8 ヒッ、と思いきり息を呑んで目を覚ました。布団を跳ね除けて飛び起き、薄暗い中で小指を確認した。 そこに、ちゃんと指はついている。赤い指輪も変わらずはまっている。 息を切らしていた。右手の甲で額を拭うと、べったりと汗がついた。 「最悪な夢……」 展開は自殺まで行き着かなかった。宮司の父親に小指を切り落とされたところで終わった。それが衝撃的過ぎて、その前にどんな展開があったのかを思いだせないでいた。冷静に夢の内容を思い返していくと、浮かんでくる。 サノスケが処刑されて死に、あたしの赤髪が全て抜け落ち、巫女の力が消えた。父親は、それを指輪のせいだと決めつけた。強制的に抜こうとしてもなぜか指輪は抜けず、一旦は指輪を外すことを諦めた。 時が経ち、あたしは自分が妊娠している事実を察した。赤髪を失くして狂ったように祈りを捧げる父親を尻目に、あたしは健康的な日々を過ごしていた。 ある日、唐突に父親があたしを蔵に連れて行く。酔狂な父親はどうしても、サノスケがくれた指輪が全ての元凶だと決めつけて、指輪を引っ張っても抜ける気配がないから、刃物を持ちだした。あたしはお腹の子を必死で守りながら抵抗を続けた。そのうち全体重をかけて身体に伸しかかられるのではと怖くなって、抵抗をやめた。 そうして、あたしの小指は切り落とされた。 傲慢で馬鹿な大人が権力を握っていると、絶対に周りは不幸になる。クソみたいな大人は全員死ねばいいのに。それで、藤原先生みたいな大人が権力を握ればいい。 デジタル時計のライトを点灯して時間を確認した。四時七分だった。 もう一度額を拭う。まだ汗がつくが、だいぶ乾いていた。 ……眠ろう。 ゆっくりと目を覚ます。 カーテンの向こうから入り込む光は薄く、白かった。窓から天を見上げると、そこに青空は一片も見当たらない。真っ白な曇り空。白すぎて、雲が流れている様子もわからない。 続きの夢を見た。今日の分の夢はまだ終わってなかったのか、それとも単に続きを見たのか──なんてわからないけれど、穏やかな内容だった。 切り落とされたあたしの指は、神木の前に埋められたらしかった。実際にその現場は夢に映っていないが、母親から聞いた。 妊娠を知ったあたしは強く生きた。後にそれが母親と父親に知られたが、アホな父親は神の子を宿したと勘違いをした。そのお蔭で態度が優しくなり、子を守るような環境にあたしは安心していた。平和に日々を過ごしていき、順調にお腹の子は育っていった。 月日が流れ、ある時、サノスケと婚姻の約束をしていたカヨコがやってきた。あたしはカヨコから、サノスケが生きている事実を知らされた。 父親を問い詰め、あたしが社を出て行くと言うと、奴は土下座して謝った。演技かと思ったがそれは違うようで、父親はあたしのお腹にいる子が、サノスケとの子供だということに感づいていた。それを知っての上で、これからも社にいてほしいと懇願された。あたしは許したくなかったが、巫女は父親を許した。 あたしはサノスケを連れ戻してほしいと要求したので、里に人たちや他の町の人たちによって、サノスケの捜索がされた。だが、彼が見つかることはなかった。 そのうちあたしのお腹は大きく重くなっていて、いつ産まれてもおかしくないな、と思っていた。夢はそこまでで終わった。 明日、きっとあたしは夢で出産を体験する。 時刻は昼の二時過ぎだった。休みのはずの父は家にいなくて、お昼ご飯なんてものは用意されていない。 カップラーメンがあったから、それを食べることにした。カップにお湯を入れた後、あたしはテレビをつけて、ソファーに座った。リモコンを操作して、憎いライバルの姿を探す。 「──でね、ボクは恋呪を試したわけですよ。これでブサイク芸人ナンバーワンのボクでも可愛い女の子をゲットできると思ったけど、やっぱりキモイって言われちゃいました」 ブサイクを武器にしている芸人が喋っていた。自虐ネタは受けて、スタジオにいる人たちは笑っていた。 女が出演するミステリー番組は、陰気臭いものだと想像していた。この番組じゃないだろうとリモコンを操作しようとして、カメラが右端を映したとき、笑っている女性が映った。 「見てくださいよ、普段笑わないキャラの原崎さんがゲラッゲラ笑ってますよぉー」 「ちょっと、ひどいじゃないっすかあ。もお〜超クヤシイっす!」 そう言って芸人が全身で悔しそうな表現をした。五年前から引きずり続けている一発ギャグ。スタジオの人たちは愛想笑いをしていた。原崎と呼ばれた眼鏡の女も薄っすら笑っている。 名前がプラカードに書いてあった。そこには「原崎夏陽子」と書かれている。藤原先生の恋人がその人で間違いないんだけど、あたしはそんなこと以上に、有り得ない偶然の一致を知って驚いていた。 夢の中に出てきたカヨコという人物の顔が、今テレビに映っている原崎夏陽子とそっくりだ。藤原先生がサノスケに似るのはまだわかる。でも、原崎夏陽子と夢の中のカヨコが似る、というのは有り得ない。あたしは原崎夏陽子の顔をまともに見たのは、今が初めてなのだから。夢の中のカヨコは眼鏡をかけていなかったけれど、多分眼鏡をかければ、原崎夏陽子に物凄く似る。 一つの可能性が浮かび上がった。 あたしが見ているのは、夢だけど夢ではないのかもしれない。 自分の部屋にいき、オカルトオリジンの赤神神社が掲載されているページを開いた。夢の中に出てきた社の構造とほぼ似ている。それはただ、この写真から夢の世界が創造されているだけかもしれない。 ……夢の世界なら、なぜ先生に似ているサノスケという男は、「藤原」と呼ばれていないのだろう。 色々考えると、頭が混乱してくる。思考が絡まって、面倒くさくなってあたしは頭を振るった。 雑誌を持って、あたしは居間へと戻る。画面には原崎夏陽子が映っていた。 「これはまだオカルトオリジンでも発表していないのですが、巫女と駆け落ちした男は、巫女に指輪をプレゼントしたようです。恋呪をした女性に見える指輪というのは、おそらくその指輪でしょう」 するりと雑誌が両手を抜けていった。バサッ、と音をたてて床に落ちた。 「男と永遠に引き裂かれ、巫女は自ら命を絶って、赤い糸を結ぶ者に巫女がつけていた指輪が見えるようになった。……鮮血の指輪として」 「うぉ〜、めっちゃこわぁ。ボク、鳥肌が立ちましたよぉ〜」 「なぜ糸が指輪に見えるかこれまで問題になってきましたけど、そういうことだったんですねえ」 あたしの全身にも、鳥肌が立っていた あたしが見ている夢は、夢じゃなかった。 伸びはじめたラーメンを大急ぎで啜った。食べ終えると、着替えてオカルトオリジンをショルダーバッグに入れ、家を出た。 電車を乗り継ぎ、赤神神社を目指した。行けばおそらく、疑問は確証に変わる。 最寄り駅に降り立ち、鍵が掛かっていない自転車をパクって目的地に向かった。駅から一キロほど離れると、そこはあたしの家の周辺よりひどい田舎だった。住宅が全然なくて、牛小屋臭い。それと、見渡す限り田圃やビニールハウスだらけ。 更に一キロほど進んで、山の麓に着いた。傍の道には雑に車や自転車が駐まっている。雑誌を見た観光客だろうか。 あたしは足で山を登っていった。途中、様々な年齢の人たちとすれ違った。カップルや四、五人の団体。個人で来ている人もいた。ほぼ全員、小指に赤い糸を結っていた。 どこかから、けたたましい騒音が聞こえていた。登っていくにつれてその音は大きくなっていく。 登り続けて、木々のない開けた場所に出た。騒音はそこから発生していた。道の先には、何台か車が停車していた。奥の方に雑草が伸び放題になっている地帯があって、刈り機が唸りを上げて草を刈っている。 この一帯、なんとなく見覚えがある。おそらく、サノスケとカヨコが住んでいた里だ。 道なりに進んでいくと、階段に行き当たった。木の根っこや埋まっている石が段になっている不安定な階段。あまり幅はないけれど、人々はその階段を行き交っていた。 あたしは登りはじめる。全身で、その先にあるものを感じる。恐れや不安、期待──なぜか懐かしさもあった。 階段を登りきり、神社が視界に入る。 鳥居の先にあった光景は、夢に出てきた光景とほぼ一緒だった。社が少しだけ違うものの、建物の位置関係は同じ。正面と右脇に社があった。右脇の社の、その横には、薄いピンク色の花びらを咲かせた大木が聳えている。あれが神木だ。ソメイヨシノではないようだった。 ざっと見て十人ほど人がいた。写真を撮る人、拝んでいる人、境内を見回る人。正面の社には白装束を着た男もいる。ここの宮司──雑誌に載っていた「藤原佐乃介」だろう。その人は参拝客と喋っていた。 顔を確認したくて、宮司に近寄っていく。夢に出ていた「サノスケ」とは違う顔の人物だとは思うが、もしかしたら案外、先生と瓜二つの顔をしているかもしれない。 五歩ほど近づいてその顔を認識し始めたとき、あたしは足を止めた。それ以上近づけなくなった。 ……そっくりだ。 予期していたことが現実になった。宮司の顔は、どうみても先生。遠目から目を細めてじっくり確認した。先生にしか見えなくて、気持ち悪くなってきた。 参拝客が宮司の前から離れていく。宮司が、あたしに気づく。 「えっ、神楽さん?」 よく通る声であたしの名前を呼んだ。 「もしかして、先生なの?」 違う、なんて返答されたら、気持ち悪さが増して吐くかもしれない。 「そうだよ」 その返答が聞けてよかった。本物の先生らしい。 あたしは白装束の先生に近づく。「なんで先生がここにいるの?」 先生はいつもの微笑みをあたしに見せてくれた。 「実はね、教師やってる傍ら、この神社の宮司をしてるんだよ」 あたしは数度うなずいて、先生の前で止まった。 「先生の名前って、もしかしてサノスケ?」 「そうだよ。……あれ? 神楽さん、始業式の日はいなかったのに、どうして俺の名前知ってるの? 神楽さんには俺の名前、言ってないよね? 学校のどっかで名前見たの?」 あたしは首を振る。「先生、輪廻って信じる?」 先生はふっと笑う。「いきなりなに? どうしてそんなこと訊くの?」 「信じるかどうか、答えて」 先生はほんの数秒考える素振りをみせた。 「信じるよ。信じてる」 「あたしも信じるよ。今日ここに来て、それが確証に変わった」 「どういうこと?」 「……あたしはね、自分の赤い髪の毛を小指に結んでから、夢を見はじめたの。夜に見る夢だよ?」 「それは、どんなの?」 「赤髪の巫女の夢」 先生は顔色を変えない。 「巫女の名前は、ナミ、って言うの。それと、サノスケっていう人と、カヨコっていう人も出てきた」 「夢らしい夢だね」 「そう思うでしょ? あたしもそう思ってた。でもね、夢はリアル過ぎるの。先生がオカルトオリジンで語ってた、巫女と男の話があるでしょ?」 「ああ……読んだんだ」 「うん。雑誌買って読んだ。そこに載ってたストーリーは、あたしの夢の中で完全に再現されてた。それだけじゃなく、雑誌に載ってない細かいことまで再現されてた。先生は、里に住む男──巫女と駆け落ちした男だったんだよ。カヨコはサノスケの婚約者だったけど、でもそれはカヨコが身分を利用した取り決めだったの。本当は、サノスケは巫女のことが好きだった。だから巫女と駆け落ちした」 じっと先生を見つめる。先生は目を逸らす。 「それで、巫女はあたしなの。あたしが赤髪の巫女の生まれ変わり。つまり、あたしと先生は運命の赤い糸で結ばれてたの。この場所に来て先生と会うことだって、きっと運命付けられてたんだよ」 真顔になっている先生の目があたしに合う。 「ナミとか、サノスケとか、カヨコとか、そういう名前は、神楽さんの頭が勝手に役につけたのかもしれないよ」 それは、つっこまれてしまうと否定しきることができなかった。 けれど、今から言うことは否定できない。もし発掘したら、これだけは認めざるをえない。 「先生は指輪の話、知ってる?」 「恋呪した人に見える、赤い指輪のこと?」 あたしは首を振った。「男が巫女にプレゼントした指輪の話」 「……知ってるよ」 「あ、知ってるんだ。原崎さんから聞いたんでしょ」 「ああ」 「その指輪ね、この神社にあるんだよ」 「え?」 「巫女は大切に指輪を身に着けてたんだけど、父親が無理に外そうとしたの。でも、外れなかった。巫女が外そうとしても、まるで指にくっついてるみたいでどうしようもなかったの。そこでね、残酷な父親は刃物を持ちだして、巫女の小指ごと切り落としたの」 先生は驚いているようだった。 「夢でそれを見たの?」 「そうだよ。それで、切り落とされた指はね」 あたしは神木を指す。先生の視線がそちらを向く。 「あの木の下に埋めたんだってさ」 先生は、大きく息を呑んだ。袖を少しまくって腕を見た。鳥肌が立っているようだ。先生は自分の腕をさすった。 「先生、あの木の下、掘り起こしていい?」 先生は小さく息をつく。「その必要はないよ」 「どういうこと?」 「神楽さんの言うとおり、木の下からは白骨化した指と指輪が出てきたから」 「うそ! ホントに?」 先生はうなずく。「半年以上前に夏陽子と共に掘り起こした」 「それで、指輪は?」 「夏陽子が持っていったよ」 あたしはその指輪を手に入れなければならない気がした。 「あたしを原崎さんのところへ連れて行ってよ。その指輪、見てみたい。見れば何かがわかりそうな気がする」 先生は困った顔をした。 「原崎さんにとっても利点があると思うの。あたしは恋呪の秘密を暴く、有力な情報提供者になるよ。それと、原崎さんがどんな人が見てみたい。人柄を知って良い人だったら、先生のこと諦められるかも」 それだけは絶対にないが、そう言ってみせた。先生は溜め息を吐き、あたしの後方に視線をやる。そちらを向くと、人が並んでいた。 「お客さんが一杯だね」 「テレビで紹介されてから、よく人が来るようになったんだよ。それとオカルトオリジンの最新号にウチの神社が載ったらしいから、その影響で今日は人が多い」 「あの、妻の恋呪を解くにはどうしたらいいでしょうか……」 後ろにいた三十代くらいのおじさんがそう言った。妻の恋呪を解く、と言っているが、その妻は見当たらない。 「指輪に見えるようになった恋呪を解くには、ご本人以外の手で無理やり糸を外すしか方法はありません」 「やはりそれしかないんですね」 「ええ。奥様を連れてきてくだされば、俺が無理やり糸を外すこともできますが」 「妻とはもう連絡がつかないんです。住んでいるところは知っているのですが、ボクの顔を見ると一方的に拒絶して、全く取り合ってくれなくて」 その人はどうやら、妻が恋呪をやって、夫である自分の前から逃げてしまった、ということだった。恋呪を解けば自分の元に帰ってくる、と思っている。恋呪は妻の背中を押しただけに過ぎないのに。 先生の神社は恋呪の神社として瞬く間に名が知れ渡ったらしく、人々は宮司である先生に恋呪に関しての悩み相談をしたり、恋呪の解呪を求めたり、あまり効果を感じられない人や意中の相手を射止められない人が恋呪の強化を求めて、この神社にやってきていた。恋呪の強化なんてできないから、先生は一生懸命相手を諭していた。 「黙っているつもりだったけど……本当は今日、夏陽子が家に来る」 手が空いたとき、先生がそう言った。あたしの頭は嫉妬を掻き立てる妄想をしまくった。 「指輪を持ってきているかどうかはわからないけど、夏陽子に会いたい?」 会いたい、ときっぱり即答した。 夏陽子はすでに新幹線に乗っていて、こちらに到着するのは二時間以上あとらしい。おとなしく待つように言われ、あたしは社の軒下に座って先生を眺めた。先生は度々携帯を弄って、あたしはその度に苛立っていた。 「夏陽子、指輪は持ってきてないってさ」 携帯を触ったあと、先生が言った。 「どうする? それでも会いたい?」 指輪があろうがなかろうが、敵に直接会いたかったから、会いたい、と言った。 参拝客の中に時折、あたしに「赤髪の巫女ですか?」と訊いてくる人がいた。先生は「ただの俺の教え子です」と言ったけれど、あたしは「先生の恋人です」と言い張った。先生は迷惑していたが、そんなのは関係ない。 空は相変わらずの真っ白な曇り空が続いていた。太陽が見えないし、そのうえ山の中ということもあって、六時前になると辺りは結構不気味な薄暗さだった。その頃にはもう参拝客は来なくなって、先生はお賽銭のお金を回収して、「行こうか」とあたしに言った。 神社への階段を下りたところに先生の車はあった。草を刈っていた人はもういなくて、開けた地帯がだいぶ広がっていた。駐車場のスペースを確保するために整備している、と先生は言った。かなり昔、ここには先生のご先祖が住んでいたらしい。偶然にも夏陽子の先祖もこの場所に住んでいたという。あたしの中で輪廻転生説が真実味を帯びた。 先生の車で山を下る。車内で、あたしがどうやってここまで来たかを訊ねられた。電車で来て、それから歩いてここまで来たと嘘をついた。 あたしが降りた駅に着き、車内で夏陽子の姿を探すも、見当たらなかった。というより、誰もいない。 しばらく待っていると電車がやってきた。あたしはリアウインドーの向こうを監視する。電車が去ると、駅から女が一人だけ出てきた。今日、テレビで観た人だ。 「神楽さんはここで待ってて」 「嫌だ。あたしも行く」 先生は口を開き──閉じた。何も言わず、ドアを開けて出て行った。あたしもドアを開けて出る。先生はオンナに近づいていく。 「夏陽子、ごめん」 あたしは先生の傍へと駆けていき、先生の右腕をぎゅっと抱きしめた。 「こら、神楽さん」 言い聞かすように言われても、あたしは先生に身を寄せるだけ。 「誰?」 夏陽子が怪訝な顔で言い、あたしたちは対面した状態で立ち止まる。 「初めまして。あたし、佐乃介の恋人の、神楽奈海と申します」 夏陽子は固まって、あたしをぼんやり見ていた。隣で先生は溜め息をつく。 「夏陽子、この子は俺の教え子。恋人ではない」 「恋人じゃないのにどうしてそんなべったりくっついてるの?」 「あたしが先生のこと愛してるから」 夏陽子の顔に憎悪が宿った。「どうしてただの教え子がここにいるの?」 「あたしが原崎さんに会いたかったから。今日、テレビ観たよ。原崎さんがテレビで指輪のこと言って、あたしは自分が見ていた夢が夢じゃないってわかった」 「夢?」 「うん。あたし、赤髪の巫女の人生を夢として見てたの」 あたしは自分が体験したことと、輪廻転生説を説明した。小指に巻いているのは赤い糸ではなく、自分の髪であることも言った。話している途中、いつの間にか雨が降っていることに気づき、あたしたちは先生の車に乗り込んだ。もちろんあたしは助手席。夏陽子は後部座席。 夏陽子はあたしの話をメモに書き留めていた。話し終えた頃、雨は本降りとなっていた。 「私も指輪をはめたとき、巫女の指が切り落とされる映像を見たわ。偶然にも巫女は、あなたと同じナミって呼ばれてた」 どうして全員の名前が同じになったのか、なんてわからない。巫女の呪いか、定められた運命なのか、ただの偶然かもしれない。あたしの勝手な名づけ、という説もまだ消せない。 「あたしもその指輪、はめてみたい。原崎さん、指輪は持ってきてないの?」 夏陽子は人差し指で眼鏡の位置を直す。「残念だけど、今日は持ってきてないわ」 そうは言うけど、あたしは違和感を覚えた。 「神楽さん、もう遅いから、今日は帰りなさい」 イヤだ、と即答する。「あたしも先生の家に行く」 「明日は学校でしょ」 「先生だって明日学校だもん。あたし、先生に乗せてもらって学校行く」 「わがままを言わないでくれ。お父さんだって心配──」 「するわけない」 「しないかどうかはわからないけど……神楽さんを家には連れて行けないよ」 あたしは夏陽子を指す。「この女と家でセックスするから?」 「神楽さん!」 先生は怖い顔して大きな声をあげ、あたしも夏陽子も身を竦めた。 「わがままを言っても、どうしようもないことだってある。俺は、夏陽子を愛してるんだ。これは君が見た夢の、サノスケさんとカヨコさんのような、義務的な交際じゃない。お互い真剣に、結婚だって視野に入れてる。たとえ神楽さんが赤髪の巫女の生まれ変わりでも、たとえ俺が巫女の恋人の生まれ変わりでも、俺が君を一人の女性として愛すること──」 溜まった嫉妬が限界を迎え、あたしの右手が持ち上がり、先生の肩をグーで叩いた。一発だけじゃない。二発、三発と続けて叩いた。どうにもならなさすぎて、あたしは涙を零しながら先生を叩きまくった。雨音に交じって鈍い打撃音が静かに鳴る。夏陽子があたしを止めようとしてきたけど、鋭い眼差しで突き刺して動きを止めた。同時に先生を叩くのもやめた。 「先生嫌い! 死んじゃえ!」 それを口にしたあと、なんてあたしは幼稚なんだろう、と思った。夏陽子には何も言わず、憎しみを交えて睨みつけ、雨の中へと飛びだした。ドアは閉めない。パシャパシャと水を跳ねながら走り──ふと、奇妙な感覚が過ぎって足が勝手に止まった。 小指が、熱い。 左手を持ち上げて指を見るも、別段変化はなく、変わらず恋呪の証である指輪がついていた。その指が、疼く。いくら冷たい雨に濡れても、熱は引かない。 あたしは振り返る。先生の車とは三メートルほど離れていた。その距離を詰める。前髪から雫が 後部座席の窓の前に立ち、中にいる夏陽子を見つめた。窓を下げる気なのか、夏陽子の視線が手許に落ちる。あたしはドアを勢いよく開ける。突然のことに驚いた夏陽子が、こちらを見上げた。 「なに?」 あたしは物を求めるように、左手を夏陽子に差し向ける。 「本当は持ってるでしょ」 夏陽子は眉根を寄せた。「なにを?」 「とぼけないで。指輪を出してよ」 「持ってきてないよ?」 あたしの視線が夏陽子の着ているベージュのジャケットの、右ポケットに注目した。 「じゃあ右ポケットを探らせて」 探らせてと言ったのに、夏陽子は自分でポケットをわざとらしく叩き、何もないことをアピールする。 「持ってないよ」 「神楽さん、夏陽子は持ってきてないって。そこに突っ立ってたら風邪引くよ」 あたしは先生の言葉を無視して、ポケットに手を伸ばす。 「ちょっと、止めて──」 抵抗されるも、無理やり手を入れてみせた。夏陽子は車内の奥に逃げようとする。運転席のドアが開き、先生があたしを呼びながら止めにかかる。ポケットに入れていた手が、何かを掴んだ。身体を先生に引き離されて、一緒に物体を引き抜く。 あたしは薄っすらと笑みを浮かべ、先生に見えるように右手を広げた。 掌には、赤い指輪が載っている。 「指輪? 夏陽子、持ってきてたのか?」 え、と夏陽子が驚くように言い、「返して!」と声をあげて車外に出てきた。あたしはその場から離れ、雨に打たれながら、左手の小指に赤い指輪をはめていく── すでにある、“恋呪の指輪”をすり抜けて、本物の指輪がぴったりと重なった。 「あっ──」 ふいに、小指から電流のような刺激が一気に心臓へなだれ込んだ。それがあたしの脳天に向かって突き上がる。 視界が、消失した。 9 暗闇の中で、瞬時に膨大な映像や情報が過ぎる。刹那的に全てを理解して、今までと違った意識が宿るのを感じた。 ゆっくりと瞼が開かれる。 「神楽さん、大丈夫?」 私は、彼の腕の中にいた。 「そんなふうに呼ばないで」 「え?」 当然だが、彼はその意味を把握できずにいた。 彼の濡れた頬に手を伸ばす。肌に触れて、体温を感じた。 「サノスケ……」 私は愛を込めた眼差しで彼を見つめた。頬を触れる指を、彼の唇にずらす。人差し指で彼の唇をゆっくりと撫でて、それを自分の唇につけた。 「あなた、だれ?」 傍にいた夏陽子さんが言った。異変に気づいたようだ。 もしかして、と佐乃介が言う。 「赤髪の巫女なのか?」 私は彼に抱かれながら首を振った。 「私はあたし。神楽奈海。先生の生徒。でも、今なら赤髪の巫女がどれほどサノスケを愛していたか、痛いほどわかるよ」 佐乃介と夏陽子さんが顔を見合わせる。夏陽子さんの視線が、私に向いた。 「巫女の記憶を持ったの?」 「よくわからない……。記憶を持ったというより、全部吸収した、っていう感覚。赤髪の巫女があたしに宿ったの」 意識は奈海のまま、巫女と融合した、という言い方のほうがあっている気もした。奈海としての自分を否定されたくないから、それは言わない。 「とりあえず車に行こう、雨に濡れすぎてる」 私は、佐乃介に補助されながら彼と共に立ち上がった。 「神楽さん、身体は平気──」 私を気遣おうとする彼の唇を、くっとキスで塞いだ。夏陽子さんが息を呑み、佐乃介は驚いて身を竦ませ、すぐに離れた。 「神楽さん、いきなり──」 「私の藤原さんにいきなり何するのよ!」 佐乃介の声に被さるように、夏陽子さんが大きな声をあげた。私は、微笑んでみせる。 「あなたは家でたっぷり愛を交わせるのだから、キスくらいいいでしょ?」 夏陽子さんは唖然とした。私は視線を佐乃介に移し、彼の頬を撫でる。 「明日、学校でね」 それだけ言い、私は潔くその場を離れた。夏陽子さんは追ってこない。 ちょうどやってきた電車に、ずぶ濡れのまま乗り込んだ。 |
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