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 信長の意識が戻らない。医者に診てもらうも原因不明。町屋には大勢の人が見舞いに来た。短い間に、ずいぶん津島の人たちと仲良くなったものだ。
 そういえば、じいちゃんがいってたっけ。
「信長はひょうきん者だが、女子供を斬り捨てるなどの冷酷な面もあった。それは戦国に生まれた宿命。戦で権力を争う以上、畏れられなければならんし、遺恨を残せば自分の身に降りかかる。しかし困っている者がいれば信長は地位の区別なく手を差し伸べた。天下統一を果たし、戦乱の世を終わらせて平和をもたらす。その実現に向けて、合理的に物事を進めておったに違いない。信長はあの時代の天才的な政治家みたいなもんだ」
 その言葉を、いまは信じられる。

 七月の第四土曜日。祭りを楽しむ群衆の声が、町屋までよく聞こえる。
「恭将、祭りを見にゆくぞ」
 ハッとした。信長が布団から立ち上がっている。やっと目を覚ました。平気なのかと訊くと、心配無用という。だがかなり足元がふらついていた。
「安静にしてろよ、祭りなんて毎年やるんだし。来年でいいだろ」
 信長はどうしてもいま見に行きたいと頑なにいった。
「わしは、この日を心待ちにしておったんじゃ。四百年前、祭りを見物に来たとき、邪魔が入ってまともに見られんかったからのう。天下統一を果たしてから、再び来たかったのだが、叶えられんかった……」
 恭将はなにもいえなかった。
 信長は、恭将が買った服に着替えて外に出た。目を離した一瞬、信長の姿が見えなくなった。いや、地面に両手をついている。
「肩を貸せ、川祭りへ連れていけ」
 時間をかけて信長を連れていった。
「こうして家臣の肩にぶら下がっていると、昔を思い出すのう」
 信長は楽しげな声音でいった。
「あんたの家臣になった覚えないけどな」
「いや、そなたはわしの家臣じゃ。そう約束したからのう」
「いつしたんだよそんなの……」
 目映い屋台を横目に、車河戸(くるまこうど)を目指す。知り合いが声をかけてきて、そのときだけ信長は元気なふりをした。桟敷席で一杯やろうと勧められるが、酒は飲めないからと断り、でもあとで顔を見せるといった。
 車河戸に着くと信長は感嘆の声をもらした。無数の提灯を飾りつけた、五艘の大きな巻藁船(まきわらぶね)が完成するころだった。
 八時四十七分。船の完成を告げる花火。恭将たちは遊歩道の柵に寄りかかっていた。出航のアナウンス。太鼓の音。津島笛の音色。煌びやかな巻藁船は、水面にその姿を映しながら、漕ぎ進んでいく。
「四〇〇年前と変わらぬ……いや、この時代のほうが、遥かに美しい」
 そっか、と恭将はつぶやいた。二台目の船が出ると信長は移動するといった。信長は桟敷席の知り合いに挨拶をしていた。
「そうじゃ、先日の戦祭り、皆、協力してくれてありがとう。お礼に、敦盛(あつもり)を披露してみせよう。わしの代名詞になっておるからのう。このような華麗な祭りの前では、見劣りするかもしれないが」
 信長は扇子を借りて、舞いはじめた。
『人間、五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか』
 一通り舞い終えると拍手が沸いた。
「皆の者、織田家を支えた津島を、これからも盛り上げてほしい。わしはこれ以上、なにもしてやれぬが……」
「あんた、本物の織田信長みたいだな」
 信長はただ笑った。まだ体調が悪いからとその場を後にする。恭将が肩を貸すと、気つけにコーヒーが飲みたいのう、と信長は小声でいった。町屋へ向かう足を止め、目的地を二五番喫茶店に変えた。
「珠光小茄子は、正式にそなたに相続する」
「なにいってんだよ」
「楽しかったぞ、この一か月。裏切りばかりの戦国の世と比べれば、この時代は最高であった。最後によい家臣にも恵まれた」
「わかったから歩け、店に着けないだろ」
「恭将、そなたは不器用だが、この信長が信じられる数少ない男の一人じゃ。自信を持てよ。あの町屋はしばらく存続できるよう手続きしておいた。そなたが組織の代表理事として活動してゆけ……」
 信長の足が止まった。恭将の目がおかしいのだろうか。信長の実体が次第に薄くなっているようにみえる。
「次のイベントは『町屋バトルロワイヤル』を構想しておったが、参加できないのが無念じゃのう……最後の一人になるまで戦うんじゃ、勝者には『DONKATSU』なる食べ物を与える。面白そうだと思わんか、恭将──」
 姿が、消えた。アスファルトに衣服だけが落ちた。恭将はとっさに服をかき集め、ぎゅっと握りしめた。周囲を見回しても、もう信長の姿はあるはずない。
「どこで覚えたんだよ、そのネタ……」
 涙をぐっとこらえる。花火が上がる音。
 恭将は、いなくなってしまったことを受け入れるように、別れを告げるように、そっとつぶやく。
「ありがとう、信長さん」
 ドン、と花火が空に響いた。



(了)


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