5 ママの出生の秘密を知ってから、あたしの心は急速に黒ずんで腐っていった。心の調子が悪くなるとママのお薬を勝手に飲んでいたのだが、いよいよあたしにも精神科医が必要になった。 高校には無事進学したのだけど、ほとんど通えなかった。学校生活に全く馴染めず、そもそも行く意味を見出せない。でも高校を出なければまともに就職もできない。ママ自身中卒なので、生きつづけるならせめて高校くらい出なさいよ、とママは口癖のようにいっていた。大学を出たらもっといいけれど、ママは稼ぎが少ないから大学に進学する場合はある程度自分でなんとかしなさいよ、ともいっていた。あたしが休みがちなのを知ると、行く気がなくてもし死ぬ気なら早めにそうしなさい、ともいっていた。 ママはあたしの存在を、最低でも少しは嫌悪しているはず。でも自分とあたしのために働いて、高校へもいかせてくれる。この先胸を張って生きつづけられる自信はないけれど、できることならママに恩返しをしてみたかったのでまず頑張って高校を卒業してみようと、目標を置いた。平行してまたキャバクラで働こうと思った。風俗も考えたけれど、見知らぬ不特定多数の男と肌を重ねることを想像すると気持ち悪くなってくる。一応でもママはあたしを大切に育ててくれたし、あたしもあたしなりに自分を大切にしてきた。お金で性の安売りなんてしたくない。存在にプライドを持ちたかった。肉体関係は選ぶ側でいたかった。 あたしはまた年齢を偽ってキャバクラの仕事に就いた。お客はヘンなことをしてくる人や結局あたしとやりたがっている人ばかり。いいなと思う男はいるけれど、お客と付き合う気にはなれなかった。キャバクラにやってくる男は全員対象外。相手がお金持ちでも、あたしはいくら搾り取れるかを常に考えて行動し、身体を求められると必ず引いた。 そうやってうまくやりながらお客についていくことはなかったけれど、街でかっこいい人にナンパされてついていくことは何度かあった。付き合ってみることもあるが、蓋を開ければナルシストや頭の悪い男ばかり。あたしのことをちっともわかってくれない。愛してくれてもそれは上辺で、自分のことしか考えてないやつばかりだった。男の場数を踏んでいくうちに、最初に付き合った十九歳の大学生もとんでもないダメ男だったと気づかされた。 「ねえママ。もしかしてこの世にはロクな男がいないの?」 夜、ママとお酒を飲んでいるときに質問した。ママは鼻で笑った。 「あなたまだ十六でしょ? その歳で気づくなんて、賢いわね」 褒めてもらえて嬉しかった。ママは、いままで付き合ってきた男の話をした。依存できるものなら徹底的に寄生するヒモ男、自分になにも誇れるものがなくて苛立つととりあえず殴る蹴るの暴行を加える薄っぺらなDV男、自分が世界一かっこいいと思っている不細工なナルシスト男、自分の頭の悪さを言い訳にしてすぐに謝ってなにも理解しようとしないごめんね男。ママが首吊り自殺をしようとしたときの男は、付き合ってきたなかで一番まともな、普通の男だったという。けれど普通すぎてママの精神構造についていけず、別れを切り出されたのだった。その相手はママが逆ナンパしてつかまえたらしい。 「言い寄ってくる男は大概ロクな奴じゃないわよ。言い寄ってこない男のほうが、純粋で真面目な場合が多いのよ」 なるほど、確かに。純粋で真面目だから、言い寄ることができない。そういう男のほうが人を大切にする傾向にある、とママは分析する。 「なんの接点もないのに勝手に向かってくる男は安物よ。自分の欲望を押し付けたがってるだけ。いとおしそうに遠くから見つめてくれる男のほうが上物。そういう男は女を愛したがってる。包容力がある。ママは色んな経験をしてわかったわ。今度、そういう男を見かけたら一度胸に飛び込んでみなさいよ。それで飽きたらうまくママに回してちょうだい」 あたしは笑って、「わかったよママ」と返事をした。 6 自分から声をかけたことなど一度もない。あのひとは優しそうだな、と思いながらすれ違うことはよくあった。その優しそうな男たちは絶対に声をかけてこない。 キャバクラの出勤前、街で男を漁った。声をかけてくる奴は全員無視。そうじゃなくて、あたしをじっと見つめてきて真面目で純粋そうな男を探した。ひと気の多い場所にいけばそんな人はすぐに見つかる。よりどりみどりだった。 しかし、いざ声をかけようと思うと緊張してしまう。簡単だと想像していたけれど、男を前にすると、なんて話しかけて仲良くなればいいかわからなかった。あたしを見てくれる良い男を見つけても、髪に触れて流し目をすることで精一杯。 「ママ……いいひとを見つけても自分から声をかけるのは難しいよ」 晩酌をしながら、あたしはママに相談した。ママはそれが普通よといった。 「軽々しくナンパできる人は頭がおかしいのよ。あなたはまともだからできないの」 自分がまともだとはちっとも思えなかった。それを口にすると、 「ママよりは数百倍まともよ」 そういってくれた。あたしは首を横に振って、ママもあたしも同じくらいまともじゃないよと笑いながらいった。ママはくすくすと笑ってくれた。 「気に入ったイイ男に話しかけてみたいなあ」 ママはグラスのお酒を飲み干してあたしを見据える。 「じゃあこうしましょう。今度街へ行ってあなたが男に声をかけられなかったら、そのときはママと心中する。練炭自殺で」 やはり、こんなことをいう人がまともなわけがない。 「わかったよ、ママ」 こんなふうに軽く承諾するあたしもまともなわけがなかった。 7 男をつかまえられなかったら自殺する、と意識してみると、ちょっとバカらしくもなって、あたしの中に掛かっていた制御がすんなり外れた。ターミナル駅の広い構内で、目鼻立ちのよい黒髪の真面目で純粋そうな男を見つけ、しっかり目が合ったので胸に飛び込むつもりで向かっていった──というか、本当に飛び込んだ。古臭いような手口だけれど、よろっと身体のバランスを崩して足をふらつかせ、男の胸にぶつかった。 「……ごめんなさい」 さもすまなさそうにいってみせると、男は戸惑いながらも「大丈夫ですか?」と気遣ってくれた。あたしは胸を押さえて弱々しく笑いかけ、大丈夫ですといいつつ大丈夫ではない演技をする。 「本当に大丈夫ですか?」男は愛想よく笑ってから、心配そうな顔をする。「調子が悪そうに見えるけど……」 この時点で、あたしの直感はいっていた。男はかなりの上物だ。 「ちょっとだけ調子悪くなっちゃって……人混みが苦手なんですよ、人間がいっぱいいるとあたし、たまに気分が悪くなる」 「あ、わかります、俺もそうですから」 男は自分の胸をぽんぽんと叩く。なにかを考えるように眉間に皺を寄せながら適当な空間に視線をさまよわせ、その目があたしに合った。 「ちょっと行くと緑地公園があるんですけど……ダメそうだったら、一緒に行きましょうか? 木陰で休んでれば、少し症状が軽くなると思いますから」 当然、そこまで一緒に行く選択をした。移動中、彼はずっとあたしの顔色を窺ってくれていた。駅で数度目を合わせたことをさりげなく訊ねると、 「あ……ごめんなさい、正直にいうと、可愛い人がいるなあって、つい目をやってしまって」 照れながらそういってくれた。嬉しくて、身体がふわっと浮いたような感覚になった。 あたしがベンチに座り込むと、彼は飲み物を買ってこようかと訊ねてきた。断ってみせても、熱にやられたのかもしれないからスポーツ飲料でも買ってくるよ、と気遣ってくれた。嘘みたいなぐらい優しすぎる男だった。逆に不安になってしまう。戻ってこないかもしれない。結局はあたしとやりたがっているのかも。会話しているうちに怪しげな商品を勧められるかもしれない。自分から向かっていったくせに、あたしは色々と考えて勝手に しかし男は強い口調で待っててくださいといってきた。休んでてくださいと念を押された。あたしは不安になりながらも、強くいわれたので仕方なく待った。 三十秒ほど経つと、さらに不安が募ってくる。一分が経過しても、彼は戻ってこない。見捨てられたのではないかと過ぎり、身体が震えてきた。あれを絶対に失いたくない。あれはあたしをいっぱい心配して気遣ってくれて優しくしてくれるから。 一分三十秒ほど経った。彼の姿は見えない。あたしはバッグに手を突っ込んでナイフの柄を握り締める。腕を切る自分を想像しまくった。 合計二分が経過する。腕を切ろうと決めた矢先、ようやくあれの姿が見えた。ペットボトルを二本持っている。あたしは極めて冷静でいようといいきかせ、取り出そうとしたナイフを放した。彼が傍までやってくる。 「ずいぶん、遠くまで買いに行ったね」 「え? 全然」彼は首を振る。「すぐそこのコンビニで買ってきたんだよ」 そういえば来る途中にコンビニがあったことを思い出した。彼はフタを開封すると、「どうぞ」とペットボトルをくれる。お礼をいって受け取り、一口飲んだ。 「やっぱり喉渇いてた?」 一口のつもりが半分ほど飲み干していたことに気づいた。かなり動揺して緊張していたので、飲み物を欲していたんだ。渇いてましたと返事をし、あたしはバッグから長財布を取り出す。 「いくらでした?」 そう訊ねると、なぜか男は軽く笑う。 「こっちから押し付けておいて、お金取る気なんてないよ」 男は飲み物を口にする。あたしはその姿をぼんやり見つめる。胸中ではこの優しい男をどう自分のものにしようか、必死で算段を立てていた。 「気分はどう?」 「ほんの少し、よくなりました」 「そう。よかった」 男は柔らかな笑顔をみせてくれる。あたしの胸はきゅんと締め付けられて、顔に熱がこみ上げてきた。声をかけてこない男たちのなかにはこんな良い男がごろごろといるのだろうか? それとも、あたしは大当たりを引いたのだろうか。 ふいにメロディーが鳴る。あ、と男は呟き、ポケットを探った。男は携帯を出して操作を始める。メッセージを受信したらしい。 絶好のタイミングだった。あたしもさりげなく携帯を出す。一先ず、男から連絡先などを聞いてくれるのを待ってみる。このあとの予定を聞いてくれたらなお良い。あたしはどこまででも付いていく気でいた。当日欠勤は罰金を払わされることになるが、この男のためなら構わない。 「じゃあ、俺はもう行くから」 「……へっ?」 「駅で待ち合わせしてたんだよ」 男は駅の方を指していう。 あたしは、あたしのために尽くして良くしてもらっていたことで、とある可能性をすっかり忘れていた。 恐ろしくて訊きたくないけれど、喉の奥で引っかかる言葉を押し出す。 「彼女とか?」 男は小さく笑い、どこか恥ずかしそうに頭を掻く。 「まあ、そんなところだよ」 グラっ、と身体が揺らいだ──気がした。実際には身動ぎ一つしていない。けれど強烈な喪失感に襲われて、大事な部分が一気に持っていかれてしまった感じがした。目の前が真っ白になりかけた。無意識にあたしは愛想笑いを浮かべて「ああそうなんだ」と返していた。男がなにかをいっている。なんだか優しそうな言葉をあたしにかけている気がする。手を振られ、あたしはほとんど無意識に小さく手を振り返して、視界から男が消えていった。 |
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