第二話 「ラブホテル」‐佐藤 理生‐


 今日も彼女はおじさんに声をかけられている。それをぼくは、遠くで見つめているだけ。
 二人が動きだすと、ぼくは後を付けた。
 彼女は笑顔だ。おじさんにくっついて、まるで恋人同士のように親しげにする。一見親子のように見えなくもないけれど、彼女がおじさんに対して取る動作は、明らかに父親に対するものじゃなかった。どう表現したらいいかわからないけれど、彼女の身振りは男性の“なにか”を誘っている雰囲気だった。
 二人は大きな通りから、路地に入る。
 道を抜け、行き着いた先は、ラブホテル。


  1


 ひと目惚れだった。理由はわからない。
 中学二年、二学期のはじまり。ぼくの隣の席になった人。
 名前は、志野(しの)瑞穂(みずほ)
 二年のはじまりから彼女と同じ教室にいたはずだった。今まで視界に入っていたはずなのに、ぼくはその存在を知らなかったんだ。いつも通う道端に、ものすごく綺麗な花が咲いていたことに気づかなかった。隣同士になってようやく、彼女をまともに認識した。その瞬間に恋のスイッチが強い音をたててONになった。
 色白でポニーテール。どこか哀愁の見え隠れする雰囲気。身長は、彼女の方がぼくより三センチくらい高い。
 彼女が好きだ。でも、どうしたらいいのかわからない。席替えまでに仲良くなりたかったけど、声をかけられないまま日にちだけが過ぎた。
 彼女にはこれといって仲の良い友達がいない。彼女から女子を避けているようだった。それがどうしてかはわからない。うまく友達付き合いができない人なのかも。だったら、そんな彼女の孤独に、ぼくだけが傍にいたい。
 彼女にひと目惚れしてから、ぼくは彼女への伝えられない想いを一方的に募らせ続けた。しかし何も行動できず、好きになってから一ヶ月が経とうとしていた。


  2


「ねえ、この前街で瑞穂見かけたんだけど」
 用を足して洗面で手を洗っていたら、向こう側の女子トイレから声が聞こえた。
「瑞穂? 一人だった?」
「ううん……おじさんといた」
「おじさん? 年とったおっさん?」
「そう。しかも絶対四十歳こえてるような人」
「お父さんじゃないの?」
「あたし一回瑞穂のお父さん見かけたことあるけど、多分違う。すっごい親しそうにしてた」
「親戚のおじさんとかじゃないの?」
「かなぁ? でももしかしたらさぁ……カラダ売ってんじゃない?」
 その意味を把握しきるのに、少し時間を要した。
「えぇ、違うでしょ〜」
「だって、瑞穂って、なんかおかしいじゃん。あたしら避けるしさぁ」
「んー……」
「他の子たちも避けてるんだよ? 瑞穂みたいな子ほど裏で何してるかわかんないって」
「そーかなぁ」
「そーだよ。ウチの学校ってやばそうな子結構いるし、そういうのとこっそり繋がってるんじゃない?」
「髪真っ赤にして始業式登校してきた人もいるもんね……」
「D組のカグラナミさんでしょ? ああいうのと繋がっててさあ、グループで援交やってそう」
「だったらマジで気持ち悪いんだけど──」
 足音が遠のく。ザーッと水の落ちる音だけになった。ぼくは手をこすることもなく、水を止め、その手を拭きもせず、トイレを出た。
 教室に戻ると、変わらずぼくの隣の席に彼女はいた。真面目に予習をしているようだった。
 さっきの言葉が思考に纏わりつく。耳にしたときは、決めつけでめちゃくちゃ言いやがって、と苛立った。でも疑ってしまっていた。席に座り、チラリと彼女を見る。横顔が美しい。ぼくはよく寝ているフリをしながら、彼女の横顔を盗み見していた。
 ……この人が?
 そんなわけない。でもふっと、彼女とおじさんが変なことをしている姿を想像してしまう。けれどすぐ否定した。どう考えてもさっきの女子たちの決めつけにすぎないのだから。
 彼女の顔が動いて、サッとぼくは前を向いた。横目でわかる……彼女は今、ぼくを見てる。盗み見に気づかれたんだ。
「手、べたべただよ?」
 ビクッ、と肩を竦めた。声をかけられるとは思ってもいなかった。机に置いている手を見ると、確かにべたべただ。机に丸い水滴がついていた。
 ぼくはゆっくりと彼女に顔を向ける。
「さっき、トイレ行ったんだ」
 そう言ったときには彼女がスカートのポケットを探っていた。どうして急に探りだしたのかわからないけれど、
「はい」
 ハンカチを、差しだされた。その優しさが、ぼくにとって衝撃的だった。唖然としてしまい、そんなぼくに彼女はハンカチを突きだす。
「拭きなよ」
 口がカクカク震えて、言うべき言葉を喉から押しだす。
「ありが、とう」
「うん。で、ハンカチ使ってよ」
「あ、ああ……」
 ハンカチを受け取って、手のひらに置く。神様からの授かり物が手の上に乗っている気分だった。その神聖なハンカチを、なるべく汚さないよう、グシャグシャにしないよう、折りたたまれた状態のままでポンポンと水分を染み込ませる程度に手を拭いた。
 拭き終わると、洗って返したほうがいいのかと考えた。
「これ、どうしよ?」
「んっ」と、彼女が手を差しだしてくる。
「洗って返そうか?」
 そう言ってみせると、彼女は明るげに笑った。
「そんなことしなくていいよ」
 彼女を笑わせたことが、ものすごく嬉しくて、ぼくも笑みを浮かべた。
「ウチで洗濯するよ」
「いいよ、返して」
 ここら辺で返さないと鬱陶しいかと思い、彼女にハンカチを渡した。彼女はハンカチをポケットに仕舞い、ペンを手に取ってノートに視線を落とす。教科書、ノートと交互に目をやりながら手を動かし──ピタっと止まって、顔をぼくに向けた。
「なに?」
 じっと見ていたからそう問われた。ぼくは首を振る。
「ありがとう」
 そう言ってみせると、彼女は綺麗に微笑んでくれた。ぼくは、更に彼女のことが気に入った。
 でもそれから話しかけることはできなかった。


  3


 休日、欲しいゲームを買うため街へ来た。
 ショップまで駅から歩いて数分。その途中の、街のシンボルみたいな噴水の傍で、見覚えのある顔を見つけた。
「……志野さん?」
 パッと見は全然違う人に見えた。服装が大人っぽすぎて、普段目にしている彼女とかけ離れていたからだ。いつもは制服なんだし、当たり前か。
 よく観察してみれば、やはり志野さん。すごい偶然だ。もしかしたら、ぼくと彼女は何か運命的な力によって結ばれるようにできているのかもしれない。
 軽く声をかけよう、と思ったのだが、彼女は誰かを待っているようだった。携帯電話を片手に、無表情でキョロキョロと辺りを見回している。
『もしかしたらさぁ……カラダ売ってんじゃない?』
 ふと、思いだした。トイレで聞いた女子の言葉。そんなわけない、彼女はそんなことをするような人じゃない。可憐で清楚で心優しい彼女が、そんなことをするはずない。
 それを確かめる意味でも、と、彼女を監視することにした。

 数分後、人が彼女に話しかけた。先ほどまで無表情だった彼女の顔がガラリと変わり、明るくなった。
 話しかけた相手は……おじさん。三十代は絶対に越えている。お父さんかも。親戚のおじさんかもしれない。
 楽しそうに彼女は笑う。遠くて何を喋っているかはわからない。彼女がおじさんにぴったりくっついて、腕にぎゅっと抱きついた。腕に頭を寄せている。……嫌な気分だった。
 気になって仕方なかったから、後を付けた。
 道を進むにつれ、不安が膨らむ。それは、進んでいる先がある場所に向いているからだ。嫌な予感がする。そうであってほしくないと願う。でも、二人は一直線に“その場所”を目指していた。
 大通りから、建物に囲まれた薄暗い路地に入る。ひと気が薄れると、おじさんは歩きながら彼女にべたべたと触っていた。髪や背中やお尻の辺りとか。彼女は決して嫌そうにしない。親子関係という可能性が、ぼくのなかでどんどん薄れていく。
 二人は路地を抜ける。そこからは、派手な色使いの大きな建物が並んでいた。……ホテル街だ。
 そのまま、二人はラブホテルへと入っていった。

「うぅ──うっぐ……」
 あの後逃げるように帰ってきて、ベッドの上で泣いた。気持ち悪い、吐きそうだ。
「うぅ……はぁ、はぁ」
 想像するだけで身体が痛い。引き裂かれそうな想いになる。信じられない。あれはきっと、別人。
 そうは思ってみても、あれはどうみても志野さんだった。ぼくがこの目で確認した。夢じゃない。
「嫌だ……嫌だよ、志野さん……なんでだよ」
 横顔が好きだった。ぼくにハンカチを貸してくれた。笑った顔が嬉しかった。可憐で清楚で、素敵な人だと思った。
 そんな彼女が、カラダを売っている。……いや、もしかしたらあのおじさんとちゃんと付き合っているのかもしれない。そうかもしれない。
「あんなおじさんのどこが好きなんだよ……」
 わからない。ぼくみたいな人は、ダメなんだろうか。年上の大人にしか興味がない、とかいうやつだろうか。
 いったい、ぼくはどうしたらいい……。


  4


 席替えで彼女と離れ離れになった。事実を聞きだしたかったけれど、話しかけられなかった。
 週末、ぼくはまた街へ出かけた。居ても立ってもいられなかった。同じくらいの時間に彼女を見かけた場所まで行くと、
「いた……」
 同じ場所に彼女がいた。服装は前と違う。前は大人っぽい格好だったけれど、今日は可愛らしい印象の服だ。フリルのついた短いスカートを穿いている。ゴスロリ、というものに近い。相手の男の趣味だろうか。
 遠くから監視して数分。人が彼女に話しかけた。
「……違う」
 前とは違う人。前の人より断然若い。多分二十代。小太り。顔は、かっこよくない。それなのに彼女は無表情から明るい顔へ。二人は歩きだして、彼女は男の腕にぎゅっとしがみついた。腕に頭をすり寄せ、男を見上げて何度も顔を覗き込むような仕草をする。ぼくは眩暈を感じて、胸の奥に強い痛みを感じていた。
 人の流れに入り、二人は人ごみに紛れていく。
 ぼくは、その後をつけた。

 方向は前のおじさんのときと同じだった。大きな通りから薄暗い路地へ。もう覚悟はできていた。行く先が同じところでも、前ほどのショックを受けないだろう。
 二人が行き着いた先は、やっぱりラブホテル。
 これで確定した。


  5


 今日も彼女はおじさんに声をかけられている。それをぼくは、遠くで見つめているだけ。そのおじさんは、今まで見てきた人とはまた違う人だった。
 二人が動きだすと、ぼくは後をつけた。彼女は笑顔だ。おじさんにくっついて、まるで恋人同士のように親しげにしている。
 どうしたらいいのか、わからない。彼女があんなふうでも、ぼくの恋情が消えることはなかった。消えてくれ、とどれだけ願っても好きだった。頭を壁に何度もぶつけてみても、やっぱり彼女が好きだった。胸が苦しくて仕方ないのに、一向にぼくの心情は落ち着かず、慣れることがない。彼女が大好きな気持ちは消えない。でも、アレに近づきたくもない。
 一方の感情で彼女が大好き。一方の感情で彼女を激しく嫌悪していた。
 次第に、ぼくも彼女とラブホテルへ行きたいと思うようになっていた。同じことがしたい。そうしたら気持ちが紛れて、楽になれる予感がした。
 そうは思っても、汚らわしい彼女に近づけずにいた。“あの領域”に踏み込む勇気を持てなかった。踏み込もうと意志を持てば、ぼくはそれだけで気持ち悪くなって、過呼吸に陥って、時々は嘔吐を繰り返していた。吐いたあとは冷や汗まみれで息苦しいんだけれど、彼女への感情がよくわからないものになるので、楽にはなれた。


  6


「ごちそうさま」
「もういいの?」
「うん」
理生(まさお)、最近全然食べなくなったわね」
「うん、食欲ないんだ」
「そう……」
「恋呪は、一定の恋愛感情を持ち、さらにそれを自分の気持ちで抑えつけてしまっている人がもっともかかりやすいそうですよ」
 会話のなかにふと、テレビから聞こえる声が飛び込んできた。その言葉がぼくの足を止めた。
「どうせ、どこかの女子高生が考えたんでしょ? 馬鹿馬鹿しい」
「でも実際に恋呪にかかったという人が後を絶たないようですよ?」
「素敵な呪いですね。私も初恋の人に何もできなかったから、そのときその呪いにかかってみたかったなあ」
「カナちゃん、初恋のヒトなんていたんですか?」
「そりゃいますよー」
「何歳くらい頃?」
「まだ十……三かな。だから、中学の頃です」
「何もできなかった、ってのがカナちゃんぽくって可愛いね」
「そうですかぁ? ありがとうございます」
「それでその恋呪というは、どうすればかかるんですか?」
「赤い糸を左手の小指に結びつけるだけでいいそうですよ」
「運命の赤い糸ですか? 考えた人も古いものを持ちだしましたね」
「そうですね。それで、恋する相手を想いながら、恋呪にかかることを願えばかかれるらしいですよ」
「そんな簡単なの? だったら誰でもかかっちゃうじゃん」
「誰にでもふりかかるというわけではなく、願ってもかからない人はよくいるらしいです」
「おかしな呪いですね」
「その呪いがかかった人の中には、指輪──」
 突如画面が切り替わる。
「あっ……」
 父さんがリモコンで勝手に番組を変えた。天気予報が映っていた。
「なんだ、見てたのか?」
「いや、ううん」
 動きだして、部屋へと戻った。

 家庭科の授業で使っていた裁縫箱を探る。そこに赤い糸が入っていた。
 適当な長さに切って、蝶結びをしようとしたけど、無理だった。仕方がないのできつくこま結びをした。
 これで何かが変わればいいな、と思う。全然信じてはいないけど。
 でも何もしないよりはマシだ。ぼくは、どんな形でもいいから、今の状況に決着をつけたかった。もうこれ以上苦しみたくない。いちいち眩暈を起こしたり吐き気を催したりするのはもう疲れた。


  7


 いた。今日も。
 いつもの噴水の場所で、相手を待っている。
「志野さん」
 何の感情も持たず、彼女に声をかけた。
「──えっ、佐藤君?」
「こんなところで何してるの?」
「なに、って、待ち合わせ」
「誰と?」
「誰でもいいでしょ? 人が来るから、向こうに──」
「いくら?」
「へっ?」
「志野さんのカラダ、いくら?」
 みるみる彼女の顔が青ざめていく。
「教えてよ」
「……知ってるの?」
「実はずっと君を見てた」
 彼女は息を呑み、口を開く。
「ねぇいくら?」何かを言おうとした彼女を遮った。「お金払うからぼくも、おじさんたちと同じことをしたい」
 彼女は慌てて、あたふたと周りを見渡した。その目がぼくに合うと、怯えた目つきでじっとこちらを見た。今にも泣きだしそうだ。そんな彼女にぼくはゆっくりと微笑んでみせ、声を出さずに指を一本、二本と立てて彼女を窺った。
 志野さんは目を泳がせ、迷う素振りをみせる。どこか申し訳なさそうにぼくを見るや、お腹の辺りで指を三本立てた。
 残念だけど、今の所持金ではそこに届かない。
「今お金ないからさ、金作ってまた来るね」
 笑顔をみせつつそう言って、ぼくは背中を向ける。
「ちょっと──」
 声をかけられたけど無視して、その場を離れた。

 今の所持金は七千円。あのとき新しいゲームを買わなくて良かった。
「お母さん、お小遣い欲しい」
 ソファーの上で寝そべっているお母さんは顔だけこちらに向けた。
「ちょっと前もゲームを買いたいからって、足りない分を少しあげたでしょ? 今度は何を買うの?」
 オンナ、と言いかけて、言葉を打ち消した。
「ゲーム機」
「ゲーム機? 本体? いくらほしいの?」
「二万三千」
「二万三千! 無理よ、クリスマスまで待ちなさい」
 二ヶ月も待っていられない。
「じゃあクリスマスは何もいらないから、今欲しい」
「今お金ないのよ。諦めなさい」
「どうしても?」
「どうしても」
「ふーん、わかった」
 残る手段は一つ。

 ぼくは自分の部屋で、金になるゲームやゲーム機を集めた。ゲームソフトだけを全部売ったとしても、多分二万三千には届かない。だから全部売り払うことにした。まだやりこんでいる途中のゲームや、面白いゲームを手放すことに未練はあったけれど、彼女を買うことの方が何より大事だ。


  8


 彼女が学校に来なくなった。ぼくに見つかったからなのかもしれない。
 週末、予定通りゲームを売って金を作った。見立てどおりゲームソフトだけを売ったんじゃあ三万まで届かなかったけれど、ゲーム機も一緒に売ったことで所持金は三万を超えた。
 その足で、例の場所に向かった。しかし、彼女はいなかった。日が暮れるまで待ったけれど、彼女は来なかった。
 だったらってことで、女子から彼女が住んでいる所を聞きだした。その日のうちに、一旦家に帰って着替えてお金を持ち、彼女の家に向かった。
 当初ぼくは彼女の家を、まるで宮殿のような、お城のような造りだと勝手にイメージしていた。普通に考えてそんなわけない。彼女の家はよく見かけるようなアパートだった。ボロくはない。壁はセピア色で、一世帯が二階建てになっていて、それが四軒連なっていた。
 インターホンを押す。ドアが開いた。ドアロック越しに顔を出したのは彼女の母親のようだ。
「あ、ぼくクラスメイトの佐藤と申します。連日お休みになられている瑞穂さんのことが心配でこちらまで足を運びました。瑞穂さんは今、おみえですか?」
「ええ」
「差し支えなければお会いしたいのですが、いいですか?」
 母親はぼくをジロジロと見つめる。まるで品定めでもされているような気分だ。
「……ちょっと待ってね」
 扉が閉まり、足音が奥へと移動していった。
 ぼくが来たことを彼女が知れば会ってくれないんじゃないかと心配だったが、数十秒後、扉が開いた。ドアロック越しに顔を覗かせたのは、
「あ……」
 彼女だ。ぼくを見て声を漏らした。それから、彼女は少し目を細め、訝しむ素振りをみせた後、口を開いた。
「いったい、なんの用?」
「外に出てきて」
 彼女はじっとぼくを見つめる。ぼくも見つめ返していると、彼女から視線をそらした。
「出てきて」
 努めて笑顔で口にした。彼女の視線が、再びぼくに向く。
 それから、バタンと扉が閉められた。逃げられたのだろうかと、もう一度インターホンのボタンを押そうと手を伸ばす。だが、ボタンを押す前にロックが外される音がして、もう一度扉が開いた。彼女は外に出てきてくれた。
「……なに?」
「お金、作ったよ」
 彼女の顔色が僅かに変わる。戸惑っているようだった。
「ほら、行こ」
 ぼくは右手を差しだした。
 彼女はぼくと手を交互に見ると、小さく息を吐いて、上がっていた肩を下ろした。そうして、ゆっくり手を上げる。
 何も言わず、ぼくと手を繋いでくれた。

 日が暮れていく中、ぼくらは言葉なく移動した。無言で切符を買い、無言で電車を待ち、電車に乗り、無言で空いている席に座った。その間ずっと手を繋いでいた。それが、とても幸せな気分にさせてくれた。今だけは完全にぼくのもの。心からそう思えることが幸福感や支配欲を満たしてくれる。今まで苦しんできた思いが嘘のように晴れ、ぼくはほんの少しだけ涙を零していた。彼女に悟られないよう、涙を拭っていた。
 街で降りて、それからの移動もずっと無言。時折繋いでいる手の握力を変えながらコミュニケーションを図り、離すことはなくぼくが引っ張っていく形で例の場所へ向かった。
 大通りから薄暗い路地へ。ひと気がなくなると、彼女にぼくの腕を抱きしめるように要求した。彼女は無言で、無表情でぼくの左腕を抱きしめ、彼女の左手とぼくの左手で手を繋ぎなおした。
 本当はもっと、べたべたと彼女に触りたかったけれど、それからはただ歩き続けて、路地を抜けた。着いた先はもちろん、いつも彼女が入るラブホテル。
「あとつけてたんだね」
 家を出てから、はじめて彼女が言葉を口にした。
 ぼくは、「うん」と返事をし、彼女を引っ張って中へ入った。

 一つ、想定外なことがあった。ラブホテル代が必要だった。けれど金は三万を越していたので足りた。
 部屋へ入るとすぐに財布から三万円を出し、彼女に「はい」と差しだした。彼女はぼくと金を交互に見て、若干奪い取るような形で受け取ってくれた。
 これで成立。ぼくは志野さんを買った。
「シャワー浴びてくる」と、彼女がお風呂場の方へ行った。こんな感じのシーンを映画で観たことがある。ぼくが映画のワンシーンの中にいる気分だった。
 大きなベッドの隅っこに座って待つこと数分、彼女が出てきた。服を着て出てくるのかなと思っていたけれど、バスタオルを巻いただけの姿だったので、少し動揺した。
「ぼくも、浴びてきたほうがいい?」
「別に。好きにすれば」
「浴びなくてもいいの?」
「どっちでもいいよ」
 そう言って彼女はぼくから少し離れた枕側の位置に座った。ずっと彼女の表情が暗くて、おじさんや男と一緒にいるときのように明るくなってほしいと思った。もしかしたら、ぼくとえっちなことをするのが嫌なのかもしれない。
「ねえ、ぼくとえっちなことするのがイヤなの?」
「えっ?」彼女は怪訝な顔をする。「佐藤君がしたいって、私にお金を払ったんだよ?」
「そうだけど……志野さん、さっきから顔が暗いから」
 彼女はぼくから視線を外して、俯いた。
「いつもは明るいのに」
「いつもは作ってるんだよ」
「作ってる? ああ、作り笑顔だったの?」
「そうだよ。ねえ」彼女はぼくを向いた。「シャワーどうするの?」
 行ったら、その間に彼女はいなくなるんじゃないだろうか。
「行かない」
「そう。わかった」
 彼女は床から足を上げ、身体をぼくに向け、女性らしく膝を曲げて座った。
 ぼくらはじっと、見つめあう。
「しないの?」
「あぁ、うん」
 ぼくも動いて、彼女の正面に座った。
 そこで──ようやく緊張が襲ってきた。彼女を目の前にしたら、今からすることを意識しだして、頭の中が真っ白になって、何をしたらいいのか全くもってワケがわからなくなった。
「ゴムはつけてよ」
「ゴム?」ゴムってなんだ……。
「知らないの?」
「ごめん、知らない」首を振った。
「佐藤君、えっちな本とか見たことないの?」
 友達の家でなんとなく見たことがある程度。
「ちょっとしかない」
 彼女は二三度頷く。「なんにも知らないんだ」
 少しショックで、目を背けた。
「なんにも知らないよ……」
 言葉が消えて、嫌な沈黙になる。ぼくは馬鹿にされてるんじゃないかと思う。
「ふっ」
 ふいに彼女が笑った。
「面白いね。それなのにここまで来たんだ」
 やっぱりバカにされてる。
 ふと彼女が前かがみに身動ぎする。それが横目に見えて、ぼくは彼女に顔を向けた。
 止まらず、彼女はぼくに迫る。顔を傾け、顎を持ち上げ、
「んっ!?」
 唇を、当てられた。しかも舌を突っ込んできた。
 また頭の中が真っ白になって、すぐに身を引いて離れた。
「ごめん、嫌だった?」
「ううん……」首を振ってみせる。「びっくりしただけだよ」
 戸惑いで溢れていたけれど、嬉しい。
 そう思った瞬間、これを色んなヤツとしてるっていうことが頭を過ぎって、一気に憎しみが湧いた。
 今度は、ぼくから唇をぶつけにいく。
「んっ──」
 彼女が声を漏らした。彼女にされたように舌をいれるキスをお返しする。もう絶対に他のヤツにはやらせない、と、彼女の手と肩を掴んで押し倒し、ひたすらキスをしまくってやった。
 格好悪いけれど、どうすればいいのかわからないので、やり方を教えてもらいながら彼女に触れていった。彼女にとって気持ち良いことをすると、彼女は声を出してくれて、それが面白くて嬉しくて、夢中になって彼女に触れた。
 続けている途中で、「そろそろいれて」と彼女が言った。その意味はぼんやりとしかわからない。だから「どういう意味?」と聞いたら、思いきり笑われた。その笑顔は作りじゃない。バカにするように笑ってるんだ。
 そう思えても、本物の笑顔をぼくが作っている事実は嬉しかった。
 服を全て脱ぎ、ゴムを彼女につけてもらい、入れる場所を教えてもらって、いれた。その時ようやく、これがえっちすることなんだと──これがセックスなんだと理解できた。さっきとは打って変わった声を彼女は出す。気持ちがいいんだ。
「ねえ、志野さん」
 動きながら声をかけた。
「なに?」
「志野さんは気持ち良いからカラダを売ってるの?」
 彼女は顔を逸らした。
 ぼくはピタッと動きを止める。「ごめん、おかしなこと聞いた?」
 顔をこちらに向けてはくれない。横顔が暗かった。もっと根掘り葉掘りと聞いてしまいたかったけれど、今はそれをしてはいけない、ということをぼくはなぜか理解していた。
 ぼくが再び動きだすと、彼女はまた気持ちの良さそうな声を漏らす。動きながら「志野さん」と声をかけるが、彼女は顔を横に向けたまま、こちらを見てくれない。
 だからぼくはまた止まった。
「志野さん」
 すると、ゆっくり顔を向けてくれた。
「ぼく、志野さんのことが大好きなんだ」
 案外、簡単に告白の言葉を言えた。志野さんは目を見開かせ、じっとぼくを見つめる。繋がったまま、お互いに見つめあう。ぼくは、大好きだという想いを込めながら彼女の瞳を捉え続けた。
「こんな私でも、好き?」
「好きだよ。ひと目惚れだったんだ」
 彼女は一度目を俯かせて、ぼくを見る。
「マサオ君、いつも寝てるフリして私の顔見てたでしょ?」
「知ってたの?」
「知ってたよ。どうして見られてるのかわからなかったけど……私のこと好きだから見てたんだ?」
「うん。不気味だった?」
 彼女はぼんやりぼくを見ていたけれど、ゆっくりと笑みを零した。
「そのときはね。でも嬉しい……ありがとう」
 ぼくも笑みを零した。
「私でいいの?」
 ぼくは真顔になってみせる。
「志野さんじゃないとダメなんだよ」
 言い切ってみせると、彼女は笑みを解いて、ぼくと同じ真顔になった。
 それからゆっくりとその顔を横に向けた。
「ありがとう……」
 ぼくは「うん」と返事をする。そうして再び動きだした。
 続けているうちに、彼女の声が変わった。より強く、より大きく声をあげるようになった。
「わたしも、マサオ君のこと、好きだから──」
 途中でそう言ってくれた。それは前からなのか、今そうなったのかわからないけれど、両想いになれて幸せだった。
 次第にこみ上げてくるものを感じる。それを出してこの行為が終わるってことは、なんとなくわかっていた。そのことを彼女に告げると、彼女は両手を伸ばし、抱き合い、キスを交わして、ぼくはイッた。

 お互い服を着た後、ベッドで隣同士に座って、彼女はぼくに頭を寄せていた。ぼくらは手を取り合い、握り合った。
「気持ち良かったよ」
「ちゃんとできてた?」
「うん……今までで一番良かった」
 今までの人がへたくそだったってことだろうか。
「今までの人よりぼくが上手かったってこと?」
 返答を待ったが、彼女は答えてくれない。ぼくは手の握力を変えてみた。
「マサオ君が好きだからだよ」
 その意味はなんとなくわかった。
 彼女が頭を上げ、ぼくの肩から離れて、ポケットを探りだした。ハンカチでも出すのかと思ったが、
「はい」
 ぼくが渡した三万円を差しだされた。
「何?」
「返す」
「どうして?」
 ぼくはそのお金で彼女を買ったんだ。
「これは、好きじゃない人とするためのものだよ」
「好きな人みんなにはそうやってお金を返してたの?」
「違う」彼女は首を振る。「マサオ君だけだよ。なんなら、私がお金を払ってもいいんだから」
 意味がわからない。「志野さんがお金を払う?」
「うん。欲しい?」
「いらない。それは……」彼女の言った意味がなんとなくわかった。「好きじゃない人とするためのものだから」
 うん、と彼女は笑みを浮かべる。
「返すから、受け取ってよ」
 彼女にあげてもよかったんだけど、ぼくはそれを受け取った。
「ねえ、それなに?」
 なんのことを言ったのかと疑問に思ったが、彼女の視線はお札を受け取ったぼくの左手に向いていたことに気づいた。
 ぼくは小指を立てて、彼女に赤い糸をみせる。
「瑞穂を愛するための、おまじない」
 彼女は小首を傾げたが、それからなんとなく理解したというような素振りでうなずいた。

 外に出ればすっかり日が暮れていた。ぼくらはぎゅっと手を繋いで、歩きだす。
「もうしないよね?」
「え、しないの? 私としたくない?」
「違う」首を振った。「もうカラダは売らないよね?」
 うん、と彼女はすぐに言ってうなずく。
「約束して」
「約束する。マサオ君は、私の傍にいてね」
「もちろん──」ふっと、思考が過ぎる。「瑞穂が、裏切らなければ」
 僅かに彼女が顔色を変えた。
「裏切らないよ……」
 そう口にして、瑞穂はぼくの腕にぎゅっと縋りついてきた。
 どうしてそんなふうに言えたのか、わからない。ただふいに、釘を刺しておくためにと言葉が出た。
「お腹空いたね。コンビニで何か買ってあげる」
「ホント?」
「うん」
「ありがと」
 彼女は更にぼくに身を寄せた。
 ぼくらの恋は、まだ始まったばかり。
 ……これからどんどん瑞穂に釘を打っていき、一生ぼくだけのモノにしてやる。ぼくの受けた苦しみがどれだけのものだったかを理解させ、彼女自身がしてきたことがどれほど汚らしく醜い(あやま)ちだったのか、わからせてやりたい。
 タダじゃ許さない。彼女が自分を売ることに至った経緯が、たとえどんなものであったとしても。
 それから、ぼく以外の人に愛される価値が彼女には微塵もないということをわからせる。彼女をぼくに依存させ、縛り付けるための方法が無数に思い浮かぶ。その全てを実行したい。彼女の精神を蝕んでやろう。大丈夫、そうなってもぼくだけはいるから。
 そうして一生、ぼくから離れられないようにしてやる。


〈第二話 「ラブホテル」end〉


第三話 »
colorless Catトップ


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