3.釣り合わない 初めて案内された藍里の家を前に、ぼくはビビっていた。想像の三倍は大きい。 小学四年生で藍里に一目惚れしてから、彼女の情報は聞き耳を立てて集めまくった。そこにやましい理由はなかった。純粋に、彼女のことはなんでも知りたかったんだ。 その過程で、彼女の苗字がぼくと同じ「七海」であることを知った。自分はいつか藍里と結婚するのだと、そのとき勝手に確信していた。 でも聞き耳を立てつづけ、彼女の家が金持ちだということを知り、絶望した。 父は誰もが知る大手企業の常務。母は会長の孫。 ぼくの父は無職の飲んだくれ。母がパートで稼いでいた。 ぼくとは絶対に釣り合わない。その後ろめたさが、彼女に近づけなかった理由のひとつだった。 「ぼく、本当にこの家に入って大丈夫?」 立派な門の前で立ちすくむ。 「お母さんには話してあるって。ほら」 藍里にグイグイと背中を押され、門を抜けた。 広い庭を通って、玄関へ。藍里が扉を開ける。 「いらっしゃい」 藍里の母が、にこやかにぼくを迎えた。気品のあるマダムといった感じだった。 「さあさあ、入って」 ぼくは後悔した。藍里に大丈夫と言われたからなにも持ってこなかったけれど、いくら金がなくても菓子折りを持参するべきだった。 リビングに通される。と、想像にない人物がソファーにいて、ぼくは蛇に睨まれた蛙のように固まった。 藍里のお父さんだ。 「あれ、お父さん、今日仕事でしょ?」 藍里も知らなかったらしい。 「休みをもらった。娘がお付き合いしている人を連れてくるんだ、顔くらい見ないと」 ひどく申し訳なかった。ぼくにそこまでする価値が、あるはずない。 「さ、そっちに座ってくれ」 面接を受ける気分だった。藍里とぼくは、並んでソファーに座った。 「改めまして。藍里の父の、七海イサミだ。妻はマチという。簡単な自己紹介をしてもらえるかな」 「あ、はい。えっと、七海一帆と申します」 あはは、と笑う父。「面白い冗談だね。ウチの婿養子になろうってことかな」 「え、いや」 「あなた、一帆さんは本当に七海なのよ。漢字も一緒」 「ほんとか? こりゃ失礼。そうか、なるほど、偶然同じ苗字だったか。それは、二人が結婚しても面倒なことにならないな」 わははは、と笑う父。 「お父さん、気が早いよ」 藍里はそう言って、顔を赤くしていた。 「でも、もう二年もお付き合いしてるんだろ? 先のことも考えないと。一帆くんはなんの仕事をしてるんだ」 きた、と思った。全身が痺れるようだった。怖くて口が開けない。 「どうしたんだ? 言いづらい仕事なのかな? 殺し屋とか、薬の売人とか」 そう言って笑う父。 「実はね、お父さん」 「なんだ、どうして藍里が口を開く。一帆くんと話してるんだぞ。……本当に答えられない仕事をしているのか?」 「いや、あの、ぼくは……働いていないんです」 眉を上げる父。それから、わっはっは、と軽く笑い飛ばしてくれた。 「だから言えなかったのか。そうか、じゃあ求職中か。なるべく早く見つかるといいな」 「はい……」 ふっと父は顔色を変えた。「前はなんの仕事をしていたのかな」 「パソコンの部品を作る工場です」 「ライン工か。それは辞めたくなるのもわかる。辞めたのはいつ頃?」 「あ……その……」 「なんだ? 一帆くん、男ならもっと堂々としないと。さっきからうじうじとして、俺はあまりそういう男は好まない」 ぼくも、この人はなんだかとても嫌な感じがしていた。 演技でも、ぼくが堂々としなければ、状況がよくならない。ぼくは思いきって口を開いた。 「四年前に辞めて、それからずっと働いていません」 沈黙する父。お母さんがお茶を出してくれる。ずず、と飲む父。 「そうか。君はきっと、仕事を探してないんだね」 「はい」 「なんの努力もせず、自堕落にぶらぶらしてるんだろう」 胸が苦しくなる。 「ひとつ、君に感謝していることがある。それは藍里を外に連れだしてくれたことだ。ずっと家にこもってばかりだったが、一帆くんとお付き合いするようになって、ほとんど毎日外出しているそうじゃないか」 「そうよお父さん。私、一帆と毎日楽しくすごせて、幸せなんだから」 うーん、と唸る父。 「仕事の当てはないんだろ? ウチの下請けで紹介できるところがある。工場だが、まずは働くことが大事だ。期間工としてそこで働いてはどうかな」 そんなことを突きつけられても困る。「考えさせてください」 「いま決めなさい。決断を先延ばしにするのは、よくない」 「じゃあ別の仕事探します」 「四年も無職なんだろ。君のようなタイプは、そう言って仕事を探さない。空白の時間が長いし、俺が紹介するところよりいい仕事は見つからないよ。男が手に職をつけなくてどうする? なにもずっとそこで働けと言っているわけじゃない。まずは三年、そこで働きなさい。ん?」 藍里がなにか言いたそうにするも、口を開かなかった。ぼくが働くことを望んでいるからだろう。 でも、ぼくは―― 「嫌です。そんな、無理やり働けと言われて、働きたくないです。それに、やっぱり、もう工場は嫌なんです。あの暗くて、空の見えない場所が。いくらお金がよくても、できません」 父が、明らかに失望とわかるため息を吐いた。立ち上がって、ぼくに背を向けた。 「藍里、この人はやめなさい。この人はお前を不幸にする。別れなさい」 血の気が引いて、頭がぐらぐらと揺れていた。 「勝手なこと言わないで、私は幸せだって言ったじゃん」 「じゃあ今後この人と付き合いつづけるなら、藍里にお金は一切渡さない。マチも藍里に絶対お金をあげちゃだめだよ。たぶん金はこの男に使われてるからね」 ぼくはなにも言えない。ただ申し訳ない気持ちで胸が詰まっていた。 「もう帰ってくれ。もし働く気になったらまた来ていい。そんなことは絶対ないだろうけどね」 涙がこみあげた。ぐっと、我慢した。絶対ここで泣きたくない。 「おじゃましました」 ぼくは足早に家を出た。外に出ると、走りだした。 がむしゃらに走りつづけた。わんわん泣きながら。 ぼくはこの世界で生きられない。生きていることを許されない。 自殺の方法が頭をよぎった。 でも死ねない。死ぬことが怖いと思ってしまう。そんな自分が嫌になる。 神様。ぼくを消すボタンをください。なんの痛みも恐怖もなく、一瞬でこの世界から消えるボタンを。迷わず押しますから。 堤防をとぼとぼと歩く。 堤防を下りて、川の港に座りこんだ。この場所が一番落ちつく。 「ぼくがいますぐ働けば、全部解決する」 それがわかってるなら働けよ。……でも働くのが怖い。知らない人と会うことがストレスだし、自分がなにか失敗してグズだと思われるのが嫌だ。仮に働けたとして、同じ労働の日々をずっとつづけなきゃいけないのも嫌だ。自由を奪われるのが恐ろしい。 自分が間違っていることはわかっている。働かなきゃいけないことは、他の誰よりもわかっている。ぼくだって、働きたくないわけじゃないんだ。 でも本当に怖いんだ。なにもかもが。自分が自分じゃなくなるのが。やりたくないことを無理やりやる苦痛が。そんなことするならこの世界から消えたほうがマシだ。 「死にたい」 その一言を皮切りに、死にたいが止まらなくなる。死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい。 「神様、ぼくを消してください、お願いします、ぼくの存在を消してください。ついでにすべての人の記憶から消してください。それで藍里にはもっとふさわしい男性を与えてください」 「私はそんなの嫌だ!」 ビクリと肩を揺らす。振り返ると、藍里がいた。 藍里は目の前で足を止め、両手を伸ばす。ぼくはしゃがんだまま、その手を取った。 ぎゅっと握ってくれる。 「私は、一帆と、ずっと一緒にいたい」 「こんな無職のクズと一緒にいたい? なんのメリットもないじゃん」 ははは、と笑う。「メリット、あるよ。私、一帆が大好きだもん」 大きな疑問が浮かんだ。そういえば、一度も聞いたことがなかった。 「いったい、ぼくのなにが好きなの。おかしいよ、冷静に考えてさ、金もないし、なにかすごい能力があるわけでもないし……まあちょっとギター弾けるけれど。毎日なんもしてないしさ、君にあげられるものなにもないし、どこにも連れていってあげられない。君を幸せにする能力、ないんだよ。お父さんの言うとおり、ぼくは君を不幸に――」 藍里がそっとぼくの口に指先を当てた。 「私は、一帆に人生を救われたの」 「……え?」 「もし一帆が働いていたら、私はここまで好きになってないよ。だって、引きこもって働かない私の苦しさ、わからないでしょ。一帆と私は、同じ引きこもりだった。だから気を許せたし、すごく好きになれたし、ほとんど毎日散歩したり、公園で遊んだりする気になれた。あなただから、私は外へ出る気になれたんだよ。一帆が普通の人みたいに働いてたら、すぐ別れてたかもね」 どこか誇らしげに藍里は言う。 「一帆に救われたの、それだけじゃない。私は、あなたと付き合う以前から、ずっと勇気をもらいつづけてた」 「どういうこと?」 「一帆、私に惚れてたでしょ?」 「いまでも惚れてますけど」 嬉しそうに藍里は頬を緩ませる。 さすがに直視できるようになったけれど、一目惚れしたあの瞬間の強烈な想いは消えず、ぼくは彼女を見ているだけで、幸福を感じられた。 「高校生の頃の面接とか、部活で大事な本番がある日とか――緊張で震えだしたとき、いつも一帆のことを思い出してた。私に一目惚れして、私の前から逃げだしてた姿を、思い出してた」 ふっとぼくは笑った。 「こんな私をそこまで好きになってくれた人がいた、って。落ちこんだときも、自分がどうしようもなくダメに思えたときも、一帆のことが頭に浮かぶの。就職に失敗して、引きこもってたときも、時々一帆を思い出してたよ」 知らなかった。藍里に一目惚れしたことが、藍里の自信になっていたんだ。 「あっちゃんから同窓会の連絡をもらったとき、やっぱり一帆のことを考えたの。会えるかなって」 「え、もしかして、ぼくに会うために出席したの?」 「そうだよ。このこと、言ってなかったね」 ふふ、と笑う藍里。 「また自信をもらえないかなって、都合のいいこと考えてた。身なりをちゃんとして、一帆の前に立ったら、私から逃げだしてくれるかなって。反応がみたかった。私に惚れてくれてる可愛い反応をね。でもさすがに、中学卒業から十年経ってたから、そんなことないだろうって思ってたけどさ」 「一目惚れは一生解けない魔法みたいなものだから、君を前にしたらやっぱり緊張しちゃったよ」 「うん。一帆、どぎまぎしてた。信じられなかった。本当に私に一目惚れしてるのか、やっぱり私のことが気持ち悪いとか、一緒にいたくなくてあんな態度なのかとか、不安になった。でも一帆の口から、やっと真実を知れて、めちゃくちゃ、めちゃくちゃくちゃくちゃのめっっっっっっっ――」 藍里は言葉を溜める。 「っっっっちゃ、嬉しかった!」 藍里が可愛いくて、笑みがこぼれた。 「もし本当は好きじゃなかったって言われたら、私ショックすぎて自殺してたよ」笑いながら言う。「それくらい一帆を支えにしてたの。それから、あなたと付き合えて、あなたも同じ引きこもりで、でもほとんど毎日外に出て、一緒になんでもない遊びをして、幸せだった」 ぼくだって同じだ。彼女に救われた。 「もし藍里と付き合えなかったら、ぼくの人生も暗いものになってたよ」 うなずく藍里。「一緒だね」 うなずくぼく。 「私、働いてみるよ」 「……え、君が働く?」 「うん。いまならできそう。怖いけど……一帆といられなくなるほうが、もっと怖い。働いて、アパート借りる。親に頼らず生きていきたい。一帆、一緒に住んでくれるよね?」 「それは、もちろんだけど」 やったぁ! と、藍里は子供のように両腕を振って嬉しがった。 「私が先に働くから。一緒に住んで、落ちついたら、一帆も自分の仕事を探して」 仕事を探せ。そう言われるのが嫌だったのに、いまの彼女の言葉は心にしみた。 「ありがとう、藍里」 ぼくらは左右を確認して、誰もいないことがわかると、抱きしめあった。 もう一度、誰も見ていないことを確かめてから、キスをした。 |
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