6.みっともない


 夜中に荷造りをし、明け方にアパートを出た。
 たくさん泣いたから、もう涙は出なかった。

 時折連絡はくれる、などとぼくは期待していた。あんなに愛し合い、心を通わせ、長年一緒にいたんだから。
 しかし、いくらメールを送っても、既読がつかなかった。
 友人とは疎遠になっていたので、誰からも連絡はない。携帯が音を鳴らすこともなかった。
 気力のない日々がつづく。
 夜になると、無性に怖くなった。
 まだ死にたくないのに、死ぬことが目の前にちらついた。これが希死念慮なのだとわかった。
 いままでの「死にたい」は、「本当は死にたくない」だったんだ。
 いまは「死にたい」ではなく、「恐怖を解消するために死の選択がちらつく」という状態なんだ。
 死ぬことでしか、終わりにできない。

 藍里と別れて、何度目かの夜。
 さびしさに耐えられなかった。
 延々とメールの既読を確認していた。
 藍里のアパートに行きたかった。
 でもあの男がいる。
 それに、もう別れた以上、そんなみっともないことはできなかった。女々しい男だと思われたくなかった。メールは何百通も送っていたけれど。
 深夜二時過ぎ。
 眠れなくて、息が苦しくて、胸をかきむしった。
 ぼくは携帯だけを握って家を飛びだした。

 飛び降り自殺を完遂するには、七階以上の高さが必要らしい。
 自殺できる場所を検索し、隣町に建つ団地を見つけた。老朽化が進んでいて、空き室ばかりだそうだ。人に見つかりにくく、手軽に自殺ができる、と口コミサイトに書いてあった。
 念のため九階までのぼった。
 メールを開く。文字を打っていく。
「藍里。こんなぼくと、長い間一緒にいてくれて、ありがとう。藍里と過ごせた時間は、ずっと、幸せでした」
 長々と書きたいと思ったけれど、それだけにしておいた。
 送信――を押そうとしてやめた。藍里に迷惑をかけるだけだ。未練がましいことはしないまま死にたい。
 下をのぞく。きっと高さでぞっとするだろう。
 しかし、どれだけ顔を出しても、平気だった。
「これ、マジでいけるわ」
 柵に足をかけ、飛び降りる手前までいく。
「来世はぼくのような人が生きやすい世界に生まれ落ちますように」
 ぼくはなんのためらいもなく手を離した――
 テレテレテレレン♪
 着信音。
 全身に、力がこもる。
 腕を伸ばして手すりをつかんだ。
「こんな時間に誰だよ……」
 電話が切れないうちに外廊下に戻った。
 画面には「チュン」の表示。
「もしもし?」
「おぉ、出たぁ」笑うチュン。「お前いまなにしてんのぉ」
「えっと、散歩」
「はぁ? お前ってほんと変わり者だな、いま何時だと思ってんだ」
「その言葉、そっくりそのまま返すね」
「ははっ。いまから飲もうぜ」
「え、酒?」
「こんな時間にジュース飲んでどうするんだよ虫歯になるぞぉ。なあ、昔はさ、よく二人で飲んだだろ。俺、明日仕事休みなんだわ。な? どうせお前ヒマだろ」
 無言で考えた。
 チュンも少しの間無言だったけれど、頼むよ、と口を開いた。
「今度の休みにタダで髪切ってやるからさあ。まあ酔った勢いでもいいならいまから切るけど」
 その言葉で、ぼくの心は傾いた。
「いまからチュンの家に行けばいい?」
「おっ、さすが。安心しろ、酒代は俺が全部払う。だから迎えにきてくれない?」
「……はっ?」
 よく話を聞くと、チュンは職場の近くの居酒屋で同僚と飲んでいたらしい。終電がなくなり、タクシーをつかまえるのが面倒でぼくに電話したようだ。
「いやいや、タクシーをつかまえたほうが早いだろ」
「バカお前タクシー代払うくらいなら飲む方が絶対いいだろぉ。じゃあ待ってるからな」
 強制的に電話を切られた。

 母の車をこっそり借り、三十分車を運転し、チュンを迎えにいった。
 コンビニでチュンが適当に酒とつまみを買った。
 チュンの部屋で静かに飲んだ。たまにチュンが大きな声を出すので、ご両親に迷惑だろ、とぼくがたしなめた。
「藍里とは最近どうなのぉ」
「……あんまりよくないかな」
 別れた、と言えなかった。話せば気が楽だったかもしれないが、酒が入っているし、面倒なことを言われそうだったから。
「へーお前らでも仲が悪くなるんだ。まあ付き合い長いもんなぁ」ジャーキーを噛むチュン。「俺が一番長く付き合った女もさぁ、ちょうど一年付き合ったんだけどぉ、あんたとの将来は考えたくないからキリのいいところで終わりにしたいなんて突然言ってきたんだぞ」
 この話は三度目だった。
「ほんとふざけんなよって感じよ、なんだよキリがいいって、こっちは信じて付き合ってるのにさぁ、すげぇ時間無駄にしたじゃん。俺さぁ、結婚無理だわ。お前はできると思うよ? 働きさえすればな」
 あはははといきなり笑うチュン。
「お前さ、まじでどうすんの? 藍里のヒモでいるわけ?」
「うるさいなあ」
「藍里はなんも言わないの?」
「……急に言ってきたけど」
 ぶわははははと大声で笑うチュン。ぼくは人差し指を立てて、シー、と言った。
「お前もしかしてそれで落ちこんでこんな夜更けに散歩してたわけ? カワイイなおい」
 そういうことにしておこう、と無言で酒をあおった。
「お前は頭いいから、なんか仕事あるだろ」
「チュンの方が頭いいでしょ。チュンは大学いかなかったけど、頭のいい高校行ったじゃん」
「ま、学力は俺の方が遥かに上だけどさ。別に勉強に興味なかったし? 興味なくても俺天才だったし、身の丈にあった学校選んだだけだし」酒を飲む。「ほら、よく言うだろ、学力のよさと色んなこと考える頭のよさは違うってさ。お前はその、色んなこと考える頭のよさは絶対あるから。なっ? 自信持てって」
 そう言われて簡単に自信が持てればいまごろぼくは著名人になっているだろう。
「……ぼく、なんの仕事なら楽しくできるだろう」
「なんでもやってみりゃいいんだって。俺は得意なこと見つけてまっすぐ美容師になったけどさ。お前もなんか得意なこと見つかるまで、色々しろ。仕事を探すだけじゃなくてさ、ほら、ユーチューバーはじめるとか、なんかあるだろ、そういう活動。金になることと得意なことを重ねるのは難しいけど、お前が得意なこと一生懸命やってたら、いつか、見つかると思うぞ。自信をもってやってける場所がな」
 勉強ができるクセにバカっぽいチュンは、時々、深いことを言ってくれる。
 ぼくはしばらく、フローリングを見つめていた。チュンも喋らなかった。
「ぼくが得意なことか……」
 ちらっとチュンを見る。
 ジャーキーをくわえたまま寝ていた。
 彼のジャーキーを取り、静かに布団を運んで、被せた。
 それから残っていた酒を一気飲みして、チュンの家を後にした。



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