3


 女の子が中学生になるとようやく両親が離婚した。もっと早く別れていてもよかったと僕は思う。女の子は不仲な両親を目の当たりにし続けずに済んだのに。もっと小さなころから母親と二人きりでつつましく愛情を受けながら育っていたら、ちょっとは心が安定していたと思う。このころになるともう人格形成の大半が完了しているので、いまさら女の子の基本的人格はあまり変更が利かない。先の人生で女の子は苦労が絶えなくなるだろう。
 母親と女の子は違う土地に引っ越していった。住んでいた場所から八十キロ以上離れた所の、2DKの賃貸マンションに移り住んだ。家賃は六万八千円。七階建てで、住む部屋は四階。女の子はちゃんと僕を連れていってくれた。
 離婚の決定的な理由は旦那が他の女性を妊娠させたことだった。旦那がそっちの女性と暮らしたいということだったので別れることとなった。元々が不仲だったので、女の子は二人がいつか別れることになると思っていた。思っていたのだけど、両親が離れ離れになったことに関しては悲しみを抱き、夜は僕の前で泣いていた。女の子の涙は僕のオーバーオールによく染みを作った。女の子は父親の浮気について理解していたし、父親を憎みもしていたが、それでも親の離婚というものに悲愴を感じた。僕はそれに関してだけ理解できない。理解してもしなくてもなにもできないただの人形なので意味はないのだが。
 母親は働きに出て、女の子は独りで居る時間が多くなった。すると、もう自然の摂理といえるのだろうが、女の子は男を家に引き込むようになった。
 こちらに移り住んで数ヶ月後、女の子は同じマンションのエレベーターで一緒になった、三階に住む十七歳の高校生のことが好きになり、告白しようか僕に相談していた。エレベーターで一緒になったからといって、会話は交わしていないらしく、時々鉢合わせることがあっても話をすることはない。こういった、淋しさを抱える女の子というのは妄想に耽るか恋愛に突っ走る傾向にある。優しくしてくれそうな誰かに惚れっぽくなり、はまると抜け出せなくなる。依存してしまう。果てしない時を過ごして様々な人間たちを見てきた僕はそういうことをよく知っていた。知っていたところでなんの意味もないが。
 その高校生は茶髪でピアスをしていて、私服のときはかなりファッションに気を遣っているということをよく聞かされていた。あまりにも外見に気を遣いすぎている相手はよしたほうがいい、というのが僕の持論だ。そういう相手は最初のうちだけ面が良く、だんだんと磨かれていない薄汚れた内面が浮き彫りになってくる。だが一度も恋をしていなくて、更に育ってきた家庭環境が複雑な女の子にとって、そういった相手は光り輝いて見えるものらしい。遊ばれて飽きたら捨てられるのが目に見えていたが、女の子は勇気を出して告白してしまった。そうして高校生はよく家にやってきて、僕の目の前で猿のようにヤっていた。
 男は絵に描いたようなナルシストだった。実際のところ、男の容貌は十人並み以下だったのだが、恋の盲目に入った女の子は男の並べる薄っぺらい言葉のなにもかもに魅了され、日毎に男への恋愛感情を強くしていった。本当は日毎に内面の粗さが際立つようになっていたのだが、女の子には欠点が一切見えていなかった。男の(きず)を詳細に教えてあげたかったのだが、僕には傍観し続けることしかできない。
 男は明らかに女の子を愛していなかった。お前は俺のための存在だ、だから俺がお前を愛する必要性はない、というような感じだった。釣った魚に一切エサを与えないタイプなのだが、女の子は一緒に居られるだけで充足していた。たとえ男に非があることでも、男は女の子に原因を押し付けて反省させた。多分、男は家庭内で全く重宝されてこなかったのだろう。歪んだ願望が膨れ上がった結果、傲慢な性格になっている、と僕が推し量ったところで、結局影響は与えられないのだから無意味なのだけど。
 五ヵ月後に二人は別れた。お前はガキだしつまらない女だから飽きた、と男は言った。別れるころには他に付き合っている女がいたらしい。女の子はつまらなくて不細工な自分をとことん責めながら泣きじゃくった。全くもって彼女に非はないし、顔は十人並みで僕は君のことを誰よりも可愛いと思うよ、と伝えたかったのだが、僕のオーバーオールが女の子の涙で濡れる一方だった。
 これを機に女の子は変貌した。どちらかというと、間違った方向に。
 僕と同じような金髪になり、ピアスをして、男のようにファッションに気を遣うようになった。つまらない女だと言われない努力を重ねるようになった。結果、ダサイ僕は女の子の部屋の、押入れの中に仕舞われた。


  4


 それから長い間、女の子がどんな人生を辿ったのか、僕にはわからなかった。僕に一切喋りかけることがなくなったし、女の子は母親ともあまり言葉を交わさなかったようだった。家の中で女の子の声はあまりしなかった。たまに声が聞こえるかと思えば、それは部屋に連れ込んだ男と愛を囁く声だった。
 押入れは時折開けられた。その度に高そうな服やバッグなどが放り込まれたので、女の子がどんな人生を送っているかなんとなく想像することはできた。押入れが開いて僕と目が合う度、女の子の瞳は冷たさを増していた。そして押入れが開く度、女の子は女の子と呼べない容姿になっていった。大人びていった。僕にとっては押入れが開くことだけが唯一の娯楽となっていた。おそらく湿っぽいこの暗闇に光が射すたび、今日はなにが投げ込まれるのか、女の子はどんな姿をしているのか、ということを楽しみにして過ごしていた。時に女の子はやつれ、時に肉付きがよくなっていた。かなり精神が不安定のようだ。過食と拒食をいったりきたりしているのかなあ、と、僕は押入れの中で想像した。闇の中に女の子のしている行為や女の子の容姿を思い浮かべた。だがいつしか僕は女の子が投げ込む物の中に埋もれて、光や女の子の姿を見ることすらできなくなった。物を退かしてほしい、できることならまたベッドに置いて欲しいと切に思っていたのだが、思ったところでどうしようもない。動けない、口にもできない。だから伝えられない。もし僕が有機物なら、女の子の心に寄り添い、支え、変わらぬ愛で接し続けて、不安定な精神を安定させてあげたい。と、思う。
 思ったところでやはりどうしようもない。なので仕方なく、有って無いような頭上の存在に僕と女の子の状況が変わることを願い続けた。


  5


 どれだけの歳月が流れただろう。一切ものを見られぬ状況というのは苦痛でしかない。だから人形に心があるのは不幸だと僕は思う。人形やぬいぐるみというのは最終的に飽きられて、当人にとって見えない空間に追いやられる運命にあるのだから。もし心を宿したのが神の仕業とでもいうのなら、その神というのは頭の悪い性根の腐った空気の読めない最低の下衆野郎だと思う。そんなはずはないので、やはり僕らの心が生まれたのは天文学的な偶然の産物だろう。
 押入れ生活は唐突に終わりを迎えた。物が投げ込まれ続けていたのに、物が段々と減っていくようになった。女の子が次のステップに移ったのだろう。僕の上に載っていた服が持っていかれた瞬間、ついに待ち望んでいた光が射した。もし僕の口が自らの意志で動き、なおかつ言葉を発せられたなら、僕は「ヒャッホォォォォォォ!」と叫んでいたことだろう。手が動いたなら万歳をしただろう。脚が動いたなら、押入れから飛び出して走り回ったことだろう。そもそもそんなことができるのなら自分からここを出ていくのだが。
 視界には、見たこともない女性の姿が飛び込んできた。一瞬誰なのかわからなかったが、彼女が僕を見て「あ、タクヤ!」と笑みを浮かべながら声をあげ、あの女の子だということがわかった。金髪だったミディアムヘアは落ち着いたブラウンのロングヘアになっており、メイクにより彼女はかなりの美人に変貌していた。雰囲気が格段に大人になっていた。
 彼女は僕を押入れから引っ張り出して、懐かしんでくれた。彼女は半袖を着ていて、左腕にはいくつもの古傷がついていた。彼女のような人生を送った女の子にはよくあることなので、僕は特別驚くこともなかった。それ以前に驚きを表現することもできないのだけど。
 彼女は僕を押入れに入れたことすら忘れていたようだ。そんなふうに扱われるのは慣れていた。彼女は僕の身体に手を突っ込み、目と口を動かして、そこで初めて僕が腹話術の人形だということに気づいた。適当に台詞をつけて喋らされた。十分くらいすると飽きて、僕は部屋の片隅に放置された。
 それから、彼女は忙しそうに部屋の中を歩き回った。ダンボール箱が僕の周囲を埋め尽くしていき、部屋の物がどんどんなくなっていった。賢い僕は彼女がなにをしているか察した。
 彼女と母親のやりとりでわかったことなのだが、彼女だけが引越しをするらしい。専門学校へ進学するために上京して、一人暮らしをするとか。
 部屋の荷物が全て運び出されると、僕だけが取り残された。僕は荷物ではないらしい。この場に残されてしまう。
 と思いきや、僕以外なにもなくなった部屋に彼女が戻ってきて、僕は持ち上げられた。身体に手を突っ込まれ、部屋を出るとそこには母親と、見たことのない中年の男が居た。
「お母さん、行ってくるね」
 彼女はほとんど口を動かしていない。代わりに僕の目玉と口がよく動いた。母親と男は愛想よく笑った。
 男は母親の恋人らしい。近々結婚するとか。眼鏡を掛けていて、雰囲気が柔らかかった。男は、悪い男には捕まらないよう気をつけるんだよ、と彼女にアドバイスをしていた。母親と男は生涯を添い遂げることとなるだろう。僕の直感がそういった。いったところで口にはできないが。
 僕は捨てられることなく、彼女に抱きかかえられ続けた。どうやら大切にしてくれるみたいだ。彼女の行く末をもう少し見ていたかったので、僕はほっと溜め息をついた。もちろん心の中で。


  6


 移り住んだ場所は二階建てアパートだった。1Kで8畳の洋室。ベランダもついている。家賃は四万二千円。彼女の部屋は一階にあった。
 僕の居場所は押入れではなく、ベッド脇の棚の上に座らされた。闇の中に放りこまれなくて一安心だった。
 しばらくは人がアパートに訪れることがなく、新しい恋人ができなくて淋しいのか、彼女はやがて昔のように、僕をベッドに入れて眠るようになった。時に僕の頭を撫で、時に僕を抱きしめ、時に僕をベッドから出して膝の上に乗せながらテレビを観ていた。いつしか、彼女は以前のように僕にいっぱい喋りかけていた。腹話術の人形だということを知った彼女は、僕の身体に手を突っ込んで適当に会話を繰り広げた。
「タクヤ、私、もう恋人なんて一生いらないって思ってたけど、やっぱり淋しいよぉ」
「それなら俺で手を打たないか? 一生幸せにしてやるよ」
「……嬉しいけど、タクヤはどうみても子供じゃん」
「あっちの方は立派な大人なんだぜ?」
 そう言って彼女は独りで吹きだして笑っていた。「タクヤって面白いね」などと言っていた。面白いのは僕ではなく、彼女のほうだ。僕は心の中で腹がよじれるほど笑っていた。半分くらいは彼女を馬鹿にしている。もう半分は、彼女のユーモアを評価して笑っている。僕が熱を放つ生命体なら笑いすぎて涙すら零していただろう。
 そんなふうに、彼女の孤独な生活は半年ほど続いた。その辺りを過ぎたころ、男の影がちらつくようになった。八ヶ月目にしてついに男が連れ込まれた。
 男の外見は母親の恋人に似ていた。眼鏡を掛け、柔らかそうな雰囲気を醸し出している。腕力はなさそうだが、痩せこけているというわけでもない。彼女よりも十センチほど背が高かった。
 この人なら大丈夫。彼女はそう思ったのかもしれない。恐らく恋愛で多くの失敗を重ねたことだろう。優しそうだから、という理由で相手を選んだに違いない。しかし残念ながら彼女は本質というものを見抜けていなかった。僕は心だけの存在だから、見えない内面を見抜くのが大の得意だ。男を目にした瞬間、なんて薄っぺらいひ弱な奴かと思った。魂の力強さみたいなものがまるで感じられない。彼女を守ってはいけないだろう。そもそも男には彼女を守る気などないかもしれない。
 男は二週間に一度のペースでアパートにやってきた。男はよく、自分の知識を彼女にひけらかしていた。その度に彼女が男のことを賢いと褒めていたが、男がひけらかす知識の全てを僕はすでに知っていた。もちろん知っていたところでなんの意味もない。誰にも伝えられないのだから。
 男は中々尻尾を見せなかったが、ある日片鱗が見えた。男がこのアパートに住みたいと言った。男は現在一人暮らしをしていて、バイトだけでなんとかギリギリの生活を送っているのだという。男は写真家になることをずっと夢見ていて、詩も書いているとか。そもそもそれが彼女と出会ったきっかけのようなものだった。彼女が携帯のサイト上で彼と知り合い、彼が管理しているサイトの写真や詩を見て好きになったのだという。たまたま、あまり離れていない地域に住んでいたので、二人は会うようになった。
 男は、生活費を折半すれば君も楽になるよ、と持ちかけた。独りが淋しかった彼女は喜んで男を招きいれた。
 男の本性が現れたのはそれから間もなくのことだった。アパートに遊びに来ていたときは、男はあまり僕を気にかけなかったのだが、住むようになってから彼女の前で僕の身体に手を突っ込んで腹話術をした。初めのころは(おど)けて遊んでいただけで、彼女は楽しそうに笑っていた。だがある日、男が腹話術で彼女に言った。
「バイト、辞めちゃった」
 一緒に住みはじめて一ヶ月が経ったころのことだった。男は次のバイトをすぐに探すと腹話術で言ったのだが、二ヶ月経っても三ヶ月経っても働かなかった。そうしてついに、男は腹話術でこう言った。
「貯金が底を突いちゃった」
 僕はこういう男をよく知っている。人に依存できそうなものならとことん依存していくタイプのダメ男だ。早々に縁を切った方が彼女にとっては良いのだが、男に妙な愛着をもってしまった彼女は自分が生活費を賄うから大丈夫だと言った。元々は両親の仕送りと喫茶店のバイトで生活していた彼女は、キャバクラのバイトを増やした。存分に夢を追ってほしい、と彼女は言った。男は腹話術で「ありがとう、愛してるよ」と言った。
 男は、存分に夢を追った。一ヶ月ほどだったけど。
 段々家に居る時間が長くなり、昼間から酒を飲んだりゲームに没頭したり、ごろごろとテレビを観ているようになった。男のほうが八つも年上なのにも拘わらず、彼女が帰ってくると子供みたいに甘えていた。彼女は男を存分に可愛がった。
 新しいカメラが欲しい、写真を撮りに出かけるための費用が欲しい、そういった名目で彼女にお金をせびるようにもなった。お金をせびるときはいつも腹話術でお願いしていた。彼女は「しょうがないなぁ」と言いつつも嬉しそうに口元を綻ばせながら金を渡していた。
 人形の僕が見たって明らかにヒモ化しているのだが、どうやら共依存に入っているらしく、第三者の手が介入しなければ彼女は破滅の道を辿ることになるのが目に見えていた。見えたところで僕にはどうしようもない。心があってもなにも伝えられないのだから。
 彼女がきつく(とが)めないものだから、直に男は調子付き、頻繁にお金を求めるようになった。彼女の持ち合わせが少なくて「渡せるお金がない」というときは男も諦めるのだが、子供のように()ねて彼女の心を痛ませていた。彼女が居ないとき、金を貰えなかった鬱憤を僕にぶつけた。僕の外見は腹話術の人形にすぎないのに、彼は「お前が悪いんだぞ畜生!」と声をあげながら僕をボコボコに殴った。久しぶりにダンスを踊らされたのだが、それは心が躍る楽しいものではなかった。別に痛みはないのだが、暴力が彼女に向いてしまうことを心配した。心配してもやはり意味は皆無なのだが。
 恐れていた事態は起こった。当然の流れのようなものだった。お金を渡せない期間が長くなってくると、男はいままで抑え込んでいた情動をついに彼女へ向けて解放した。僕を投げつけ、彼女に殴りかかって「身体を売って金を作ればいいだろ!」と怒号を浴びせていた。僕は一応、彼女の味方だったので、このときばかりはたとえ無意味だとわかっていても「やめろ!」と叫び声をあげた。心のなかだけで。
 結局僕にはなにもできず、彼女は身も心も手酷く傷つけられてしまった。
 ある種、こういう男のパターンのようなものだが、彼女を傷つけるだけ傷つけたあとコロッと態度を一変させて優しくなった。自分がした過ちを、まるで大罪に扱い、執拗に謝罪していた。男は「時々自分を抑えつけられないことがあるんだ……ごめんよ。俺に冷めないでくれ」と彼女に言い、縋っていた。心優しい彼女は男を一切、咎めなかった。



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