※この物語はフィクションです。が登場する本は実在のものです ![]() ![]() ![]() |
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第6話.『告発・現代の人身売買』 一週間に最低一冊は本を読めるようになった。 たったの一冊かと読書家は思うだろう。三十分だけ読むという例の手法を読了に含めていいなら話は違ってくるのだが。あの方法は「読んだ!」という気になれなくて困る。でも興味のあるところをなんとなく理解できるので良い手法だ。しかし小説だとこれはできない。何冊か速読の本を確認したが、どれも「小説は速読に向かない」と述べていた。ブロック読みでひたすら読み進めるしかない。 ブロック読みとは速読の基本だ。右脳読みともいう。学校では字を一文字ずつ読むことを習うが、これではいくら時間があっても多読はできない。なので、文字を塊で拾う。わかりやすくいうと「ブ」「ロ」「ッ」「ク」「読」「み」「と」「は」というなぞり読みではなく、「ブロック読みとは」「速読の基本だ」「右脳読みともいう」このように文をひと塊ずつ拾っていく。これができるようになるだけでも、わたしの読書ペースは飛躍的に上がった。 読書の苦手意識は払拭できないままだけどね。 久しぶりに図書館へ。エンデの『はてしない物語』を返却する。最近は読みやすい児童書にハマっていた。 「あら 児童書コーナーの窓際の席に見覚えある女児。出たな妖女。 「ご、ごきげんよう。あ、そうだ、杏樹羅ちゃん、やっぱりこれ返すわね」 五百円を差し出すわたし。妖女はため息をついて首を振った。 「この間は義姉さんに迷惑をかけたわ。だから、それはお詫びに義姉さんにあげたものなの。今さら突き返されたら私のプライドが傷つくわ。それよりも義姉さんがそのお金でおいしいランチでも食べてくれたほうが嬉しい。ねっ?」 わたしは苦笑して五百円を財布に仕舞った。妖女は手元のプリントに視線を落とす。 「なにしてるの?」 「宿題よ。あ、そうだ義姉さん、タダでお金を受け取れないというのなら、これを手伝ってくださらない?」 それは、習った単語を使って文章を作る国語の宿題だった。わたしの超得意分野だ。お安い御用よ、と言い隣に座った。わたしが文章を考えて書き留め、妖女はそれを書き写していく。 「義姉さんの考える文……すごく面白いわね。私よりセンスあるかも」 「あ、ありがとう」と戸惑いつつ言うわたし。 聞けば、妖女の家は近くにあって、宿題はいつも図書館でやるそうだ。 「ねえ杏樹羅ちゃんは──」 「義姉さん、ちゃん付けはやめてくださらない? 義姉さんには呼び捨てで呼んでいただきたいの。そうしてもっと親しくならないと……恭介との仲を深めるためにも」 顔を赤らめる杏樹羅。苦笑いのわたし。 「それじゃあ、杏樹羅は、これまでにたくさんの本を読んでるんだよね?」 「月に100冊は読むわね」 「えっ、月百っえっ?」 「まあ読むっていっても、ほとんどは目を通す程度よ。気になるところを雑誌みたいにぱぱっと読むの」 あ、やっぱそういう読み方なんだ。 「でもものによっては最初から読んでるわ。ほとんど斜め読みだけどね」 「ふーん、なるほど。それじゃあ、杏樹羅が思うぜひ人に読んでもらいたい一冊ってなにかな」 杏樹羅はペンを唇につけ、うーんと唸る。 「そうねえ……人に読んでもらいたいっていっても、十人十色、千差万別っていうし……」 杏樹羅はゆっくりと椅子から下りて、児童書コーナーを出ていった。 「義姉さん」 杏樹羅の宿題を進めていると急に声をかけられた。 「これは読んだことあるかしら?」 彼女が持つその本のタイトルは『告発・現代の人身売買』。わたしは首を振った。杏樹羅は椅子に座り、本をわたしの方へやる。 「ぜひ義姉さんに読んでもらいたいわ。宿題、ありがと。あとは自分でやるから。義姉さんはゆっくり読書をしていて」 「あ、うん……」 仮に──あくまで仮に、この子が恭介と結婚したとして、私は小姑としてうまくやっていけるかしら……。 本のサブタイトルが『奴隷にされる女性と子ども』とある。よからぬ雰囲気を察しつつも本を開いていった──数ページで閉じた。 「杏樹羅さあ……」 「なあに義姉さん」 「これ最初から最後まで読んだの?」 「もちろんよ、じゃなかったら人に薦めないわ」 ……この妖女、たしかまだ小学四年生じゃなかったかしら。 勇気を振り絞り、再びページを開く。 本の内容は、サブタイトルから浮かぶ想像を超える凄惨な現実が書かれていた。人に騙され、あるいはある日突然村を襲撃され、略奪され、その過程で売られる子供や女性たち。売春宿に性奴隷として売られた五歳〜十歳の子供たちが、命じられるままに性的プレイを演じる話。親族に売り飛ばされ、牧師の元で一日中、掃除や家事などから性虐待に至るまで二十四時間こき使われる十六歳の少女の話。借金を背負わされて監禁され、工場で働かされ続ける夫婦の話(ノイローゼで妻は自殺)。テロリストに捕まった少年や、兵士の嫁として十一歳のころから強姦され続け妊娠させられる少女などの話。 書かれていることは衝撃的だが、杏樹羅がこれを読了したことの方がその衝撃を凌駕していた。わたしですら読んでいて気分が悪くなるのに。 「ふぅ、宿題終わりっと。どう義姉さん、その本は面白い?」 「ま、ままま、まあね。……えっと、杏樹羅のお母さんやお父さんはさ、こういうの読んでるあなたを見て何か言わないの?」 「お父さんは何も言わないわ、お母さんはうるさいけどね。子どもが読んでいいものじゃない、これは有害図書よって本を取り上げられたこともあるわ」 間違っているような、でもお母さんは正しいような。 「でもウチの執事は、いつも私にこう言ってくれるの」 え、いま執事って言った? ひつじの間違いじゃなくて? 「知るは『勇気』、知らないは『臆病』ってね。世の中には、周囲の声に影響されて毛嫌いする人がいるでしょ? それは知識がないから臆病風に吹かれてるだけなのよ。ちゃんと理解できていれば、怖がることなんてなんにもないの」 それが執事の受け売りだとしても、小学四年生の言う台詞じゃない。……この子の中の人はいったい何歳なのだろう。 わたしは人身売買の本を借りた。杏樹羅が、気分転換に 公園の遊歩道を並んで歩きながら、わたしは彼女を観察した。チャックやネジとかは見当たらない。服の下に隠れているのか。杏樹羅はふいに立ち止まり、しゃがんでぼんやりと広大な水面を眺める。 「川を見ていると癒されるわよね」 厳密には池なのだが。わたしは背後から自然な素振りで杏樹羅の両肩を掴んだ。金属類が組み込まれているような質感はない。 杏樹羅が急に振り返ってわたしに微笑む。どきり。しかもなぜかわたしの手をぎゅっと握ってきた。こちらも彼女の手を握り返す。指の骨格は人間のものか調べるために。 「私もやってあげるわ」 「え、なにを」 「なにって、指のマッサージでしょ?」 杏樹羅がわたしの指を揉む。特に爪を責めてきた。……意外に気持ちいい。こんなふうにマッサージされるのは初めてだった。そもそも人とこんなふうに触れ合うことが初めてなのだが。この子が人なのかどうかはさておき。 また杏樹羅は音もなく笑う。自然な笑みだった。ふいに、わたしの手を引く。 「義姉さん、遊具で遊びましょうよ──」 彼女はぐいぐいとわたしを引っ張る。そんな子供らしさが可愛くて、わたしはなにかに目覚めそうだった。それがなんなのか厳密にはわからないでいると、「お姉ちゃん、一緒に滑り台しよー」という小さな女の子の声が聞こえた。やさしげな表情で「いいよぉ」と答える姉。それを見て、 (わたし、シスコンになりかけているのでは) という恐ろしい考えが脳裏を過ぎった。 「義姉さん、あのアスレチックの山、どちらが早く頂上へたどり着けるか競争しましょう」 「い、いいわよ」 「じゃあ、よーいどん!」 無邪気そうに駆け出す杏樹羅。 それに続いてアスレチックの山に突っ込むわたし。 新しくできた妹と戯れている感じがして、ちょっぴり幸せだったり。 第7話.『勝ち続ける意志力』 書くという作業はひたすら孤独だ。 目の前には誰もいないから止めたくなる。書いているものが人にウケる保証なんてない。賞をとる保証なんてない。誰かが最後まで読んでくれる保証なんてない。 心細い。なんで、こんなことしてるんだろう。止めちゃえばいいのに。 止めて、どうするんだろう。 止めたら、わたしには何もなくなる。 学校に行かなくちゃいけなくなる。 ──ピンポーン。 インターホンが鳴った。わたしは頭を振って、呼吸をして、目の前のノートパソコンに傾注する。 ──ピンポーン、ピンポンピンポンピンポーン。 無視し続けていると、インターホンはどんどん調子に乗ってくる。ピピピッピッピッピーピピピーン、ピーピピピーンと、イオ○のCMに似たリズムをつけてくる。 わたしは頭を掻いて、座布団を一つ持った。一階の玄関へ向かう。引き戸をぴしゃりと開ける。 「やっと出て──」 口を開いた奴に座布団を振ってぶつけた。一発では止めない。座布団による連続攻撃を繰り出す。当たるたびに「いてっ!」を繰り返す男。最後にわたしは思い切り回転をしながら座布団を 「その座布団あげるわ。あなたに接触して汚れてしまったからもう使わないし」 わたしは玄関へと引き返す。 「ま、待て待て待て待て、こっちは用があって家を訪ねたんだぞ! だいたいお前もこの間俺ん家のインターホン鳴らしまくっただろ、お前全然出てこないからお返しに鳴らしただけだぞ!」 わたしは振り向いて、邪魔な髪をかく。唯織はよろけながら立ち上がっていた。 「争いの連鎖について考えたことはないかしら。何か恨みがあって戦争を起こした国が、報復を受けて、またその国が戦争を仕掛ける。そしてまた報復を受ける。争いには終わりがないの。どちらかが不利なままで断ち切らなければ、両方の国が滅亡するまで戦争が続くわ。今度、わたしが唯織に信じられないような報復をするから、この争いはそこで終わりにしましょう。はい、お話はここまで。ごきげんよう」 玄関を抜ける。 「ちょ、だから待てってーの、色々ツッコミ入れたいけどもうそれはいいとして、俺は用があるから訪ねてきたんだってーの!」 髪を押さえて振り返る。「じゃさっさとその要件を言って。わたしはいま忙しいの」 唯織が「おっ」という顔をした。 「まさかついに新作を書き始めたか?」 わたしは動揺した。小説を書いていることをあまりつっこまれたくない。でもこいつには色々借りがあるし、お古のノートパソコンもくれたのだし、素直になるしかなかった。 「そうよ。だから邪魔してほしくないわけ」 唯織は笑みを浮かべた。「お前の小説を一番に読むのは俺だからな? なんたってお前に物資を供給してやったんだし」 「わ、わかってるわよ……」どんな表情をしたらよいかと戸惑い、顔を背ける。「そ、そのかわり、真剣に読んでよね」 「ったりめーだろ」親指を立てる唯織。「誤字脱字チェックもできるし。また最適な応募先もいくつかピックアップしときゃいいだろ?」 「う、うん……お願い」 「いやあ、楽しみだなあ」唯織は青空を仰いだ。「まだこの世界にはない物語が、こんなにも近くで生まれようとしてるのか。それを最初に読める。考えるだけでオラわくわくしてきたぞ!」 「もう、行っていいかしら」 唯織はわたしを向いて、持っていた本を差し出した。「邪魔して悪かったな。面白い本を貸しにきたんだ、暇なとき読んでくれ」 タイトルは『勝ち続ける意志力』……怪しい自己啓発本かよ。いや、その上に『世界一プロゲーマーの仕事術』とある。……またゲームの本かよ。 とっとと帰ってもらうため、黙って本を受け取った。読んだふりだけして返したろ。 書き続ける合間に、ちらちらと昔のことが過ぎった。 両親が仲睦まじく、わたしが都会に住んでいた幼少期。母はわたしを連れて、祖母のいるこの実家によく来ていた。祖母は藤間家と交流があったので、唯織とは物心つく前から一緒に遊んでたっけ……思い返すと気持ち悪くなってくるな。 唯織の創り出す設定で、いつもゴッコ遊びをしていた。わたしはそれを気に入っていた。ゴッコ遊びで様々な夢が見られた。ヒーローになったり、王女様になったり、魔法使いになったり、冒険者になったり。でも次第に唯織の創る設定にマンネリを感じるようになっていた。唯織の空想は結局のところ、既成のヒーローやキャラから引っ張ってきているだけで、それに成りきりたいだけだったから。 いつしか、わたしが設定を創る主導権を握っていた。唯織はなんでもわたしの言うことを聞いてくれて、楽しそうにどこでもついてきた。 「お前の創る世界ってすっげぇおもしれぇな!」 ことあるごとに唯織はそう言って目を輝かせてくれた。 ──ふっと脳裏に、泣きじゃくるわたしの様子が過ぎる。 『ねえ、いおりんは、わたしのこと、お嫁さんにもらってくれるの? わたしを大事にしてくれる? わたしのこと、ひとりぼっちにしない?』 『当たり前だろ、絶対お前を幸せにするから。男に二言はない!』 「うわああああああああああああ!」 叫び声をあげた。猫やアルパカやタヌキやビートたけしのコマネチなどを過ぎらせて黒歴史を吹き飛ばした。 「ハァ、ハァ、ハァ……」 あの出来事は、わたしの人生最大の汚点だ。 他ごとに集中しようと、本を手に取った。それは『勝ち続ける意志力』だったが、構わずページを適当に開いた。 時間が読書に消えていく。 これは、軍平氏の本と同じく、ゲームの本というわけではなかった。ゲームという、決して周りに評価されない世界に身を投じた人のエッセイ本のようなものらしい。となると、なぜ唯織がこれを貸してきたのかが透けてみえるようで嫌な感じだった。作家を目指すならこれを読むと何か参考になるぞ、というところだろう。 わたしはゲームが好きではない。対戦ゲームなんて特に嫌いだ。全っ然勝てないし。アナログのゲームだったらある程度要領を得ているのでやれるけれど。 ゲームのことはわからないけれど、プロになることの厳しさは少しだけわかるつもりだ。その目線で本を読むことができる。著者は、日本で初めて、スポンサードを得た形でプロの格闘ゲーマーになった。そこまでに至る道が難しいことくらいなら容易に想像できる。たかがゲーム≠ネのだ。それは子供たちの遊びでしかないのだ。 テレビゲームは頭が悪くなる、目が悪くなる、残酷な心を育てるなど、一方的な偏見をよく耳にする。日本では理解のされない世界。そんなものを広告みたいに使おうとする会社はない。スポンサーになってもイメージを悪くするだけ──それが日本社会の考え方だと思う。 学生時代の著者は、そんなゲームに真っ向から取り組んだ。遊びではなく、本物の本気で。著者が中学生のころ、ゲームセンターでは対戦型の格闘ゲームが流行していた。対戦という競技性のあるものだからこそ、人々は熱狂したのだろう。 中学三年になると周りは受験勉強を始める。一方著者は、周りにとって遊びでしかないゲームに人生をかけたことで、強烈なコンプレックスを抱えた。不安や孤立感はすさまじいものだっただろう。 それでもゲームを選び続けた。著者がそこに情熱をかけることができたからだ。 やがて、高校二年でアメリカの世界大会に招待され、優勝。 頂点に立った。 しかしそれで何かが変わったわけじゃない。それが仕事に繋がったわけでもない。優勝して「すごい!」でおしまいなのだ。 小説なら、賞をとって出版すればプロデビュー。ゲームは優勝してプロになれるような世界ではない。将棋やチェスが認められていても、テレビゲームは人々から評価がされない。 著者は二十三歳のとき、ようやく<Qームを続けることを、諦めた。 それから著者は、ある程度世間に認められている麻雀の世界に身を置いた。ゲームに匹敵する情熱を注ぎ、プロと肩を並べるほどまでに極めた。けれどその麻雀も突然止めてしまう。そうして、世間的には「真っ当だね」と言われる、介護の仕事に就いた。勝負の世界でずっと神経を張り詰めていた著者にとって、介護の仕事は癒しだったそうだ。ゲームの世界から離れ、ゲームセンターにも行かなくなって三年が経っていた。 ある日、友達が「ゲームセンターへ行こう」と著者を誘う。そこから著者の人生は、大きく動き出す。 「あれれーまだ起きてるのぉ?」 母、帰宅。わたしは勝ち続ける意志力を読み耽っていた。もう深夜二時を過ぎている。 「本読んでるんだから出てって」 「えー、ここお母さんの家なのにぃー?」 「掃除炊事洗濯を放棄──」 母はわたしにがばっと抱きついてくる。酒と煙草と香水くさい。 「ごめん、愛してるから許して!」 「わかったから読書の邪魔しないで」 「…………」 唐突に無言になる。どうしたのかと顔を見ると、目を閉じていた。 「抱きついたまま寝ないでください」 「起きてるよぉ、うとうとしてるだけぇ。いいでしょぉあたしのお腹から生まれてきたんだからちょっとぐらい寄りかからせてぇ」 何も言えなくなるわたし。 「今日はなに読んでるのぉ」母は床に突っ伏して下から表紙を見る。「梅原……? ウメちゃん? プロゲーマーの人でしょ」 著者がどう呼ばれているのかはさておき、母は知っているようだ。 「お母さんってほんとにゲームのことは知ってるんだね」 ガバッと母は起き上がり、わたしの両肩を握ってくる。 「ゲームのこと馬鹿にしてるんでしょぉ?! ゲームはすごいんだよぉ! ゲームに国境はないんだよぉ! ゲームは戦争をなくすんだよぉ! 世界を平和にするんだよぉ! すごいんだよぉ!」 涙ながらわたしを揺さぶってくる。頭に水ぶっかけてやろうかしら。 「バカにしてるような言い方をわたしがいつしたんですか」あんま興味は持てないけど。 わたしは本を置いて部屋を出た。 「どこ行くのよぉ、あたしを置いてかないで、お願いあたしのこと捨てないで──」 今日は相当酔ってるな。 わたしはコップに水を汲んで、部屋へ戻る。母は勝手に本を読んでいた。コップをテーブルに、威圧的に置く。 「うわあ、お水が出てきたあ」両手でコップを持ち、母はぐびぐびと飲む。「プハァー! 全部飲んじゃったぁー。あ、お会計お願いしまーす」 なに言ってんだこの人。「いいからとっとと出てって」 はーい、と手を挙げる母。かなり自然な動作で本を持ち、立ち上がり、おやすみなさいと言って出ていった。 静まり返るわたしの部屋。 「…………」 ……寝よう。 第8話.『人生がときめく片づけの魔法』 「僕、お姉ちゃんと一緒に寝るの大好き」 「お姉ちゃんも恭介と寝るの大好きよ」 「あのね、お姉ちゃん」 「なあに?」わたしは弟の髪を撫でる。 「どうして……女の人は胸が大きいんだろう。僕、その意味をきちんと知りたいな」 「恭介はなんでも知りたいのね。そうね……母乳を与えるだけが目的なら、大きくなる必要ってないのよね。だから、きっと女性としての魅力をひきたたせるために大きくなるのかな。メスのお猿さんだって、繁殖期になるとお尻が真っ赤になるでしょ? 胸のふくらみは、それに近いことなんだと思う」 「へえ……」 弟はわたしの胸をじっと見ている。 「お姉ちゃん、昔より、胸、大きくなったね。魅力的だよ」 「あ、ありがとう」 カタカタと風で雨戸が音をたてた。 「お姉ちゃん……僕ね」 弟の手が、わたしの胸に置かれる。 「お姉ちゃんの胸が見たい」 「きゅ、急にどうしたの、恭介」 「この間、久しぶりに会ってさ、お姉ちゃんがすっごく素敵に見えたんだ……僕、そのときからなんだかおかしくて、苦しくて……だから、ごめんなさいお姉ちゃん──」 弟がわたしにのしかかった。乱暴な手つきでわたしを襲う。 「ダメよ恭介! 嫌、そんな、わたしたちは血のつながった姉と弟なのに──」 「お姉ちゃん、愛してる、僕の子供を妊娠して!」 「あっ、恭介、アアッ──」 数か月後、わたしは恭介の子供をみごもった。わたしたちは結婚できないけれど、二人でこの子を育てていこうと誓った。つづく。 ……わたし、とんでもない話を書いてたんだな。しかも原稿に手書きとか。引き出しに仕舞ってすっかり忘れていた。もしもこれを何かの手違いで恭介が読んだら……。 身震いした。絶対ドン引きするだろう。お姉ちゃんキモすぎ汚すぎ不潔大嫌い原稿スキャンしてツイッターで報告してやる、とかなんとか言われるのでは。 ガラリ。 わたしの部屋の引き戸が開いた。 笑顔の恭介がそこに立っている。 「お姉ちゃんただいま、遊びにきたよ」 「ぎゃあああああああ恭介ええええええ」 「え、なに、どうしたの」 引き出しの奥に原稿を突っ込んだ。 「いったああああああ!」 閉める際に一瞬指を挟んだ。 「だ、大丈夫?」 わたしは引き出しに背を預ける。「きゅ、急に遊びにくるのね。お姉ちゃん嬉しくて絶叫しちゃったなあ。あ、べ、別にここは恭介の家でもあるんだから、いつ来ても全然いいのよよよよよ」 「なんでそんな動揺してるの。いまなんか隠さなかった?」 「か、かかかか隠すなんてそんなわたしとあなたの関係で隠し事とかあるわけないし」 「姉と弟でも隠し事はあっていいと思うけど……。部屋、散らかってるけどどうしたの?」 わたしは、ゴミに埋もれた一冊の本をモグラのように掘り出す。 「この本を読んでね、わたしはお片付けに目覚めたの!」 「あ、散らかしてたわけじゃなくて片づけてたんだ。じゃあちょうど良かったね、僕も手伝うよ」 「いーやいやいやいやいやそんな弟に手伝わせるとかしかもわざわざ遊びにきてくれたのにわたしの汚物まみれの部屋に触れさせるとか姉としてそんなこと絶対させるわけないし」 「お姉ちゃんなんかおかしいよ」 「き、気のせいよ。きょ、恭介は自分の部屋、ちゃんと綺麗にしてる?」 うーんと唸る弟。 「男の子だからきっと散らかってるでしょ。片づけの基本はね、ときめかないモノを捨てることなの。もう着ない服、部屋着用に無理やり着てる服とか、いつか使うかもととっておいている物とか、二度と使い道のない書類とか、電化製品の箱や説明書とか、捨てずに放置しちゃってるものって案外たくさんあるでしょ。それらを一つずつ触っていって、ときめきを感じないならお別れをしていく作業をするの。そうすれば、部屋も自分も生まれ変わるんだってさ! わたしの部屋、物がいっぱいだったし、これを機にときめかないもの全部捨てて、ときめくものだけを部屋に残そうって、そう思ったのよ」 弟は数度うなずいた。 「家の空間はね、過去の自分を保存するためじゃなくて、未来の自分のために使うべきなのよ。そうこの本に書いてあったんだけどね」わたしは本を振る。「二度と使わないようなものは、たとえネジ一本、紙切れ一枚でも捨ててスペースを作る。そうすれば綺麗な部屋で快適に暮らせると思わない?」 思う、と弟は真顔で言う。 「なにを捨てるかお姉ちゃん自身で見極めなきゃいけないから一人で片づけるわ。キリのいいとこまでやっちゃうから、恭介は他の部屋にいて」 「わかった。その本、読んでみたいから持っていっていい?」 わたしは満面の笑みで『片づけの魔法』を弟に渡した。弟も嬉しそうに笑った。あぁ……なんでわたしの弟ってこんなにも○□×いくらい可愛いんだ。兄弟姉妹で真剣恋愛できる社会に作り変えるにはどうしたらいいのかしら。 弟が部屋を出ると、わたしは原稿を出した。……こんな時限爆弾より危険なものは捨てるべきね。捨てたくなかったけれど。 燃えるゴミ袋に入れて、わたしは片づけを再開。 ゴミ袋を部屋の外へ出すと、弟を招き入れた。弟はゲーム機を持ってきていた。わたしが楽しめそうなゲームを見つけたから、どうしても一緒にやりたかったらしい。そのためにわざわざ電車を乗り継いで来るとかお姉ちゃんあなたのためなら死ねるわ。 「来た理由はもう一つあるんだ」 コントローラを操作しながら弟は言う。 「杏樹羅が会いたいってしつこいんだよ。だから今日はここに泊まるね。明日は杏樹羅と図書館で会う約束してるんだ」 ……いつのまにそんな約束を。てかいつのまにそんな仲になったんだよ。 「あなたと杏樹羅は、いまどういう関係なのかしら」 「友達だよ? 杏樹羅はダーリンって僕のこと呼ぶけど。まあ恋愛を夢見る少女のいうことだしさ、早く抱いてほしいとかずっと傍にいるとか永遠に愛してるとかサッカーチーム組めるくらい僕の子供を産みたいとかいうのは今だけなんだろうね。どうせ最後に僕は惨めに捨てられるんだよ。だったら恋愛なんてしたくない」 え、なに言ってるのこの子。つっこみたい箇所が多数のその台詞はなに。 「お、お姉ちゃん、ちょっとお手洗いへ」 自分を冷静にさせるためトイレへ駆け込んだ。……あの妖女、放っておいたらいつか弟を襲うぞ。明日にはどんな強引な手段を使うことやら。ていうか弟はなんであんな冷めてんだ、小六やろ! も、ももももしかしてわたしの知らないところで豊富な恋愛経験を積んでしまっているのかしら。都会に住んでるんだしどっかのおばさんのツバメになっている可能性も否めな──なわけあるか──いやでもあるかもしれない。 わたしは深呼吸を繰り返して乱れた息を整える。妄想が過ぎたわ。ウチの弟は頭良いし大人っぽい考え方もできるうえ子供らしいところもあるとっても可愛い子なんだ、だからああいう考え方もできちゃうだけよきっと。 トイレを出る。ふと、廊下に置いたゴミ袋の口が開いていることに気づいた。絶対に開けられぬようしっかり締めたはずなのに。 最悪な予感がした。 わたしは大急ぎで部屋へ向かう。戸は開いていた。 部屋で、弟が原稿用紙を広げている。 わたしと弟の○×□を描いたあの原稿用紙を。 「恭介、そ、そそそそれはなに──」声が裏返った。 弟の厳しい目つきがわたしに刺さる。 ……終わった。練炭を買ってこなくちゃ。 それともいますぐに近くのマンションから飛び降りようかしら。 「お姉ちゃん、これ面白いよ」 ……え? 「僕、こういう昼ドラみたいなドロドロの物語が読みたかったんだ。僕が登場人物になってるし、すごく感情移入できたよ!」 わたしは口をパクパクとさせた。言葉が何も出ない。 「なんでゴミに捨てちゃうの? お姉ちゃんの創る話、聞かせてほしいって前に言ったのに」 「いや、だって、それ勝手に恭介の名前使ってるし」 「そんなの気にしないよ。あれでしょ、身近な人物の名前使って、お姉ちゃんのなかで臨場感を出してる感じでしょ?」 勝手に都合のいい解釈をしてくれたようだ。わたしは全力でうなずいた。 「見ず知らずの名前を使っても、気持ちが入りにくかったからね。けどお姉ちゃん恥ずかしいから、見られたくなかったなあ」 「全然大丈夫だよ、僕の名前くらいいくらでも使って。将来お姉ちゃんが小説出版して、そこに僕の名前が使われてたら絶対嬉しいし。良い人でもすぐ死ぬ悪役でも構わない。僕がお姉ちゃんに協力できるなら、なんでもいってよね。なんでもするから」 弟は迫真の眼差しでわたしに言った。弟に惚れ直しそうだった。わたしまだ経験がないから試しに○△×してみよかったとか要求しそうだった。さすがに言わんけど。 わたしは弟の髪に触れる。理解のある良い弟を持ってお姉ちゃんは幸せよ、と姉らしいことを言っておいた。弟は無邪気そうに笑顔をみせてくれた。胸が痛むわ。 |
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