっげーめんどくさい」弟は笑って言う。
「めんどくさくても、お姉ちゃんは恭介に朝ご飯をしっかり食べてほしいの。じゃないと、将来は望んだ仕事に就けなくなる可能性すら高くなるのよ。もう、どうしたものかしら……あなたに簡単な朝食の作り方を教えなきゃ」
「じゃあ教えてよ」
「うん、教えるわ。今から作り──」
「朝ご飯だから、朝一緒に作りたい。今度の連休、泊まりにくるよ」
「泊まる? この汚い家に?」
「うん。別に汚くはないけど……」
「ふ、布団、ないわよ。いったいどうする気?」
「お姉ちゃんの布団で寝る」
 わたしは思わず鼻を押さえた。鼻血が出るかと思った。
「い、いいわよ。仕方ないわね。一緒に寝て、一緒に……つくりましょう」
 やったー、と弟はもろ手を挙げて喜ぶ。鼻歌まじりに本を読みだした。わたしは弟に聞こえない程度に息を荒くした。将来この子の嫁になるであろう美人の女を想像し、どうだ寝取ってやったぞという気違いな思考をめぐらせた。
 ふいに弟がこちらを見る。わたしは小さな胸の痛みを感じた。
「お姉ちゃんって、優しくて頭もよくてクールで、かっこいいよ。お姉ちゃんがいてくれてよかった」
 そう言ってまた、本に視線を落とした。
 ……ごめんね恭介。お姉ちゃん、本当はただの変態なのよ。


  第5話.『ミトコンドリア革命』


 弟を、母に寝取られた。
 昨夜未明、帰ってきた母が、わたしの隣で眠る弟に抱きついて「うわーん会いたかったよ恭介ええええええ! 一緒の布団で寝るぅぅぅぅぅぅ!」とか言って連れていったのだった。わたしは母が侵入してきた時点で目が覚めたが、寝ぼけ(まなこ)でどうしようもなかった。
 思いきり母に抱きつかれる弟の寝顔を見る。……どこか幸せそうだ。弟の髪を撫でると、ゆっくり目を覚ました。
「おはよう恭介。朝ご飯を作ろう」
 弟は目をこすって、うなずいた。
 簡単に作れる朝食を教えた。それらは、手早く朝食を済ませる工夫のようなものだ。味噌玉の作り置き、皿にラップを敷いて作るおにぎり、ゆで卵とか。浅漬けのやり方も。これならできそう、と弟は言ってくれた。
 ダイニングテーブルで隣り合って朝食を摂る。と、弟の頬にご飯粒が。わたしは軽く興奮し、慎重に手を伸ばす。が、弟が気づいて食べた。……ちっ。
「お姉ちゃん、今日、図書館行こうね」
 わたしの口角が勝手にあがり、うなずいた。弟は小さく笑った。信じられないくらい可愛かった。

「うわー、広い! お姉ちゃん、いっぱい本棚があるよ!」
 盗難防止のゲートを抜けると弟が声をあげた。わたしは弟の唇にそっと手を当てる。
「図書館はみんなが本を読んでるから、大きな声は出しちゃだめ」
 はーい、と弟は言って、足音を抑えつつ素早く奥へ行った。わたしは手を自分の唇に当てる。……こんな変態お姉ちゃんでごめん。でも彼も悪いんだ、サラサラの髪にジャ○ーズ並の薄顔美少年が自分の弟だなんて未だに信じられないのだから。あんなの()でたくなるに決まっている。
 しばらくして、弟が駆け足でわたしのところへやってきた。
「お、お姉ちゃん、こ、これ、借りたい」
 震える手で本を差し出す弟。『ミトコンドリア革命』という題だった。気色悪い断面図が表紙に描かれている。パラパラとめくるも、専門的な本で、頭が痛くなりそうだった。
「この本やばいよ、なんで誰も借りてないのか不思議だ……人類の秘密が書かれてるんだよ! 今の、誰かに聞かれてないかな……早く借りよう、本を盗られてしまう」
「だ、大丈夫よ」誰がこのような本を好んで借りるのだろう。いやここにいた。
 本を返すと、弟はページをめくりだす。
「そうか、もうみんなこれを借りてるんだ。くそっ、僕だけが出遅れてるのか……ほらここ見てよお姉ちゃん、ミトコンドリアって人間の細胞を乗っ取った侵入者なんだよ、でもミトコンドリアは、莫大なエネルギーを生むんだ、そのお蔭で人類は今の姿まで進化したって書いてある。こ、この本すごすぎる……」
「……あ、児童書コーナーは見た? あっちにあるわよ」
 パン、と音をたてて本を閉じる弟。
「……絵本は、あるの?」
「もちろんいっぱい置──」
「絵本絵本絵本絵本絵本絵本絵本絵本──」
 いてあったわよ、と言う前に弟が走り去った。あの子の精神年齢は、いったい何歳なのかしら。
 借りたい本を揃えてから児童書コーナーへ向かうと、人だかりができていた。なんだろうとよく見ると、その場にいるのは全員、女児(ロリ)。彼女たちの視線の先には、窓際の机の前の椅子に座る弟。
「な、なんやこれ……」
 弟は頬杖をついて絵本に集中している。その姿をちらちら見ながら隣で本を読む女児たち、その後ろの本棚の本を取りつつ弟に視線を向ける女児たち、そして遠巻きでひそひそ話しをする女児たち。
「あの子、どこの学校の子なんだろうね。かっこいいなあ」
「かっこいいっていうより可愛いよ、だってあんな真剣に絵本読んでるんだよ?」
「でもその姿が様になってるわ」
「みんなで遊びに誘おうよ。全員で押しかければいけるって」
「あたしの家に連れてこ、ゲームたくさんあるし、飽きさせないわ」
「自分だけ家の場所教えるつもりなんだ」
「私たちがいないところで愛を育む気ね。ぬけがけはダメよ」
 ……なにこの女児の群。
 と、一人の女児が、ためらいもなく弟の肩に手を置いた。
「あなた、どこの学校の子? この辺じゃ見かけない顔ね」
「あのメス猫」「アンコ、ひとり占めする気ね」などと女児たちは小声で騒ぐ。ハンカチを噛む女児もいた。弟は困った顔をしている。たまらずわたしが近づくと、弟に接触した女児がわたしを向く。
「あら、何か用かしら?」長い髪をかきあげる女児。
 なんて言おうか迷うわたし。「あー、えっと」
 ふふ、と女児が笑った。「この子をナンパしたいの? でもダメよ、私たち、もう付き合ってるの」
「はっ?」
「へっ?」と弟。
 ここは口裏を合わせて、と女児が弟に耳打ちする。「それに、あなたはお年を召しているわ。釣り合いのとれる殿方を選んだほうがよくてよ」
 ……なんやこの幼女。
「見るから教養のなさそうな出で立ちだし。月に本は何冊読んでいるのかしら。もっとも、何冊読んでいようと、読書クイーンの私には到底敵わなくってよ。おーっほっほっほ!」
 ……なに言ってんだこの妖女(ようじょ)
「あのねお嬢ちゃん、わたしは──」
 妖女がため息で遮る。「あなたも大変ね、色んな女性からアプローチされて困ってるでしょ。いいわ、私が傍にいてずっと守ってあげる」
 妖女が財布を出してわたしを見据えた。
「いくら欲しいのかしら」
「え?」
「手切れ金よ」妖女は一本ずつ指を立てて、いち? に? さん? と言った。茫然自失のわたしに、妖女は嘆息する。「仕方ないわね、これでおいしいものでも食べて」
 妖女は五百円を取り出して、呆けるわたしの手に握らせた。
 弟が席を立つ。「その人、僕のお姉ちゃんなんだけど」
 妖女の目が見開いた。わたしと弟を交互に見る。両手を祈るように握った。
「まあ、こんなお美しい人が私の義姉(ねえ)さんになってくださるなんて、私は世界で三番目に幸せ者ね。一番は義姉さんよ、二番はアナタ。そのワケはね──」
 開いた口が塞がらないわたし。弟がわたしの腕を掴む。
「ここうるさいから、もう行こう」
「ま、待って」弟の目と鼻の先まで近づく妖女。顔を赤らめてはにかんでいる。「アナタのお名前を教えてくださらない?」
「恭介。君は?」
 妖女の瞳がハートマークになった(ように見えた)。
「よく訊いたわね、私の名前はアンジュラ。杏子、樹木、羅針盤で杏樹羅(あんじゅら)
 弟はぷっと噴いた。「変な名前。DQNネームだ」
 杏樹羅が息を呑んだ。一転して、泣き顔に変わった。わたしは思わず弟の肩を掴んだ。
「恭介、そういうこと言っちゃダメでしょ」
「だって明らかに日本人の顔なのにアンジュラだよ? その名前自体は変じゃないけどさ。日本人にしては盛りすぎだよ、なんで羅をつけちゃったんだろうね、杏樹ならまだわかるよ? 杏子(あんず)なら可愛げ──」
 わたしは弟の唇を手で塞ぐ。
「うわああああああん! 改名してくるぅぅぅぅぅぅ!」
 大泣きして走り去る杏樹羅。
 さすがのわたしも、少し目を鋭くして弟を真っ直ぐ見た。
「恭介の気持ちはあなたのものだから、間違ってないわ。でも他の人は違うの。お姉ちゃんは杏樹羅ちゃんをおかしく思わない」あの性格は別として。「杏樹羅ちゃんの名前を素敵に思う人は他にもいるはずよ……ううん、そもそもあの子自身が、自分の名前に誇りをもってたはず。本人が堂々と名乗れるなら、それでいいのよ。恭介は自分の考えを一方的に押しつけただけなの。お姉ちゃん、恭介には頭の固い男になってほしくないな」
 弟は目を伏せた。わたしは手をどけると、唇を尖らせていた。チューしていいのかしら。
「……謝ってくる」
 ぼそりと弟は言った。わたしは嬉しくなり、弟の髪をさっと撫でた。弟の本をわたしが持つと、走っていった。
「素敵ですわ」
「今日からお姉様と呼ばせてください!」
「ぜひお名前と住んでいる場所を教えてください」
 女児たちが小さく拍手をしつつなにやら言っている。図書館の女児はおそろしい。
 でも悪い気はしない。お姉さんぶりを見せつけてやるのもいいだろうと、わたしは彼女たちに飲み物をおごることにした。もちろん妖女にも(外では弟とすっかり和解していた)。妖女には五百円を返そうとしたのだが、頑として受け取ってくれなかった。
 まあ、みんなの飲み物代のほうが高くついたし、素直に貰っとこ。



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