エピローグ 「恋呪」 * 佐乃介は、せめて笑みを見せてあげようという気持ちで、自害した奈海を見つめていた。奈海は陸にあがった魚のように口をパクパクとさせたあと、一切、動かなくなった。 かわいそうに。別の男を好きになっていたら、こんなことにならずに済んだだろうに。 亡骸を片付けて血で汚れた境内を掃除しなければならない。佐乃介は、面倒だなと思いつつ、奈海に近寄っていった。 奈海の身に手を伸ばそうとして、 「あれ?」 いつからだったのだろう。左手の小指には、赤い髪がなかった。地面を探すと、すぐ傍に切れた赤髪が転がっていた。 ──これはいけない、家で赤い糸を結わなければ。いや、奈海の赤髪を一本抜いて、それを指に結うか。 「そんなこと……できるわけないだろ!」 状況に対して、急に先ほどまでとは全く違った認識が佐乃介に訪れた。奈海の身体を抱き寄せようとして──下手に動かしてはいけないと考えて、すぐに白装束を裂いた。布の切れ端を、奈海の頚動脈にあてがった。そうして、救急車を呼んだ。 たとえ死んでいることがわかっていても、佐乃介は泣きながら、奈海を助けたい一心で処置をして、奈海の名を叫び続けた。 |
* 涼香と夏陽子はカフェにいた。街路が見えるガラス窓に面した席で、二人はコーヒーを飲んでいた。 「私、ようやく結婚することになったの」 「本当ですか? おめでとうございます」 涼香はパチパチと拍手をした。 「ありがとう。……藤原さんと別れちゃって、もう二度と恋も結婚のチャンスもないだろうなあって思ってたけど、案外すぐに出会いも結婚も巡ってきてよかった」 「先輩、彼と別れてからずっと落ち込んでましたもんね。先輩を慕う者として、自分のことのように嬉しいです」 夏陽子はふっと微笑んだ。心の中では、神楽奈海が自害してどうしようもなく落ち込んでいた佐乃介を思いだした。 夏陽子が一緒にいれば、佐乃介はどうしても奈海のことを思い返してしまう。遠距離ということもあって、常に傍にいられなかった結果、お互いは離れることになった。そうして、佐乃介の傍にいた同じ教員が、彼を癒した。 「この前の休みに、彼が私の両親に挨拶したいからって、実家に帰ったの。私は個人的に、前の彼──藤原さんにも会って報告したかったから、彼には実家にいてもらって、その間一人で藤原さんのところに行ったの。そしたら彼の奥さん、お腹大きくしててさあ、びっくりした」 「え、もしかして藤原さんと奥さんは授かり婚だったんですかぁ?」 「ううん、違う。妊娠が発覚したのは結婚後だってさ。仮にできちゃった婚なら、藤原さんは私に教えてくれただろうし。嘘はついてないと思う」 涼香は数度うなずき、ホットコーヒーを啜った。 「ねえ」夏陽子は小さく笑う。「暑くない?」 「暑くないですよ? 暑い日こそ、逆にホットがいいんですって」 涼香は自分より変わり者だな、と夏陽子は思った。 夏陽子はアイスコーヒーを喉に通し、街路に目をやる。 「あっ」 「どうしたんですか?」 「今、赤い糸結ってる人が通ったよ」 涼香はサッと街路を向く。「どこですか?」 「もう行っちゃった」 「あたしも時々見つけますよ。ブームが過ぎて一年以上経つのに、まだやる人いるんですよねぇ。もうなんの効果もないのに」 夏陽子は眼鏡の位置を直そうと──しかし、途中でもう眼鏡をしていないことに気づいて、自嘲した。今はコンタクトだった。 「それだけ、恋愛ごとに悩む人が多くいるのよ」 「そうですね。……あたしも今、恋愛に悩んでます」 「そうなの? 好きな人ができた?」 「というか、ずっと前から好きだったんですけど」 「誰?」 「編集長の蓮見さん」 「えぇ!」 「あたしオジコンだから、ああいう人がタイプなんですよ」 涼香はコーヒーを飲む。そのあと、暑そうに手で自分を扇ぎながら、ブラウスのボタンを一つ外した。それを見て夏陽子はなんとなく、蓮見編集長と涼香なら上手くいきそうだと思った。 夏陽子は再び街路に目をやる。すると、また赤い糸を結っている人を見つけた。 恋呪はいつまで人々の記憶に残り続けるだろうか? もうなんの力もないけれど、いつまでも恋のおまじないとして受け継がれていってほしいと思う。 小指に赤い糸を結うだけの、簡単なおまじない。 それがいつの日か、遠い世界の彼女と彼を繋げたらいい。 夏陽子は目を閉じて、心からそう願った。 |
* 上空には茜色の夕焼け雲が広がっており、雲に反射する陽の光が小さな公園に降り注いで遊具や砂場を赤く染めていた。 公園には男の子と女の子しかおらず、二人は古びたブランコに座っている。 「ねえ、知ってる?」 女の子が男の子を向いて言った。 「おばあちゃんが教えてくれたんだけどね、ずーっと昔、レンジュっていう恋のおまじないがあったんだって」 「あ、おれもそれ、聞いたことある」 「知ってるの?」 「赤い糸を、左手の小指に結ぶやつだろ?」 「うん。でね、ほら」 女の子は男の子に左手の小指を見せた。そこには、赤い糸が蝶結びで結ばれていた。 「あたし、レンジュやってみたの」 男の子は小指をじっと見つめた後、女の子の顔を見た。 「誰を想ってレンジュしたの?」 女の子はにっこりと笑む。 「もちろん、サノスケを想ってだよ」 男の子は恥ずかしくなって、軽く俯いた。 「……もしかして、あたしのこと嫌いだった?」 男の子はパッと顔を上げ、首を振る。 「実はおれも、レンジュをやってみたんだ」 ほら、と言って、男の子は女の子に小指を見せた。そこには赤い糸がこま結びで結ばれていた。 「誰を想ってレンジュしたの?」 男の子は小さく笑む。 「もちろん、ナミを想ってだよ」 「うれしい──」女の子は満面の笑みを浮かべた。「あたしたち、両想いだね」 「うん」 「大好きだよ、サノスケ」 「大好きだよ、ナミ」 ブランコに座ったまま、お互いは見つめあった。 男の子は山間に落ちていく陽を見て、ブランコを降りる。 「陽が暮れるね。そろそろ帰ろう」 女の子はうなずいて、ブランコを降りた。 男の子が右手を差し伸べる。 女の子は嬉しそうに笑って、飛びつくように男の子の手を握った。男の子はその手を握り返した。 赤く燃える夕陽に向かって、二人は歩みだす。 長く伸びた二人の影は、いつまでも繋がっていた。 〈エピローグ 「恋呪」end〉 |
(了) |