第八話 「はじまり」‐原崎 夏陽子‐


 コーヒーカップの隣に置かれた、鮮血の指輪。
 眩く光を放つパソコンのモニター。
 電気の点けられていない部屋。
 机の上に雑然と並べた資料。
 物が散乱した七畳間の床。
 閉じているカーテン。
 頭を抱える私。
 流行ることなくすぐ消えるだろうと、いい加減な気持ちで発信した情報は、私の考えとは逆行して瞬く間に広まった。現実のものとなって、人から人へと伝播していった。
 まさか、こんなことになってしまうなんて、あのときの私が知る由もなかった。


  1


 ねちっこい口調で喋り続けるヒゲ面の編集長。
 クーラーのつけられていない狭いオフィス。
 忙しなくキーをタイプする音。
 外から入り込む温風。
 蒸し暑い。
「そこで、人々が飛びつきそうな特集を組もうと考えているんだよ」
 蓮見編集長は本題に入るまでの話が長い。無駄な話はいつものように聞き逃し、ようやく本題に迫った言葉を、私の耳は拾ってくれた。
「廃刊の危機に面するこの『オカルトオリジン』を巻き返すような、ビッグな特集をね」
 編集長は、机に置かれた『怪奇来歴』を人差し指でとんとん、と突く。個人的にだが、『オカルトオリジン』という名よりは以前の『怪奇来歴』の方が好きだった。だが時代の流れと共に堅苦しいものがウケなくなっていき、雑誌は名を変えた。単に英語に変わっただけだが。
 私はズレてきた眼鏡を、人差し指で戻す。
「ネタはあるんですか?」
 背もたれに体重を預けていた編集長が突然、前のめりになって指をパチン、と鳴らした。ノってきた証拠だ。
「よくぞ聞いてくれた! 夏陽子(かよこ)君は実に素晴らしい」
 実に、が最近のこの人の口癖だ。ドラマ『ガリレオ』にハマって以来、実に、を多用するようになった。
「運命の赤い糸がなぜ生まれたか、知っているかね?」
 その特集は当雑誌で掲載したのだが、この人は忘れているのだろうか。
「二つルーツがありましたね。中国と日本の話。個人的に中国の伝承──冥界に住んでいたおじいさんがこの世に来て、持っていた袋にたくさん入ってた赤い縄を足に括りつけて男女を結びつけるお話が、私は好きです」
 私が喋る間、編集長はうなずきっぱなしだった。話は聞いているが、頭に入っていない。後日「私はどちらのルーツが好きだと思いますか?」と訊ねても、この人は唸りながら、「夏陽子君の性格からすると……」とでも言うだろう。
「第三のルーツを見つけたんだよ」
「第三のルーツ?」
「うむ。夏陽子君は実に良い反応をする」
 私にとっては相槌のようなものだ。
「第三のルーツ、というより、ルーツからの派生かもしれない」
「ルーツからの派生? どちらのですか?」
「それはわからん。それを夏陽子君が調べるのだよ」
 やっと要件を理解できた。
「これが本物のルーツかもしれんし、派生なのかもしれん。はたまた、デマかもしれん」
 編集長は背もたれに背を預けて腕を組む。
「どこから仕入れたネタですか?」
 編集長はニマっと笑う。気持ち悪い。
「知り合いのフリーでやっとるライターからのネタだよ」
 この人はフリーライターとは言わない。必ずフリーとライターを分けて言う。編集長のルーチンは単純且つ面倒くさい。
「ネタ、というほどのものでもないがね。酒の席でわしが『良いネタないか?』と訊いたら、ふっとそいつが漏らしたんだよ。とある地方でその昔、『赤神のまじない』というのが流行っていたと」
「赤神ですか? そんな神様聞いたことありません」
「知らないのか?」
 なぜそんな言い方をするのだろうか。知らないものは知らない。
「知りません」
「そうか……。酒の席での言葉だから、アヤツの妄想かもしれんなあ。でも、なかなかまじないの内容もしっかりしておった。聞きたいか?」
 聞きたい、という私の意志が欲しいらしい。
「ぜひ」
 そう返すと、編集長は満面の笑みを浮かべる。前のめりになって両肘を立て、手を組んだ。
「その昔、恋ごとに悩む者が小指に赤い糸を結び付けたらしい。すると赤神が舞い降りて恋を叶えた、という」
 そこで言葉が切れる。私は続きを待つ。
 編集長は、じっと私を見つめる。何を溜めているのか。
 ……まさか。「終わりですか?」
「終わりだよ?」
 当然の如く言われた。
「情報が少なすぎです」
「言ったじゃないか、ネタというほどのものでもないと。でも面白いだろう? いかにも恋に悩む女子高生が飛びつきそうじゃないか」
 なぜ女子高生なのか。この人が若い女を好んでいるからか。
 そもそも、こんな陰気な雑誌を女子高生が購読するわけない。そんな女子高生がいたら、多分その子は友達がいないだろう。変わり者で、眼鏡をかけていて、常に無表情で、心の中で世間を常に嘲笑の対象にしている。私のことだ。
 それ以外の女子高生で怪奇来歴を購読していたなら、その子は物好きで多趣味で、素直なお馬鹿ちゃん。
「そのネタを、私が調べて記事にするんですか?」
「そうだよ。楽しそうだろう」
 これは、私に対する虐めだろうか。
「私は適任ではないと思いますが?」
「それはなぜだね? 二十八にもなって恋愛経験が〇だからかね?」
 (みな)まで言わないでもらいたい。
「それもありますが、私が記事を書けばどうしても堅苦しいものになります。若者心のある涼香(すずか)さん辺りが適任だと思いますが?」
 チラリと顔だけ涼香さんを見遣る。涼香さんもこちらを見ていた。
「涼香君は別件で忙しいんだよ」
 編集長に顔を戻す。いつの間にか背もたれにもたれていた。土偶の形をした重石を掌で転がしている。
「それに、恋愛経験のない君がやるから面白いんだよ。何事にも緻密にやれる君を評価してのことでもあるんだからね」
 ありがとうございます、と一応言っておく。
「あとね、君が適任だという最大の理由が一つ」
「なんでしょう?」
「君、出身は愛知だっけ?」
「はあ、そうですけど」
「君、長いこと故郷には帰ってないんでしょ?」
「はあ、帰ってませんが?」
「お盆も迫ることだし、この機会に帰ったらどうだね」
 さっぱり意味がわからない。なぜ実家に帰らせようとするのか。そもそも、普通はお盆に帰郷するものではないのか。
「赤神のまじないが流行ったその地方というのが、君の故郷の一帯なんだよ」
 ああ、なるほど。
 だから私なのか。


  2


 お盆前の刊行に向けてのものだから、期限はあまりない。
 編集長はネットでこのまじないを調べたらしいが、どこにも情報はないという。このネタで怪奇来歴を巻き返したいなどと妄想していたけれど、ネタに斬新さがない上乙女チック過ぎるし、ただでさえ部数は伸び悩む一方なのだから、なんの話題にもならないだろう。
 とはいえ、与えられた仕事。私自身、「赤神のまじない」に少し興味はある。私なりに仕事を遂行してやろう。

 三年ぶりに実家の敷居を跨いだ。
 実家は代々、先生やら市の職員やら、家族がお堅い仕事に就いていた。おじいちゃんが町長をしていたこともある。町に住んで町のために働く、という循環から私だけが逃げだし、東京に行った。
 私の顔を見るや、母は言う。
「あら夏陽子、久しぶり。ずっと顔見せないから死んだかと思った」
 もちろん、母は冗談で言っている。
 仕事のためこちらにいることになったから、少しの間ここで寝泊りしたいと私は言った。
「ご自由にどうぞ。一応、あなたの家でもあるのだし」
 母はそう言ってくれた。果てしなく遠まわしに、この町を出たことを詰問しているのだろうが、基本的に母はいつも歓迎してくれた。
 落ち着いたころ、母に訊いた。
「お母さん、赤神のまじないって知ってる?」
「知らない」
 即答だった。
「そのおまじないを調べてるの?」
「うん。次号刊行に向けて急遽決まったの。昔、そのおまじないがこの辺りで流行ったんだってさ」
 へー、と母は興味なさそうに言う。
「おじいちゃんに訊いてみたら?」
 私の頭の中でも、もうそれを考えていた。

 元町長が、今や見る影もない。
 ここのところ急速に体調を崩し、足腰が悪くなり、最近はほとんど寝たきりだという。
「おじいちゃん」
 ベッドで寝ている祖父に呼びかけると、嗄れ声で反応する。
「おお、夏陽子、随分久しぶりだなあ。いつぶりだあ? また少し、歳をとったなあ」
 まだボケていないようだ。
「おじいちゃんはまだまだ元気そうね」
「おお、元気だとも。あんまり身体がいうことを聞かんけどなあ」
 いずれ自分もそうなるのかと思うと、ゾッとしてしまう。
「おじいちゃん、赤神のまじないって知ってる?」
「ん? なんだって?」
「赤神の、おまじない」
 区切ってハッキリと言ってみせると、「あ〜、あ〜」と、得心が行ったようにうなずいた。
「知ってるの?」
「いいや知らん」
 ハッ、と私は笑ってしまった。
「アカガミってなんだあ? 赤い紙のことか? 赤い髪の毛のことか?」
「赤い神様のこと」
「んー、知らんなあ。悪い」
「いいよ、おじいちゃんは悪くないよ」
 祖父はゆっくりと笑顔を見せる。
「代わりに、わしの先祖が住んでた山里の、恐ろしい呪いの話をしてやろう」
 その話は幼少の頃から耳にたこができるほど聞かされた。おじいちゃんはこの部分だけボケている。
「その話は知ってるよ」
「おお、知っとったか」
 幸運を呼ぶ力を持った巫女の話。
 その巫女が、祖父の先祖が住んでいたという山里の者と恋に落ちて、二人は遠くの地へ逃げた。それにより神が怒り、巫女を奪った里の者たちを呪いにかけ、里の者たちに不幸が訪れて、お互いを憎しみ合うようになり、殺し合いすらはじめた、という。
 そんなおどろおどろしい作り話を聞かされながら、私は育った。

 こういったことは民俗学者に訊くのが手っ取り早い。以前、違う案件でお世話になった大学の民俗学部教授に電話で話を伺った。
 しかし、「聞いたことがない」という回答が返ってきた。
 教授に聞けば絶対に情報が出ると楽観的になっていたのに、それは安易な考えだったようだ。出鼻を挫かれた。早くも行き詰まった。
 教授は、「何かわかったら連絡する」と言ってくれた。が、それを期待してはいけない。教授からの連絡はないものと思い、独自に調査をしていかなければならない。
 外に出て調査しようかと考えたが、それは明日にすることにした。今日はもう移動だけで疲れた。
 晩になり、地方公務員である父が帰ってくると、「珍しいお客さんだな」と言った。赤の他人扱いだ。
 私は帰ってきた事情を説明し、赤神のまじないについて父に訊いた。だが、父も知らなかった。祖父が知らなかったのだし、元々期待はしていなかったけれど、残念だ。
 一応、妹と弟にも赤神のまじないについて訊ねた。が、当然知らなかった。
 調査は難航しそうだ。

 翌日。
 事前に「フリーのライター」から噂の出所は聞いていた。昔、私の故郷から少し離れたところには、旅人達が腰を休める宿場町があった。それは私も知っていた。ライターは、過去に存在していた宿場町を調べるためにその地を訪れたのだが、そこで会った老婆から、古くからこの地方に伝わる赤神のまじないを教えられたらしい。そうして老婆は、ライターの男に赤い糸を結おうとしたのだった。
 流行ったのはその宿場町だけでなく、他の地方にも伝わったらしいのだけど、私自身初耳だし、私の家族は誰も知らなかった。
 ライターは、老婆とどこで会ったか、というのを忘れていた。「記憶から消し去った」と言っていた。地道な調査をするしかないので、宿場町があったその場所へと電車で移動した。……今や「町」ではなく、「市」だけど。
 宿場とはその昔、主要な街道筋にあって、旅人のための宿や食事処などの設備が整っていた場所のことだ。多くの旅人が行き交い、盛んに交易などが行なわれ、発展していった。
 今や街道は、多くの車が行き交う国道に成り代わっている。そこで腰を休める旅人などおらず、ただの通過点に過ぎなくなっていた。元街道沿いに古風な雰囲気はどこにもない。コンビニ、ファミレス、スーパーマーケット、レンタルショップ、本屋、ガソリンスタンドなどなど。完全に現代化していた。裏道を行けば、多少宿場町の名残を見られる。伝統あるうどん屋などがあるが、見るからに閑古鳥が鳴いていた。宿も、ないことはない。そこは愛を囁き合うための宿だけど。
 歩きで、赤神のまじないのことを訊きまわった。訊くにあたって、「オカルト雑誌のライターですけど」とかいう前置きはしない。それは素性を訊かれたときだけ答える。「この辺りで流行ったおまじないを調べているのですが、赤神のまじないというのはご存知でしょうか?」だけで充分。そうやって、一先ず十人あたった。ほとんどが年配だったのだが、誰も赤神のまじないを知らなかった。
 これは、老婆の空想かもしれない。だとしたらなんとも恐ろしい老婆だ。巧に男を逆ナンする老婆。きっと長生きする。

 それから陽が暮れるまで聞き込み調査を続けたのだが、結局情報は掴めず。性別を問わず年齢すら問わず、百人以上は訊きまわったのだが、誰も知らなかった。老婆の正体が「巧みな逆ナン老婆」で確定しそうだ。
 家に帰ると、パソコンを使って編集長にメールで状況を伝えた。これだけ努力して何も得られないのだから、諦めてほしい。
 晩には母の料理を手伝い、食卓で私は状況を愚痴った。父は「そんな仕事は辞めて、もう家に帰ってきなさい」と言った。よくそう言う。そして私はいつも首を横に振る。
 そんな父だが、それでも娘が困っているのが放っておけないのか、知り合いに赤神のまじないのことを訊いてくれたらしい。だが、誰もそんなおまじないを知らなかった。
 明日はどうしたらいいのか。場所を変えて、情報が出るまで聞き込みを続けるしかないかもしれない。それか、編集長が諦めてくれればいいけど。


  3


 期待をしていなかった場所から、突然情報が飛びだした。それは教授だった。
 さすが民俗学の教授。私の持つ概念をひっくり返してしまう情報をくれた。
 赤神のまじないは、確かに存在していた。だがそれはこの地方に限ったことではない。赤神のまじないは、様々な地方に残っていたという。発祥の地はわからないらしい。愛知なのかどうかもわからない。ただ、京都が一番怪しいと教授は言った。京都にいる、民俗学に携わる知り合いに訊ねたとき、京都の一部地域ではそのまじないは有名だと言っていたらしい。若い人はあまり知っていないのだが、年配層に赤神のまじないを知る者が多いのだという。いつの時代からそのまじないが存在しているのかは定かではないが、そのまじないのやり方はどこも共通。左の小指に、何結びでもいいので赤い糸を結う。すると、赤神がその身に舞い降りて、誰しもが好意を寄せる相手に積極的になれるのだという。編集長から聞いた話とだいたい同じだ。
 だが一方で、このまじないを禁断のまじないとしていた地域もあるという。理由は、呪われてしまうかららしい。まじないも呪いも、意味は似たようなものだが。赤神のまじないは、一部では忌み嫌われ、一部では画期的な恋の呪術として扱われていたようだ。
 呪われてしまった場合、どんな効果が現れるのかというと──曖昧にしかわからないのだが、自分も含め周りを不幸にしてしまうのだという。
 赤い糸を結えば、確かに何かが起きた。だが、いつかを境になんの効果も現れなくなった。そうしてまじないは廃れていった。
 教授がくれた情報は、大きな進歩となったのだが……京都には行きたくない。面倒くさい。
 編集長からメールが来ていた。もっと粘ってほしい、とのこと。まあ情報を掴んだからには、まだまだ赤神のまじないについて調べられそうだけど。
 今日、宿場町の辺りでもう一度聞き込みをして、それで何も得られないようなら明日、京都に旅立とうと決めた。

 昨日とは少し場所を変えて聞き込みをした。若者に訊いても知らないだろうから、ひたすら年配をターゲットにした。ただ歩いているだけでは、年配者に遭遇できない。こんなことをするのは苦手な性質なのだけど、商店や家々などを飛び込みで訪ね回った。
 根気よく家をあたっていって、なかなか情報が得られなかったが──六十一件目、ついに赤神のまじないを知る人と遭遇した。
 元が雑貨店の店主だった。とはいえ、御歳八十三。おじいちゃんだ。
「おお、アカガミのまじないとな。代々その話は伝えられとる」
 まじないのことを訊くなり、おじいちゃんはそう言ってくれた。
 雑貨店を閉業したのはもうだいぶ前になるのだけど、何百年も続いた老舗だったらしい。万屋と呼ばれる時代から店をやっていたとか。
 私は奥の座敷に通されて、そこで待つように言われた。
 趣のある室内を眺めていると、おじいちゃんは戻ってくる。
「これが、アカガミです」
 ただ待つように言われていただけなので、不意におじいちゃんがそう言って出されたものに、私は困惑した。それは丁重に額の中に入った、二本の糸らしきもの。
 私はズレる眼鏡を手で支えながら、モノを凝視する。
「これが、赤神ですか?」
「ええ、少し色変わりしてますが、赤っぽいでしょう?」
 確かに赤っぽいけれど、これが神様? 意味が全然わからない。
「これを神様として崇めていらっしゃる、ということですか?」
 おじいちゃんは「はあ?」と、まるで私が見当違いなことを言ったような反応を示した。
「崇められるようなお人のカミですが、これを神様として崇めたことはありません」
 ……まさか。
「これは、赤い糸ではないですよね?」
 私がそういうと、おじいちゃんは「はあ?」と言ったあと、「はあ〜」と、得心が行ったようにうなずいた。
「これは赤い髪の毛です」
 やはり。
「もしかしてアカガミというのは、赤い神様ではなく、赤い髪の毛のことを言うのですか?」
「ええ」
 あっさり言われた。ひどい思い違いをしていたもんだ。
「今やもうなんの力もございませんが、この赤い髪を左手の小指に結えば、夫婦円満になれるとか。先代はこの赤髪で夫婦仲を取り戻し、子宝に恵まれたと伝えられています」
 まじないのやり方や効力は同じようだ。
「旅の若者が、店に置いてあった──まだそのときは珍しいものでしょうが、指輪を欲しがり、その代金がないからと、この不思議な髪を先代に渡したそうで」
 ぞくぞく、と私の中で好奇が湧く。
「髪の毛は、旅の若者の髪だったのですか?」
「いえ。見ておわかりいただけるかと思いますが、これは女性のものです」
“赤髪”に視線を落とす。確かに、男性のものというには無理がある長さだ。
「これはその昔、山奥にあったといわれる社の、そこに住む巫女様の赤髪です」
 その情報は、私の脳内の“何か”に躓いた。なんだろう? 何か、関連する情報を私は知っていたはず……。
「赤い髪の巫女ですか?」
「えぇ。とても長く、艶やかな髪をしていて、まるで全身が真っ赤に染まっているように見えたとか」
 私はそれを想像してみる。
 幻想的、というか……いや、やっぱり怖かった。だいたい、そんな古い時代に髪を真っ赤にした女なんていたら……一歩間違っていたら妖怪扱いされていただろう。
「赤髪の力がなくなったあとも、先代は後世捨てずに残すようにと、こうやって丁重に飾っていたのです」
 私はとにかくうなずいてしまう。素晴らしい。こんな場所で歴史的発見をしてしまった。
「あくまでも言い伝えですが」
 ふいに感動の腰を折るようなことを言われた。
「ご主人はこれを指に結ったことはないのですか?」
「とんでもない、ありません」おじいちゃんは首を振った。「実は、先代の言い残しで、決して赤髪を指に結ってはいけない、と伝えられておるのです」
 意味がわからない。何か矛盾している。
「はっきりしたことはわからないのですが、力のなくなった赤髪を結い続けた者に、いつしか不幸が訪れるようになったようで」
 私のオカルト脳が反応して、身体に高揚感が駆け巡る。これは、教授の話と一致してしまう。
「どんな不幸が訪れたのですか?」
「その身が呪われてしまうとか。詳しい話は知りません」
「そうですか……」
 残念だ。だが、ここまでわかったのは物凄い進歩だと思うし、まだまだこの人から色々聞きだせるはず。
「赤い神様、というのは存在しないのですか?」
「ええ……それは恐らく、さきほど申した巫女様のことでしょう」
 なるほど。筋は通っている。全身が真っ赤に染まったような巫女。赤神と呼ばれてもなんら不思議ではない。
「後に赤い糸でそのまじないをするようになったらしいのですが、なぜだかわかりませんか?」
 それは、とおじいちゃんは言う。
「赤髪の代わりに赤い糸でまじないをしたのがはじまりでしょうな」
「ああ、なるほど」
 つい感嘆をあげた。だが、ふと疑問が浮かんでしまう。
「その身が呪われるといわれて、なぜ赤い糸でまじないをしたのでしょうか?」
「それだけ、恋愛ごとに悩む者が多くいたということでしょう」
 心から同意できる考えだ。今も昔も、そういったことに悩むのは同じだっただろう。
 おじいちゃんの推測の部分もあるが、有意義なお話をたくさん聞けて、個人的に大満足だった。
 最後に赤神のまじない発祥の地を尋ねると、それは巫女の住んでいたところだろうとおじいちゃんは言った。素晴らしい叡智を秘めた老人だと思う。
 私は身分を明かし、おじいちゃんから記事にする許可を貰った。赤髪などの写真も撮らせてもらった。
 家に戻ると、さっそくこれまでに知ったことをまとめた。編集長もさぞ喜んでくれるだろう。「実に素晴らしいよ夏陽子君」とでも言ってくれるはず。

 文をまとめる合間にメールを確認すると、教授からメールが届いていた。短い内容だったけれど、赤神のまじないを更なる確信に導くものだった。
「電話で赤神のまじないの、呪いについて言ったけど、呪われた人々の中には真っ赤な指輪が見えた人もいるらしい」
 糸を結った小指に、それが見えたのだという。


  4


 昨晩のうちに、私は左手の小指に赤い糸を結ってみた。こま結びで。けれど何の変化も現れない。まあ、本気で現れるとは思ってもいないけれど。
 もう調査は充分だろう。京都には行かない。追々、行くことになるかもしれないが、とりあえずここで切り上げる。今日は土曜だし、家でのんびりと記事をまとめ、明日東京に帰ろうと決めていた。
 が、しかし、家族との夕食の席で、滞在を延期せざるを得ない情報が飛びだした。情報主は父だった。
「原崎家の先祖が住んどった山里の話を知っとるか? どうやらそこの山奥に、夏陽子の言う赤神を(まつ)った神社があるらしい」
 それだけで何もかもが繋がってしまった。謎解きの最後のピースだった。その言葉を私の知る情報と照らし合わせれば、答えまで解釈するのは造作もないことだった。
 つまりは、祖父の話してくれた「幸運を呼ぶ力を持つ巫女」が、赤い髪の巫女。雑貨店にあったあの赤い髪は、その巫女のものだったんだ。巫女は山里の者と恋に落ち、住んでいた社から逃げだした。ご主人の言っていた「旅の若者」が、もしかしたら巫女の恋のお相手しれない。
 素晴らしい。だとしたら、指輪は巫女にプレゼントしたのかもしれない。その指輪が……赤神のまじないをする者には見えた? 小指用の指輪だったのだろうか……。
 巫女が社から逃げたことにより、神は怒り、巫女の髪を結う者たちを不幸にしてしまった、というところだろう。
 父から先祖が住んでいた場所を訊いたが、それは知らなかった。だから祖父に訊いた。祖父は場所を知っていた。
 ここから少し遠いが、同じ愛知県内の山にあったらしい。


  5


 今はもうそこに誰も住んでいない、と祖父は言った。先祖は山里に災いがもたらされたことにより、土地を離れた。
 レンタカーを借りて里があった場所へ向かった。もし道がなかったら、途中から歩いてでも行くつもりだ。
 山道を車で進み続けると、そのうちアスファルトはなくなって、粗い土砂の道になった。車がガタガタと振動し続け、不安を感じながら山を進んだ。
 幸いにも、車で通れる道は続いた。そうして、木々のない開けた場所に出た。車を降りて、私は呼吸をする。山中独特の涼しげで新鮮な空気が漂ってはいるものの、視線の先は鬱蒼とした地があった。
「ここが、私のご先祖が住んでいた里……」
 雑草が伸び放題で、その中に家らしき形のものも見える。とても人が住める状態ではない。そもそもこんな場所に住むことすら無理があるけれど。
 それなのに、雑草の生えていない道がまだ続いていた。歩いて進んで行くと、道はやがて行き止まり。その先は、更に山を登るための階段がある。コンクリート固めの立派なものではなく、地形を利用した土の階段だった。
 この先に、父の言っていた神社があるのだろう。
 階段を上っていくと、不意に左手に、違和感を覚えた。手を上げ、
「えっ!」
 赤い指輪が私の小指についている。
 階段から足を踏み外した。身体がよろけ──前のめりに倒れそうになり、土の段に手をついた。
 ……危なかった。転げ落ちたら大惨事だ。
 身体を起き上がらせて、もう一度小指に目をやる。
「あれ……」
 赤い糸。指輪ではない。
 目を凝らして指を見回すも、何の変化も見当たらなかった。私の結び方が緩いからか、外れてしまいそうになっていた。こんな調査を続けているから、幻覚が見えたのだろうか。ゴールが目前に迫っているわけだし。意識のしすぎだ。
 階段を駆け上がり、目的の場所が視界に入った。鳥居を抜け、境内に入る。
 正面には、意外にも立派な木造の正殿が建っていた。だいぶ古ぼけてはいるけれど。右側に巨木が聳え、その隣に小さな脇殿がある。脇殿の方が状態は良く、所々が朱色に染められていた。こんな誰も来ないような場所なのに、神社として存続しているようだ。
 中に進んで、ふとおかしな点に気づいた。
 正殿に拝む場所がない。代わりに、脇殿は拝められる造りになっていた。まるで巨木を拝めるような向きの造りで、これは脇殿というより拝殿なのかもしれない。巨木には注連縄(しめなわ)がされている。神木ということなのだろうか。
 一応、拝礼しておこうと、拝殿らしき建物の前に立った。両手を合わせ、軽く瞼を閉じ、頭を下げる。ついでに、胸中で願う。
 良い出会いに恵まれますように。
 ザッ──
 不意に物音が耳に入って、ビクリ、と肩が揺れた。目を開け、振り返ると、男が立っている。
「珍しい、こんな寂れた神社に参拝客だなんて」
 私より歳は上そうだった。私は警戒色を全開にする。
「参拝者の方ですか?」
 男は「いえ」と、首を振った。
「ここの宮司(ぐうじ)です」
「──宮司?」意外だ。
「意外ですか?」
 声音で見抜かれていた。相手は心を読もうとするタイプだ。
「宮司にしてはお若いとは思いました」
 男がこちらに近寄ってくる。私の身体は硬直してしまう。何かあったら逃げよう、と頭の中では考えていた。
「俺はまだ三十四ですからね、若いですよ」
 まだ二十八、だなんて私は言えない。だがこの男、三十四にしては顔が若い方だ。嫌いじゃないかも。むしろ、なかなか良い男かも。私より背は高いし。爽やかな短髪、筋肉質な身体。少し濃い目の顔立ち。夏らしい背景が似合いすぎる。
 いや、そういったことよりも、これはなんとも好都合な巡り合わせだ。
「おいくつですか?」
 前言撤回。失礼な男だ。
「二十──五です」ついサバを読んでしまった。
 男はふっと笑う。私が言葉を詰まらせたから、それで見抜かれたのではないだろうか。とてもお若いですね、と男は言った。罪悪感が、正直に言え、と囁く。私は思いきって口を開いた。
「本当はプラス三なんです」
 私の言葉で、男が微笑みをみせた。その顔を見たら胸の高鳴りを感じた。
「誠実な方なんですね。プラス三でもとてもお若いですし、あなた自身も年齢以上の若々しさに満ち溢れてますよ」
 私は男から目を逸らした。
「ここがなんの神社か、知ってて参拝を?」
 男の肩口らへんに視線をやる。「実は私、東京の雑誌社の者で、取材のためこの地を訪れたんです」
「ほう、なんの雑誌ですか?」
 私はジーンズのポケットからサイフを出し、名刺を取りだす。男に渡した。
「オカルトオリジン、編集者、原崎──カヨコさん?」
「はい」
 男は青いシャツの胸ポケットに名刺を入れた。服には海外のアニメキャラのシルエットがデザインされている。下は真っ白なハーフパンツに、赤いスニーカー。年齢とは不相応な出で立ちだ。それと宮司というイメージからかけ離れすぎている。
「雑誌名は聞いたことがありません」
「マイナー誌ですから」
 男は二度うなずく。
「俺は、藤原(ふじわら)佐乃介(さのすけ)と言います」
 時代劇に出てきそうな名前だ。
「古臭い名前だって思ったでしょ」
 見抜かれてる……いや私の思い込みか。
「ここの宮司ということは、代々宮司をしてるんですか?」
「はい。ただ、宮司だけでは生活していけないので、代々他の仕事もしています。親父は宮司兼建築士でした。俺は、中学校の教師をしています」
「へえ〜」と、私はうなずく。藤原さんは、「ああ」と何かを思いだしたように言う。
「代々、と言いましたが、もっと古くは俺の家系の人間が宮司をしてたわけではありません」
「里の人が宮司をしていたとか?」
「さあ」藤原さんは首を振る。「あまり詳しい話を知らないので、わかりません。あ、でも俺の先祖は昔、里に住んでたらしいですよ」
 奇遇だ。信じないのにちょっと運命を感じてしまう。
「私の家系も、昔は里に住んでいたらしいです。奇遇です」
「東京にお住まいなのでは?」
「実家はこっちにあります」
「なるほど……。輪廻ですね」
 不意に飛びだした仏教の言葉。思わず「輪廻?」と訊いてしまう。
「え、輪廻転生を知らないんですか?」
「いや、もちろんわかりますけど」
「もしかしたら、俺たちは昔、里で暮らしてたのかもしれない」
「はあ」と、つい嘲笑もこめて言う。
「オカルト誌の編集者なのにノリが悪いですね」
「本気で怪奇を信じてるわけではないので」
「ああ、そうなんですか。じゃあ無理に怪奇的になるのはやめます」
 私に合わせようとしたらしい。
「俺の先祖は後に京都へ移ったようですけどね。今はこっちに住んでますが」
 京都、という言葉に引っかかる。脳内に検索をかけると、大したことでもないと気づいた。
「原崎さん、その割には」と、藤原さんは私の左手を指差して言う。「そういうことをするんですね」
 ハッ、と気づいて、私は左手を後ろに隠した。
「これは調査みたいなものです」
 藤原さんは小さく笑む。「それがどういうものか、ご存知で?」
「はい、一通り調べは済みました。宮司さんは、赤い髪の巫女の話を知っていますか?」
「知ってます。とは言っても、言い伝えでしか知りませんが」
「実在の人物なんですよね?」
 そう訊くと、藤原さんはほんの少しだけ首をかしげた。
「その巫女様が神仏となり、里に災いをもたらした。巫女様の怒りを静めるため、ここは赤神神社となり、里の者たちは祈りを捧げた。それくらいしか俺にはわかりません」
「巫女が里の男と恋に落ちて、逃げたから、赤神が天罰を下した、と私は聞いたのですが?」
 違います、と藤原さんは言う。
「正しくは、巫女が里の男と恋に落ち、逃げだしたものの、後に捕まって二人は引き裂かれ、男は処刑された。永遠に恋を叶えられなくなった巫女は自害した、というのが我が家系に代々語り継がれる伝承です」
 私はほとんど無意識にメモを取りだして書き込んでいた。
「自害した巫女が神仏となって、里に災いをもたらした、ということなんですね?」
「そうです。でも伝承ですよ? 古事記のようなものですよ?」
「わかってます。そういったことを本気で調べるのが仕事なので」
 藤原さんは笑みを浮かべた。バカにされているのだろうか。
「その巫女の赤い髪は、人の恋路を取り持つような特別な力を持ってたんですよね? 知ってますか?」
「知ってます。一応、ここの宮司なので。そもそもここは、縁結びの神社でもあるんですよ。というか今は完全に縁結びの神社です」
 神の怒りを静めるだけが目的の神社なんて、つまらない。それだけなら誰も足を運ばないだろう。まあ、ここは知名度が低すぎて誰も来ないようだけど。
「主に夫婦仲を取り持ったり、妻の怒りを静めたり、良い出会いを導いたり、恋を実らせたりする力を持つ社です」
 私はうなずいて、メモに書いた。神頼みで妻の怒りを静める、というのが面白いジョークだ。
「よろしければ、お話を記事にしたいんですけど、良いですか?」
「どうぞどうぞ」
「それと、写真を撮りたいのですが、良いですか?」
「構いませんが」藤原さんは笑む。「取材費を頂きます」
 抜け目のない男だ。思ったことをすぐ口にするし、空気を読まなさそう。
 赤神様、私は彼を好きになれそうにありません。

 藤原さんに神社の妙な造りについて訊いたが、わからないと言われた。前代の宮司に話を聞いた方がいいかと思い、お会いしたいとお願いしたのだが、それは不可能だと言われた。両親は他界しているそうだ。
 藤原さんは社の掃除を始めた。その傍ら、私は撮影をした。鳥居の外から全体を撮り、正殿、拝殿を撮る。神木も撮影すべきかと、デジカメのレンズを向けた。
 ふっと画面に人が映った。藤原さんが入った、とその瞬間は思ったのだが──明らかに服が違う。袴姿で、本当の宮司のような出で立ちだった。
「イヤぁ!」
 カメラを投げ捨てた。つい似合わない声をあげてしまった。
 正面の神木を見ても、誰もいない。
「──どうしたんですか?」
 藤原さんがすぐに駆け寄ってきてくれた。
「今、カメラの液晶に人が映ったんです……神木の前に」
 藤原さんはデジカメを拾って、レンズを神木に向ける。
「何もないですよ。シャッターは切りました?」
 私は液晶を覗く。そこには木が映っているだけ。
「切ってないです……」
 藤原さんは、カメラを傾けたり神木を映す角度を変えたりして、私が見たものが映らないかと試行錯誤を始めた。
「親父が映ったのかな」
 だったらまだいいんだけど。
「藤原さんのお父さんは、ここに何か埋めたの?」
 藤原さんはピタリと止まる。「埋めた?」
 映ったその人は、ここで地面に土を被せていた──ように見えた。
「何かを埋めていたような感じだったんです」
 左手を上げ、埋めていたような辺りを指す。
「その辺り……」
 ふと、気づいた。指がない。
 ──小指が、ない!
「こ、小指が──私の小指がない!」
 根本から無くなっていた。切断面から血が垂れている。
「どうして──小指、小指はどこにいったの!」
「落ち着いて原崎さん──」
 藤原さんが私の手を握る。あったはずの小指の辺りを触る。
「小指はちゃんとあるよ、何を言ってるの?」
「え?」
 藤原さんは私の小指を触っていた。ちゃんとあった。赤い糸も、変わらず付いている。血は垂れてない。
「ちゃんとある……」
「きっと、仕事のしすぎなんだよ。ちゃんと休んでる?」
「休んでます」
 藤原さんは私の手を離した。
「じゃあ、オカルトなことを考えすぎ」
 デジカメを差しだされた。私はそれを左手で受け取る。デジカメを握って、小指の存在を実感する。指に巻き付く赤い糸を触った。これ結って、赤い指輪や宮司の幻覚を見た。外した方が良いんじゃないだろうか。
 私は糸を手で無理に千切った。それを地面に放った。
「いやいや、宮司の前で神社にゴミを捨てないでくださいよ」
 そう言いながらも藤原さんは笑っていた。
「すみません──」
 私が拾おうとする、先に藤原さんが拾った。
「あ、なるほど、これを結っていたからそんな現象が起きた、と思ってるんですね?」
「はい……あの、できたらお祓いしてもらえませんか? ちゃんと奉納金は納めますから」
 ふっと藤原さんは笑う。「原崎さん、怪奇を信じてないとか言いながら信じちゃってる」
「怖いものは怖いですよ、若干は信じてますから……」
 藤原さんはニヤニヤと笑む。弱みを握られたみたいだ。
「悪いですけど、お祓いはできません。そういうことはしたことないので」
 それで宮司といえるのだろうか。まあ、本当のこというとこの人の除霊なんて期待してなかったけど。
「じゃあいいですよ。でも、その赤い糸は宮司さんの手で捨ててもらえますか?」
「お安い御用です」藤原さんはポケットに赤い糸を突っ込んだ。「お堅い人かと思ったけど、原崎さんは女性らしい一面がたくさんあって可愛いですね」
 顔中に熱がこみ上げる──
 この男は何を言ってるの? よくもまあそんな言葉を清々しい顔しながら言えたものだ。
 額から汗が滴る。私はポケットからハンカチを出して、汗を適当に拭った。
「暑いですね。よかったら、俺の家に来ますか?」
 え、え、え──それはつまり、私が誘われてるってこと? 早すぎる──まだ何も育んでいないのに、工程が一気に最終段階に突入しちゃってる──それに私、まだそういうこともしたことがないし、無理──
「目が泳いでますよ?」
「エッ!」
 ついオーバーな反応してしまう。私は顔を逸らして俯く。
「あの、俺は別におかしな意味で言ったわけではないので」藤原さんはくすくすと笑った。「家は山を下りてすぐ近くなので、良かったら家で水分補給なんてどうですか? という意味なんですけど」
 顔をゆっくり藤原さんに戻す。「そうだとしても、きっと一般的には動揺してしまいますよ」
「まあ、そういうものですよね。深い意味は全くないのでご安心ください」
 どうしてか、それはそれで残念に思う私。そんな自分にちょっと嫌悪。
「もう用は済みました?」
「ええ……」
「じゃあ、行きましょう。俺、歩いて来たので、車で乗せていってください」
 そういう目的もあったのか。ズレていた眼鏡を指で直した。藤原さんが歩きだし、鳥居に向かう。私も歩きだし──止まって、神木の方を振り向く。
 そこには当然、誰もいないわけだけど、なぜか後ろ髪が惹かれた。
「どうしました?」
 私は藤原さんを向く。そしてじっと見つめる。
「俺をそんなに見つめて、どうしたんですか?」
「穴を掘らせてください」
「──は? 穴?」
「神木の前」私は神木の方を振り返る。「掘ったら何か、出てくる気がする」
「罰が当たりますよ?」
 宮司としての責任を担ってないような言い方だった。普通もっと咎める。
「画面には、宮司らしき人が何かを埋めていたのが映ったんです」顔だけ藤原さんを向く。「掘ったら、何かが出てくるような気がする」
 私は、真剣な眼差しを藤原さんに向けた。同じような眼差しを、藤原さんは返してくれた。
 藤原さんは相好を崩す。「好奇心の強い方だ」
 そう言って、歩きだした。鳥居の方ではなく、こちらへ。私の前で立ち止まるかと思いきや、すれ違って奥へ行ってしまう。
「昔は里で作物を育ててたので、蔵にスコップがあります」
 私の心に喜悦が湧いた。
「二人で掘りましょう。俺が付き添えば、きっと罰は当たらない」
 全然説得力がないけれど、嬉しかった。

 掘り始めると、少し馬鹿げているなと思った。そうして、それに付き合ってくれる藤原さんはやはり良い人だと思えた。
 炎天下の中、男女がひと気のない神社の神木の前で穴を掘る。掘り続ける。
「だいぶ掘りましたけど、何も出てきませんよ」
 人一人が顔まで入れるほどの穴を掘ったが、何も出てこなかった。私は、掘りだした土をスコップで刺したり均したりして、何かないかと調べた。
「まだ掘りますか? もういいでしょ」
 藤原さんは飽きたらしい。
「私一人でもうちょっと掘ります」
 そう言ってみせると、横から小さな溜め息が聞こえた。
 そうして、何も言わずに穴を掘ってくれた。
 それを横目に、私は土を調べ続ける。
「あっ」
 藤原さんがそう漏らした。私は手を止め、藤原さんを向く。
「なんかありました?」
 藤原さんは、穴に入って、何かを探っていた。私は穴を覗くも、藤原さんが邪魔で見えない。
「なんですか?」
 藤原さんは顔を上げた。「原崎さんが仰ったとおり。こんなものが出てきましたよ」
 そう言ってこちらに上げた手には、ボロボロになった大きな布切れ。
「ああ、なんだ」
 そんな物か、という口調で私は言った。すると、藤原さんはにっこり笑みを浮かべ、もう一方の手を私に差し向ける。
 ハッ、と息を呑んだ。
 その手には、ボロボロの小さな箱が載っていた。蓋は藤原さんが開けたのだろう──中には、白骨化した指がある。
「うそ……」信じられない。
「どなたの物でしょうね?」
 それは大よそ検討がつく。
 だって、その骨には、古ぼけた赤黒い指輪が引っかかっているから。

 発掘したものは全て持ちだすことにした。藤原さんの家に行く途中、私は調べて得た話と、自分の推論を話した。
 恐らく骨は巫女の物。指輪は、元雑貨店の店主との話に出てきたものだろう。どんな経緯でそうなったのかは想像がつかないが、デジカメの画面に見えた宮司が、巫女の指を埋めたんだ。
 藤原さんの家は、縁側つきの古風な平屋の家だった。座敷で冷たいお茶を一杯頂くと、私は指輪を手に取って、見回した。移動中、指輪の汚れを指で擦って取っていたのだが、汚れの下には真っ赤な輝きがあった。綺麗にしたら、鮮やかな色合いが見られるかもしれない。
「やっぱ、警察に通報したほうがいいですよね?」
 隣に座っている藤原さんが言った。……なんで私の隣に座っているのか。向かいに座ってほしい。ヘンに緊張してしまう。
「数百年前の人の骨ですけど、でも通報する意味はあるかもしれませんね」
 そう適当に言っておいた。藤原さんはお茶を一口飲み、コップを卓袱台に置く。
「その指輪、不思議なぐらい赤いですね」
 鮮血、という言葉が似合いそうだ。汚れがついているので、洗えば魅力的な緋色の光沢を放つかも。
 私は立ち上がり、「これ、台所で洗いますね」と言った。藤原さんは、「どうぞ」と返事をした。台所に移動し、指輪を丹念に洗う。もしかすると色が落ちてしまうかも、とも想像したが、赤い色合いは増していった。磨くほど、光沢が強くなる。本当に魅力的な緋色が姿を現した。見ているだけで、吸い込まれそうな気になる。私は、磨くことに夢中になっていた。
 磨き終えると、ひどく愛着が湧いていた。全面が鮮やかな深い赤色で、とても魅惑的に見える。指にはめてみたくなった。右手の親指と人差し指で指輪を持ち、左手の薬指にあてがう。しかし、入りそうにない。やはり小指用のようだ。
 小指にあてがい、指輪を根本まで押し込む。
「うっ──」
 不意に、小指から電流のような刺激が一気に心臓へなだれ込んだ。それが脳天に向かって突き上がり、頭蓋骨を突き抜ける──
 パン、と視界が消失。


  *


 誰かが、私を抱きしめている。
 現実感のない世界。
 ただ、抱きしめられている、という感覚だけはしっかりと感じられた。
「永遠にナミを愛するよ。どんなことがあっても、俺はナミの傍にいる。ナミを守る」
 私を抱きしめる人がそう言った。
 断片的な映像が流れる。私は男から激しく求められ、愛される。
 映像が切り替わると、事態は急変している。私は男と引き離される。神々しい服を身に纏う男が、私を暗がりのどこかに閉じ込めた。
 私は自分の人生を呪う。なぜもっと違う境遇に生まれなかったのかと。
 やがて、神々しい服を身に纏った男がやってくる。男は刃物を握っていた。私に、指輪を外せと命令する。
 私は外そうとするも、なぜか指輪は外れない。私の身体は男に抑えつけられる。
「手首を切り落とされたいのか?」
 そう脅された。
 私は助けを求めるも、誰も助けには来ない。
 刃物が、私の左手の小指に当たる。おぞましいと思う気持ちを、必死で呑み込む。
 男は、刃物を引く。


  *


「イヤアアアアアア!」
 叫んで、辺りを認識したとき、違う場所にいると気づいた。私は上半身を起こして、息を切らせていた。自分がどこにいるのか把握しようと周りを見渡すも、薄暗くて視界がぼんやりしていてわからない。
 ハッとして、手探りで左の小指を触った。
 小指はちゃんとあった。触れることができた。そこに、指輪もついていた。
 ふと指輪をしていることが危険だと過ぎった。すぐに指輪に手をかけ、引き抜く──いとも簡単に外れた。
「どうしたんですか?!」
 私のいる部屋に人が入ってきて、電気を点けた。灯りが眩しくて、私は目を細める。
「叫んでたけど、何があったんです?」
 細めていた目を開けて、人の顔を見た。かなりぼやけていて、顔がはっきりわからない。
 男がくすっと笑ったのが聞こえた。
「見えないんでしょ」
 どうしてそれがわかるのか。
 男は私の傍らに手を伸ばし、何かを取る。それを、私の目の辺りに掛けられた。
 レンズを通してハッキリと顔が確認できた。藤原さんは、微笑みながらもどこか心配そうな眼差しで私を見つめていた。
 私は指で眼鏡を正しい位置にやる。
「夢を見たの」
 そう口にして、自分がなぜベッドの上にいるのかを疑問に思った。
「悪夢?」
「うん……。ねえ、どうして私はベッドにいるの? 藤原さんのベッド?」
「そうだよ。あなたが突然台所で倒れたんです。それで、俺がベッドに運んだ」
 運ばれる自分を想像する。すると、熱が顔中にこみ上げた。サッと顔を俯かせた。
「ご迷惑をおかけしました」
 恥ずかしいけれど、抱きかかえられて運ばれたなんて、嬉しい。
「原崎さん、見た目よりは軽いんですね」
 前言撤回。「失礼です」
「いや、悪い意味で言ったわけじゃないですよ。原崎さん、女性としては身長がある方だし、それで見た目はちょっと重そうな気がしてただけです。原崎さんは、スマートな女性ですよ」
 なんて言ったらいいのかわからず、小さく息を吐いた。
「それで、どんな悪夢を見たらあんな叫び声をあげるんですか?」
 思いだしたくもない。
 けれど、私は見たことを大まかに説明した。

「怪奇的な世界にだいぶ足を突っ込んでますね」
 藤原さんはベッドに腰を掛けて言った。
「話に出てきた指輪って、原崎さんが手に持ってるそれ?」
 私もそう考えたのだが、違う。似ているけど、違う物だった。
「多分違います。夢に出てきたその指輪は、こんな綺麗な緋色じゃない。よく覚えてないですけど、質屋に持っていっても一円の価値にもならないような、黒ずんだ指輪でした」
 藤原さんはぐいっと身体をこちらに捻る。ベッドの上、ということで、私は妙に緊張してしまう。
「その指輪、貸して?」
 なぜか抵抗が湧いた。相手は藤原さんだし、そんな抵抗は無視することに。
 指輪を渡して、藤原さんはそれを見回した。
「これをはめて、原崎さんは意識を失ったんですよね?」
「はい……」
 私が返事をすると、藤原さんは指輪を自分の小指にあてがう。
「止めたほうが──」
 と、言葉をそこで止めた。
「俺の指には入らない」
 藤原さんは小さく笑う。指輪は小指の第二関節を抜けられなかった。
「これは、警察に引き渡しましょう」
「ダメ!」
 とっさに声をあげて身体が動いていた。藤原さんから指輪を奪った。
「ダメなんですか?」
「これは、私がしばらく持っていたい──あの、色々調査したいから」
「でも、危険ですよ。原因はわかりませんが、それをはめて倒れたなら手放した方がいい」
 私は取り繕う言葉を考える。
「たまたまですよ、指輪はめて倒れるなんて、よく考えたら馬鹿げてる。炎天下の中、あんな作業してたから、熱にやられただけですよ」
 藤原さんは、じっと私の顔を覗きこむ。私も負けじと目を合わせていたが、耐えられなくて視線を指輪に落とした。
「なら、もう一度はめてみてください。それで何事もなければいいんですけど」不意に藤原さんは自嘲的に笑う。「俺はオカルトな話なんて、あまり信じない性質でしたけど、あなたと出会ってちょっとだけ信じちゃってます」
 私も深く信じていなかった。けれど赤神のまじないは、今まで調べてきたどのオカルト話よりも、本物さがある。
 指輪を左の小指にあてがった。
「何か妙なことがあったら」
 藤原さんの言葉に、私はピタリと止まった。
「それは警察に引き渡しますから」
 何かあっても、何もない振りをしようと心に決めた。意識を保ち続けよう。
 一度、小さめに深呼吸をする。そうして、指輪を小指の根本まで押し込んだ。心が、最初はめたときの感覚を恐れる。
 けれど、何も起こらない。
「どうです?」
 彼が心配そうに私を見つめている。
「何も感じられません」
「ウソついてたり?」
「してません」と、首を振った。
 彼は数度うなずく。「なら良かったです」
 私は指輪に目をやる。外れるかどうか心配になって、動かしてみると、容易く第二関節を通り過ぎた。問題はない。
 外すことなく、根本に押しやった。
「一応急に倒れたような状態ですから、好きなだけここで休んでいってください。家は俺以外、誰も住んでませんし」
「肉親は誰もいないの?」
 彼はベッドから立ち上がった。「弟がいます。ずっと前に家を出て、今は東京で暮らしてます。結婚して、子供もいます」
 誰かが帰ってくる心配はない、か。
「俺、やることがあるので、行きますね」
 彼は私から離れようと、動きだす。
 ──私は、そんな彼の腕に手を伸ばして掴んだ。
 彼は驚くような身振りでこちらを振り向く。
「どうしたんです?」
 なぜ、私は手を伸ばしたのだろう……。
 身体が熱い。気温の暑さではない。何かを駆り立てるような熱さだ。彼の瞳をじっと見つめてしまう。
「原崎さん?」
 腕を掴む手を、すうっと下にやる。彼の右手を、ぎゅっと掴む。温かい。心地いい。
 誘うように指を絡ませた。
 ──私は何をしているの?
「なにしてるんですか?」
 戸惑いながら彼は言う。
 私はベッドから立ち上がる。吸い寄せられるように、彼の胸元へと飛び込んだ。
「え、ちょっと、原崎さん──」
 彼はだいぶ焦っていた。私は構わず、自分の腕を彼の背中に回す。何をしているのか、私自身わけがわからない。ただ、彼の首元に顔をうずめるだけで、自己否定の念は薄れた。
 彼の首元にキスをする。彼は鋭く息を呑む。
「いきなり、どうしたんですか」
 そう言って私の両肩をグッと押すように握った。こういったシチュエーションが嫌なんだろうか? 受け入れてしまえば、私はとことん気分が良くなってきているのに。
 一応、嫌悪している可能性も考慮して、彼の股に手を伸ばした。
「原崎さん──」
 触って確認すると、ちゃんと男性的な反応が起きて硬化していた。その気はあるようだ。
 彼の、左の耳元に唇を近づける。直接右脳に語りかけるために。
「私を、愛してください」
 私を離そうとしていた彼の力が消失した。有って無いような弱い力だったけれど。
「……いいんですか?」
 言葉が私の左耳から入る。全身に行き渡って、足が震えてしまう。自分を支えきれなくて、彼に身体を預けた。
 返答はしない。顔だけ彼に向けて、唇を差しだす。彼は迷うことなく唇を重ねてくれた。背筋に、ゾクゾクとする感覚が抜けた。私の口内に彼の舌が伸びてきた。彼を受け入れるよう、私は舌を絡ませる。
 実は普通のキスもディープキスも、これが初めて。
 唇が離れると、息をつかせて私は言った。
「私の、ファーストキス」
「えっ?」
 驚かれた。そりゃ、驚くか。
「私、これが初めてだから」
 そう言って、彼にキスをした。彼からもキスを返される。
 彼にスイッチが入ったのか、私はベッドに押し倒された。
 引くことなく、小ばかにするでもなく──私を貪ってくれた。
 私を愛してくれた。


  6


 なんてことをしたのだろう。
 私はいったい、どうしてしまったんだろう。
 彼の家を出てからというもの、自分のした行動を振り返っては後悔していた。
 ロストバージンを後悔しているわけではない。又は、避妊せずに彼を受け入れたことを後悔しているわけでもない。
 あんなふうに藤原さんの前で乱れたことに後悔していた。私らしくない私を晒したことに嫌悪していた。
 まるで、別の力が私に加わっていたようだった。そこに抗えなくて、ただひたすら藤原さんを求めてしまった。……思えば、そうなったのは指輪してからだ。あの指輪は危ない。巫女の呪いでもかかっているのだろうか。……そんなふうに考えてしまう私は、もうどっぷり赤神の怪奇に浸ってしまっている。
 藤原さんの連絡先などを一切聞かず、終わってすぐに家を出た。営みを終えて指輪を外したら、強烈な羞恥に襲われたから。
 もう二度と彼には会わない。二度と指輪をはめない。



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