7


 彼女は風俗の面接に行ってしまった。しかし、講習を受けたときに「こんなことやれない」と泣き出してしまったらしく、逃げ帰ってきた。男は彼女を優しく説得した。「君ならやれる」「俺との明るい未来のため、稼いできてほしい」「頼れるのは君しかいないんだ」という言葉を並べていた。僕はとにかく、心の中で逆の言葉を述べた。「君はそんなことができるような女の子じゃない。誰のためでもなく、君の未来のためにこの男と縁を切ったほうがいい」と。
「いま、ヘンな声が聞こえなかった?」
 不意に男が言った。
「変な声?」と、彼女は目元を拭いながら聞き返す。
「なんか……君に説教するような声」
 それはもしかして、僕の声だろうか。全くもって説教しているつもりはなかったのだが。
「ほら、聞いたか? それはもしかしてボクの声だろうか、って」
「ううん、聞こえなかった」
 さすがの僕も驚いた。もし身体で表現ができるのなら、手で口を覆って目を見開いて、男と彼女を交互に見遣っていただろう。
「おい、誰だ! 出て来い!」
「……ねえ、急にどうしたの? なにも聞こえないよ?」
 どうやら男としか繋がっていないようだ。人形やぬいぐるみの心が何者かの心と繋がる、という事例は過去にあった。多くは一時的なものだ。強い憎しみや、持ち主を守りたいという強烈な意志などがその状態を引き起こすのだが、僕の場合は守りたい意志と男を憎む意志が混同して、男とだけ繋がったらしい。
「ぶつぶつなんか言ってるぞ、これやばいって……」
「私はなにも聞こえないよ? 変なクスリでもやったの?」
「いや、本当に聞こえるんだ」
 男は焦りと怯えの混じった声で言った。部屋を見回しだして、怪しい場所を片っ端から探り出す。押入れ、部屋の壁、ベッドの下、衣装ケースの中、本棚などなど。
 やがて、ベッド脇の棚に座っている僕を手に取った。
「これか?」
 そうだよ。
「お前が喋ってるのか?」
 そうだって言ってるじゃないか。
 男は小さな悲鳴をあげて、僕をベッドに放り投げた。僕は軽く弾み、人間では中々曲げられないような方向に手足が曲がった。
「こいつは呪いの人形だ!」
「えぇ? タクヤが?」
「俺の言葉に受け答えしてるんだ!」
 僕にとったら、男の方が僕の言葉に受け答えしているという感覚だ。
「ほら、喋ってる、聞こえないのか?」
「私には聞こえないよ……。本気で言ってるの?」
「本気で言ってるさ、この人形が喋ってるんだ!」
 男はかなり取り乱していた。僕は男に向けて、思っていたことをぶちまけてやることに。
 彼女を困らせるようなことはやめろ、アパートから出ていけ能無しのクズ。
「タクヤは、なんて言ってるの?」
 男は彼女の言葉に答えず、茫然(ぼうぜん)とこちらを見つめていた。僕はこう続ける。
 僕は全てを知っているんだぞ。軟弱なお前は、彼女が居ないとなにもできない。彼女の優しさにつけこんで、振り回して、とことん寄生し続けるつもりだろう。彼女と縁を切れ。でなければ、僕はお前を呪い殺す。
「ねえ、タクヤはなんて言ってるの?」
「……君のこと、怨んでるって言ってる」
 はっ?
「君、昔この人形になにかしただろ?」
 彼女は戸惑いだして、過去に僕を押入れに放置しつづけたことを口にした。僕は必死になって、その件に関して一ミクロンも怨んでいないと言い続けた。
「やっぱりな。昔、君は精神がおかしくなって、摂食障害になっていたときがあったんだろう?」
「うん……」
「それはこの人形が君に呪いをかけていたからなんだよ」
「そんな──」
「こいつは捨てたほうがいい」
 ちょっと待て、無茶苦茶言うな、僕は心を持つだけの腹話術人形であって、誰かを呪う力なんて持ち合わせていない、本当はお前を呪い殺すことなんてできないんだ!
 心の中で叫び声をあげたので、男は両耳を塞いでいた。それでも声ははっきりと聞こえていただろう。
「君と一緒に居る俺のことも怨んでるらしい。俺を殺すと言ってる」
「そんな、怖い……」
 彼女はそう言った後、僕が昔、兄に無茶な扱いをされていたことを思い出して口にした。男は、それが呪いの人形と化した理由だと決め付けた。僕は兄を一ナノメートルも怨んでいないと言い張った。
 男は僕をゴミ袋にぶちこんだ。彼女は唇に指を当てながら、僕がぶち込まれた瞬間は手を伸ばしたのに、僕が救い出されることはなかった。
 男と彼女は一緒に外へ出て、ゴミ捨て場に向かった。明日は燃えるゴミの日だ。明らかに僕は燃えるゴミの部類ではないが、袋の中は生ゴミとか雑誌とか、様々なゴミが入っていて、僕はその中に埋もれた。袋は半透明だが、気づかれずに持っていかれるだろう。
 せめてもの抵抗として、「このまま捨てたらやっぱりお前を呪い殺してみせる」と叫び続けた。男は怯えながらも、僕をゴミ捨て場へと捨てた。
「ごめんね、タクヤ。ばいばい」
 去り際、彼女の声が聞こえた。もうどうすることもできないので、僕は受け入れて、せめて男に向かって、「彼女に『いままでありがとう、さようなら』と伝えて欲しい」と言った。男がそれを伝える声は聞こえなかった。
 季節は初秋で、夏の余韻がまだ残っているせいとゴミ袋が長らく野外に放置されていたせいで、生ゴミに蛆虫が湧いていた。僕のオーバーオールの上で蠕動(ぜんどう)している。それを最悪とか、気持ち悪い、なんて思わない。悪臭がするのだろうが、なにも感じない。
 所詮僕はただの人形。いつかは捨てられる運命だった。長い間持ち主に大切にされたほうだと思う。そんな持ち主のことを、僕も自分なりに大切にしたかった。手を動かせるのなら優しく髪を撫で、抱きしめたかった。添い寝をして、彼女を胸に抱いて眠ってみたかった。繋がったのがあの男ではなく、彼女のほうだったなら……。
 けれど、どうしようもない。そんな後悔は意味がない。僕は思考を止めた。成るがままに委ねるしかないのだから。
 ゴミの隙間から、微かに夜空が拝めた。僕ら人形やぬいぐるみはほぼ室内にいて夜空を見られることはないので、小さな光の並ぶ空間に目を凝らした。
 時間が経つにつれ、やがて空は薄明るくなっていき、星が見えなくなった。陽が昇り、ゴミ袋の中を赤い光が満たす。蛆たちがオーバーオールの上で嬉しそうにダンスを踊っていた。
 更に時間が経つと赤みは消え、空の青さが際立っていく。良い天気だった。
 人々が起きだし、僕の入っている袋の周辺には新たなゴミ袋が追加されていく。天上が塞がった。ゴミ袋が載せられて、薄暗くなってしまった。
 それから間もなく、普通車ではない車の音が聞こえた。ゴミ袋が投げ込まれる音と、ミシミシと潰れる音がする。僕の入っているゴミ袋の上に載っていた袋が持っていかれ、再び青空が見えた。
 次はいったい、なにに宿るだろう。もしかしたらこれっきりかもしれない。そんなことはわからないが、心が宿ったとしても、宿らなかったとしても、僕は不幸だと思う。だって、どっちも嫌だから。どこかに心が宿ったとしても、同じようなことが繰り返されるだけ。だからといって、僕の心が終わってしまうのも嫌だった。
 だからこそ、人形やぬいぐるみに心が宿るのは不幸なんだ。
 ガサッ、と音がして、ゴミ袋の中身が少し動く。持ち上げられたようだ。隙間からごみ収集車の後姿が見えた。ゴミが次々と押し潰されていた。僕も押し潰されるんだ。だがグチャグチャに潰れても、ある程度形が残っていれば僕の心は腹話術人形に在りつづける。しっかりと焼却されて、ようやく消えるだろう。
 ゴミ袋を持っている清掃員が、腕を後ろに引き、勢いをつけて──
「タクヤ!」
 彼女の声が聞こえた。清掃員の動きが止まり、彼女は「タクヤが、タクヤが」と連呼しながら駆け寄ってくる。僕が入っている袋が投げ込まれる寸前だったことに気づき、清掃員からゴミ袋を奪った。無理に引っ張ってビニールを破り、ゴミの中に手を突っ込んで、僕は掴まれた。持ち上げられると、オーバーオールに乗っていた蛆虫がぽろぽろと落ちた。
 彼女は薄っすら涙を浮かべていた。蛆を払い、生ゴミに埋もれていて汚いにも拘わらず、僕を力いっぱい抱きしめた。
「ごめんね、タクヤ……本当にごめんね……」
 僕は温かさなど一切感じぬ無機的な人形。けれど、このときばかりは彼女の温かさを感じられた。心の温かさを。

 アパートに戻ると、ベッドではまだ男が寝ていた。僕が男に向かって適当に罵倒を浴びせると、叫び声をあげて飛び起きた。僕の姿を見つけると、どうして捨てたはずの呪いの人形を持っているんだ、と怯えながら言った。
「たとえ呪いの人形でも、私はいままでタクヤを大切にしてきたの。だから、あんな粗末な捨て方はできない」
「じゃあどうする気なんだ、俺たちは呪い殺されるぞ!」
 可能ならばお前だけを呪い殺したいが僕にはそれができない、と心の中で言ってみせる。
 彼女は僕を抱えなおし、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
「ここに置いておくつもりはないわ」
 へっ? 男も同時に口にした。
「神社かお寺へ持っていって、供養してもらう」
 ああ、なるほど。
 結局捨てられるわけだ。彼女にとって、満足のいく捨て方によって。


  エピローグ


 供養、という展開は慣れている。僕はいつだって、いずれそうなることも考慮していた。もう少しだけ彼女といられるかと期待していたが、残念だ。
 彼女は人形供養をする寺を適当に見つけ出した。男はついてこなかった。住職に僕を捨てることになった経緯を説明し、彼女は何度も僕に謝りつつ住職に手渡した。彼女はなにも悪くない。兄だってなにも悪くない。僕の心は、これから先の彼女の幸福を胸いっぱいに祈っているのに、呪いの人形としてお別れさせられることが辛かった。住職は感情移入して彼女に同情していた。それだけ謝意(しゃい)があるのなら人形もきっとわかってくれますよ、と勝手な解釈をしていた。
 僕は祭壇に置かれ、住職が経を唱えだす。一文字一文字に堅苦しい意味が籠められているのだろうが、聞いていても疲れるだけだ。そんなことで僕の心が浮かばれるはずがなかった。彼女は住職の後ろで正座をし、瞼を閉じて両手を合わせている。その姿を見ているだけで、僕は胸の痛みというものを感じた。
 長ったらしい経が終わり、彼女は痺れた足を揉み解したあと、住職に奉納金を渡した。彼女にとってそのお金というものは、自分の中にできあがった罪悪感を清算するようなものなのだろう。僕の視点から冷静に見れば、ただ勿体ないだけだった。恵まれない子供たちに募金してもらったほうが僕は浮かばれる。ついでにその子供たちに僕を渡して欲しい。
 そんなふうに平和を願ったとしても、やはり意味はない。僕はなにも言えず、なんの行動もできず、ただ人間たちの手によって成すがままにされる人形。どんな心もちゃんとした形にできなければ、無意味なだけだった。
 彼女は最後にもう一度だけ、僕を撫でた。住職は、六日間安置室に放置した後に僕を焼却処分する、というようなことを言っていた。彼女はよろしくお願いしますと頭を下げ、お寺を去っていった。
 安置室というのは陽も射さぬ薄暗い物置だった。あまり人気のない寺なのか、木製の棚には立派な日本人形が二体とクマのぬいぐるみが一体置いてあるだけ。僕は大きいから、積み上げられているダンボールに放置された。
 物置の扉が閉まると、完全な闇に包まれた。僕は押入れに閉じ籠められていたころを思い出した。終わりの日まで時間がある。暇なので、話ができるやつと会話でもしようと、みんなに語りかけた。だが、誰からも返事を得られなかった。心を持っている気配も感じられない。どんな理由でこの場に連れてこられたのかはわからないが、こいつらは心を持たぬ幸せな人形とぬいぐるみのようだ。
 心があれば時間の経過を感じていなければならない。心があれば、入り込む情報を処理してしまう。物事に感情を湧かせることもある。なにかをしたいと思うこともある。だが、行動ができなければなにもかも無意味だ。あの男と意志の疎通ができた分、僕は幸せな方なのかもしれない。ほんのわずかだけ僕の心の存在を知らしめたのだから。
 なにもできないので僕はただ待った。いや、「待つ」というのも違う。僕はここに居ることしかできない。わずかな光もない暗闇なので、時間を計ることもできない。計れたとしても意味がないのだが。
 僕は思考を停止させ、ただ闇に目を凝らすだけにした。

 唐突に扉が開き、光が入り込む。住職が物置に入ってきて、雑に人形とぬいぐるみを掴んで持ち出していった。六日が経ったらしい。僕は大きいので最後に持ち出された。時間の感覚はなかったのでよくわからないのだが、六日というのが随分と短く感じた。本当は六日なんて経ってないのかもしれない。一日しか経ってないような気がする。気がしても、確認する術はない。そもそも、そんなことはどうでもいいことだった。
 先に持っていかれた人形とぬいぐるみが、境内(けいだい)の地面に盛られたゴミの上に載っかっていた。紙束や乾いた葉、古びた竹箒など、寺から出たゴミへ僕も投げ捨てられる。クマのぬいぐるみの上に、大の字で乗っかった。空は灰色の雲と白い雲が折り重なった曇天。遠くの、雲が薄い場所は真っ白に輝いていて、微かに青空も覗いていた。
 あまりよくはない天気だが、住職は僕らを燃やすらしい。撒いた油が、僕のオーバーオールに染みこんだ。雑な供養の仕方だと思う。思ったところで意味はない。それに、僕は供養すること自体に意味を感じない。人間というのは僕らを造形したり勝手に忌み嫌ったりと忙しいな、と思った。
 住職がマッチを擦り、下に敷かれている紙束に火が点く。
 僕は無意味な思考を止めた。
 火が、撒かれた油をたどり伝って、僕のオーバーオールに引火する。火勢が増し、パチ、パチ、と音が鳴る。燃料に燃え移っては火柱が高くあがっていき、僕の素材が溶けていく。おそらく、僕は燃えきらない。多少は残ってしまうだろう。
 傍らでは一応、住職が経を上げていた。そういうことはするらしい。してもしなくても、僕にとってどっちでもいいけれど。
 住職の経のことよりも、部位が中途半端に残って人形から心が解放されないことよりも、僕は燃え盛る炎の中で彼女の行く末を一番に案じた。案じたところでなんの意味もないけれど。わかっていても、やはり案じずにはいられない。だって彼女はこの先、男に愛されることなく、愛とお金と人生を搾取され続けるのだから。最悪の場合、自殺してしまうかもしれない。
 できることなら僕が彼女の恋人になり、一生守り抜きたい。不可能だと知れても、そう願わずにはいられなかった。
 届くことのない僕の想い。なぜこんな心を持ってしまったのか。それは、何度だって解釈してきた。ただの偶然だと。それでも、同じ自問自答を僕はやってしまう。
 久しく感じたことのない、深い悲しみというものが僕の胸を締め付ける。意味がないのに。表現もできないのに。
 金髪もオーバーオールも燃え尽き、僕はハゲの素っ裸になった。醜い、馬鹿げた姿をしていることだろう。もし僕が生理作用を営む有機物なら、自嘲している。そうして、涙を零している。笑いながらボロボロと涙を溢れさせている。炎の中なのですぐに蒸発するだろうけれど。
 ジュゥ──
 不意に、音が鳴った。僕の想像していた蒸発の音。溶けていく目元が濡れて、頬を伝って、蒸発する。
 自分の涙かと思ったが、違う。そんなわけがなかった。天から降り注ぐ雫だ。何度も僕の目に直撃して、わずかに頬を伝い、蒸発する。ちょうど泣きたいと思っていた。タイミングのよさに感謝の念が湧いた。その感謝はどこに向ければよいのだろう? やはり神様だろうか。
 これが本当に神の仕業なら、その神というのは中々粋なことをする奴だ。下衆野郎であることには変わりないけれど。
 雨はポツポツと弱く降る程度だった。炎が消える気配はない。住職は濡れたくないからか、経を中断してお寺に入っていった。
 僕は燃え続ける。しかし、この炎は僕を燃やし尽くすには至らない。僕は惨めな姿で残る。心は囚われ続ける。彼女の行く末を案じてはいるが、やはりこの人形からさっさと解放されたいと思う。
 思ったところで、やはりどうしようもない。
 結局のところ、僕は物言えぬただの人形に過ぎないのだから。



(了)


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