「ねえ、私を殺してくれない?」
 同棲して二年になる彼女がふと言った。僕の彼女はよくこういう異端なことを言う。付き合い初めのうちは戸惑うだけの僕だったけれど、今は全く動じることもなかった。
「じゃあ殺してあげる」
 そう言って、ナイフでも持っているかのように手を握る。それを彼女のお腹に「えい」と掛け声を上げて突き刺してあげた。すると彼女は呻き声を上げて、かなりリアルな吐血の演技をする。この場が住宅の建ち並ぶ路上であるにも拘わらず、彼女は堂々と照り返しの強いアスファルトに倒れこむのであった。
「車が来たら危ないよ、立ちなよ」
 うつぶせになっている彼女の肩を叩いて促した。しかし彼女は微動だもしない。
「地面、熱いでしょ?」
 遠くの、下り坂に入る手前の地面には蜃気楼が起きていた。それより向こうの町並は揺らめいて見えた。
 彼女はなんの反応も示してくれない。僕に刺され、死体になったという演技を貫いていた。それはいつものことなので、もう僕は慣れていた。
「行っちゃうよ?」
 そう言ってみせても、当然のように彼女は無反応。僕は本当に歩き出し、その場を去っていく。一歩一歩彼女から遠ざかるたび心配になってくるけれど、振り返らない。

 プー!

 クラクションが聞こえた。つい振り返ると、車が彼女の手前で停車していた。運転手が出てきて死体のマネをしている彼女に声を掛ける。僕は慌てて道を引き返し、彼女の代わりに「すいません、すいません」と謝って、なおも死体のマネを続けている彼女を負ぶった。そうして、早々に立ち去った。
 五分くらい歩き続けても、彼女はピクリとも動かなかった。暇だから散歩しようと言い出したのは彼女なのに、いい迷惑だ。
「いつまで続けるの?」
 無駄なことはわかっているのにそう訊いてしまう。彼女は死体になりきっているので、もちろん何も答えなかった。
 やがて、散歩でいつも訪れる緑地公園に到着した。僕は疲れてきたので木陰のベンチにゆっくりと彼女を下ろした。座り込んだ彼女は死体のマネをしているので首を曲げ、頭の重みで横倒れしていった。僕は慌てて、倒れそうになる彼女を止めた。そのままベンチに寝かせてあげて、露骨な溜め息を吐いてやった。
 木陰に入ったからかこの公園には緑が多いからか、少しばかり温度の低い風が吹いて、彼女の黒光りするロングヘアが靡く。僕らがこの公園に来るのは夏の暑さから逃れるためだった。お金が無い僕らは室温が三十度を超さなければ絶対に冷房をつけない。室温三十度から二十五度以内でなおかつ部屋に居ることがつまらなくなったとき、散歩に出てこの公園へ来るのであった。他に僕らの避暑地といえば、自転車で十五分行ったところにある本屋さんやデパートくらい。そちらに行けば冷房が利いていて良いのだが、僕らは人が多い場所を好まないのでなるべく閑散としているこの緑地公園に来る。
 僕はベンチから立ち上がり、彼女の顔を覗きこむようにしゃがんだ。そろそろこっちも本気で対抗してあげようと思う。
 先ほどの風で顔にかかった彼女の髪を耳にかけて、まずは手始めに人差し指で頬を突く。それだけでは反応しないので、顔中を人差し指で突く。だが、どの部位もピクリとも動かない。
 仕方がないので指を鼻の穴に突っ込んでやった。どれだけ指を動かしても、彼女は顔色一つ変えない。
 息ができないように鼻を摘まんでやる。彼女は口を完全に閉じている。風が吹き、葉がざわめく。再び髪が彼女の顔にかかった。
 一分ほど経過しても口は開かない。なんの抵抗も示してくれない。
 僕は怖くなって手を離し、彼女の髪をそっとかいたあと、頚動脈に手を当てた。体温も脈拍もちゃんと感じることができた。
 頬を引っ張ったり、豚みたいな鼻にしてやったり、瞼を無理に上げて白目をのぞかせたりしてひとしきり遊んだのだが、頑固な彼女は死体のマネをやめてくれない。
 僕は立ち上がり、公園には誰もいないことを確認して、この場を去ってみることにする。
「僕はもうアパートに帰るよ」
 そう言い残し、ベンチから離れていった。
 公園の広場を横切って三十メートルほど先にある小径に入る。脇には多くの木が植樹されており、上空は青々と生い茂る枝葉で埋め尽くされていた。僕は太い幹に身を潜め、様子を窺う。彼女は相変わらずベンチで死亡していた。
 携帯を取り出して、彼女に電話をかける。遠くでは彼女の携帯の着信音が鳴り出した。
 しかし、どれだけ経っても彼女は反応しない。僕がここに居ることがばれているのか、それとも僕が戻ってくるまで待つつもりなのか。
 電話を切り、その場で更に三分ほど待ってやった。全く動く気配はない。髪の毛だけが風にもてあそばれていた。死んでいるというよりは、寝ているという感じに見える。傍に行ったら僕が根負けした、というふうになる気がしたので、近づきたくなかった。負けたくないので、僕は公園で出ていってやった。
 そうして、歩き続ける。公園の外周を。
 一周してきて、僕らが入ってきた公園の出入り口に到着。彼女はベンチの上でなおも死んでいた。どうやら死体のマネの最長記録をたたき出すつもりらしい。
 ベンチの前まで行き、彼女の顔を覗く。が、その顔は髪の毛でほとんど隠れていた。僕はその髪を手ぐしで梳いて直してあげて、「もう僕の負けでいいから、いいかげん生き返ってよ」と言う。だが彼女はまだまだ続けるつもりのようで、目を覚まさなかった。
 この場に居るのは飽きてきたので、彼女の身体を起こし、再び負ぶって公園を出た。
 家に帰ってもやることはない。しかし、このままこの状態を続けているのは疲労を重ねるだけ。それに暑い。風はあるのでまだ良い方だが、それでも暑いことには変わりないし、僕の身体に伸しかかる彼女の重みのせいで容赦なく体力が奪われていた。
「もう無理だよ……暑いし、疲れた。お願いだから、自分の足で歩いてよ」
 音を上げてみせても、彼女の腕はぶらぶらと垂れ下がったままだった。彼女を置いていくことはできない。彼女を生き返らせることはできない。彼女を殺すこともできない。
 どうしようもないので、彼女を背負ったまま歩き続けた。
 しばらく歩いていると、本当に死体を運んでいるような気がしてきた。仮に誰かを殺してどこかに運ぶとするならば、外傷が目立たなければこうやって堂々と運ぶことができそうだ。
「この死体は川にでも捨ててしまおうかな」
 脅しだということがばればれだからか、やはり彼女は身動ぎ一つ見せなかった。


 しばらく歩き続けて、僕は本当に川へとやってきた。死体を背負いながら堤防を上ると、眼前には対岸までの幅が二〇〇メーターほどの広大な川面が広がっている。陽が傾いてきたので、黄色っぽい光が水の揺らめきにしたがって明滅していた。
 コンクリートの階段を下りていく。僕の背の高さほど伸びている雑草と雑草の間に砂利道が伸びており、そこを進んでいく。疲れのせいか、ロケーションのせいか、いつの間にか今から本当に死体を捨ていくような錯覚にとらわれていた。
 やがて、川べりに着いた。こぶし大ほどの石がいくつか並べられ、積み上げられている。そこに水が打ち寄せていた。両側には雑草と枯れた木々が聳えている。僕はこの場へ二度来たことがあった。生前の彼女は面倒くさがりで、堤防まで来たことがなかった。ちなみに緑地公園から堤防までは八分ほどしか離れていない。
「ここは死体を捨てるには最適の場所だよ」
 そう言って僕はしゃがみ、地面に彼女の足をつけた。
「もうこれ以上歩けない。まだ死体のマネを続けるのなら、僕は君をこの場に捨てていくよ」
 打ち寄せる水を見つめながら数秒待つ。死体はぐったりしつづけるだけだった。僕は「はあ」と溜め息をついてみせる。
「本当に捨てていくよ?」
 本気っぽい口調で言ってみせた。だが、死体は何も返してはくれなかった。
 僕は彼女を捨てようと、身体を傾けていく。死体は右側へとずり落ちていき、僕の身体から落ちていく──
 寸前で、僕の右手が動いて彼女を止めた。
 その状態のまま、僕は数秒間逡巡してしまう。
 結局、再び死体を背中に乗せた。掛け声を上げて両足に力を籠め、立ち上がった。これはアパートに持って帰るしかなさそうだ。
「帰ろうか」
 いったい、何しに来たのかわからない。僕がひどく疲れただけだ。
 ……けれど、実を言えばこういうことをする彼女や自分のことが案外好きだったりする。だって、最終的にこの死体は僕のことを賛美してくれるから。
 川に背を向けて、死体を背負い直し、歩き出す。

 ──だいすき。

 微かに、声が聞こえた。
 僕はつい微笑みを浮かべ、歩き続ける。
「だいすき?」
 問い返しても、返事は何も聞こえない。相変わらず僕の両肩から手がだらんと垂れ下がっていた。彼女はまだ死体を続けるらしい。それに付き合う僕のことを好きだと言ってくれるのなら、頑張ってアパートまで持ち帰ってみせよう。
 僕も、死体のマネをする君が好きだよ。



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