10 もう例のリアルな夢は見なかった。よくわからない夢を見た覚えはあるが、内容を思いだせない。もしあの夢を見たならその内容は、私が出産して、赤ちゃんを父親が神木の下に埋めるという残酷なもの。見た夢はそんなものじゃなかった。 そういえば、佐乃介は指の骨が出てきたことは言っていたけれど、赤ん坊の骨が出てきた、ということは言っていない。ただ言わなかっただけだろうか。 月曜日は朝礼があって、それが終わった後も、朝のホームルームが終わった後も、佐乃介は私に何も言ってこなかった。数度目は合ったけれど、すぐに逸らされた。 でも二時間目の体育の終わり、廊下でばったりすれ違って、佐乃介が「神楽さん」と私を呼び止めた。更衣室の四メートルほど手前。すぐ横にはトイレがある。私は独りゆっくりと移動していたから、すでに他の生徒は更衣室に入っていた。 「指輪を返してあげて」 「佐乃介には関係ないよ」 「関係ある。夏陽子に頼まれたんだ」 「あ、昨日はどうだったの? 濡れた身体のまま、二人で熱く愛を交わした?」 「それこそ神楽さんには関係ない」 「あるよ。教えてくれたら指輪を返してあげてもいいかも」 「そもそも返す気ないでしょ?」 私はくすっと笑う。「ばれた?」 佐乃介は困ったような顔をみせた。 「そもそも、これはあたしの物だよ」私は指輪を見せるように、小指を立てる。「サノスケが巫女にプレゼントしたもの。それがあたしの手に戻ったの」 佐乃介は小さく息を吐き、「そうだな」と言った。 「なら夏陽子にそうやって言い聞かせておくよ」 そう言って佐乃介は、私に背を向ける。 「待って」 去ろうとした佐乃介は止まって、「なに?」と私を振り向いた。 私は、左手の小指を差しだす。 「そんなに返してほしかったら、持っていけば」 「いいの?」 「いいよ。夏陽子さんのために持っていって」 佐乃介は身体ごとこちらを向き、私と指輪を交互に見つめる。迷う素振りをみせながらも、私の指に手を伸ばしてきた。 指を掴もうとする彼の手をかわし、私は彼の手首を掴んで引っ張る。 「え、ちょっと神楽さん──」 ぐいぐい引っ張って、女子トイレに佐乃介を引きずりこんだ。 タイミングよく、更衣室のドアが開く音が聞こえる。 「ねえ、三時間目ってなんだっけ?」 「えっと、数学」 その声はこちらに近づいてくるようで、佐乃介はかなり慌てた様子で外に出ようかどうか迷いだした。そんな彼に「こっち」と囁いて、トイレの奥へと引き込む。一番奥の個室を開けて、そこに佐乃介を押し込み、私も入った。 ガチャン、と鍵を閉める。 「数学って絶対必要ないよね。関数とか、あんなの将来使わないっての」 「使わない使わない」声の響き方が変わる。トイレに女子が入ってきた。「勉強しても疲れるだけだよね、意味わかんないし」 私はにやにやしながら、強張った顔の佐乃介を見つめる。女子生徒は依然数学に文句を言い続け、スリッパの音が下駄の音に変わった。個室は全部で三つある。一つが開いて、鍵が締まる音が聞こえた。 私は佐乃介に、耳を貸して、とジェスチャーする。彼は私に耳を近づける。 「どきどきするね」 そう囁くと、佐乃介は首を振った。私は不満そうに口を尖らせてみせる。 ふと思いついて、私は笑みながら、自分の唇に人差し指を当て、キスをしてみせて、というジェスチャーをした。佐乃介は眉根を寄せて、強くかぶりを振った。 「しないと叫ぶよ」 そう言ってみると佐乃介は目を見開き、「しない」と微かに言った。私は大きく息を吸い込む──彼が私の口を手で塞ぐ。 息苦しくはないが、彼の手を素早く叩いた。彼は私に釘を刺すようにじっと見つめたあと、ゆっくり手を離す。私は頬に空気を入れて、怒ったように膨らませてみせた。 ふと、ちょろちょろという水が流れるような音が聞こえる。私は「あー」とでも言うように口を開け、音が鳴っている方向を指した。先生は目を閉じて小さく首を振り、右手で顔を覆った。 トイレが流される音がして、ガチャン、と鍵が開く。女子が出た。 「そういえばさあ、奈海って調子に乗ってるよね」 「アタシあいつ嫌い」 「なんでアイツだけ赤い髪が許されてんの? おかしいよね」 「ねぇー。今度さあ、トイレに連れ込んで頭から墨汁かけてやろっか?」 「あ、それいい。センコーも不良女が更生したことに喜ぶだろうしね」 声の響き方が変わり、遠くなっていく。二人の女子生徒は最後まで私の悪口を言っていた。私と佐乃介は、それをぼうっと聞いているだけだった。 私は、暗い顔で俯いた。彼はそっと肩に手を置いてくれる。私は、彼に抱きついた。すると彼は腰に手を回してくれる。薄暗い女子トイレの個室で、私たちは抱きしめあった。 別に、私はなんとも思っていない。私の悪口なんて、実はどうでもよかった。ただこの状況を利用して、目一杯、佐乃介に身体を摺り寄せた。佐乃介は私の赤い髪を撫で続けてくれた。 トイレから出た後、佐乃介に「神木の下を掘り返したとき、赤ん坊の骨は出てこなかった?」と訊いてみた。彼は、そんなものは出てこなかったと言った。 ということは、簡単な話だ。 「私の赤ちゃん、生きてたんだ」 「巫女の赤ん坊?」 「私と佐乃介の赤ちゃん」 「巫女と男の、でしょ」 私はなんとなく笑みを浮かべてみせる。 赤ん坊が埋められることになった経緯と、そのあと私はすぐに社を出たことを説明した。すると、佐乃介は胸を痛めてくれた。 「でも埋められていなかったということは、あたしの赤ちゃんは生きていたんだよ」 その子供が立派に育って、子孫を残していき、藤原佐乃介が生を受けたのかもしれない。だとしたら私が佐乃介に恋するのは、ちょっと禁断な要素をはらんでいる。 「その時代のサノスケが助けにきてくれたのかもね」 「それはない」 私は“記憶”を探る。そういえば、外に出たとき赤ん坊の声が聞こえた。あれは……外からじゃなかったのかもしれない。 私がいた、部屋の中からだったのかもしれない。 だとしたら、私はなんて馬鹿なことをしたんだろう。遠い過去を悔やんでもどうしようもないけれど、気づいて部屋に戻っていたら、巫女としての人生は大きく違ったものになっていただろうに。 不意を突くように、私は佐乃介の胸板に身を寄せる。 「サノスケ、もう一度子供作ろう」 佐乃介は無言で私の両肩を持ち、少しだけ離された。 「俺は佐乃介だけど、君のいうサノスケとは違う。似てるのかもしれないけど別人だよ」 「別人でもいい。佐乃介を愛してる」 彼ははあっと溜め息を吐いた。 「忙しいから、もう行くよ」 ふっと悲しくなって、私は顔を伏せる。 「早く着替えないと、次の授業に遅刻するよ」 そう言ってぽんぽんと私の肩を叩いたあと、彼は背を向けて行ってしまった。去っていく姿をじっと見つめていたけれど、振り向いてくれなかった。 生きていることの虚しさを感じた。 それから先生と話すことはなく、学校が終わった。 校外に出ると、 「ナミさん」 校門の前に立つ人に呼び止められた。夏陽子さんだった。彼女は、掛けている眼鏡を人差し指で正しい位置に戻す。 「話があるんだけど」 私は力なく笑いかけてみせた。 「まだ帰ってなかったんですね」 「ええ。今日の夜帰るつもりだから」 「話というのは、指輪ですか?」 意外にも彼女は首を振る。「もうそれは良いわ。その指輪をしているとね、とても強い恋呪の力を感じられたの。そのおかげで藤原さんとお付き合いできた。私、甘えるのが下手で、素直になれなくて、それからも恋呪に頼ってたわ。でももう私には必要ない。藤原さん、何があってもずっと私の傍にいるって、誓ってくれたから」 「あっそ。で、要件はなにかしら」 「藤原さんのことは諦めて──」 諦めて、に被さるように「嫌だ」と言った。 「想うのはあたしの自由。永遠に諦める気はないから」 彼女は口を閉じて、軽く鼻息を吹いた。 「昨日、藤原さんも言っていたけど、彼とは結婚のことだって意識してるの」 「だから?」 「だから……」夏陽子さんの声が消え入りそうになる。「彼を 全く、憎いくらいかわいい人だ。ずっと傍にいる、って佐乃介に言われたのに、夏陽子さんは不安を感じている。 「誑かされて佐乃介が心変わりするようなら、それって夏陽子さんよりあたしの方が良いってことになる。そもそも、巫女だったときのあたしとサノスケは、本気で愛し合っていた」 「あなたの言う藤原さんと、今の藤原さんは違う。別人よ」 それは佐乃介にも言われた。 「指輪をはめる前から、あたしは藤原先生にひと目惚れしていたの。巫女の記憶が宿って、佐乃介と愛し合いたい想いが強くなった」 夏陽子さんはいきなりジャケットの左ポケットに手を突っ込み、メモ帳とペンを取りだした。彼女にとって新しい情報を得たのか、何かを書き留めていた。 「急に話が飛ぶけど、いいかしら?」 夏陽子さんの態度が一変して落ち着いた。仕事モードに入ったらしい。 「なに?」 「あなたのその髪は、自分で染めたものよね?」 「そうだよ」 「ずっと気になっていたんだけど、巫女の髪は染められたもの? それとも地毛だったの?」 巫女の記憶を持っていなかった私も、それを疑問に思っていた。 「地毛だった。最初は黒髪だったけど、いつからか赤い髪が生えるようになって、そのうち全てが赤髪になった」 私の言葉と共に、メモ帳の上のペンが走った。手が止まると、夏陽子さんは僅かにこちらを向き、眼鏡が陽を反射して光る。 「藤原さんからあなたの家の事情を聞いたわ。髪を赤に染めたのは、家庭環境の結果かしら」 「そうなんじゃない?」どうでもいいふうに言ってみせた。 「私はちょっとだけ心理学に興味があって、髪を染めたがる子供たちのことが書かれた本を読んだことがあるの」 「…………」 「巫女の赤髪は、心の叫びだったんじゃない?」 私も、そうなんじゃないかと薄々感じていた。 「今のあなたもそうだけど、巫女は幼少から親に愛されなかったんじゃないかしら?」 愛された記憶はあるが、それは希薄だった。巫女としての私は、心奥にまで愛情が行き届かない不満を抱えていた。赤髪が生えてくると、両親は私に強い興味を抱いて大事にするようになったが、言い知れぬ不安が募っていた。その想いは、一切口にせず我慢していた。 細かいことは告げない。「そうね」とだけ言った。 「愛に飢えていた巫女の髪は、次第に赤色に染まっていった。髪の毛一本一本に、もっと愛されたいという想いがこもった。もしかしたら、それを親に絡ませたかったのかもしれないわね」 夏陽子さんは薄っすら笑った。そうして、メモに言葉を書き留めていった。私はそれを見つめるだけだった。 巫女は両親の愛が欲しかった。あたしもそうだった。 だが幼子が親に「もっと心の中を愛して」なんて言えるはずもない。臨界を迎えた不満の心は赤髪として表現された。そこには愛し、愛されるための奇跡の力が備わっていた。 それが、全てのはじまり。 「あなたがどれだけ藤原さんを望もうとも、私は引く気はないから。彼だって、傍にいようとしてくれるんだから」 夏陽子さんはそう言い残し、私の前から去っていった。私は、恋呪のことや夏陽子さんのこと、佐乃介のこと──それと、“過去”のことを思い返しながら、家に帰った。 今や親に愛されたいとは思わない。赤髪を父や母に結う気はない。 夜、父親が酒に酔いつぶれてテレビをつけたままソファーで眠りに入った後、私は先生に電話した。 「もしもし、神楽さん?」 「うん。夏陽子さんはもう帰った?」 「帰ったよ」 「私のこと、なんか言ってたでしょ」 「悪いことは何も言ってないよ。君のことを理解するような姿勢だった」 つい何度かうなずいた。 「恋呪がなぜ生まれたかも聞いた」 「そっ」 彼が夏陽子さんから聞いたものは、巫女の力が生まれた理由。恋呪が生まれた理由とは違う。 数秒の沈黙を経て、私はそのことを口にする。 「正確には、それは恋呪が生まれた理由じゃないよ。恋呪は、私が再び佐乃介と巡り会うためのもの。私たちが再び愛し合うための呪いだから」 彼は沈黙に落ちる。それがすごく嫌だった。 「佐乃介は、どうしても夏陽子さんがいいの?」 「いい、というか、もう彼女で落ち着きたいんだよ。彼女は今まで付き合ってきた人の中で、一番結婚を考えられる人だから」 「それって、なんか義務的に聞こえる」 「違う。彼女を愛している、ということもちゃんと前提にある」 「じゃああたしは死ぬよ」 「へっ?」 「愛されないのなら、もう生きていても苦しいだけだから。あたしの中の巫女もそう嘆いてる」 彼の言葉を待つ。しかし、彼は何も返してくれない。 「こうしてまた巡り合えて嬉しかったよ、さようなら、佐乃介」 電話を切った。別に死ぬ気はない。今は、死なない。 私は居間に戻り、散らかしっぱなしの空き缶を片付けていく。 「誰と電話してた?」 ビニール袋に缶を入れていると、ソファーから声がした。 「誰でもいいじゃん」 袋に缶を放り続ける。父は身体を起こした。 「不良娘が……」 「アンタは不良警官だね」 「──なんだと!」 テーブルの空き缶を手に取って、父はそれを思いきり投げつけてくる。カン! と甲高い音をたてて私の顔面にヒットした。 「なにすんだよクソ親父!」 私は持っていた袋を投げつける。それが父の顔面にぶち当たって、床に落ちた袋からガラガラ、と空き缶が出てきた。 「自分で片付けてろ!」 それだけ言い捨て、私は駆けだす。後方で父が怒鳴り声を上げ、缶を投げつけたのか、甲高い音がすぐ傍で鳴った。 家を飛びだして、がむしゃらに走る。住宅が密集する地帯を抜けて小さな公園の横を通りすぎ、田圃が広がる場所まで出た。どの田圃も水が張られていて、そこに街灯や公園から届く明かりが鈍く反射している。蛙たちのうるさい大合唱が、星の瞬く夜空に響き渡っていた。 「もうイヤ……」 道の中央で私はしゃがみこんだ。気力が抜け落ちて、歩けそうになかった。 あんな父に髪を結いたくない。愛されたいと思わない。考えただけで気持ち悪い。 佐乃介が良い。佐乃介の愛が欲しい。それが手に入らないのなら、私に生きる意味なんてない。 動けなくなった私は、地面にお尻をつけて体育座りをしていた。そのうち蛙の鳴き声がうるさくなくなって、効果音のシャワーのように思え、私の淀んだ心を流してくれていた。 時間の経過を意識する気力すらなくして、延々とぼんやりしつづけていると、私の家がある方向から人の気配を感じた。闇の中からこちらに近づいてくるたび、姿を捉えられるようになってくる。それが誰かわかると、私は田圃を向いた。 足音は傍で止まって、溜め息が聞こえる。 「先生の寿命を縮めるようなまねはやめてくれ」 私は佐乃介を見上げた。 「あたしが死にたいと思うような態度を取るのは、やめてよ」 彼は何も言わず、どこか冷ややかな眼差しで私を見つめる。 不意に彼の右手がこちらに伸びた。私が右手を差しだすと、彼は手を取り、グッと引っ張ってきた。だから私は立ち上がった。 佐乃介がこちらに身動ぎする。何をするのか想像もつかないうちに、彼の両手が私の背に回って、ぎゅっと力強く抱きしめられた。 「俺は、神楽さんを愛してる」 一瞬、嬉しさのあまり舞い上がりそうになったが、 「けれど男女の関係にはなれない」 そんなようなことを言う気がしていた。 「それは、くだらない秩序に縛られてるから、愛せないってこと?」 「わからない……」 わからない、ということは少なからずそうなんだ。 私も佐乃介の背中に手を回した。 「本当は、神楽さんに手を伸ばしたい自分と、夏陽子を大切にしたい自分とで心が揺れていた」 「いつから?」佐乃介を見上げる。 「いつからだろう……。いつの間にか、かな」 「いつの間にか、私のことを好きになってくれていたの?」 「そこにずっと歯止めをかけてた。付き合っている人がいるうえ、先生が生徒に手を出したら問題になる。それに、君が俺と一緒になっても、幸せにはなれない気がした」 「そんなの先生の勝手な決めつけ! あたしの幸せは、あなたと一緒になること以外ない!」 縋る力を込める。佐乃介も、込め返してくれた。 「先生、駆け落ちして」 当然だけど、すぐに返事をしてくれない。私は想いをこめて佐乃介に身体を摺り寄せた。 「……できない」 「どうして?」 「後先考えずそんなことはしたくないし、今の生活をぶち壊しにしたくない」 ……あの時とは逆だ。 私は佐乃介を両手で押しだし、離れる。 「それは佐乃介の弱さが言わせているんだよ」 自分の髪を触り、毛を一本摘まむ。それを引き抜いた。 「赤髪を結って」髪を佐乃介に突きだす。「恋呪にかかって」 彼は赤髪と私を交互に見て、迷いをみせた。 「そうすると、俺はどうなる?」 「素直になれるよ。煩わしいことから解放されて、佐乃介が本当に望む愛に対して一心不乱になれる。真実の愛を手に入れられる。二人で幸せになれる」 彼の手が伸びるのをじっと待った。伸ばして、と心で願った。 「……迷う気持ちに決着をつけたくて、恋呪にかかることを考えたことがある。でも、やらなかった。俺にとって夏陽子も大事だし、君も大切な存在なんだよ」 「それは優柔不断。佐乃介の心が弱いから、きっぱりした態度が取れないんだよ。それで私も夏陽子さんも中途半端に傷つけてる」 ショックを受けたのか、彼はふっと目を伏せた。 「お願い、これを結って」 彼の言葉を待つ。もう少しで、彼の心に想いが届きそうな気がした。 佐乃介は小さく息を漏らす。 「わかった。腹を括るよ」 そう言って、私に左手の小指を差しだしてくれた。 佐乃介の気が変わらないうちに、素早く赤髪を指に回す。 「ただし」 一つ結びをする手前、彼は言った。 「俺が本気になったらどうなるかわからない。俺と共に、地獄へ落ちるくらいの覚悟を持ってほしい」 私は彼に微笑んだ。 「どうなるか楽しみ。佐乃介と一緒なら、どうなってもいいよ」 そう言って、一つ結びをした。何度もこれをやってきた記憶がある。佐乃介の小指に、綺麗な蝶を作った。 「恋呪か……まさか俺がこれをやるとはな」 「きっと、こうなる運命だったんだよ」 私は蝶をぎゅっと引っ張り、結びを強くした。 彼の胸元に抱きつく。佐乃介は私を撫でてくれた。 「これでようやく、一緒になれるね」 このまま家に連れて行かれたい。早く佐乃介に肉体を貪られたい。それを一番に望んでいた。 彼の顔を見上げる。彼は優しく、私に微笑みかけてくれた。 だが、不意にその微笑みが消え失せた。私を撫でる手が止まった。 「どうしたの?」 佐乃介は何も言わず、私の両肩を握る。 グッと、押しだして離された。 「なんで? 佐乃介?」 ふっと彼は微笑む。それはさきほどの微笑みと明らかに違う。普通の人が見たら同じ微笑みにしか見えないだろうけれど、私にとってその笑みは、作り物にしか見えなかった。この町の住人たちが浮かべるような、機械的な笑み。 「一緒になる気はない」 「え?」 「俺は、夏陽子を愛してる」 蛙の鳴き声が一瞬、消えた。 「君は大切な生徒だ。ただそれだけ。夏陽子との愛を壊してまで、君と一緒になる気はない」 断言するようにはっきりと言われた。 「うそでしょ?」 佐乃介は軽く笑う。「うそじゃない。急に気づいたよ。まだ夏陽子と出会って一年も経ってないけど、それでも俺たちはしっかり愛を育んできた。今さらそれを捨てる気はない」 そんなことを言われて、私はなぜこうなったかに気づいた。 私は、過去に愛し合っていたからと過信していた。昔の左之助と今の佐乃介は別人。 佐乃介と夏陽子は、身分を利用したような付き合いではなく、お互いが心から好きになったから交際している。そのうえで結婚も考えている。 今の私と佐乃介とでは、圧倒的に時間が足りていなかった。私と夏陽子さんを天秤にかければ、当然時間をかけて愛を育んだ夏陽子さんに傾いてしまう。 佐乃介はあっさりと私に背を向けて、去っていこうとする。 「待って!」彼の背中に縋りついた。「恋呪を解いて! 私はこんなの、望んでない!」 彼は足を止める。ちょっとだけ顔をこちらに向けた。横顔は無表情だった。 「解く気はないよ。夏陽子を傷つけたくないから」 言葉が私の胸に突き刺さる。心に強い痛みが走る。 「私が傷ついても、いいの?」 「それは仕方がない」 佐乃介は再び歩みだす。私は必死で縋り続けた。 「神楽さん、離してよ。俺は早く家に帰って、ゆっくり夏陽子と電話がしたい」 「イヤ! 行かないで!」 「いや、行くよ。時には諦めなきゃいけないこともある。神楽さんは今回の件でそれを学び、新しい恋を探しなさい」 手を掴まれ、それを引き離される。両腕を後方にグッと押しだされ、私はよろけて尻餅をついた。 「ああ、ごめん神楽さん」 佐乃介は気にかけたような表情をしているけれど、どう見ても上辺だった。そこに全く愛はない。 「じゃあ、また明日」 作られた微笑みで彼は言った。闇の方へと進むその背中に向かって、「佐乃介!」と呼びかける。だが、立ち止まってはくれない。 私は立ち上がった。もう脅しかけるしかない。 「あたしは、あなたを愛する運命にあった!」 彼は立ち止まる。 「あなた以外の誰かを好きになることなんてできない! あなたがあたしを愛してくれないのなら、生きていても苦しいだけ! だから、このまま行っちゃうのなら、あたしは本当に死ぬよ?」 気づけば声は掠れ、目には涙を溜めていた。今にも零れ落ちそうだった。 佐乃介は身体を横に向け、私を見る。 「神楽さんには死んでほしくないけど、俺はやはり夏陽子を大事にしたい。できるだけ死なないでね」 平然とした口調で言うと、佐乃介は夜道の向こうへ消えていった。私は、追い縋ることもできなくて、溜まっていた涙がついに頬を伝った。それだけじゃあ足りない。僅か一滴の涙なんて、この状況には不相応な量だ。 ぼろぼろと零れだして、私は声を張り上げた。蛙の求愛なんて凌駕するほど泣き喚いた。夜空に響き渡り、絶対佐乃介にだって聞こえただろうけれど、彼は戻ってきてくれなかった。 11 道端で泣き枯らし、更に数十分経ってから、家に帰った。こっそり部屋に入って、そのまま眠った。 次の日、学校へは行かなかった。時折鳴る電話は無視して、ずっと布団の上にいた。何も口にはしない。夜になって父が帰ってくると、学校から連絡でもきたのか、どうして登校しなかったのかと責められた。私は弱々しく「そんな日もあるよ」とだけ言った。 次の日も学校に行かなかった。朝、父親が叩き起こしてきたが、私は魂が抜けたような態度を取ってみせた。返事はしない。何も反応しない。「絶対に学校行けよ」と父は言い、家を出て行った。 給食の時間が過ぎた頃、先生がやってきた。佐乃介ではない。生活指導の男の先生だった。鍵は開いていたので勝手に入ってきて、私の名を呼びながら部屋を開けてきた。そのときだけは「入ってこないで」と言った。だが押し付けがましい先生は、「いったいどうしたんだ?」と部屋に居座って勝手な心配をしてきた。私は何も言葉を返さなくなった。先生は「黙ってちゃわからんぞ」という言葉を合計五回は言った。二時間ほど経つと諦めて、家を出ていった。 夜になると、また父は学校に行かなかった私を詰った。私は何も受け答えしなかった。 次の日、父は私を起こさなかった。意外なことに電話は鳴らず、誰かが来ることはなかった。私は学校という世界から忘れ去られたのかと思った。 夜、父は「いい加減にしろ」と勝手に怒っていた。適当に私を詰って部屋を出て行った。 そして、金曜日。朝から女の先生がやってきた。音楽の岡本先生だった。 私は、佐乃介と会う前まで岡本先生が一番好きだった。先生とはちゃんと会話をした。私は心を開いた。 そうやって喋っていると、なんだか巫女としての記憶が疼いていた。その先生は誰かに似ていた。 「そういえば先生って、なんていう名前ですか?」 先生は、「千の夜と書いて、 千夜さんは、私が何も食べていないことを心配に思って、お粥を作ってくれた。それを一緒に食べた。 「ねえ、先生は恋人いる?」 そう訊いてみると、千夜さんは「とっても残念なんだけど、いないの」と言った。 「じゃあ、好きな人は?」 そう訊いてみると、少しだけ迷いをみせて、「いる」と答えた。 「いいなあって思う程度なんだけどね。でもその人、付き合ってる人がいるから」 私は数度小さくうなずいた。 「しかもつい最近彼女にプロポーズしたみたいでね、六月に式を挙げるんだってさ」 それを聞いても、あまりショックを受けなかった。彼が恋呪にかかった以上、あっという間にそこに行き着くんじゃないかと想像していた。 「そんなこと言ったら先生が誰を好きなのか、すぐにわかっちゃうよ」 「え? あ、そうなんだ──」 千夜さんは笑った。その笑顔はカーテンの隙間から入り込む白い光に照らされて、綺麗だった。 「奈海さん、私が誰を好きなのかわかったの?」 私はうなずく。 「好き、ってほど大げさなものじゃないし、生徒たちに言いふらさないでよ?」 「言いふらさないよ」 千夜さんは優しく微笑んでくれた。つられて私も笑んだ。 彼女は帰り際、「体調が良かったら月曜は学校に顔だしてね」と言った。私は「必ず行きます」と言った。 そのときの私は、この町の住人が見せるような笑顔を浮かべていただろう。 12 日曜日。 人がいなくなる時間帯を見計らって、赤神神社に足を運んだ。駅に到着したのは四時五十三分。今回はゆっくりと歩いて向かったので、境内に足を踏み入れたのはだいたい五時半くらい。影にあるもの以外、全てが鈍い夕陽に照らされていた。風が吹くたび、散ったピンクの花びらが辺りに舞っていた。 そこに参拝客は見当たらない。白装束を身にまとった人だけがいた。 「あれ、神楽さん? 学校には来なかったのに、ここには来るんだ」 私は何も言わず、笑みながら彼との間を詰める。彼は本殿の前で突っ立ったまま、一歩もこちらには寄らない。 少し距離を置きたかったので、私は神木の横で止まった。 「今日私がここに来たのは、佐乃介に、最後の確認をするため」 「最後?」 「赤い髪を解いて」 「それはできない。元に戻ると、俺はきっぱりした態度が取れなくなって、夏陽子を傷つけるから。神楽さんが教えてくれたんだよ? 元々の俺の心は優柔不断で弱かった。でも、今は違う。赤髪が教えてくれた。恋呪が俺を変えてくれた。おかげで、夏陽子とは六月に結婚することになった」 悲しみが湧いて、それが涙に換わりかける。グッと堪えて零れるのを止めた。まだ毅然としていたい。 「私の人生は、愛するあなたのための人生だったの」 「うん」 「巫女の結末を知ってるでしょ?」 「知ってるよ」顔色一つ変えずに彼は言う。「自害するんでしょ?」 私はうなずいてみせる。 「実は、左之助は生きてたんだよ。それを知った巫女はね、里を離れた左之助を追って、京都に行ったの。京都の中心から少し離れた田舎で、左之助は女性と暮らしてた」 「夏陽子?」 「違う女性。そのとき、その女性は妊娠していた。佐乃介の想いが自分に向かないことを悟った巫女は、その女性と、その人の母と、佐乃介の前で、首を切ったの」 「へー、そうなんだ」 今の佐乃介は、愛や優しさを微塵も表現してくれない。 「佐乃介、見ていて」 「なにを?」 私はバッグから、隠し持ってきた物を取りだし、バッグは放る。 「これが佐乃介の選んだ道だから」 そう言って、包丁を首筋にあてがった。 「神楽さん、危ないよ」 言葉はほとんど棒読み。感情が込もっていない。こちらに近づこうともしない。 「あなたは危なくないから、いいでしょ?」 「まあ、そうだけど。でもここでやってほしくない。血で神社が汚れるし、色々と問題になる」 淡々とした言葉が私の胸を締め付ける。涙を絞りだそうとする。 「私が死んでもいいの?」 駄々をこねるようにそれを口にしてしまった。 「前も言ったけどさ、できれば神楽さんには死んでほしくない。でも、どうしても死ぬのなら止めないよ。俺は君を愛する責任なんて持てないから。永久に夏陽子を大事にしたいし」 冷たい回答が返ってくるのはわかっていた。 それでも私は、 「私を、愛してよ!」 わがままを言った。 「今の佐乃介は佐乃介じゃない!」 私が叫び終えると、彼は薄っすら笑う。 「これが今の俺だよ。神楽さんが赤髪を俺に結った。それで俺は真実の愛に気づいた」 何かが間違っている。 「それは、真実の愛なんかじゃない」 「どうして? たった一人だけを一生愛しぬくことが真実の愛だと思うけど?」 「その人以外の人が傷ついてもいいの?」 「いいよ。愛する人を一切傷つけなければ、それでいい。他の人は二の次。それが誠実ってことなんじゃない?」 どうしてもそれを否定したいのだけど、上手く言葉を作れそうになかった。間違っている気がする。でも、正しいとも思う。 「私が死んだあとに、後悔するよ?」 「しないよ」 「私を愛しておけばよかったって、後悔するよ?」 「しないよ」 ついに堰き止めていた涙が、零れ落ちた。私の心は崖に追いやられ、もうこれ以上の道はない。 「たとえ、この身が朽ちようとも、魂はあなたを永遠に求めるから。輪廻して、同じ時代に生まれたときは……」 そこで言葉を止めた。 この言葉は──ちゃんとあたしの言葉で言いたい。 「どうか、そのときこそ、あたしを愛して」 声が上擦って、勝手に涙と笑みが零れる。 「あたしはこの世がある限り、先生を追い求めるから」 先生はひどく優しげな微笑みをあたしに返してくれる。 「そんな約束はできないし、追い求められてもこっちは迷惑なだけだよ」 冷たい反応をされるのはわかっていたのに、あたしはショックを受けて息を呑んだ。 「先生なんて大嫌い!」 そんなのはもちろん嘘。あたしは勢いで声をあげ、勢いで喉を掻っ切った。 迸った鮮血が神木に飛び散り、あたしは地面に倒れこむ。ピンクの花びらが赤色に染まる。 意識のある最後まで、先生の顔を見ていたかった。頑張ってそちらに顔を向けると── 先生は、決してこちらに寄ろうとはせず、変わりのない笑みを浮かべているだけだった。 それでもあたしは、勢いに任せた言葉を訂正しようと、力を振り絞って唇を動かした。 せんせい、ほんとうは、だいすきです 〈最終話 「赤髪の少女」end〉 |
エピローグ » colorless Catトップ |