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「ママ、死にたい」
 ママが帰ってくると玄関先で告げた。レイプされたあとのことはほとんど覚えていない。どう帰ってきたのか思い出せない。電車に乗りながら、電車に飛び込んで死のうかどうかを迷っていたのはなんとなく覚えている。買い物袋を片手に持ったママはあたしをじっと見つめたあと、三回うなずいた。あたしはすでにガムテープを握り締めている。
 部屋の隙間をガムテープで埋めたあと、ママと一緒にお酒で睡眠薬をたくさんに飲み下す。眠くなってくるとママが練炭に火をつけて、布団に入った。一酸化炭素が部屋に充満してくる。終始、無言だった。
「ママ」
 横になって寄り添うママに呼びかける。お別れをいいたかった。ママは「なに?」と問い返す。
「いままでありがとう」
 ママはじっとあたしを見つめる。無表情だった。
 あたしは、瞼を閉じていく。
「ありがとう……」
 瞼を閉じきる寸前で、ママの小さな声が聞こえた。重くなってくる意識に抗って、瞼を開く。
「いま、ありがとうっていった?」
 ママはゆっくりとうなずく。それから、微かな笑みを浮かべた。
「娘が心中してくれるなんて、ママは幸せ者よ」
 あたしも微かな笑みを浮かべた。
「ママ、最後にお願いがある」
「なに? どうせもうすぐ死ぬんだから、なんでもいいなさい」
 あたしはゆっくりとうなずく。
「頭を()でてほしい」
 意外な言葉だったのか、ママは目を見開いて眉を上げた。
「撫でてほしい」
 もう一度いってみせるとママは真顔に戻り、手をゆっくりと動かした。あたしの頭に乗る。あたしが目を閉じると、ママは撫でてくれた。とても心地いい。
「もうひとつ、わがままをいっていい?」
「なに?」
 意識が、閉じていく。
「ママの胸の中で死にたい」
 その言葉をいえたかどうかわからなかった。口を開いて発したような気はした。はっきりと伝えたいのでもう一度いいたかったのだけれど、思いとは裏腹に、声を出せない。もう抗えそうになかった。
 柔らかななにかが顔にあたる。全身が包まれる。そんな気がした。ママがあたしを抱きしめてくれている、という想像をしながら、幸せを噛みしめつつ身体の力を抜いた。多分、あたしは涙を零した。本当に零しているかはわからないのだけど、心のなかは泣いていた。最後に愛情や幸福感を味わえてよかった。手放すのが惜しいけれど、もう終わりらしいので、ママの愛に向かってさようならを告げた。

 遥か彼方で、ガシャン、という物音が聞こえた──気がした。


  エピローグ


 白いものが映る。
 真っ白だ。いまは天国だろうか。というか天国が本当にあったんだ。
 視界に人の姿が映る。案内人だろうか。ナースっぽい服を着た女の人だった。あたしに向かってなにかをいっているけれど、よくわからない。身体に力が宿るまで移動は待ってほしい。
「……き、みき──」
 聞き覚えのある言葉。
 聞き覚えのある声。
 繰り返し聞こえる。
 意識がはっきりしてくるにつれ、あたしを呼んでいるんだと気づいた。
 顔を、左側に向ける。
「未希!」
 視線の先にママがいた。離れたベッドに横たわっていた。ママは何度もあたしの名を呼んで、泣いている。ナースっぽい服を着た女の人が先生を呼びに行くといってあたしの傍を離れていった。天国には先生もいるんだ、とわけのわからないことを思考した次の瞬間に、ようやく事態を理解した。
「死ななかったの?」
 ママはうなずき、ついやってしまった、といった。
 ママはずっと薬を飲んでいたので習慣性がついていた。効くのが遅く、効果の出方もあたしより鈍い。あたしの頭を撫で、抱きしめながら、薄れゆく意識の中で激しい危機感を抱いてしまった。それは、母としての本能だという。あたしと共に絶対死ぬ気でいたのだけれど、身体が動いてしまった。子を守ろうとする本能の赴くままに。
「とっさに七輪を窓に投げたの。ガラスが割れて、でもすぐに煙は引かなくて……私も気を失いかけてたから、なんとか救急車を呼んだわ。それからのことは思い出せない。気づいたら病院にいて、あなたがちゃんと隣のベッドにいた……ママ、すごく安心したのよ、死ぬはずだったのに……」
 ママひとりなら潔く死んでいた、ちゃんと死ねた──と、悔しそうにママは呟いていた。

 ママが医者と適当な会話を交わし、医者が出ていくと、しんと静まり返った。二人部屋なのでママとあたし以外誰もいない。ママはあたしに背を向けて、窓の方を見ているようだった。あたしはママの頭を見つめていた。無言が五分ほど続いたあと、あたしは思っていた言葉を口にする。
「ママ……ありがとう」
 死にたかったけれど、ママが必死になってあたしの命を守ってくれたことを思うと、自然と感謝の念が湧いた。ママは背を向け続け、なにもいってはくれない。
「ママ、愛してる」
 それはいままで一度もいったことのない言葉だった。けれど、胸の中にはいつでもずっと溜まっていた。いいたくてもいいづらかった。
「ママは複雑よ……」
 弱々しい口調でいわれた。ママを死なせてあげられなかった罪悪感があたしを責める。
「だけど」
 と、そこでママの言葉が止まった。なんだろう? と、あたしはママの言葉を待ち続ける。
「……あなたがいてくれてよかったって思ってる」
 あたしの口元が緩んだ。一瞬にして、これまで送ってきた人生が思い返された。
「あたしも実は複雑……」涙声になる。「でも、ママに産んでもらえてよかったって思ってるよ」
 離れた位置で、洟をすする音が聞こえる。そう、とママは呟いた。
 窓外(そうがい)から赤色の光が射し込んでいて、部屋は真っ赤に染まっていた。朝陽だろうか。夕陽だろうか。わからないけれど、綺麗だった。
「ママ」
 ママの手が動く。顔を拭っているようにみえる。ママは返事をしてくれないけれど、構わずあたしは訊いた。
「まだ、死にたい?」
 ママはゆっくりと溜め息を吐く。それから、うなずいたのが見て取れた。
「そっか」
 ちょっとだけ、悲しい。そう思うのは、自責の念に対する言い訳かもしれない。
「でも」
 と、そこでママの言葉が止まった。なんだろう? と、あたしはママの言葉を待ち続ける。
「未希が生きてる限り、死ねない」
 背を向けたままそういった。口調が少し強かった。
 それは、あたしに死ねといっているのか、あたしに死なないでといっているのか、どっちなんだろう? 訊いてみようか迷ってしまう。
「あなたは死にたい?」
 訊こうとして、ママの質問が飛んできた。あたしは小さく「うん」と返事をした。
「でも、ママが生きてるから死ねない」
 ママが寝返りを打つ。あたしと目を合わせた。
「じゃあママが死んだら死ぬ?」
「死ぬけど……ママに死んでほしくない」
 正直な想いをいってみせた。
「そう……。なら簡単よ、あなたが死ななければいいだけ」
 ママは無表情だった。気持ちを量り知ることはできない。
「あたしは生きるしかないね」
「そんなことないわよ? いつだって死ぬのはあなたの自由なんだから。ママのことは気にせず、死にたいときはちゃんと死になさい」
 そうして、ママも死ぬ。
「ふっ──」
 あたしは笑ってしまった。
「なんで笑ったの?」
「ううん」
 やっぱりあたしはママが好きだ。ママを愛してる。
 あたしさえ生きていればママも生きつづける。あたしが死ねばママも死ぬ。ママはひとりで勝手に死ぬことはない。決して死を咎めず、あたしの生も咎めず、ママは若干嫌悪しているあたしをここまで育ててくれた。そこに強烈なママの愛情を感じることができる。
 あたしは死にたいけれど、生きたい。生きることがママへの恩返しになるような気がするから。ママの生を繋ぎつづけたい。ママの愛を感じつづけたい。ママを愛しつづけたい。
 あたしたちが生きていくための酸素は充分にある。
 もうちょっとだけ、この世界で二人一緒に、呼吸をしていよう。



(了)


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