第七話 「明日死ぬ」‐長谷川 花梨‐


 生きる意味なんてない。
 世の中、面白いことなんて何一つないし、全部無意味。
 信じられるものもない。誰も私に手を伸ばしてくれなかった。
 みんな、自分のことばかり気にして最後は裏切るし、離れていってしまう。結局自分がかわいい。結局、自分の欲望を最後にもってくる。人間はそんなふうにできてるんだ。
 誰も希望をくれなかった。誰も、傍にいて寄り添ってはくれなかった。
 独りぼっち。どこにいても独りぼっち。誰といても独りぼっち。
 私には、生きていることの価値をどこにも見つけられない。……いや、そんなもの、世の中にあるわけないんだ。


  1


 絶望。
 私にはそれしかない。
 人生が結局何もないことを、十八歳で知った。
 よくわからない会社の社長をしている父は、徹底して厳しい人だった。父の息にかかっていた母は私に英才教育を押し付けて、ずっと両親の敷いたレールの上を走らされてきた。そこに私は、喜びなんて一切見出せなかったのに。
 父は私がテストで悪い点を取ると、母と一緒になじった。一度父が怒りだすと、何時間も説教が始まった。母はそんな父に突き動かされ、私を優等生の枠にはめようと必死になる。抗うことができず、私は強制的に走らされる。たとえ、どれだけ息が切れようが、疲れようが、母には関係ない。社長である父の言うことが絶対なので、父の許可なしに私は意志を持って止まることができなかった。当然、父は私が止まったり、レールを逸れたりしないように、母に監視させていた。
 父は私を、地元の有名な高校に入学させた。お嬢様学校で、校則がアホらしいほど厳しかった。授業も、先生も、友達も、全部つまらない。私の生きる世界には、希望というものはどこにも存在しなかった。
 高一の夏休み、何もかもをぶっ壊したいと思っていた私は、私を壊してくれる誰かを携帯のサイトで探した。その相手はすぐに見つかる。
 相手は四十六のオッサン。出会い系で知り合ったそいつが、金で私の性を買いたいと言った。私はそれに乗った。
 それからは売春漬けだった。ずっとどこかで翼を羽ばたかせたいと願っていた私は、セックスに自由があることを知った。暇さえあれば誰かとセックスを繰り返した。別に欲しいものはなかったし、援交すればするほど金が溜まる一方だった。
 私には、あまり感情というものがなかった。自由を謳歌(おうか)したかった、というのもあったけれど、私は自分に感情を与えるためにセックスを繰り返したんだと思う。ヘンなオヤジとヤるのは嫌だと思うこともあったが、自分が生きている心地がした。
 だから、自分に生を教えてくれるものにはとことんハマった。痛みが生を教えてくれるリストカット、アームカットにもハマった。一通り有名なドラッグもやった。年齢を偽ってソープで働き、加えて援交で稼ぎまくって、その金を大好きなホストに注ぎ込むことにもハマった。みんなで騒ぎ立てるのは死ぬほど楽しかった。私が一番、人生で自由を謳歌したのは、ホストにハマっていたときだと思う。そのときはもちろん、まだ本気で死ぬ気にはなっていなかった。
 ある日、友達が私のしている全てを先生にチクった。それが私の全てを崩壊させるまでに至るのは、時間の問題だった。
 すぐに親に伝わり、父は私を殴り倒した。私の大好きなホストに電話して、未成年を入店させたことについて説教をした。電話が私に代わると、「もう二度と店にくるな」とだけ言われ、そのまま電話を切られた。
 その瞬間、私は爆発した。叫び、狂い、両親の目の前で手首を切った。
 でも、死ねなかった。強く切ったつもりだったのに、動脈に達することができず、私はそのまま精神科に入院させられた。
 長期入院をさせるつもりのなかった父は、医者の勧めを拒んですぐに通院に切り替えさせた。私は入院も通院も嫌だったけれど、母が付きっ切りになって病院に通わされた。
 私は両親のために生まれた人形。私は意志を表現できない。両親に私の自由な意志を証明するには、自ら人形を止めることしかないとわかった。すなわち、自殺すること。
 卒業が間近だったこともあり、両親がなんとか学校に取り入って、私は再び高校に通わされることになった。ちょうど冬休みが重なっていて、休み明けの三学期から学校に行くこととなった。
 けれど、行くつもりなんてない。
 冬休み、私は両親が望むような良い子を演じた。それが私にできる最後の贈り物。
 休み明けと同時に、私は学校へ行かず、制服姿で電車に飛び込むつもりでいた。そう計画していた。

 すぐに時間は過ぎる。最後にとんでもなく迷惑がかかることをするのだから、私は貰ったお年玉で、両親にちょっとしたプレゼントをした。父にはネクタイ。母にはネックレス。「今まで迷惑をかけてごめんね」と、作り笑いを浮かべてそれらを渡した。父と母は一応喜んだ。私の胸の内に気づかなかった。その日が、私が死ぬ前々夜なのに。

 翌日。
 朝は何も変わりなく訪れた。両親に「おはよう」を言い、三人一緒にご飯を食べた。
 祝日にも関わらず仕事の父を満面の作り笑顔で見送り、そのあと母に、「部屋で勉強する」と告げて自分の部屋へ籠もった。そう告げたのは、母が入ってこないようにするため。
 もちろん勉強なんてしない。ルーズリーフに全ての想いを込めるつもりで、遺書を書き始めた。
 私は、明日死ぬ。


  2


 遺書を書き終え、机の引き出しの中に入れた。明日、家を出る前に机の上に置いておくつもりだ。
 今日が最後の一日。だからといって、何か特別なことをする気はない。そんな気はもうとっくの昔に消えたのだから。今日も昨日と変わらず、作り上げた明るさで母と接するだけ。何も変わらず今日を終え、明日を迎え、さようなら。

 母は外食に行きたがったが、お昼ご飯は私が一生懸命作ってあげた。昔母が教えてくれた、梅とじゃこの入ったチャーハン、それと肉野菜炒めを作った。
 隣り合わせの椅子に腰掛けて、一緒に食事をした。「味はどう?」と訊くと、母は「まあまあね」と言った。最後にしたことなのだから、もっとしっかり褒めてほしかったな、と私は思った。
 それから私たちの会話はない。黙々と食事をするだけ。
 普段テレビを観ながらの食事は控えろと父から言われている。けれど、母と無言で食事をするのは息がつまりそうだったので、「テレビつけるよ?」と母に訊いた。父の見ていないところで食事をしながらテレビを観る母は、「どうぞ」と言った。
 私は椅子から立ち、テレビをこちら側に向ける。テレビをつけて、椅子に戻った。
「──我々が独自に調査したところ、恋呪による傷害事件や、自殺などが、ここのところ急増しているらしいのです。恋を叶えられない人が最終的に気が狂って、誰かを傷つけるか、自分を傷つけてしまうんですねえ」
 テレビの声は私の思考を完全に奪った。それは、お昼時によくある情報番組だった。
「今まで専門家の方々が恋呪を否定してきましたが、最早その存在を認めるしかないでしょう。どうです、金村さん」
 五十代過ぎのおじさんが画面に映り、テロップが表示される。金村、という人は脳科学研究の第一人者らしい。あんな感じのおじさんとヤったことあるなあ、と私は思った。
「恋の感情は、突き詰めれば生化学の作用です。なぜそのような現象が起こるのか、未だに信じられませんが、どうやら赤い紐を小指に結びつけるだけで、脳内で過剰な化学反応が起こるようですね」
「薬物による反応みたいなものですねぇー」
「そうですね。恋の感情を増幅させる薬があるとして、それを服用したら、恋呪で起こるような反応が起きるでしょう」
「それをただ赤い糸を指に結ぶだけでその効果を得られるって、すごいですねぇー」
「手軽に効果を得られるところが恋呪のすごいところなんです」画面はコメンテーターたちから司会者に変わった。「我々取材班は街で恋呪に関するアンケートを取りました。男女百人に『恋呪を知っていますか』と伺ったところ、知っていると答えたのは四十五人でした」
「意外と少ないですねぇ」
「そうなんです。それで、知っていると答えたのは平均二十代の若者ばかりで、特に女性が、知っていると答えた人が多い結果となりました。その四十五人に、恋呪をしたことがあるか、と伺ったところ、ピッタリ二十人が『ある』と答えました」
「手軽に試せる割に半分以下なんですねぇ」
「そうなんです。原崎さん、これはどういうことでしょう?」
 司会者の隣には眼鏡をかけた女性が立っていた。テロップが表示され、そこには『月刊オカルトオリジン』の編集者、と出ている。
「恐らく、恋呪による事件を知っているから、自分が狂ってしまうことを恐れて試せないのでしょう。女性が恋呪を試すと呪いが解けなくなるケースが多いので、恋呪を試そうと思う方は、充分に注意したほうがいいです」
「原崎さん、恋呪を試した女性の中には、糸が指輪に見えたという人がいるようですが、これはどういうことでしょうか?」
「女性は男性以上に恋呪の力を感じられます。恋呪の効果が強ければ強い人ほど、糸が指輪に見えるようになるのかと思われます」
「なるほど。つまり呪いの力が強い人ほど赤い糸が指輪に見えて、恋呪が解けなくなってしまうということですね」
「断定はできませんが、おそらくそうです」
「恋呪の効果を得るには、なぜか左手の小指に糸を結わないといけません。恋呪を試した人の中には右手に赤い糸を結った人もいたのですが、全くなんの力も感じられなかったと言っていました。なぜ左手なのでしょうか?」
「科学的な理由はわかりませんが、その昔、様々な地方で赤神のまじないというものが流行っていたそうで、実はそのまじないが現代に蘇ったものこそ、恋呪なんですよ」
「と、いうことなんですねぇ。既にオカルトオリジンの方で記事にもなっていましたが、実は赤い糸を左手の小指に結ぶ、という恋のおまじないは大昔から存在していて、どうやらそれが呪いとなって現代に蘇ったようです。さきほど原崎さんが仰った『赤神のまじない』というのは、京都の方ではよく知られたまじないなんです」
「つまらない話ね」
 不意に母が言った。
「UFOだのなんだのって、アタシはそういう話が一番嫌いよ」
 そう言って、リモコンを操作して勝手に番組を『いいとも』に変えてしまう。
「私も大っ嫌い」ニッコリ笑ってみせる。「お母さんと一緒」
「そっ。親子らしいわね」
 母も薄っすら笑っていた。もちろんこっちは作り笑い。
 噂で恋呪のことは聞いていた。おまじないなんて、小学生がやるようなものに興味は持てなかったけれど、あれだけの情報を突きつけられれば、嫌でも興味は湧いてしまう。
 面倒くさかったけれど、赤い糸を左手の小指に結んでみた。結び方はこま結び。
 色んなクスリをやってきた私が、今更の赤い紐を小指に結んだだけで気が狂うと思えない。ましてや明日死ぬ身。既にこっちは狂ってる。これ以上狂わせられるのならやってみろよ、という気分だった。

 部屋のベッドでぼうっと一時間過ごした。なんの変化も起きない。こんなことを試している自分が急にアホらしくなってきた。何が恋呪だよ。赤い糸が指輪に見える? そんなこと起きるわけないじゃん、赤い糸は糸のままだっての。
 立ち上がって、窓に近づく。半分閉じているカーテンを開けて、窓の外に目をやった。高級住宅が狭苦しく立ち並び、どの家も門松を立てていて、新年らしい装いをしている。
 恋の感情を増幅させる効果が起きる、というようなことをテレビのおじさんが言っていた。そもそも私は、もう誰にも恋をしていない。今まで援交で会ってきた奴はもちろん、大好きだったホストに対しても、感情はないんだ。お相手を見つけなければ、恋はできない。
 親指で、小指についている赤い糸をいじる。すると、違和感を覚えた。あるはずのない硬い質感を感じる。
 私は赤い糸に視線を落とす。
「えっ!」
 違う、糸じゃない──指輪だ!
 思わず頭を振るった。もう一度、小指に目をやる。
「あれ、糸だ……」
 確かに指輪だったはず。血の色みたいな、赤い指輪だった。けれど、今はどう見てもただの赤い糸。
 ぶるっ、と身震いが起こった。
 ……こんなことぐらいでなに恐怖感じちゃってるんだろう。クスリでぶっとんで幻覚見たことなんて、数え切れないほど経験しているのに。これはただの糸。気にしすぎて、指輪に見えただけ。そうに違いない。
 もう糸を外そうと、手をかける。
 けれど、ためらった。なぜ外すのだろう。やっぱり、どこかで怖いと思ってるから? 明日死ぬのに? ただの糸なんだし、ビビッてなんかいない。だからもうしばらく付けていよう。
 そう決めて、窓の向こうに目をやる。ガキ臭いまじないだという証明をしたいから、街に出てみようかと考えた。すれ違う奴の顔を見ていけばいい。よさそうなイケメンを見つければ、少しは私の心も揺らぐから。

 私がずっと“良い子”を演じていたからか、母は容易く外に出る許可をくれた。でも、なるべく早く帰るように言われた。
 今日は休日だから、駅へ向かう途中で色んな人とすれ違った。ダサいおじさん、まあまあイケてる二十代後半の男、高校生か中学生のガキの集団ともすれ違った。私の心は誰にも反応しない。
 当然か、明日死ぬつもりなんだから。
 なんか、街に出ても疲れてしまうだけな気がする。ていうかもう既にちょっと疲れてるし。おまけに寒い。
 一応、男を寄せつけやすいようにメイクも服装もバッチリ決めていた。胸元がガラっと開いたクリーム色のワンピース、ラズベリーピンクのスカート、ファーのついたロングブーツ。張り切って膝上十五センチほどは露出している。それと、黒のショルダーバッグで全体の色を強調していた。街でナンパ待ちしてれば、必ず誰かが声をかけてくる。
 肌に冷気が刺さるたび、やっぱりやめようかと考えたが、そう思いながらも進み続けた。明日死ぬのだから、最後にやりたいことはやってみよう。恋呪の謎を残したまま逝きたくはない。
 駅の近くまで来た。先に見える角を右に曲がれば、もう駅が視界に入る。電車に乗るのがゴールではないけど、街に出れば寒さも紛れるような気がした。
 歩き続け、角に差し掛かる。私は右に曲がる。
 と、ばったり人と出くわした。なんでもない、ただの人──いや、私にとったら普通以下の男。下の下。
 身長は私よりほんの少し高いくらい。冴えない顔。色白でひょろそうな体つき。ガキ臭いジャンパーを羽織っていて、髪がボサボサ。多分私と同じ高校生だが、年下だろう。普段すれ違ったら絶対にスルーするような男。興味の対象にすらならないし、意識することもあるはずがない。蹴っても気付かない小石のような存在。
 それなのに──どうしてだろう。
 全身に稲妻が走った。バリバリ、と音すら聞こえ、身体が痺れあがった。強烈な衝撃だった。足が勝手に止まって、男から目を離せなくなった。
 当の男も、私を目前にして足を止めた。ダサい顔してぽかんと口を開けている。意味がわからないけど、それがどうしてか妙に愛おしい。
 私は頭を振るってみせる。逃げるように男とすれ違う──
 そうしながら、心は呼び止められることを求めた。
 だが、男は明らかに恋愛慣れしていない。私に声をかけるようなタマじゃない。
 私は歩いていく。このまま去っていいのかと、心が問いかけてきた。でも無理。あんなどうしようもなくダサい、魅力が皆無の男は対象外なはず。理性で必死に拒んで、歩みを速めた。
「あの」
 待っていた声が聞こえた。それは、想像以上に高い声だった。
 それでも、私は歩みを止めない。もう一声掛けられたら、認めてあげようと思った。
「あの、すいません」
 全身から喜びが溢れて、足を止めてしまう。……うそでしょ? どうして私は嬉しいなんて思ってるの? あんな男の何がいいわけ?
 私は振り返って、男を見た。
「以前ここですれ違いましたよね?」
 思わず、ふっと笑わされた。そういうテクニックは知っているらしい。雰囲気がオタクっぽいし、気持ちの悪い美少女ゲームとかで覚えたのかな。
「さあ。あなたとすれ違った覚えはないけど」
 私は状況を楽しむように言った。オタクゲームで培ったナンパのテクニックに興味があった。
「すれ違ったんですよ、あなたは覚えてないかもしれないけど──あ、そのときは確か、あなたはお母さんと一緒でした」
 驚いた。
 嘘話じゃなくて本当にすれ違っていたらしい。そのときはこんな、全身に稲妻が走るようなルックスの男に気づかなかったっての?
「本当にすれ違ったんだ。悪いけど、私は覚えてないから」
 つまり、男にとっては運命の再会のようなもの。だから声をかけた? 私以外に二回以上すれ違うような人はいただろうに。こんな場所のすれ違いじゃあ運命なんて言葉、私は使えない。
「僕ははっきりと覚えてたんです。あなたはとても、僕の印象に残ってた。前見たときはすごく表情が沈んでた。どこかへ消えてしまいそうな顔をしてた。何か嫌なことがあったのかなって、引っかかってて」
 一生懸命に言葉を並べられた。覚束なくて、焦り気味に言われた言葉だったが、それは今までされたどんなナンパよりも、素敵だと思った。
 この人は私を分かってくれるんだ。
「嫌なことなんて、しょっちゅうあったよ。嫌なことだらけ。どこかに消えちゃいたいって今も思うし」
 そもそも明日死ぬつもりだし、とは言わない。
「今のあなたは、この前会ったときと比べて、格段に消えてしまいそうな雰囲気が強くなってる」
 凄い。親はなにも気づいてくれないのに、男はそれを読み取っちゃうんだ。なかなか賢いのかもしれない。それでいて優しいのかもしれない。
 この男についていったら、今まで知らなかった新しい世界が見えるだろうか。そこは、私が生きたいと思える世界だろうか。
「じゃあ私が消えてしまわないよう、あなたがどこかへ連れてってくれる?」
 こんな気持ちの悪いダッサイ男に、私も大胆に言ったものだ。
「僕が連れていけるところなんて、あなたには不釣合いな場所しかないですけど……それでもいいですか?」
 メイドカフェとか? マンガ喫茶、萌え系のグッズが売ってるショップとか。そんな世界に飛び込みたくない、と思ったけれど、明日死ぬのだから、最後に今まで嫌悪していたそんな世界を見てみるのもいい。
 私は、男の方へと歩み寄る。
「いいよ。どこでも連れてって」
 男の隣で私は止まった。男は、私を見たり視線を外したりと、完全にきょどっていた。なんだか面白くて、私はそんな男を虐めたくなってしまう。
 例えば、いきなり手を繋いであげるとか。
「えっ!」
 繋いであげたらオーバーな声をあげた。面白い。こいつ絶対童貞だ。
「ほら、連れてってよ」
 相手がこの男なら、どこに連れられてもいい。100%無害だろうから。ホテルに連れ込まれて犯されることもないだろうし、乱暴に殴り倒されることもない。
「じゃあ、あっちに、行こう」
 男は駅と真逆の方を指さした。繁華街に行くわけではないらしい。
「わかった」
 どこに行くのか、というのは訊かない。それは着いてからの楽しみにしておくことにして、私は男を引っ張るように歩きだした。

 私は、基本的に歩くことが嫌いだ。
 歩きでの移動だとはわかっていたけれど、想定外なことがあった。それは、歩く距離と時間。
 数分くらいなら、と思っていたけれど、十分ほど歩いてから目的地までどれくらいかかるかと訊けば、あと二十分ほどだと言われた。タクシーに乗ろうと私は言いだした。けれど男に拒まれた。だいたい、私は五分以上の移動の際、ほとんどタクシーを使っていた。今日一日だけで私は有り得ないほど歩いている。それなのに手を繋いでいるこの男ときたら、週末はよく外に出て一時間以上も歩くという。……信じられない。馬鹿げてる。
 あんまり長い時間歩くものだから、私は気を紛らわすために色々と喋った。主に親の愚痴だけど。風俗やってたとか、売春していたとか、深い話はしない。……嫌われたくないから。
 男の名前と歳も訊いた。寺西太郎。平凡すぎて笑ってしまうようなダサすぎる名前だった。年齢はやはり、私が絶対に対象外とする年下。十六歳、高校一年。何もかもが論外だった。
 それなのに、私はずっと太郎にときめいていた。
 恋の動悸が治まらない。自分から手を繋ぎにいったんだけど、恥ずかしくて離したくて──それでも離せない、という厄介な状態に陥っていた。
 おかしい。絶対ヘンだ。手を繋いでいるだけで緊張する意味がわからない。汚いオヤジの舌がいくら身体を這おうが、なんの感慨もわかなくなっていたのに、こんなダッサイ男とただ手を繋いでいるだけで、私の顔や、全身に至るまでが火照っていた。いつの間にか、寒いのも忘れるほどに。
 そんな感情を見抜かれたくないから、終始私は独りで喋り続けていた。

「着いたよ」
 私のお喋りが止まったタイミングで太郎が言った。いつの間にか足も止まっていた。目的地の場所を確認する。明らかに鳥居が見える。
「ここって、神社?」
 見るからに神社だけど、確かめるように言った。
「見ての通り、神社だよ」
 なぜ、こんな最もつまらない場所に連れてこられたんだろう。まだアイドルグッズが売っている店とか、二次元と現実を混同しているような空間に連れていかれたほうがマシだった。中途半端な規模の神社で、鬱陶しそうなほどに木々が立ち並んでいた。
「どうして神社に来たの?」
「ここの神社が好きだから」
「もしかして神社オタク?」
 いや、と太郎は笑う。「ただこの場所が好きなんだ。木がたくさん生えてるし、それでいてこの神社は人が全然来ないから」
 私にはそれが理解不能だった。単純すぎる理由だけど、たったそれだけの理由のために、三十分歩く。太郎の頭はおかしい。複雑な環境で育ったのかもしれない。
「それに、途中でだいぶ道を上ったでしょ? ここは高所だし、この神社はより神様に近くなるようにと、高いところに社があるんだ」
 そう、確かに坂をかなり上ってきた。バッチリコーディネイトを決めて、私は何やってんだろうって、何度心の中でつっこみをいれたことか。
 鳥居の正面には無数の石段が見える。今の私にとっては気が滅入るような高さだ。
「これ、上るの?」
「うん。……上りたくない?」
 断ったら、太郎が傷ついてしまいそうに思えた。
 意を決し、私は太郎の手を離す。今から私は、世にも恥ずかしいことをしてみせる。
「うおりゃああああああ!」
 どこにそんな元気が残っていたのだろう? どうしてこんな馬鹿げたことをするのだろう?
 自分でも理解不能だけど、私は叫んでダッシュして、階段を駆け上がっていった。
 あっという間に社の前に着いた。久しぶりに走ったものだから、はぁはぁと息が切れた。振り返って太郎を確認すると、彼は笑ってくれていた。ウケたらしい。
「うおおおおおお!」
 突然太郎が私と同じように叫び声をあげ、階段を駆け上がってきた。そんなノリよさは、私にとって好印象に映った。
 あっという間に私の隣に来る。二人して息を切らしあい、白い息がいっぱい浮かんでいた。
「長谷川さんは、ユーモアがあるね」
「それはこっちの台詞だよ」私は辺りを見回す。「こんな何もないところに私を連れてき……」
 目にした景観が、私の心を奪った。
 確かにここには何もない。誰もいないし、何もすることがないつまらない神社。だけど、私の眼前には、私が住んでいる街が果てしなく広がっていた。ミニチュアサイズの家々がずっと先まで続いている。正面に生えている木々は、私の足元の辺りが天辺で、まるで木々の天辺から顔を出しているようだった。大自然の中で街を眺めている気分だった。
「大きく深呼吸してみてよ」
 不意に太郎が言った。私は太郎の顔を確認したあと、また景色を望む。
「息を吸うときは鼻で。お腹に空気を溜めるような具合ね。吐くときは、口で吐いて」
 そう付け加える声がした。元々鼻呼吸だから、鼻で吸うつもりだったけど。
 ……息を吸えば、何かがあるのだろうか? 普段当たり前に息を吸って生きているのに、ここで深呼吸をしたところで──それは今までとは違う特別な呼吸になるのだろうか。
 私は、冷たい空気を一杯に吸い込んでいく。その時点で、今まで吸っていた街の空気とは異質な空気だと感じられた。むせかえるような冷気だけど、味が違う。自然の匂いがする。身体の隅々まで新鮮な空気が行き渡る感覚がした。勝手に、もっと吸い込もうと肩が上がっていく。
 限界点に到達して、吸った分を勢いよく吐きだす。息は薄っすら白く色付いていた。
「どう?」
 感想を求めてきた太郎を向く。気のせいだろうか。さっきより太郎がめちゃくちゃかっこよく見えていた。
「どうして、こんなことをさせたの?」
 太郎は嫌味のない自然な微笑みを浮かべた。
「長谷川さんには、自然の新鮮な空気が必要だと思って」
 つまり、私にお参りさせるためにここへ連れてきたわけじゃなかった。私にこの景色とこの空気を吸わせるために、ここへ連れてきてくれた。今なら、三十分も歩いた意味があったように思える。
 再び街に目を向けた。一帯を見渡した後、鼻で深呼吸をした。
 私の中の不純物を入れ替えるように、何度も深呼吸をした。
 隣で、太郎も一緒になって深呼吸をしていた。

 私たちは石垣に腰掛けて、両足を地面に向かって垂らしながら、隣り合って街を眺めていた。
「僕にとって、女の人って巨大な壁だったんだ」
 太郎がそんなことを言いだした。
「壁?」
「うん、越えられない壁っていう意味。全ての女の人がそう。絶対に関わることのできない存在で、たとえ隣に」
 太郎の顔が私に向く。
「長谷川さんのような綺麗な女性がいてくれても」
 ドキッ、と心臓が高鳴る。
「遥か彼方、何光年も遠くにある星のような存在なんだ」
 ふっと笑ってしまった。「大袈裟すぎる。私は隣にいるよ?」
「そうだけど、それでも手が届かない存在に見えちゃうんだ。ほら、見ての通り僕って女性をつかまえられるような顔じゃないでしょ?」
 きっと、太郎みたいなやつが将来風俗に足しげく通うようになるんだ。
「顔なんて関係ないよ。そんなふうに思いながら、よく私に声をかけてくれたね」
「僕の友達が、前に進みたかったら傷ついてもいいから声をかけろ、って言ってくれたんだ。そうしなきゃ何も始められないって」
 なかなか良いこと言う友達じゃん。
「私に声かけて、太郎は前に進めた?」
「進めたよ。地上から一気に月までぶっ飛んでった気分だ」
 面白くて、私はくすっと笑った。
「長谷川さんは、どうして僕なんかに付いてきてくれたの?」
 ひと目惚れしたから。なんて、言えるわけない。頭の隅にあるプライドがその言葉と感情を許していなかった。
「面白いことがありそうだったから。私のこと、ちょっとは見抜いてくれたし」
「長谷川さんにとって……ここは面白い?」
 私は彼を向く。自信をもってほしいから、全面肯定しようと思った。
「刺激的で面白いよ。何もなさすぎるし、誰もいないし、最高の平凡な景色と最高の空気が吸える。こういうところに来るのも、悪くないなぁって思った」
 独りだったらそんなふうに感じなかっただろう。例えば援交相手のオヤジと一緒でも、私の好きだったホストと一緒でも、こんな穏やかさは感じられなかったと思う。
 相手がこのなんでもない年下の平凡な男だからこそ──そしてその人を好きになったからこそ、今の私には今までになかった感覚が巡っている。
 彼に落ちた理由が少しわかった気がした。そこに救いや癒しが見えていたんだ。
「今まではどんな世界にいたの? 僕なんかとは真逆の世界にいた?」
 バッと映像が過ぎっていく。どれ一つ太郎には話せない。
「太郎が想像もつかないような世界にいた」
「……長谷川さんって、何かありそうだよね。両親のこととか以外にも、心の中を覗くとすごい事実が一杯出てきそう。最初見たとき、そういう暗い顔をしてたから」
 ぐらっ、と心が揺れ動く。堰き止めていた言葉を言ってみたくなった。
「今まで私が何してきたか、聞きたい?」
「聞かせてもらえるのなら全部知りたいよ」
 太郎はなんの躊躇もしない。そんなに堂々とされたら、つい口が滑ってしまう。
「私、風俗やってたし、売春もしてた」
 太郎の顔色が見たかった。でも、もうそれを言ったら横を向けなかった。
 私は、自分の人生の一部を読み上げるように、街を眺めながら淡々と説明していく。

 言葉は止まらなくなって、思いだせる限りのことを一方的に喋りまくった。読み上げるように説明していたはずが、そこに様々な負の感情を交えて説明しきった。
「それで、私は明日死ぬつもりなの」
 そこまで言いきってしまった。
「──明日?」
「そう、明日。つまらない学校に行くつもりはない。つまらない人生を、これ以上繰り返すつもりもないから」
 私は立ち上がる。この石垣から下へジャンプしたら、死ねるだろうか? って、絶対に無理だ。下は土だし、死ぬには低すぎる。
「本当に明日死ぬの?」
 太郎の顔はやはり見れない。私の家がある方向を見つめつつ、答える。
「死ぬよ。遺書も書いた。死に方も決めてる。確実な方法。お母さんに、行ってきますって言って、学校に行く振りして、電車に飛び込むの」
 太郎は何も言わない。呆れてるのだろうか。……止めてくれないのだろうか。
「長谷川さんに、死んでほしくない」
 期待していた言葉が飛んできた。望まれる喜びを感じた。
 これがもし、太郎以外の人から言われたものならば、私は嬉しいだなんて全く思わない。太郎に望まれるからこそ、引き止められることが快感に繋がった。
「死ぬって決めたから。この世界は生きる価値なんてないんだよ。そもそも、私が生きてる価値もないんだから」
「あるよ!」
 太郎の大きな声と共に、立ち上がる音がした。
「価値がある、って僕が長谷川さんに思わせてみせる。他にももっと、刺激的などこかへ連れていくから」
 それはどんなところだろう。また何十分も歩かされて、ここみたいなくだらない場所に連れていかれるのかな。
 私は、小さく鼻で息を吸う。太郎に聞こえないように、息を吐く。
「何があっても、もう死ぬって決めたんだから」
 私は歩きだす。単純に、引き止められたかったから。だって、太郎はゆってくれない。私が本当に求める言葉を。
 好き、っていう告白を。
 それを聞きたいから、私は逃げるような態度を取ってみせた。私の全てを理解した上で、それでも引き止めてくれるなら、まだこの世界でしばらく生きていく意味を見出せそうだった。
 階段に入り、下っていく。後ろから追ってくるような音がしない。
 このまま逃がしてもいいの? 明日本当に死ぬよ?
 いくら引き止めて欲しいと願っても、彼は追ってこない。それはつまり、私が死んでもいいってこと。引き止める価値がないってこと。
 ついに、石段を下りきった。ひどく淋しい気持ちが襲ってくる。信じられない。
 賢くして優しい、今までにない良い男だと過大評価していたけれど、間違いだったんだ。
 私は鳥居に向かって歩きだす。振り返りたかったが、プライドはそれを許さなかった、それに、ちょっとだけ涙を零していたから。

 太郎は本当に追ってこなかった。私はもう呆れていた。
 なんてクソみたいな男だろう。積極的に手を繋いであげたのに、神社までついてってあげたのに──太郎を信じて、全部喋ったのに……。
 男なんてみんなこんなものなんだ。そんなこと、ずっと前からわかっていた。ちょっとでも希望や救いを見出した私が馬鹿だった。そうやって希望を持てば裏切られる。それはいつものことだった。最後まで私は他人に傷つけられるんだ。
 ふと、馬鹿げたまじないのことを思いだす。それをちょっとでも信じて試したのがまず根底の間違いだった。
 歩きながらで、左手を上げ、小指を見る。
 赤い糸が、赤い指輪に見える。
「えッ──アレ?」
 とっさに足を止めてそれに触れた。すると、ちゃんと指輪の質感があった。どこか朧げな赤い指輪だが、確かに私の指にある。
「ウソでしょ──恋呪、本当にあったの?」
 と、いうことは、今までの感情は全てこれのせいだったってこと? これのせいであんなダッサイ男に惚れたの?
 恋呪に対する憎悪が湧き、指輪を摘まんで小指から引っこ抜いた。
「え、え──」
 信じられない現象が起きた。抜けた瞬間、指輪がただの赤い糸に変わった。
 どれだけ見回してもそれは赤い糸。私が家で結ったもの。輪っか状で、さきほどまで小指に結われていた形を保っていた。
 気持ち悪くて、思わずその場に捨てた。風が吹き、糸が流されていく。私はそれに目もくれず、歩きだした。
 少し歩くと、状況のおかしさに気づいた。
 いったい、さっきの男はなんだったのだろう。どうして私はあんなクソガキを好きになっていたんだろう。ルックスを思い返すと、ますます意味がわからなくなってきた。印象の薄い顔、灰色のジャンパー、安物のジーンズに安物のスニーカー。絶対街を一緒に歩きたくない。気持ち悪い。
 うわっ、うわっ──恥ずかしい。あんな奴を本気で好きになって、本気で信じてしまって、手も繋いでた。
 恋呪……恐ろしいまじないだ。まさに恋の呪い。恋をする価値もないブサイクに本気で恋愛感情を抱いてしまう。盲目になって、欠点すら可愛く見えてしまう。
 もう二度とやらない。いや……もうやることもないんだ。
 だって、私は明日死ぬのだから。


  3


 朝は昨日と変わりなく訪れた。両親に「おはよう」を言い、三人一緒に最後の朝食を摂る。満面の作り笑顔で父を見送り、そのあと私は部屋でセーラー服に着替える。他に学校の用意はしない。引き出しの封筒を出して、それを机の上に置く。何も入ってない学校の鞄を持って、笑顔で「行ってきます」と母に告げた。心の中では「さようなら」を呟く。
 私は、今日死ぬ。

 駅までの道のりは、ほぼ無感情で歩いた。あのおかしな男のことを思い浮かべることもなかった。……ほんの少しは浮かんだけど。私にとってあの男は、もう過去の存在だった。
 みんなにとっては、これからも変わらないこの日常が繰り返されることだろう。本当は身のない薄っぺらな世界なのに、そこに一生懸命色んな幻想を積み重ねながら、終わりまで日々を過ごす。それを否定するつもりはない。ただ、私は色んな経験をしすぎて、十八歳で生きる意味がないことを理解しただけ。
 改札を抜けて、階段を上り、いつもの下りホームに立つ。ちゃんと死ねるように、電車が来る方向の壁際に立った。電車が到着するまで、残り三分。
 仕事や学校に向かう人間たちが大勢いるものの、誰も私に目を向けていなかった。みんな、自分のことで忙しいんだ。私一人世界からいなくなったところで、何も変わらない。変わるはずもない。ただ、この場所にいる人たちにとってはなんらかの思い出になるだろうけど。それも数日で忘れるだろう。
 ぼんやり過ごすうちに、アナウンスが流れる。私を生の世界から切り離す電車がやってくる。
 聞きなれた走行音。壁際から覗けば、身に染みるような寒風の向こう側から電車が、
「長谷川さん!」
 ビクン、と身が竦んだ。体勢を崩してレールの上に落ちかけた──けれど、呼び声と共に私の左腕はしっかり掴まれていた。
 聞き覚えのある、高い声だった。私は振り返る。
 ……今頃なんだってのよ。
「何するのよ」
 冷ややかな眼差しで太郎を見つめながら、そう言った。太郎はオークル色のブレザーを着ていた。
「止めに来てごめん。どうしても放っておけなかった」
 そんな言葉を嬉しい、だなんて思う自分が許せなかった。
 電車がホームに入ってくる。私は掴まれている腕を引く。当然のように腕を引っ張られて止められた。電車は騒音をたてながら完全にホームへと入り、止まる。飛び込み自殺はできなくなった。
 私は項垂れる。これで死期が延びた。
「死ぬのは、また今度にしよう」
 太郎の間抜け面に目をやる。私の表情に感情は込もらない。
「僕は、君が生きることを望んでるんだ。勝手な言い草かもしれないけど……できることなら、もう少し生きて欲しい」
「もう少し?」
「うん。それで、僕がその少しをどんどん膨らませていくから」
 私は小ばかにするように笑う。
「あんたに何ができるっての?」
 太郎の顔が僅かに歪んだ。脆い男だ。それなのに、よく生きて欲しいだなんてエラそうなことが言えたね。
 不意に太郎の表情が変わる。真剣な、どこか男らしさを感じさせる顔つきになった。
「何かはできるよ。長谷川さんにとっては、くだらないことしかできないかもしれないけど」
「だったら興味ない」
 化けの皮を剥がすよう、冷たくそう言い放った。更に腕を引っ張った。太郎は私が行かないよう、ぎゅっと腕を握ってくれる。
「離してよ」
 太郎は首を振った。「お願いだから、死なないで」
「もう死なないよ」
 だいぶ死ぬ気は削がれたし、今は死ねない。
 ドアが閉まる警告音が鳴る。傍観者たちが慌てて電車に乗り込んだ。太郎と私が沈黙している間に、電車は出発した。
 そこでようやく、太郎は私の腕を離した。その際、「ごめん」とすまなさそうに謝ってきた。
「謝るくらいならここまで来ないでよ」
 努めて冷たく言ってみせた。また太郎は「ごめん……」と言った。こんなウジウジした奴を好きになっていたのかと、私は少し気持ち悪くなってしまい、はあっと溜め息を吐く。
 けれど──頭のどこかでは、そんな太郎の態度を可愛くも感じていた。いつの間にか、コイツに対して妙な愛着が湧いてしまったようだ。
「長谷川さんが好きです」
 唐突に告白の言葉が耳に入った。思わず太郎を見上げた。
「僕なんかに好かれて気持ち悪いかもしれないけど、でも、好きなんだ」
 妙なときめきがぶり返す。もう恋呪は解いたはずなのに、手に汗をかきはじめ、体温が上昇してくる。そうやって意識しだすと、今さらながらある事実に気づいた。
 私は、太郎を見上げている。そういえば、この前はヒールの高いブーツを履いていたんだった。太郎は背が高い。
「好きな人が死ぬなんて耐えられない。たとえ君が僕を嫌いだとしても構わないから、まだ生きていてほしいって思うんだ。勝手かもしれないけど……」
 首を横に振りかけた。理性で止めた。
「太郎のために生きろって?」
「そうじゃない。そんなことは言ってない」
 それは悲しい。俺のために生きてほしい、と断言されたほうがいい。
「好きな人に生きててほしいって思うのは、悪いこと?」
 私は返答に迷ってしまう。「思うだけなら、自分勝手で悪いこと」
「それなら」太郎の声色が力強くなる。「僕にできることをさせてほしい」
「できること?」
「うん。何ができるかはわからないけど……。たとえ君が僕を好きじゃないとしても、なんらかの支えになりたい。君が迷惑だと思わない位置で、ひっそりと力になっていたい」
 グッ、と溢れだすものを感じる。
 私は、太郎のこういった純粋さが好きなのかもしれない。純粋で、真っ直ぐで、誠実。ただ私に向かってきてくれる。
 今まで出会ってきた男は、結局自分しか見ていなかった。優しくされることもあったけれど、でもそれは私の肉体が目当て。優しさの裏側には欲望があった。
 太郎は、今まで出会ってきた男とは完全に真逆の位置にいる。
「私、身体を売ってたよ?」
「うん」
「今まで何百人と寝たよ?」
「うん」
「色んなドラッグやってきたよ?」
「うん」
「これからも……誰か知らない人とセックスするかも」
「うん……」
「それでも私が好き?」
「うん。……長谷川さんが誰か他の人と付き合うのは悲しいけど、全部受け止められるよう、努力する」
「やめてよ……」
 とうとう涙声になってしまった。
「やめろと言われたら、やめるけど」
「そうじゃない」私は首を振る。「胸が苦しくなったから、やめてよって言ったの……」
 私はハナをすする。零れだした涙を拭う。
「太郎、私なんか好きにならないほうがいいよ。幸せになれないから。太郎ならもっと良い人つかまえられる。アンタ、顔は悪いけど性格はすごく良いから。それに背もそこそこ高いし」
「僕は、他の誰かじゃなくて、長谷川さんが好きなんだよ」
 私は首を振ってみせる。「私なんか、好きになる価値ないから──」
「あるよ」
 鋭く遮られた。大した言葉でもないし声量は小さかったのに、なぜか胸に力強く留まった。
「長谷川さんが女性である以上、誰かから本気で愛される価値はあるはずだよ」
 私がオンナである以上……誰かからアイサレル価値がある?
「少なくとも、僕は本気で長谷川さんを愛したいって、思うから」
 彼は下手になって、こんな私を本気で受け止めたいという。
 どこまで本気かはわからない。私は、彼の言う「愛」を信じられないから。
 でも、飽きるまで彼についていくのもいいと思った。逆に、彼に飽きられるまでついていくのもいいと思えた。
 私は辺りを見回す。人が増えてきた。
「人が多くなったね」
「うん。僕ら、目立ってきた」
 ほんのちょっとだけ笑えた。「太郎の知ってる、刺激的な場所に連れてってよ」
 そう言ってみせると太郎にはウケて、笑ってくれた。
「いいよ。でも、つまらなさすぎて後悔するかも」
「どこ行ってもここよりはマシだろうから大丈夫」
 太郎は二度うなずく。
「わかった。行こう」
 太郎は振り返り、行こうとする。私はなんとなく太郎の右手に手を伸ばし、掴んであげた。すると太郎はこちらを振り向いた。
「ありがとう」
 お礼を言われるほどのことではない。私は小さく首を振った。

「どこに行くつもり?」
 自転車を漕ぐ太郎の背中から、そう訊いた。
「日溜まりが心地いい堤防」
 つい鼻で笑った。「素敵な場所」
「水切りしたことある?」
「ミズキリ? なにそれ?」
「──知らないの?」
 太郎にとってはメジャーな言葉らしい。
「知らない。なんなの?」
「石を使って、水面を切っていくの」
「水面を切る?」全く想像がつかない。「どうやって?」
「見ればわかるよ。やれば良い運動になるかも。寒いのも紛れる」
「ふーん」
 疲れそうで面倒くさいな。
 そう思う反面、どんなふうに水が切れるのか興味はあった。
「長谷川さん」
「なに?」
「まだ死にたいって思う?」
 だいぶ削がれたけど、それは表面だけ。根は黒ずみがひどくて、そこから次々と負の感情が溢れてきていた。今は太郎のおかげで紛れているけれど。
「今日はもう思わない。水切りに興味があるから」
「今日は思わないってことは、明日以降は死にたいと思うかもしれないの?」
「うん。人生どうなるかなんて、わからないじゃん」
「そうだけど……」
 私は溜め息をつく。太郎に聞こえない程度で。
「今日帰ったら、学校行ってないことが親にバレて怒られる」
「一緒に怒られてあげるよ」
「ほんと?」
「うん。僕にできそうなことだから」
 強力な味方ができた気分だった。
「太郎の家は大丈夫なの?」
「うーん……怒られはしないよ。多分」
「怒られそうだったら、私が一緒に怒られてあげる」
「本当?」
「うん」
「ありがとう」
「ただのお返しだよ。怒られてくれるお返しに怒られてあげる」
「長谷川さんは、やさしいね」
 それはこっちの台詞だ。
「太郎もね」
「僕はやさしくないよ。僕がしたいと思うことをするだけだから」
 私は言葉を失くした。なんとなく、それが本当の優しさなんじゃないかと思った。
 そんなやさしさを、もう少し見てみたい。
「明日は学校に行きたくない……だから、明日こそ死のうかな」
「それだったら、最初から学校に行かないってことにした方がいいよ」
「行かなかったら親に怒られる」
「そのときは僕が一緒に怒られるから」
「太郎は学校どうするの?」
「長谷川さんと一緒にサボる」
 私はそんな言葉を喜んで、笑みを零してしまう。
「それでまた、怪しげな刺激をくれる?」
「うん」
 そのままいくと、私が太郎を堕落させてしまう。それは良くない。
「太郎に迷惑かけれないから、やっぱり私は明日死ぬ」
「……死なれるほうが迷惑だよ」
「大丈夫。明日になっても、明日死ぬから」
「どういうこと?」
「そのままの意味。明日になったら、明日死ぬ。明後日になっても、明日死ぬ」
 意味を理解したのか、太郎が笑った。
「ずっと明日死ぬんだ」
「そう」
「心配だけど、無理して生きようとするよりはいいかもね」
 やっぱり太郎は賢い。わかってくれる男だ。
「だったら僕は、長谷川さんに明日生きたい、って思ってもらえるような努力をする」
「例えばどんなこと?」
「……わからないけど、とにかく僕のできることをするよ」
 それだけで充分だよ。その気持ちだけで充分。
「期待してないけど、ありがと」
 私は、冬の寒さから少しでも逃れようと、太郎の背中に身体を寄せる。自転車の振動と太郎の温かさがなんとも心地好くて、長いこと感じられなかった安心感を覚えた。
 太郎が私に未来の生を望むのなら、そこに浸っていたい。この温かさと共に。
 絶望的な感情があったからこそ、今この感覚が快感のようにも感じられる。だから私は──太郎が生かしてくれるのだし、これからもこの思いを持ち続けたい。
 私は、明日死のう。


〈第七話 「明日死ぬ」end〉


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