エピローグ


 二度と同窓会に出る気はなかった。
 でもチュンが「絶対来い」とうるさかった。
「三十五歳という節目の同窓会だぞ? なのに来れないやつ多すぎるんだよ。三十の同窓会もみんな全然来てくれなかったし。でも今回はお前が来るって話したら、がんばって行ってみようかってやつ多かったんだ。だからお前がいなきゃ意味ないの。今回の同窓会はお前が主役なの」
 しつこいので、チラッと顔を出しに行くだけだからな、と言っておいた。

 場所は、二十五歳の同窓会と同じ焼き肉屋だった。
 ぼくは店の前で立ち尽くしていた。
 ここからぼくの人生は動きだした。最高の幸せを手に入れて、そして絶望した。自殺しようとさえした。
 いまは、すべてに感謝している。十年前、ここに来てよかった。
 もしかしたら、今日だって、ぼくの人生がまた大きく動きだすかもしれない。

 店員に同窓会の参加だと伝えると、広間の座敷に案内された。
 二十五歳の同窓会以上に人がいた。知らない人までちらほらいる。チュンがぼくに気づいた。
「みんな、七海一帆が来たぞおおおおおお!」
 めちゃくちゃうるさく叫ぶチュン。みんなが一斉にぼくを見た。
「はやく上がってこいよ!」
「一帆くん、本にサインちょうだい」
「この前のテレビ観たよ!」
「人生に無駄だった時間なんてないですよ、なんてかっこいいこと言ってたなお前」
 大半の人がぼくの本、『なにもないぼく』を持っていた。みんなの本にサインをしつつ、彼女の姿を探した。どこにもいなかった。
 内心、ほっとしていた。十年前は彼女がいてすごく嬉しかったのに。
 みんなはぼくの話を聞きたがった。なぜ引きこもりの支援活動をはじめたのか。なぜ金銭を一切受け取らないのか。どうやって生活しているのか。
 ぼくのやっていることは、支援活動というわけではない。引きこもりの人とただ一緒に過ごすだけ。ボランティアだと周りは言うけれど、ボランティア活動をしているつもりもなかった。
「ねえ、最初に依頼してきたケイくんって、いまどうしてるの?」
 本名は理音(りおん)くん。不登校になった彼は、結局中学校に戻れず、先生の提案でフリースクールに入り、そこでようやく自分の居場所を見つけた。それから通信制高校に入り、卒業すると、東京の大学に行った。
 大学生活はうまくいっているらしい。ずっと会っていないけれど、たまに連絡をくれた。彼は自分のような子の力になりたい、と、スクールカウンセラーを目指していた。
「いやぁすげーよ一帆。これまで何人の引きこもりを救ってきたんだ?」
「救ったていうのは違うわよ。ね?」と敦子が言った。
「本にも書いたけど、そういうつもりでやったわけじゃないんだ。ぼくはなにもしてない。一緒に楽しく過ごしただけだから」
 散歩してみたい、一緒にゲームしたい、パワースポット巡りをしたい、コンビニに行きたい――普通の人にとってはなんでもないことだけど、その人にとっては一人じゃできない。ぼくのような人が一緒にいたら、できる。家族だと関係が近すぎて、一緒にできない。他人のぼくだから、許せる。特に引きこもりの子を持つ親からの依頼が多く、いろんな子と一緒に遊んだ。
 本に書いていない引きこもりたちの現実をみんなに話した。少しでも無職や引きこもりへの理解が深まるように。
「私も、一帆に救ってもらえた引きこもりの一人だよ」
 懐かしい声に、寒気がした。
 いつのまにか藍里が来ている。
 みんなが「あ」と口を開けた。藍里のために詳細な内容は書いていないが、別れたことは本に載っている。
「みんな、そんな反応やめてよ」
 藍里は笑いながら、ぼくの傍に座った。近すぎると思った。
 彼女の顔を見られない。逃げだしたかった。
「ぼく、今日は顔を出すだけってチュンに言って、来たんだ。もう充分顔だしたよね?」
「いやいやお前もうちょっといろよぉ」チュンがぼくの肩に手を回す。「せっかく懐かしい顔ぶれが揃ってんのにさあ、次いつ会えるかわかんないぞ」
「次に会うときは誰か死んじゃってるかもね」
「おい敦子お前それは笑えねえ冗談だわ」真顔のチュン。「次もね、五年後にやるから。おいみんな! 四十歳も同窓会やるから絶対来いよ! あと、俺の店に来てください。最近お客さん少なくて困ってるんです」
「じゃあ今度私が行くね」藍里が言った。
「おぉーさっすが。サービスするから」
 ぼくは立ち上がった。
「っておいお前マジで帰るつもりか」
「原稿の締め切りが近いんだよ」
「二冊目、出るの?」
 急に藍里の顔がぼくに近づく。思わず身を引いた。
「あ、ああ……」
 違和感を覚えた。
 なんだ、この顔。
 これが、あの藍里?
 想像の藍里と違っていた。長い間会っていないのだから、老けて見えるのは当然だが、違和感はそれじゃない。
 細い目。
 豚のような鼻。
 ホームベースみたいに大きな顔。
 もっと可愛いはずだった。
 もっと美人のはずだった。
 毎日、この顔に恋をしていた。
 毎日、彼女を見つめては、「自分にはもったいない」と思っていた。
 一目惚れをしたあの頃から、ずっと――別れてからだって、美しい藍里の姿が脳裏に焼きついていた。
 それなのに、いま目の前にいるのは、別人に見えるくらい、ブサイク。
 ぼくはなぜか微笑んだ。嘲笑に近かった。
「じゃあね」
 藍里が細い目を精一杯開き、ぼくをのぞきこむようにして「いっちゃうの?」と言う。
 気持ち悪かった。藍里を無視して、みんなに謝って、足早に店を出た。
 爽やかな風が吹いている。夜空の星が、一段と綺麗にみえた。
 ――初恋の魔法が解けたんだ!
「来てよかった」
 今日、藍里に会わなかったら、ずっと盲目のままだった。
 彼女に対して、こんなに冷めた感情になれたのは、ありがたかった。
「一帆!」
 呼び声にゾッとした。店から出てきた藍里が、駆け足でやってくる。
「ゆっくり話したいんだけど、ダメかな」
 小さな怒りを感じた。
「ごめん、もう帰るから。ここでほんのちょっとなら」
 藍里はポンと両手を合わせる。「よかった。お店の入り口だと迷惑になっちゃうから、私の車に来て」
 ここでちょっと、と言ったのに。……それにしても、なぜ藍里はこんなにも馴れ馴れしいんだろう。別れ方を覚えていないのだろうか。
 もやもやしたまま、藍里の車に乗りこんだ。
「一帆、久しぶりだね」
「あ、うん。そういえばまだ花屋の仕事してるの?」
「うん。私ね、いま、社長の次の次くらいに偉い人」
「へー、すごい」
「一帆だって、すごいよ。私、一帆の本読んで感動しちゃった。テレビに出演するくらい有名になっちゃったし。私、鼻が高いよ」
 堪えている怒りが膨らむ。
「すごくないよ。テレビって言っても、全国放送じゃないし。運がよかっただけだから。それに、生活はギリギリだし」
「それでも立派だよ。それに比べてあいつは……」
 あいつ。あいつのことだろうか。
「私、一帆に謝りたい。今日会えたら、絶対に、謝りたかった」
 藍里がこちらに上半身を向け、深く頭を下げる。
「ごめんなさい」
「……なにに対しての謝罪?」
 まだ頭を下げている。「私が一帆を傷つけたこと、すべて。マコトが一帆を傷つけたことも、謝りたい」
「まだ付き合ってるんだ。長いね」
 バッと顔をあげる藍里。「マコトとはだいぶ昔に別れてる。あいつも、蓋を開ければ最低な男だった」
 あいつ「も」の「も」にぼくは含まれているだろうか。
「いまはね、花屋の社長の息子さんとお付き合いしてる。でもダメ。すごく自分勝手。浮気もしてるし……」
 浮気。
「本当にね、一帆が一番だった。なんで私、それに気づかなかったんだろう……一帆が一番優しかった。一帆が一番頼りになった。……一帆を、一番、愛してた」
 鳥肌が立った。もう車を出たかった。
「私、戻りたい」
 藍里が、そっとぼくの腕を掴む。反射的に引っ張って外した。
「ご、ごめんなさい」
 しゅんと縮こまる藍里。ぼくはため息を吐いた。
「戻りたいって、どういう意味で言ったの」
「……そのままの意味。やり直したい」
 ぼくの拳に力がこもる。
「いまなら、私、本当にわかるの。絶対に一帆を手放さない。たとえあなたが、なにもしない人になっても、傍にいたい。あ、一帆は、家事とかいろいろしてくれてた。だから本当の意味でなにもしない人だったことは、ないよ? ……マコトも、社長の息子も、家のことなんにも手伝わない。男がそんな面倒なことやれるかって。バカにしてるよ」
 ぼくはなにも言わない。少しの間、車内が無言になった。
「難しいかもしれないけど、もう一度、一帆と一緒になりたいです」
 藍里はブサイクな面でぼくをのぞきこむ。ぼくは目をそらした。
「一つ聞いていい?」
「なんでも聞いていいよ」
「その社長の息子さんとは、まだ付き合ってるの?」
「あ、うん。一応別れてないんだけど、だってね――」
 ぼくは車を出た。藍里もすぐ車を出る。
「ちょっと、どうしたの」
「どんな事情があるかなんて知らないし、知りたくもない。まだ付き合っててぼくにそんなこと言う人のこと、信じられるわけない」
「違うの、聞いて、私、きっぱり別れようと思ってる――」
「別れてなくてよかったね。ぼくは君とやり直す気なんて、絶対にないから。その人と関係をつづけてたほうがいいよ。社長の息子でしょ? 将来安泰じゃん」
「嫌だ、私は一帆と一緒になりたい! 一帆はいまでも私を好きでしょ? 一目惚れして、その魔法はずっと解けないんでしょ?」
「もう解けたよ」
「え?」
「君のこと、なにが好きだったのか、もうわからない」
「そんな……」口を押さえて、彼女は泣きだす。「そんな……いやだ……どうして……。私が、悪かったから」
「泣き落としはやめろよ」
「あの頃に戻りたい……私たちが無職だったあの頃に……堤防を散歩したり、公園でフリスビーをしてた、あのときに、私は、戻りたいよ……」
「社長の息子とやればいいじゃん」
「一帆じゃなきゃ、だめなの!」バンと、車を叩く。「いままであなたにいくら使ってきたと思うの?」
「はっ?」
「あなたの生活費、ずっと私が負担してた。ノートパソコン買ってあげた。携帯のお金も払ってた。バイクの税金や保険も私が払った。いっぱいあるのよ? お金なかったあなたのために、私がしたこと」
 なにも言えなかった。ただ彼女の人間性が生理的に無理だと感じた。
「わかった。じゃあぼくに使ってくれたお金は全部返す。口座番号を教えて。利子をつけて振り込むから」
「結構な金額になると思うよ? 払えるの? そんなことするより、私とやり直した方が簡単だよ。そうしたら、私、お金のことなんて言わないから」
「下品な人間になったね」
「立派に社会人してた証拠よ」
 どうしてここまでぼくにこだわるんだろう。普通の人だったら諦めると思う。
「はっきり言ってあげようか?」
「……なに」
 少し、口がためらった。彼女を傷つけてしまうから。
 でも、思いきって口を開いた。
「一目惚れして、君が信じられないくらい素敵な女の子に見える魔法がかかってた。可愛すぎて、ぼくは君に近づくこともためらってた。付き合うようになってからだって、ずっと藍里の隣で、ドキドキしてた」
「うん、知ってる」
「でもいまは全く違う。顔を見てびっくりしたよ。細い目、豚のような鼻、デカイ顔。めちゃくちゃブサイクだってやっと気づけた」
 藍里は無表情で、静かにぼくを見ていた。
「性格は、よかったよ。藍里は純粋だった。でもずいぶん歪んじゃったね。ぼくはもう、どこも君を好きになれない。そんな価値を感じない。一緒にいたいと思わない」
 藍里の表情は一切動かなかった。目はぼくを見ていなかった。どこに焦点が合っているのかわからない。
 言いすぎたのはわかっている。謝罪の言葉が浮かんだ。でも引っこめて、名刺を出し、助手席に置いた。
「ぼくの名刺、そこに置いたから。口座番号、教えてね。それとこの先、君と会う気はないから。どうか幸せになってほしい」
 最後に微笑んでみせた。依然として藍里は無表情だった。
「それじゃあ、お元気で」
 ぼくは立ち去った。

 帰ってすぐに、小学校と中学校の卒業アルバムを確認した。
 疑惑は確信に変わった。
 藍里が全然可愛くない。
 写真でさえ、彼女を見ると胸がざわざわしたのに。
 もう、なんの感情もなかった。
 それよりも、隣の敦子の方がずっと可愛い顔をしていた。

 五日後。
 藍里は団地から飛び降り自殺した。
 藍里の遺書は、ぼくへの謝罪で埋め尽くされていた。
 そのなかで、ぼくがアパートから出ていった翌日にマコトを部屋に上げていたことも謝っていた。



(了)


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